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備前焼陶芸家  藤原啓コミュの藤原啓の「放浪記」(2)

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(「藤原啓の「放浪記」(1)より続く)

文学青年「藤原敬二」は、1917(大正6)年、閑谷黌修了
間際に「飲酒問題」が発覚。父の怒りにより中退を余儀
なくされ、1年半のブランクを経て、1918(大正7)年8月
より、郷里伊部尋常高等小学校の代用教員として社会人生
活をスタートすることになる。

しかし、敬二は郷里での代用教員生活に、大いに不満を持っ
ていた。
雑誌『文章世界』により培われた片岡鉄兵、島田清次郎ら
全国の文学青年たちとのネットワークは、文学者として立身
する夢を次第に膨らませて行った。
また、当時心酔した賀川豊彦への憧れも募っていった。

☆賀川豊彦(1888〜1960)。
明治末期より神戸新川のスラム街でキリスト教の伝道生活を
はじめ、貧しき人々の救済に専念する。
1914(大正3)〜1915(大正4)に渡米。プリンストン神学校
に留学する。帰国後、神戸に戻りスラム街での伝道活動と社会
事業を再開する。1918(大正7)年からは友愛会に参加。神戸
地区の労働活動の指導者としても名を馳せる。
(1920(大正9)年10月、改造社より『死線を越えて』を出版。
賀川の活動が多くの若者たちの共感を呼び、ベストセラーとなる)

敬二はかねてより賀川豊彦と何度か手紙のやりとりをしていた
ようだが、1919(大正8)年8月に代用教員の職を辞し郷里を
出奔する。そして、そのまま賀川豊彦のもとに居候となる。
しばらくして『文章世界』で知り合った島田清次郎(註)、
平田晋策(のち左翼活動家、転向後は軍事問題評論家)、津村
京村(脚本家)の3人も合流する。敬二ら4人は、賀川の薦めも
あり、実際の労働現場を知るべく大阪砲兵工廠に勤務するも、
勤務の過酷さから挫折。
まっさきに大阪砲兵工廠から逃亡した島田清次郎より便りがあり、
英文学者で文芸評論家としても高名であった厨川白村のもとにか
けつけ、そのまま居候の身となる。

☆厨川白村(1880〜1923)
東京帝国大学英文科で小泉八雲、夏目漱石らに師事。
上田敏の後任として、第三高等学校(京都)教授に着任。
1920(大正9)年、『象牙の塔を出て』(福永書店)が評判を
呼ぶ。

敬二はほどなくして、京都鹿ケ谷にあった「一燈園」を訪れ、
主催者の西田天香と会い、活動に参加した。

☆西田天香(1872〜1968)
20歳にして郷里・滋賀県長浜の小作農民を率い、開拓事業
を主導。しかし、事業主と現地耕作者との対立に耐えられず、
事業を他者に譲る。
その後、托鉢などの「路頭生活」に身を投じ、1913(大正2)
年、京都鹿ケ谷に「托鉢行願の生活」「無所有の共同生活」
をモットーとした団体「一燈園」を設立。
1919(大正8)年、国際連盟発足と同時に生活のなかからの
平和を願って「六万行願」(便所清掃のなかに祈りを求め
運動)を開始する。
(1921(大正10)年、西田の講演録『懺悔の生活』(春秋社)
がベストセラーになる)

しかし、敬二は「六万行願」の運動にはなじめず、これもまた
中途で脱退。
のちに藤原啓本人が回顧しているように「そうなるともう行く
ところがない」事態に立ち至ってしまった。

敬二は困り果て、雑誌『文章世界』の編集者、加納作次郎宛に
手紙を出した。精も根も尽き果て、郷里にも帰れず、神戸の
賀川豊彦のもとにも戻れず、まさに藁をも掴む思いで書いた
手紙だった。


(註)
島田清次郎は、既に1919(大正8)年7月、後に大ベストセラー
となる小説『地上 第一部』を新潮社から出版していた。
ただし、『地上』は第二部以降も出版する予定であり、島田清
次郎は無名でもあったため、第一部の印税はなしという契約を
新潮社と結んでいた(第二部以降の印税の前借はしていたよう
だが)
『地上 第一部』の反響はすぐにあった。島田清次郎を新潮社
の創業者・佐藤義亮に紹介し、『地上』の出版を斡旋した当時
の人気評論家・生田長江が、早速7月13日付の『讀賣新聞』で
絶讃。また、『國民新聞』を主催していた思想界の大御所・
徳富蘇峰も、『地上』のスケールの大きな作風を褒め称えた。
島田清次郎が、賀川豊彦や厨川白村のもとを訪れたという資料
は現時点(2007/1/14)で寡聞ながら発見していないが、19
19年8月頃の島田清次郎は、『地上 第二部』執筆のため郷里
の金沢に帰郷していた。
『地上 第一部』が生田長江、徳富蘇峰、長谷川如是閑ら思想
界の大御所たちから高い評価を受けたため、執筆に没頭するつ
もりが雑文などの依頼も多くなり、秋から冬にかけては出版社
訪問のため上京する機会も増え多忙となった。
この頃の心境を、島田本人が9月に『讀賣新聞』に次のように
寄稿している。
「自分はもう四五年沈黙していたかつたのである。もう四五年、
潜める竜でありたかつたのである。そしてこつこつ、図書館通
ひや、山川の跋渉や、諸国の遍歴に自身を養ひたかつたのであ
る」
上京時に堺利彦、徳富蘇峰、長谷川如是閑らを次々と訪問し敬
意を表したことを考えると、金沢に帰郷していた頃に賀川豊彦
や厨川白村を訪問したことは、行動として不思議ではないだろ
う。今後、精査したいと思う。
(杉森久英『天才と狂人の間』河出書房新社、1962。及び
 猪瀬直樹『マガジン青春譜』小学館、1998。を参照した)

(参考資料)
藤原啓『土のぬくもり』(日本経済新聞社、1983)
鈴木貞美『大正生命主義と現代』(河出書房新社、1995)
財団法人雲柱会HP
http://zaidan.unchusha.com/
平田晋策の生涯HP
http://www.kaibido.jp/bunyoku/shinsaku/hirata.html
一燈園HP
http://www.ittoen.or.jp/index2.htm

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