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アフリカコミュの正しい野宿のやり方 3回目 もし野宿が見つかったら?

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 野宿の話最も問題な、対人間の話です。

 時は1994年9月、この年、アフリカ史に、おそらく永遠に残る、悲惨な出来事が、起こりました。ここは、それに程近いところ、ザイール共和国キヴ州の話です。

 5回目のアフリカは、すでに、滞在を3年を超え、走行距離数も、3万8000kmになろうとしていた。マシンは、瀕死の状態、辛うじて、家から送ってくるパーツで、生き残っている、ものだった。
 この国の、ど真ん中を、縦断し、シャバ州、カレミーから、北へ、大湖にそって、北上を、続けているときだった。

 このキヴ州の南部に、2602mという、おそらく、ザイールで最も高い峠が、ありました。これに、果敢にも、挑戦することにしました。でもここは、まったくの廃道、藪こぎの連続、峠を越え、ふもとの村へ、ここで、食料を、調達し、州都ブカブに行く途中、山の中に野宿したわけです。でも、多分すきっ腹に、急に食べ物を、詰め込んだということ、或いは、極度に疲労していた。このことが、重なって、夜中中、何度も、下痢便を、わずらい、テントの周りが、ベチグソだらけになってしまいます。

 翌朝動けません、このまま、テントで、静かに休息することにしました。外で何か、声がします。”こんなところで、何を、しているのだ、” ”いや、回り見てもらえばわかりますが、体調が悪いので、ここに寝ています。” ”なら、おらの家に来いや。” ”いや、動けないので、このまま、ここにいます。”

 ここ後で気づいたのですが、確かに、道路からは、見えないけれど、道路はくねって、登っている、それを、ショットカットする、近道のすぐそばだったのです。
 若い母親らしいきれいなフランス語、”外国の方、子供たちが、あなたに挨拶したがってます。ぞうぞ、そこから、顔を出してくださいな”テントを、開ける子供たちと、握手をする。子供たちは、照れながら、それに応じる。
 差し入れがあった、多分こんなところで、一人孤独で寝ている、とてもかわいそうだと思ったのだろう。バナナとアボガドの差し入れがあった。

 その後も、挨拶してくる人多数 で多くは、テントの中を、覗き込む、でもなにも何も盗まれないで、翌日出発できたのです。
 この国で、つぎのような、話もあります。周りがざわついてきました。多分見つかったのでしょう。で、”こん名ところで寝ていては、いけない。” ”私はフランス語は、わからない。英語でしゃべってくれ”
 一時間後、多分隣村から、学校の先生を、呼んできたのでしょう。英語で”こんなところで寝ては、いけない” ”寝ていたら違法なのか?” ”ああそうだ”こういわれたら、撤収しなければいけなくなった。

 テント開ける、村中のの、人々が全員集まったのかも、知れません、何百人もの人が、私のテントの周りに集まっています。皆ニコニコ笑っています。子供だけでなく、大人たちも、こぞって、私のテントの中が、どうなっているのか、覗きに来ます。かくして、このザイール共和国、この国に関しては、もし野宿が見つかれば、家族そろって、テントの中を、覗きにくる、これが、正しい答えです。

 テントが、珍しくない、サハラでは、どうでしょうか?モーリタニアです。見つかりました。なんと、私のテントにコカコーラを、売りに来ました。

 町に近いときは、ポリスが、来て撤収か、警察署内の庭に、テントを、張ったことも何度かあります。でも普通は、村の人々が、何人か来て、結局は、ここで、キャンプを、許してくれる、そういうパターンが、多いです。つまり、これは、私が悪いのです。本当は、野宿するときに、村人の、許可を、得なければいけないのですけれど、それを、省略して、勝手にテントをはってしまうからです。

 最初に戻ります、ブカブに入る前、UNHCR のシートを、何枚か見つけます。このとき、ここで、何が起こっていたか、全く情報源がなかったので、わからなかったのです。知らないことは、強いことだ。

 ブカブから、ゴマへ、快適高原サイクリングです。ゴマを、離れます。空港のはずれ、一台のトラックが、止めてありました。それには、日の丸の旗がありました。その横で、日本人とおぼかしき人が、体操をを、していました。このとき自衛隊のP.K.O.は、本体は、入っていなくて、前衛隊だけでした。

 この後。何十万という、ルアンダ難民、その中を、すり抜けなければ、いけなかったのですが、何十キロ、二も及ぶし、奥行きは、見えない、すごいだった。でも、なんか子供も私を、走りながら、追いかけたりして、とても元気でした。

 この難民キャンプの、終わりあたり、難民が経営するバーで、プリムスを、飲みました。このビール飲まれた方にはわかるでしょうが、アフリカ1、2を、争うおいしいビールです。でもこれを、飲んでいるとき考えているとき考えたのです。私がこの次このビールを、飲めるのは、いつなのだろうか?
 その予感は、当たりました。この多数の難民を受け入れたことが原因で、それだけが、原因では、ないでしょうが。ともかくこのゴマ今かなり危険な状態で、推移しています。

 そのあとだ、16年近くもたっています。でも、この光景は、最も深く私のまぶたの裏に焼きついています。大きな広場があった。私には何万にも思えた、でもそれは実際は、数千人だっただろう。これ、皆立っていた。なぜだろう?なぜ座っていなかったのだろう?スペースがなかった?私がペダルを、こぎ彼らの元を通り過ぎようとした。当然のことながら、おそらく、全てのひとが、私を見つめた。

 その目、今も忘れらいのだけれど、うつろな目、生気を失った目、それが、何千もいっせいに私に向かって、降りかかってきた。

 この人たちは、おそらく、今少し前、ルアンダから、逃げてきた、人々に違いない。

 ともかく、私のアフリカサイクル人生にとって、1994年9月から、10月にかけての、1ヶ月が、物凄く密度の高かった、一ヶ月になった。



コメント(2)

 バックパッカーでも、野宿は、できます。あるフランス人なのですが、彼は、ハンモックを持っていました。これだと、雨の降るところ、蚊の多いところ、木のないところ、など、制限が、出来ますけれど、彼を見ていて、自由な旅人だと、感心しました。

 多分彼は、適当なところで、バスから降り、歩くのだと思います。で、適当な木を、見つけて、ハンモック、野宿を、するのです。いかがですか?バックパッカーの皆様、こういうのも入れれば、旅のアクセントになると思います。

 女性の方、スーダンを、下るサイクリストにも、もちろん女性はいます。でも全て、男性と一緒でした。だから、信頼できる、男性と、ブッシュキャンプを、楽しむ、これが、一番いいと思います。

 これだけ、書いても、まだアフリカの野宿が、怖いと思っている方、こういう方法もあります。
 民野宿という方法、これ一番いいのは、教会の庭、つまり、民泊ではなく、場所を貸してもらうのです。民泊だと、いろいろ気を使わなければいけないし、どれだけのお礼を、と悩まなければいけません。
 多分これ、子供たちが、テントの中を、のぞくに来ると思いますが。

 最後に、テントの有効活用法です。
 エチオピア ハイランド、高人口密度で、とても野宿はできません。で、ホテルに泊まるのですが、ご存知のとおり、虫だらけ。
 ということで、部屋の中に、テントを張る、これが、究極的な、この国の、虫対策です。

 
 もし、高い丘があって、回りを、四方八方、見渡せて、そこから見る景色は、そう私が、いつも言っているように、圧倒的な永遠に続く台地のうねりが見えたとします。こんな場所で、野宿できたら。その晩は、とても、ハッピーな気持ちになります。

 アフリカの大地の、大きさ、偉大さ、そして、なんだろう?それは、この大陸が、人類発祥の地である。ということに、関連していると思う。

 アフリカの大地に、じかに眠ること、これ多分、私のつたない文章力では、表現できないのだけれど。なんだろう?大地を母として、それに抱かれて眠る。そういう感じがあるのだと思う。

 これが、この3連続トピの最後で、私が最も訴えたかったことなのだろうと思う。

 明日私は16回目のアフリカの土を踏むことになる。

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