ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ノーブレスオブリージュコミュの18歳くらいのときのやつ

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
『なぜ生きる』(監修;高森顕徹、著者;明橋大二、伊藤健太郎、一万年堂出版)
テーマ「永遠の旅人としての人間」
8月上旬、この『なぜ生きる』を読んだ。読後の正直な感想は、仏教的な解説が全体的にやや多いという印象をまず受けた。しかし、生と死、そしてなぜ生きるかという問いが頭の中に根を張ったかのような感覚が私のなかにしばらく残った。なぜ生きるのか。なぜ私は生きるのか。なぜ私は生まれてきたのか。一言ではとても言い尽くせない哲学的で、宗教的である問いである。20年間の人生を通じて私のなかでその問いが根付いたのは今回が初めてではない。たしか中学2年の時にそのテーマに取りつかれたことがある。なぜ私は生まれたのか。なぜ人は生きるのか。人の生きる意味とは。死ぬというのはどういったことか。そしてそこから派生してなぜ人を殺してはいけないかということにも考えが及んだ。結論としては未だに絶対的であると断定できる答えが見つかっていないのが現状であるし、おそらくその答えが見つかっている人少ないと思われるし、または絶対的な答えが存在するということすら疑問である。なぜ中学生の私にその問いが浮かんだのかはわからない。特別宗教的でもなかったし、その時期に身内に不幸があった記憶はない。ただなんとなく、何かから突然インスピレーションを受けてそのような問いが浮かんだのである。そしてその問いは学校のテストの問題のようにただ消費していく(答えを出せばそれで終わり)という問いではなかった。まずその一番の大きな理由は「本当の答えが見つからない」ということ、そして答えを出してもそれが正しいかどうか証明ができないことなどから、結局その時点では一時的な答えを出したに留まった。なぜ生きるのか、それに対しては生きる意味を探すために生きるであった。今思うと「死ぬために生きる」や「生きるために生きる」と言わなかっただけましであったと思う。死ぬために生きるでは自殺した人は生きる目的を果たした人であるし、生きるために生きるというのでは走っている人が走る目的は何かと聞かれ「走るために走る」と答えているのと同類である。結局は答えをあやふやにしてしまっている。14歳の自分にとって生きる目的、なぜ生きるのかという人間の根本的な問いについての納得できる答えは見つからなかった。だがしかし、そういった問いを考えることを通じて私自身はかなり成長できた。世の中には答えが存在しない問いがあるということがわかったのである。その後日々過ごしていき時にはそういった問いはいくつも浮かんできた。なぜお年寄りを大切にしなければならないのか。なぜ人は喧嘩するのか。宇宙の外側はどうなっているのか。絶対はあるのか。無とはいったい何であるかということについて多少は思いを馳せることができたと思う。そんな学生生活を経験し、この夏にたまたまあるキッカケから読んだものがこの『なぜ生きる』という本である。監修者の高森さんの本に『光に向って100の花束』があり、その本は中学生のころから私のお気に入りの一冊である。この『なぜ生きる』という本も存在自体は中学生のころから知っていた。しかし書店で何回も手にとっても私は購入をためらったのであった。もちろん読む価値がない本だとは思っていなかった。むしろいつか必ず読む必要のある一冊であると思っていた。たがまだ私自身の成長が追い付いていなかったので、遠慮していたのであった。しかし20歳を超え、年齢的には一応の大人の仲間入りをしたこの節目の年、しかも日々の課題に捉われる授業期間ではなく、時間的にゆとりがある夏に読むことを決意した。ここまでが私にとって生と死の問題の経緯、そしてこの本との出会いであった。
「なぜ生きるのか〜本より〜」
高森顕徹氏は親鸞派の宗教家であり、全体に渡って仏教的思想が貫かれている。もちろんそれだけではない。西洋の思想家、ニーチェ、ハイデガー、デカルトといった有名な人々の言葉も引用しながら生きるということについて述べている。ただ全体としては親鸞を中心軸としてこの本を進めている。この本によると親鸞は生きる目的、なぜ生きているのかは、「苦悩の根元である無明の闇が破られ、“よくぞ人間に生まれたものぞ”と生命の大歓喜を得ること」だとしている。確かにこの生命として生まれてきたこの充足感を感じることこそ生きる甲斐があるというものだ。現代社会に限ったことではないが、なぜ生きるかわからぬまま、または考えぬままただ「苦しみに負けるな」「生きよ」「生きていればいいことがある」「死ぬな」とある意味強制的に生きることを選択されている人がどれほどいるのであろうか。確かに死んだらそこで「終わり」である。肉体的にも体は機能しなくなり、脳の機能も停止するので精神的世界も強制的に終了せざるを得ない。「死は突然我々を襲ってくる暴力」だということである。しかしその「死」という「終わり」が来るまで周りからの期待とプレッシャーによって生きている人がいかに多いことかをこの本では述べている。いったいどれほどの人が自ら「生きたい」と願って毎日を過ごしているのであろうか。特に先進国といった工業国では人々はカリクレス(プラトン『ゴルギアス』に登場する人名。欲望のひろがるままに、できるだけ多く、欲望を満たす工夫と努力をするのが、人間のあるべき姿であると主張している)の追随者ではなかろうかとこの本は指摘している。産業革命以降人の知恵と努力はいかに欲しいものを効率よく手に入れられるか、効率よく欲望をみたすかを追い求めてきたとしている。人々がセールスマンになってしまったのである。人はセールスマンであり、自らの与えられていている時間(寿命)を消費(セールス)し、自らの欲望をみたしている。家を購入したら何十年もローン追われ、返済し終わるころには今度は住む住人が亡くなってしまっているのである。人は一日生きるごとに死に一日接近しているのである。そして死ぬ時は誰と一緒でなく、自分一人で死んでいかなければならない。誰も一緒に死んでいくことはできないし、代わりに死んでもらうこともできない。本から引用すれば「独生独死 独去独来」(一人で生まれ 一人で死ぬ 一人で来て 一人で去る)人間は胎内から来て、自然へと帰っていくのである。だがその間に多くの人と接したり自然の摂理を感じたりすることによって生きていることの素晴らしさを実感することができる。この生きていることの素晴らしさ、これこそ親鸞の述べている“よくぞ人間に生まれてきたものぞ”であり、これこそ生きる目的だとしている。人の一生には苦労が絶えないとみな思うであろう。楽天家のゲーテでさえも本当に幸福なときは全生涯においても4週間とはなかったろしているし、夏目漱石は妻への手紙において「人間は生きて苦しむ為の動物かもしれない」、芥川龍之介は「人生は地獄よりも地獄的である」(『侏儒の言葉』)と述べている。そしてそんな苦しみは誰にでも付きまとう。最高の栄誉を手に入れたとされていたダイアナ元皇太子妃でさえ、5回も自殺未遂を遂げていた。靴下を強くさせた天才的科学者カロザースは会社から一生分の生活費をすべて負担すると言われたが41歳で自らの生命を絶った。生きることの喜びを受容することが人生の目的とされているにもかかわらず、人生がもたらす苦しみゆえに自らの命を絶つ人や病に冒されてしまう人のどれほど多いことか。親鸞のいう生きる目的を発見するためにはそれに直視する強さが必要であり、目の前の苦しみばかりに捉われてしまってはいけないと述べられている。
「自らの考える生きること〜本を批判的に読む〜」
確かにこの本を通じて生きることというのがやや仏教的視点から伝わってくるものがあった。何を目標に生きていけばよいのであろうか。苦しみに捉われてしまい、大切なことが見えなくなってしまっている自分自身にも気付かされた。灯台は遠くを照らすが足元は意外と暗い。どんなに視力の強い人でも自分の目は直接みれないし、よく切れる包丁でもそれ自身は切れない。何か障害となってしまっている事ばかりに気を取られすぎていて自分自身でもそのもっと遠くにあること、または近くにある大切なものの存在に改めて気付かされた。それは苦しみに関係がある。一見苦しみというものは誰にもあることであるし、むしろない方が良いと思える。しかし、特に若い人にとっては「若い時の苦労は買ってでもしておけ」という言葉があるように、苦しみを味わうというのは非常に有効な経験であるのだ。それはその字が関係もあるかもしれない。苦しみの「苦」という字と、若いの「若」という字はどちらもよく似ている。真ん中の線を払うか止めるかの差でしかない。つまりこれは若いということと苦しみが密接に結びついているのではないか、そして字もそれを表しているということに気がついた。だが、あえてここでこの著作に対して批判的な視点から意見を述べたいと思う。それこそむしろ有意義な読み方だと考えるからだ。
この本のなかで生きる目的は親鸞のいう生きる目的が、ふさわしいかのような箇所がある。そしてそれは万人に当てはまることであると339頁で主張している。「苦悩の根元である無明の闇が破られ、“よくぞ人間に生まれたものぞ”と生命の大歓喜を得ること」が万人に共通の生きる目的であると述べているのである。確かに生きていることによって得た喜びを感じるのはその後の生を充実させてくれるので人生の目的に適っているかと思う。だがしかし、それが万人に共通であるかということに対して疑問が生まれる。少なくとも私自身は生きることの喜びが人生の第一義的な目的になったことは自覚的にはそんなに多くはない。むしろその親鸞の人生の目的が適うのもやはり一部の人に対してであり、それは万人に共通な目的ではないとはずである。そのことが人生の目的であるならば自殺する人がいったいどうなっているのであろうか。むしろ私自身は万人に共通の生きる目的は「ない」と主張する。絶対的な生きる目的はそもそも存在し得ないと考えるということである。なぜならばもし万人に共通する生きる目的があるのならば、それが2000年以上も生きている人類にわからないのはちょっと無理がある。しかも現時点だけでも人類は60億も地球に存在する。一人一人個性があり、自分と逆の価値観を抱く人だって多く存在するのが世の中ではないか。それなのにそんな人類に共通の生きる目的があるというのはやはり人間のいわゆる「崇高さ」故の作り物ではないか。それならば猿や魚、さらに言えば植物にも生きる目的があってもよいのではないか。確かに言葉を使うのは人間だけであるが、なぜ人間だけが生きる目的を持つのであろうか。人間には生きる目的はない。なぜならその人間自体も「たまたま」生まれてきたものであるし、その人間を作り上げた地球も「たまたま」できた惑星にすぎない。私たちは「たまたま」生まれてきたのである。「たまたま」生まれた以上、生きる目的はそもそも存在しない。むしろこの宇宙の存在すら必然的であったのかわからない。仮に宇宙の存在が必然であったにしたら、人間が生まれる必然はあったのであろうか。その答えはおそらくNOであろう。たまたま人間は生まれてきた。たまたま今のいる場所にたどり着き、生活している偶然の産物に過ぎないと考える。そしてむしろその方が「生きやすい」と思う。人間が生まれてきたのもたまたまである以上、その人間に起きる不幸なことや苦しいことも偶然起きるのである。中には因果の結果起きることももちろんありうるが、親の突然死などといった運命のいたずらなようなことは一体誰が予想できよう。なぜ自分にばかり不幸なことが起きるのか悩んで死に急ぐ人に対しては、偶然の運命を考えてほしい。もちろん偶然だからなにも考えることを放棄したり、すべてを偶然に任せる生き方をするべきだなんていう単純な主張をするわけではない。むしろここからが本題であって、人間には絶対的な共通の生きる目的・意味が存在しない。そういった絶対的なものが存在しないということは「自分でルールを作ってよい」ということなのではないか。法律もルールがない場合は自分で規則を決めて行動すればよい。絶対的なルールがないのであれば自分で作っても良いということだと思っている。当然人道的に見ての話であるが。さもないと自分で「人を殺すのも良い」というルールを作ってしまえばそれが実行されてしまうからである。多少脱線するが、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対しては「絶対に人を殺してはいけない」ということはないと思う。なぜなら人を殺したトラは生きる価値のないものになってしまうのか。人を殺してはいけなくて他のものだったらよいのか。むしろ自然界では自らの生命を維持するために他の命を犠牲にするという摂理が存在する。ただそれが人間の場合は道徳観が入りこんで、殺人はいけないことなんだと判断しているのである。殺人は絶対的に許されるものではないと自身の道徳が判断してなぜ人を殺してはいけないのかという問いに対して答えを出すのである。つまり人間が答えを作っているのである。もし人の代わりに「なぜ牛を殺してはいけないか」という質問があったらいくばくかの人は牛ならば殺しても良いというであろう。そして現にそうだからこそ私たちは日々肉食を続けて入れるのである。さて、話をもとに戻そう。人は道徳的に自分の生きる目的を決めるべきである。絶対的な万人に共通の生きる目的がない。なぜならば人間はある必然に基づいて生まれたのではなく、たまたまあることが重なって生まれてきたのであり、それは人間だけでなくその他の動物にも共通する。ただ、人間とその他の生物との違いは言葉を話すことであり、人間は道徳観を培ってきた。万人に共通の生きる目的がないのなら、個別の生きる目的を道徳的に作るしかない。そもそも生きる目的は必ずあるというのは、砂漠で氷山を発見しようとするようなことである。人間は自我の強い生き物であって、自己を犠牲にして何かをすることはあっても基本的には自己中心的な生物である。自らを崇高な生物であると思うことがその他の生物との境界を強固なまでに作り、人間には生きる目的があると思っている。人に生きる目的があるのだったらなぜ他の生物にはないのだろうか。すべての人ではないが、人は自分自身を特別視しすぎている。だからこそ「人の命は地球よりも重い」という言説がある。もし人の命が地球より重かったら一人の人の命を助けるために、環境を大きく破壊してもよいということだが、そんなことがありない。人は確かに優れている性質を持つ生き物であるが、だからといって崇高な、至高な存在であるというのは容易に否定できる。逆に人間という生き物は欠点だらけの生き物であり、むしろ地球のためには人間などいなくなってしまえばよいというのも事を単純化しすぎている。次の最終章ではいったい人間とはどういった生き物であり、それゆえどのように生きていくべきかを自らを例にとってまとめていきたい。なぜ生きるか。それにたいして自らの現時点での生きる理由を明示したい。ただしこれはあくまでも現時点でのことであり、将来生きる目的が変更するのは一向に構わないと思う。なぜなら今までの説明からいえば、個別の生きる目的を決めるのは自分自身であるからだ。
「個別的人生目的」
『Tokyo graffiti」という若者むけの月刊誌がある。その7月に発行されたものの特集として「何のために生きていますか?」というコーナーがある。若者、サラリーマン、住職、外国人、お年寄りの5つのカテゴリーの人々から生きる目的を聞いている。印象に残っている回答には「たくさんの人に出会うため」(19歳専門学生)、「人のため、自分のため」(44歳僧侶)、「家族のため」(31歳不動産開発)、「I am living to create things」(38歳オーストラリア人)、「人類で初めて戦争のない世の中を築いた時代の人と言われたい」(78歳男性)があげられる。若いうちは一般的な傾向として、多くの人と出会うため、自分の可能性を伸ばすため、人生を充実させるためというのが目的であり、その後30代になってくると家族や会社のことが関わってくる。お年寄りになると平和な社会や孫のために生きているというような回答が多くなる。僧侶の方には「四恩に報いる為」という方もいらした。こうしてみると色々な生き甲斐というものが存在する。世界には60億の人が存在し、日々生死を人類は繰り返している。その人類に共通なものはむしろ少ないのではないか。言葉も違う、生活習慣も違う、物を一切食べない人もいる、信仰、死生観など違うことをあげたらキリがない。同じことは地球に住んでいて、酸素を吸い、二酸化炭素を排出する「人類」であるというくらいではないだろうか。そんな私たちが生きる目的が違っても当然であると思う。そしてそれはその人の生きている環境が違えば目的も違ってくるのも当然であろう。むしろ万人を共通の生きる目的で縛ることのほうが無理があるという気がしてくる。人は生きる目的が違って当たり前。同じ人は絶対にいないから、それが答えであろうか。では今回のこの課題を通じてまた成長した自分の生きる目的とは何であろうか。中学生のころ「生きる目的を探すために生きる」といっていたのが、現在ではなぜ生きているのかと問われれば「ただ生まれてきた。人を知り、自分を知るため」というのが現時点でも回答である。「ただ生まれてきた」最初は生まれてくるという意思を抱いていたわけではない。人としてたまたま生まれてきた。そうである以上いずれは死ぬことになる。一日生きるということは一日死に近づくことであり、人生はいつかは墜落する飛行機のようなものである。飛行機であるとしたら、いつの間にか飛び立ってしまった(人間として生まれてきた)。そして目的地を探しながら飛んでおり、最初の目的地に着いたら次の目的地を見つけ、それを繰り返していくうちに機体のトラブル(人間なら体のトラブル)で墜落するか、外的な要因によっていつかは必ず墜落する。統計によれば人間の死亡率は100%であるのだ。誰もが生まれてきた以上死んでいくのが必然であり、またその死ぬ瞬間がいつであるかは自殺ではないかぎり誰にもわからない。いつか突然穴の中に入ってしまうのである。死んでしまったら何も感じることはできない。死後の世界が存在するとは未だ見たことがないのでそんなことは信じること以外何もできない。もし生き物を殺めることが罪で、それを行った人間は地獄に行くのなら、生まれてきてすぐに亡くなった赤ん坊などを除いて人間はみな地獄に行かなければならない。神が困っている人を助けるのであれば、なぜ世界に貧困で苦しんで今にも死にそうな人が何万人も存在するのであろうか。結局私たちには死後のことや、神や天国地獄という超形而上的な存在は生きているうちにはわからない。ということは死ぬまでが勝負なのである。人としてある時生まれ、いつか死ぬ。人生の最終日はもしかしたら今日かもしれない。だが、それにおびえていたのでは死ぬ運命を待ち構える存在にすぎないのである。人として生まれ、この世界には自分以外にもたくさんの人が存在し、世界にはいろいろな文化や自然がある。それらと触れ合うことを通じて自分自身とは何か。それを探していく旅こそが私自身の人生である。自分のことは自分が一番わかると同時に、自分が一番わからないものなのである。いま作業をしている自分自身を自分が直接見ることは一生できないからである。人と触れあうことを通じて一体自分はどういった存在であるのか。まさに一生をかけて捜し求めていくことのできるテーマではないかと思う。

<感想>
書き終えた後には自分の伝えたいことがうまく伝わっていないことに力の無さを感じた。自分で読み変えてしみても、なんだか自分が書いた文章ではなく、自分らしさが一部ない個所もある。だがそれでもやはり自分が書いたことは間違いない。文章で絶対的な答えの存在しないことを伝えることのむずかしさを改めて感じた。
付け足しだが、この機会に「悔いのない人生を送る」という言葉の意味を考えた。よく人は「悔いのない人生を送る」ということを言っている。だが本当に悔いのない人生など遅れるのであろうか。もし本当にそうだとしたらそれはかなり浅い人生だとしかいいようがないと思う。人は一日過ごすだけでも何回後悔するか数えきれない。この文章を書いても後悔する点はいくつもある。それなのに後悔のない人生を送るということは不可能であり、それは苦労をしない人生を選ぶというのと同じである。苦労を伴わない人生など意味がない。むしろ後悔の「ない」人生ではなく、後悔の「ある」人生を歩んでいきたいと思う。人は生きる間に後悔をし続ける。生きるということは後悔の連続なのであるのだ。そうしてたくさんの後悔をしながら自らを成長させ、死ぬときに「あぁ、確かにたくさんの失敗をしたが、その分成長ができてよかった。」といって死にいきたい。後悔はする、そしてそれを悔やむ。だがそれを「納得して」死ぬことができることが人生をよく生きたということなのではないだろうか。(例えば失恋をしたとする。確かに失恋して嬉しい人などいない。だがその失恋の経験から今一度自分自身を見直してみたり、相手を思いやる気持ちなどさまざまなことを学べる。そういったことを経験しながら、いつか「あぁ失恋はしたけど、そのおかげでここまで自分は成長できた。それがなかったらどうなっていたことやら。今では新しい生き方が見つかった」と失恋を自分でも認めながら納得していきたい。失恋という経験を直視することができることが納得するということなのだ。)

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

ノーブレスオブリージュ 更新情報

ノーブレスオブリージュのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。