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井上康生コミュの我が柔道人生に悔いなし〜井上康生氏 独占手記〜

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井上康生とは、何者だったか――

 日本柔道のエースとして君臨した井上康生(30=綜合警備保障)が8日の全日本実業団体でチームを優勝に導き、華々しい現役生活にピリオドを打った。豪快な内股を武器に、99年から世界選手権3連覇。00年シドニー五輪を制し、01年からは全日本選手権も3連覇した。その栄光の一方で、現役中に母と兄が死去。アテネ五輪の惨敗と大ケガからの復帰、そして北京五輪出場を逃すという、波乱に満ちた柔道人生でもあった。今、指導者の道を歩み始めた男が、自らを振り返り、語る。井上康生とは、何者だったか――。



「これが最後の大舞台かな」
 ――井上 全日本選手権の前に選抜体重別で優勝したんですが、そのあと腰に痛みが出て稽古ができない状態でした。出るからには優勝を目指して、それが北京につながればいい、という思いはあった。でも、どこかで「これが最後の大舞台かな」という思いもありました。だから、本当の意味で開き直って試合に臨めたのは、あの全日本だけでした。

 朝のウオーミングアップ中の試合場で、生まれて初めて大の字になりました。躊躇(ちゅうちょ)しましたが、全日本こそ僕の原点であり、全身で畳の感触を感じて、会場の景色も覚えさせて、すべてを取り込んで、試合に臨みたかったんです。最後の試合、高井(洋平)選手に内股を透かされたんですが、ほかにもいろんな技を出している。そして、最後に内股。たとえ相手が待ち構えていても、残り時間(15秒余り)を見た瞬間に「いこう」と思いました。技を出さなかったら判定がどうなったか分からない、という人もいましたが、それは違う。すべてを出し切った。だから、悔いが残らなかったんです。




柔道があったからこそ…

 ――井上 最後までご声援、本当にありがとうございました。今は寂しさもありますが、ホッとした気持ちもあります。5歳から柔道を始めて25年、すべてが柔道だった、という感じですね。柔道にすべてを注いだし、また、柔道があったからこそ、井上康生という人間がつくられたのだと思っています。

  4月29日、北京五輪の男子100キロ超級最終選考会を兼ねた全日本選手権。井上は4回戦で高井に敗れ、北京五輪代表の座を逃した。その日、関係者に引退を報告。05年1月の嘉納杯で右大胸筋腱断裂の大ケガを負いながら、北京へ向け再起したのは06年6月。挑戦は2年足らずで終わったが、引退会見はさわやかな笑顔だった。




天井を見ながら「終わったなあ」

 ――井上 抑え込まれたときは一瞬「返さなきゃ」と思いましたけど、もう返す力が残っていないことも分かっていました。だから(抑え込まれて)天井を見ながら「終わったなあ」としか思わなかったですね。すべてが終わったあと、佐藤(宣践=東海大柔道部師範)先生に「康生の死に場所だったんだなあ」と言われました。

  試合後、井上は付き人を通じて父・明さんを控室に呼び、立ち上がったまま「すべてを出し切りました」と頭を下げた。明さんは「これでようやく、柔道から康生を解放してやれると思った」と言う。

 ――井上 昨年から結果を残せなかった理由については、自分の中で答えは出ています。右肩のケガのこともありましたが、ケガが最大の原因ではないと思っています。父に“もっとわがままになれ”とも言われました。僕はすべてを捨てて、北京に懸けました。でも、勝負に徹して、自分本来の攻撃柔道を捨てることはできなかった。素の井上康生が多く出た結果だったと思っています。





不器用な生き方が柔道にも

 ――井上 アテネ五輪直前、強化合宿で顔を合わせたパラリンピック代表選手の柔道着が古いことに気づき、山下泰裕東海大柔道部部長に「柔道着を贈りたい」と相談。山下氏はすぐに賛同した。05年1月には嘉納杯優勝で手にした賞品の車を現金化し、新潟県中越地震の被災者に送った。すべて人知れずに行い、今も公表はしていない。「今しかできない柔道に集中しろとも話したし、不義理をしてもあとで返せばいい、とも言った。でも、それができなかった。厳しい戦いの最中でも気配りを忘れない男なんです」と山下氏。生き方を変えられない不器用さが、そのまま井上の柔道に表れていた。

 ケガをした時には、親しい人からも“もう引退してもいいじゃないか”と言われました。だから、北京を目指して復帰を決めたときに「お父さんのために戦うのか」とも言われました。父や妻(亜希夫人)のため、応援してくれる人のため、というのは確かにあった。でも、最後は自分が勝ちたいから続けたんです。それは僕が5歳で柔道を初めて、8カ月目に宮崎県チャンピオンになった日から、最後まで変わらなかった。それだけ、柔道が好きだったんです。




「みんなの夢のために立ち上がった。康生らしい」

 井上が最も信頼する指導者の1人で東海大相模高時代の恩師でもある林田和孝現同高総監督(56)は「最後まで柔道家として“優等生”で終わったわけじゃないから、指導者として経験が生きてくると思う」とエールを送った。

 高校時代の井上は「組み手を指導しただけで、ほとんど教えることがなかった」と振り返る。井上を怒ったのは、たった1度。96年9月に修学旅行で訪れた札幌市内のホテル。ロビーで“即席サイン会”を開いていたときという。高校生として21年ぶりに全日本選手権に出場しており、井上はすでに有名人。「結果を出してないのに、何やってるんだ」と怒鳴ったことは、今では笑い話だ。

 今も同総監督が悔やむのは、右大胸筋断裂のケガ。「右の釣り手は、康生の最大の武器だった。それがなくなって、内股の前に相手に見せる“まき餌”(の技)が出せなくなったのは致命的」と言う。「本人もそれを分かっていただろうし、何度もあきらめかけたと思うけど、みんなの夢のために立ち上がった。それが康生らしいところだね」としみじみと語った。




師が、後輩が贈る言葉


 ▼佐藤宣践(東海大柔道部師範) 一言で言えば、内股の達人。山下が名人なら、井上は達人だった。名人はスキがないし、負けるケンカはしない。井上は最後まで冒険野郎だったし、負けると分かっていても立ち向かった。だから、愛されたんだろう。

 ▼上村春樹(全日本柔道連盟専務理事) 世界選手権3連覇で、2大会はオール一本だった選手なんて、ほかにいない。日本の、オレたちの目指す柔道を世界に示してくれたよ。これから数十年、日本の柔道を背負って立つ男だし、指導者としてもじっくり成長してほしい。

 ▼山下泰裕(東海大柔道部部長) 私には、あんな芸術的な内股はできなかった。教本通りだった。そして、弱者や困っている人を前に黙っていることができない、優しい男だった。これから人間・井上康生がどう成長していくか楽しみだね。

 ▼中西英敏(東海大柔道部総監督) 技に入るスピードがとにかく速かった、柔道の申し子。でも、一番いいのは素直な心だった。練習後も「先生、気づいたことはないですか」といつも聞いてきた。華々しいところだけじゃなくて、苦しみながら最後まで戦ったことが、指導者として生きると思う。

 ▼塚田真希(東海大、綜合警備保障の後輩、女子78キロ超級代表) 父が亡くなったときに「オマエが頑張れば、お父さんも喜ぶ」と言ってくれたのが一番の思い出。先輩に「トレーニング頑張りたいから、ジャージーが欲しいです」と言ったら「お父さんに任せなさい!!」と言って、買ってくれたんですよ。

 ▼中沢さえ(綜合警備保障の後輩、女子78キロ級代表) 選抜体重別が終わった夜、先輩も大変だったはずなのに、私のケガ(右ひざ急性関節炎)のことを心配してくれて「なんかいい練習方法がないか、探してやる」と言ってくれたんです。

 ▼戸坂繁夫(綜合警備保障広報) CM撮影が終わったあと、出演した人だけでなく、撮影現場の警備にあたった人まで呼んで、記念撮影をしてました。あの気配りに、教えられることが多かったです。

コメント(6)

なんか…
言葉でゎ言い表せない感が丸出しですね…
さすがだと思います。
みんなのコメント?からもどれだけ素晴らしい人かとぃぅことがわかるし、最高ですぴかぴか(新しい)
これからも頑張って欲しいし、自分も頑張ろうと思いました!!!!
私も
「尊敬する人は?」
という問いに
「井上康生選手です!!!!」
と進路決める試験ではりきって答えました。
裏付ける内容もスラスラ山ほどでてきて、試験ということも忘れ語れました。

いつまでも尊敬しています。
>タカソさん

堪能させていただきました(笑。

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