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元の理の研究コミュのぢばの広さについて

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「ぢば」は、点でしょうか。それとも、定まった面積があるのでしょうか。

数学では、点や線は面積を持たないということになっています。
例えば、まず三点を示し、その三点を結び三角形を作る。その面積を求める際には、点や線は面積には含まれないということです。

では、「ぢば」の広さとは?
1、甘露台の底面の中央部の一点、つまり(数学上)面積はない。
2、甘露台の底面の面積。
3、本部の甘露台を囲むかぐらづとめをする場所。
4、本部神殿の結界内。
5、教会本部の東西南北の礼拝場。
6、神殿敷地内。
7、おやさと館の内側。
8、6に加え詰所も含まれる。
9、行政区分の天理市内。
10、?

そこで、どの地点から「おぢば帰り」と言えるのか?

上記の1、2、3、4、だった場合は、本部員、本部青年、かぐらづとめのつとめ人衆の方々等、本部の御用をなさる方々意外は、正確には「ぢば」には帰れないことになります。

よって、「おぢば帰り」とは、5、6、7、あたりが妥当なところだと思います。(余談ですが、大祭など参拝者の多いときは、遠方から帰参され、本部に参拝しても甘露台を目にすることなく帰路に発たれる方もいらっしゃるのではないかと思います。)

8、9、以降で「おぢば帰り」と言われると、ちょっと疑問を感じます。

コメント(7)

はじめまして。らくだといいます。「ぢば」は私は面で、2が近いのではないかと思います。いざなみのみことがとどまっておられたということなので点では
おかしいと思います。それと天保9年の立教時に親神様がおやさまの元へ降りられた地点と一致するとのことですので、「面」で納得できると思います。かんろだいの面積(大きさ)はおやさまがおふでさきで明らかにされたのではなかったですか?

「おぢばがえり」ですが、8,9は含まれないと思います。でも、例えば「おぢばがえり」したいという気持ちで詰所に着いたけど、どうしても体調が悪く神殿参拝場までは行く事ができなかった、という場合などは神様はその気持ちを受け取ってくださると思います。そもそも「おぢばがえり」というこのことばはいつごろから使われるようになったのでしょうか?おやさま御在世時は「おやしきに帰らせていただく」とこういう表現だったと思います。「おぢばがえり」は「ぢば」の(できるだけ)近くまで帰らせていただく、という意味にとることができると思います。
かんろだいの寸法は、おふでさきに明記されています。
では仮に、「ぢば」の面積を、かんろだいの底面と限定した場合、ほとんどの信者は、正確にはおぢば帰りできないということになります。ここが疑問点です。

また気持ちの問題ということなら、所属、上級、直属の教会へ足を運ばせて頂くことでも「ぢば」へ帰ったということにもなり得ると思われますし、布教所などからでも、お祀りしてあるお社に拝し、たとえ気球の裏側からでも「ぢば」を拝したということにもなり得ます。たとえば、アフリカのコンゴにある教会では、熱心に信仰されていても一生おぢばへ帰ることはできない人は大勢いらっしゃると思いますし、また信仰はなくても、教会本部の近所にお住まいの方なら、徒歩5分でおぢば帰りはできます。

「おやしきに帰らせていただく」という表現については、人間の親であるおやさまの元へ帰るという意味で用いられていると理解してます。おやさまの魂は、永遠にぢばにとどまるとお教え頂いておりますから、今は、「おやしきに帰る」と、「ぢばへ帰る」とは、同義ではないかと捕らえています。
>つばきさん

たくさん書き込みを頂き、ありがとうございます。

「ぢば」には、2つの意味があると考えると納得しやすいですね。

1つは、人間宿し込みの元の「ぢば」つまり甘露台の建てられている地点。

もう1つは、その「ぢば」を取り囲む本部神殿、教祖殿、おやさと館、さらには詰め所や、諸々の教育機関も含む天理教関係の施設およびその敷地内。この意味で用いられる場合は、「ぢば」に「お」をつけて「おぢば」と言われることが多いような気がします。

とすれば、「おぢば帰り」と言う場合の「ぢば」は、一般には、後者の意味で用いらることが多いのではないでしょうか。もちろん、その中には必然的に前者の意味も含まれています。しかし、前者の意味での「ぢば」へは赴かなくとも、後者が成立すれば、「おぢば帰り」は成立するということになるのか、また、そこに信仰心、あるいは信仰上の目的の有無が介入するとなると、少し複雑になってくるような気がします。

ただ、このトピックで私がとりあげたのは、前者の意味の「ぢば」です。後者の意味で考えると、新しい詰め所や教会本部の施設ができるたびに「ぢば」あるいは「おぢば」の領域が変ってしまいます。

そこで、前者の意味での「ぢば」(人間宿し込みの元の「ぢば」つまり甘露台の建てられている地点)は、面か点かということなのです。

面であれば、一定の面積を持ち、点であれば数学上面積はないというこです。
ちなみに、空間であれば体積が生じます。
点であれば、体積も面積もありません。
厳密に言えば、点は目に見えませんが、存在するということです。
この辺りが、考えていると、いろいろと想像力の膨らむところなんです。

「別派」?、正直言って、ちょっとおどろきました。
私が書いた、「また気持ちの問題ということなら、所属、上級、直属の教会へ足を運ばせて頂くことでも「ぢば」へ帰ったということにもなり得ると思われますし、、、」というところから、そう感じられたのだと思いますが、これは、1のらくださんの書き見込みを拝見し、「ぢば」を後者の意味(「ぢば」を取り囲む本部神殿、教祖殿、おやさと館、さらには詰め所や、諸々の教育機関も含む天理教関係の施設およびその敷地内)で捉えた場合、飛躍した考え方をすれば、詰め所が含まれるなら、教会や布教所だって同じではないかということを申したまでです。あくまで、私の感想です。
つばきさんへ

>「地点」を「ところ」と、とらえれば何となく、わかりませんか。

たしかに、何となくわかるような気がします。
というか、「ところ」ととらえると、ぼやけてしまうのです。
「ところ」という言葉は、意味する範囲の広い言葉だと思います。

『あなたのいるところ』というと、
『あなたに触れることができるところ』から、『あなたの住んでいる家、町、地方、国、世界』や『あなたの通っている学校、会社』まで、いろいろな意味にとれます。

対して「地点」というと、かなり限定されている印象を受けます。
原典では、多く「とこ(ろ)」という言葉が用いられていますが、教典では、「ぢば」に関しては、「地点」とすえているように思えますが、いかがでしょうか。

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