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スポーツコラムコミュのオグリキャップという名のヒーロー

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1、英雄にも勝るヒーロー
 2006年12月24日、1頭の馬がターフを去った。最後の戦いを勝利で終えて。しかし、彼は、偉大な先輩に並ぶことも、それを超えることも出来なかった。偉大な先輩の名はオグリキャップ。その引退レースには17万7779人が訪れた。それに対してディープインパクトのレースは、予想に反して12万人だった。この差は、何なのか。確かに90年当時は競馬ブームの絶頂だったこともある。しかし、それだけではない。オグリキャップにあってディープインパクトにはないものがあったからだ。
 オグリキャップにあってディープインパクトに無いもの、それは何か。敗北と悲劇ではないか。日本人にとって面白い物語とは山と谷のある物語、そして、谷が深ければ深いほど人はその物語に酔いしれる。ディープインパクトは完全無欠のヒーローだった。確かに、彼には谷が無かったわけではない。凱旋門賞失格そして、ジャパンカップ優勝も山あり谷ありだ。しかし、オグリキャップのそれには及ばない。



2、中央入りへのいきさつ
 オグリキャップは地方笠松から中央にやってきた非エリートだ。良血馬ではなく、イメージとしては雑草に近い。まず、中央に移籍した経緯を話そう。オグリキャップは当時、笠松で圧倒的な強さを誇っていた。しかし、馬主の小栗孝一は中央での馬主資格を持っておらず、中央でオグリキャップを走らせることは不可能だった。そこで、佐橋五十雄が小栗を説得してトレードでオグリキャップを獲得した。小栗側もオグリキャップが笠松に留まるような馬ではないと感じており、中央で走らせたいとの思いはあったようだ。こうして、オグリキャップは中央入りすることになった。



3、中央へ入って
ペガサスステークス(現アーリントンカップ)、毎日杯と連勝する。共にクラシックに直結するレースだけに普通ならクラシック有力候補に挙がるはずだ。しかし、当時はクラシックに出走する為には、2歳時(当時表記で3歳)にクラシック登録をしなければならなかった。現在のように追加登録のルールは無かった。結局、クラシックに出走できなかったオグリキャップだが、その後も京都4歳特別(現在は廃止)、NZT4歳S(現、NZT3歳S)、そして、古馬との初対決となった高松宮杯(当時はG2の芝2000m)、毎日王冠と勝ち、重賞6連勝を達成した。これはこれで立派な成績だが、毎日杯で破ったヤエノムテキが皐月賞を勝ったことを考えれば、もし、クラシック出走できればタイトルは獲得できていただろう。もちろん、オグリキャップが出走できなかった件に対してファンも黙っていなかった。そして、この後に追加登録制度が制定された。クラシックに出走できなかった事がこの馬にとっては悲劇なのかもしれない。ただ、この悲劇はこの後の悲劇に比べれば小さなものなのだが。



4、お金の為に走る馬
 ここで、馬主について話しておこう。オグリキャップの馬主は3回変わっている。一人目は小栗考一、二人目が佐橋五十雄、そして、三人目が近藤俊典である。この時点での、馬主は佐橋五十雄なのだが、彼は競馬をビジネスと考えている人間だったようだ。それでお金のことを優先して馬を走らせていると言われていた。だから、オグリキャップには、お金の為に走らされているというイメージ付き、ファンもそれに同情していた。



5、芦毛のライバル
毎日王冠後、オグリキャップは秋の天皇賞へと駒を進めた。ここでライバルとして待ち受けていたのが、同じ芦毛のタマモクロスだった。この年のタマモクロスは、春の天皇賞、宝塚記念とG1を連勝していた。(前年も合わせ重賞5連勝、通算7連勝中)。ただ、一番人気に押されたのはオグリキャップのほうだった。しかしながら、結果は11/4馬身差での完敗だった。そして、続くジャパンカップでもオグリキャップはタマモクロスに敗れた。(勝ったのはペイザバトラー、2着タマモクロス、3着オグリキャップ。)
 連敗で迎えた有馬記念、オグリキャップは見事にリベンジを果たし、初のG?制覇を達成した。同時にライバルへのリベンジを果たした。
 ライバル対決での敗北とリベンジ、この年の秋の出来事はオグリキャップ語る上で欠かせない出来事だろう。



6、3人目の馬主と故障
 有馬記念後、当時のオーナー佐橋五十雄が脱税で逮捕され、馬主の資格を失った。そして、近藤俊典がオグリキャップの新オーナーとなった。
 一方、オグリキャップは脚部不安の為に長期休養に入ることとなった。ファンがオグリキャップの姿を見る為には、翌秋のオールカマーまで待たなければならなかった。



7、復活と過酷なローテ
 オールカマーでターフに復帰したオグリキャップはこのレースを完勝する。そして、続く毎日王冠ではイナリワンとの激戦を演じ、鼻差の勝利を収める。こうして、大本命として秋の天皇賞へと向かう。ところが、直線不利を受けて、スーパークリークの2着に敗れてしまう。その直後、オーナーサイドは、マイルチャンピオンシップ、ジャパンカップを連闘で使うと発表したのだ。これは異例のローテーションである。この時点でオグリキャップは既に秋3戦を消化しており、有馬記念も含めれば秋6戦ということになってしまう。しかも、故障明けである。馬にとって過酷過ぎるローテーションであるとうことは誰の目にも明らかだった。
では、なぜこうなってしまったのか。オーナーが変わったとき近藤は佐橋にトレードマネーとして3億円を払っていたといわれている。しかも、オグリキャップが現役を引退して種牡馬になれば、また、所有権は佐橋に移ることになっていた。つまり、近藤としては現役時代になんとしても採算を取りたかったのである。だから、無理なローテを組んででもお金を稼ぎたかったのである。これが一般的な解釈であるが、細かい事実までは分かっていない。
それでもオグリキャップは、マイルチャンピオンシップではバンブーメモリーとの激戦を鼻差で制し、ジャパンカップでは世界レコードでホーリックスの2着と好走する。しかし、6戦目の有馬記念に余力は残っていなかった。結局、5着に敗れてしまった。



8、過酷なローテのつけ
 翌年、オグリキャップは緒戦、安田記念をレコード勝ちしたものの、翌走、宝塚記念はオサイチジョージの2着に敗れた。そして、その後は休養を挟み、秋の天皇賞へと向かった。そこにかつてのオグリキャップの姿は無かった。結果は6着の惨敗。続くジャパンカップも11着と大敗してしまう。馬がピークを過ぎたのかもしれない。しかし、原因が前年の過酷なローテにあるのは明らかだった。
 馬体は細り、闘志がなくなってもオグリキャップは走り続けた。いや、走らされていたといったほうがいいのかもしれない。そんな状態で、ラストランの有馬記念を迎えることとなった。



9、ラストラン
 有馬記念当日、中山競馬場には実に18万人近い観客がオグリキャップの最後の雄姿を見ようと集まった。オグリキャップは4番人気だった。秋の2レースを見ればこの評価は当然だろう。しかし、天才武豊を背にオグリキャップは、ゴール前メジロライアンの強襲を3/4馬身ほど凌いで、見事に勝利したのだ。
レース後は、「オ・グ・リ・ オ・グ・リ・ ・・・」の大合唱。競争生活にこれ程のドラマがあった馬だからこそ、ファンは心からの声援をオグリキャップに送り続けたのだろう。
しかし、馬も見事なものだ。たった一ヶ月でここまで立ち直るとは。もしかしたらオグリキャップは自身にふさわしいエンディングを迎える運命にあったのかもしれない。



10、ヒーローと英雄
 強くともクラシック出走できない、お金の為に馬主に酷使されるといった悲劇。タマモクロスとのライバル対決での敗北とリベンジ。様々なレースで演じた鼻差の激戦、そして、どん底からの復活劇。オグリキャップの競走生活は、まさに山あり谷ありだった。
 これに比べれば、ディープインパクトの競走生活はドラマ性という面においては物足りない。どちらかといえば、馬自信よりも、調教師、騎手、調教助手などの支える人の苦労の方が大きい。馬よりも人のほうにドラマがあるように見える。ドラマ性の面で及ばなかった分、オグリキャップの入場者数を超えることが出来なかったのではないだろう。



11、オグリキャップとは
日本には負けの美学という言葉がある。つまり、敗北が勝利を引き立てる。オグリキャップのラストラン有馬記念の勝利をここまで引き立てたものは、幾度もの敗北であることは間違いない。
外国人は完璧なヒーローを望む。しかし、日本人はヒーローに、山あり谷ありのドラマ性を求めている。だから、地方の野武士が中央のエリートをなぎ倒す姿、あるいは、悲劇を乗り越えて栄光をつかむその姿に、多くの日本人は心打たれたのではないか。そして、有馬記念の17万7,779人という記録が達成され、いつまでも続くオグリコールが起こったのではないか。
結局、オグリキャップとは日本人が最も理想とするヒーローだったのではないだろうか。
 

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