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小熊秀雄コミュの池袋モンパルナス

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日中戦争、太平洋戦争前のアートコミューン。小熊秀雄が名付け親です。これって、名立たる作家、画家、モデルがいた、という程度のことしかありませんが、当時としてはどのようなアクテュアリティをもったコミューンだったのでしょう?それと小熊さんがどのようなコミットをしていたのでしょう?質問というよりは、話題を提供してみました。

コメント(3)

モンパルナスの時代の説明ざっと致します。
1931(昭和6)年にシュールレアリズムの福沢一郎(33歳)がパリから帰国したこの年に、すずめが丘(現在の要町1丁目)にアトリエ付き借家が10件ほどできました。
日本における(この時期が昭和期のシュールレアルズム運動の幕開けとなります)
この時、靉光が当時お金のない人へ理解があるとの噂があった、4畳半のアパート「培風荘」に転居してくきます。時代的には重要な満州事変が勃発するという背景を抱えています。
この年から1940(昭和15)年11月に小熊秀雄が千早町のアパートで結核のため死去するまでの時代・・・言い換えればその約10年にもみたない、その時間の集積がモンパルナスの時代です。
実際には1924(大正14)年に初めて小熊秀雄は池袋の地に上京しその思いを北海道に帰郷して開いた展覧会で鮭の尻尾をキャンバスにつけた作品を発表しています。1928(昭和3)年に小熊秀雄(27歳)は再度上京しこの時は妻をつれてやってくるのです。この時にやってきた人は寺田政明上京(16歳)、麻生三郎(15歳)とともに同船社絵画研究所で学んだそうです。
美術運動の流れとしては、前後しますが1904(明治37)年太平洋画会研究所開設され、1916(大正5)年里見勝蔵(20歳)(東京美術学校在学)が田端から池袋へ転居してきて、池袋シンフォニーを作ります。(社会背景としては第一次世界大戦下の好景気時)同時に目白(現在の落合)に文化村がつくられます。1921(大正8)年立教大学の校舎落成式。1921(大正10)年上がり屋敷に自由学園が開校。この年に里見勝蔵は渡欧し、翌年前田寛治、翌々年佐伯祐三渡欧この出来事から彼らは「パリの豚児たち」と自分たちのこと呼びました。この時代の一番の重要な美術運動としては「1930年協会」のことです。その後1930年に作られた「独立美術協会」の前進となる柱が出来たことでしょう。1923(大正12)年、既にシュールレアリズムが主流になりつつあったこの時代の「アクション第一回展」、「マヴォ(ダダ的思想を取り入れた)第一回展」が続いて開催されました。(この時の一番の時代背景としては関東大震災が起こるということ。)この震災後池袋界隈は急激に都市化が進んだといいます。翌年には先に述べた小熊秀雄が初上京しています。1929(昭和4)年「太平洋画会研究」所解散、「太平洋美術学校」となります。1930(昭和5)年「1930年協会」を母体とした「独立美術協会」が結成されます。この年寺田正明、松本竣介、麻生三郎が太平洋美術学校に入学します。
1932(昭和7)年松本竣介は太平洋美術学校の仲間と前年に出来たすずめが丘のアトリエを借りています。この頃の主な重要な美術の運動としての大きな出来事は「日本プロレタリア美術家同盟」員多数が検挙されてゆきます。この同盟は2年後に解散を余儀なくされます。
1933(昭和8)年小林多喜二が検束され虐殺されてしまう事件が起こります。多喜二の通夜に行った寺田正明と小熊秀雄はそれがもとで小熊が検挙されてしまいます。
この年くらいでプロレタリア芸術同盟は確実に終焉に向かいます。このあと数年はモンパルナスは盛にり上がることになります。1934(昭和9)年小熊秀雄は長崎仲町住みます。
1936(昭和11)年東京美術学校に「桜ヶ丘のパルテノン」の入居者募集の張り紙がされました。深沢一郎の自宅(本郷馬込動坂に若い画家が集まるようになっていきます)この時期が池袋モンパルナスの絶頂期といえるでしょう。1938(昭和13)年つつじヶ丘アトリエ村が形成され、
小熊秀雄、サンデー毎日にエッセイ「池袋モンパルナス」を発表します(時代背景としては国家総動員法の発動)。1939(昭和14)年深沢一郎はいままでフォービズム中心だったものからシュールレアリズム中心へ以降させたとして上層部より目をつけられてしまい「独立美術協会」を脱退します。一方若い人たちからは支持されていたので「美術文化協会」を設立しました(靉光、寺田政明、麻生三郎、吉井忠等が傾倒)。1940(昭和15)年美術文化協会第一回展を開催するも
当局に睨まれた挙句自分たちの自身の表現を内輪で自粛してゆく自主検閲をするようになっしまいます。この年の10月長谷川利行が板橋区の養育園で行路病者として死去。そして小熊秀雄を亡くなります。1941(昭和16)年4月に深深沢一郎、滝口修造が検挙されこれを「シュルレアリズム弾圧事件」とされます。これを契機にほとんどの絵描き、詩人は転向してゆきました。同月の美術文化協会展は自主検閲していきました。(この時に松本竣介「生きている画家」を『みずゑ』に発表しています)
社会背景としては太平洋戦争が勃発!学徒出陣が本格化し、アトリエ村からも多くの若者が召集されてしまいます。1944(昭和44)年5月、靉光(37歳)、招集を受け、寺田政明は中支へ絵画慰問として派遣されてしまいます。
長々書き綴ってまいりましたが
こんな流れざっとした池袋モンパルナスの動きであったように思います。
私の拙い説明にて、お分かりにくい箇所も多々あるかと思われますが
何か調査する上での概要程度になれるかと思います。
急いでざざっと書きましたので変換ミスなどの誤字があります
すみません。。。(´Д`)あせあせ(飛び散る汗)
参考程度にそーぞぉ

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