ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

超宗派・仏教コミュの解説・ダンマパダ

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加


以前、私がダンマパダの勉強会をしたときの内容です。
興味のある方はご覧ください。



2006年9月27日勉強会 「ダンマパダ 第一章」





◎すべては心

 今日はダンマパダ。これは原始仏典ですね。漢訳では、中国や日本では昔から法句経っていう言葉でよく知られています。
 で、どちらかというとこれは、様々なお釈迦様の教えのエッセンスを集めたようなものですが、欧米とかではものすごくこれは普及していて、まあ世界で一番知られている仏典と言っても過言ではないぐらいのものなんです、このダンマパダは。それだけ、素晴らしさ――それは内容的素晴らしさもそうだし、説き方の美しさもすごく評価されている作品ですね。



【本文】

第一章 ひと組みずつ

 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。――影がそのからだから離れないように。



 はい。まあ、この辺は読んで字のごとくだね。全ては心ですよと。心こそが、全ての主であって、すべては心によって作り出されるんだよと。つまり、誰かもし苦しんでいるとしたら、それはその人の心が、一番の原因なんだよと。あるいは喜んでいる人がいたら、それはその人の心が原因なんだよと。




◎心の科学

 これについてT君、どう思いますか?

(T)いやー、もう、唯物論の対極にある考え方だなーって。

 ああ、そうだね。
 でもこれは大雑把に言うと、西洋と東洋の、科学の違いだね。
 科学という言葉っていうのは、決してその唯物論的なものだけじゃなくて、例えば「魂の科学」っていう本があるように、東洋っていうのはすごく、心理的な科学っていうか、あるいは霊的な科学っていうか、それをどんどん追求してきたわけですね。その一番中心的なのが仏教でありヨーガであるわけだけど、結局その、大きなその大元の考え方の違いっていうのは、西洋で発展した科学っていうのは、まず全ては物質的な働きがあると。で、それを自然科学として、外側の世界の物理的な仕組みを解明しようとした。で、東洋の発想っていうのはそうじゃなくて、いや、全ては心が作り出しているんではないかと。よって心の解明に、数千年、あるいは数万年をかけて、聖者方が瞑想で解明していったわけだね。その辺の大きな違いが確かにありますね。


◎善い思いを持っていますか

 そしてこのお釈迦様ももちろん、修行によって一つ得た、まあ気付きっていうか、悟ったこととして、すべては心に基づくものなんですよと。
 まあこれはだから、なんていうかな、ここの部分っていうのは二つの見方があると思うね。ひとつは壮大な、「すべては心から世界は作り出される」っていう部分と、もうちょっと現実的な、日常の中で、いや、私たちは心こそが大事なんだよっていう部分ね。
 で、この後者の部分っていうのは、これもまた非常に重要なところで、例えばある昔の聖者は、誰かと会って挨拶する時に、「おはよう」とか「こんにちは」とか言わないで、
「善い思いを持っていますか?」
と挨拶したっていう聖者がいると。もう常に、パッと会ったときに、
「あ、どうもS君、善い思いを持っていますか?」
と(笑)。
「あ、U君、善い思いを持っていますか?」
と。これが挨拶の言葉になっていると。
 つまりそれが最も重要なことだっていうことが分かるね。



◎第一義的なもの

 つまりこれは逆の言い方をすると、仏教ではよく身・口・意っていって、体、言葉、心の三つに我々の行動を分けるわけですが、体と言葉が二次的なものだと考えればいい。つまり逆の言い方をすると、いかに体や言葉で聖者っぽい、修行者っぽいことをやっていても、心が全然汚れていたら、それは意味ないんだよっていう発想なんだね。心こそがメインなんだよと。
 で、さらに言えば、心の清らかさを保つために、仮に一時的にちょっと、体や言葉が汚れているように見えたとしても、それは心の方が大事なんだよと。
 これはまあ、いろんな場面で考えることができるね。例えば、人を救うために嘘をつくっていうことが必要なこともあるのかもしれない。で、それは、本当にこの人を救いたいっていう思いで嘘をついたとしたら、それは心の浄化になるわけです。でも言葉は汚れるわけ。さあ、どっちがいいのかっていう問題になる。
 あるいはそうじゃなくて、ピシっと修行者っぽい人生を送り、言葉も美しいと。しかしその裏側には、さあ、俺を見ろと(笑)。そう傲慢な心があったと。これはいいのかどうか、っていう問題がある。
 もちろんこれはねえ、ここでもう一つ言えるのは、じゃあ心が汚くて、言葉や体だけきれいにする作業がいいのか悪いのかっていうと、これは実はいいんです。全部汚いよりは(笑)。つまり体や言葉をきれいにしていくことで、心も影響を受けていくから、それはそれでいいんだけど、ただポイントをいうならば、心こそナンバーワンだよと。つまりもし心の浄化を第一位に置ける人がいるとしたら、それが一番素晴らしいよと。それを我々の心に留めておかなきゃいけない。
 もちろん、もう一度繰り返すけど、形を整えるっていうのももちろん大事なんだよ。この身の行ないをしっかり正すとか、あるいは言葉をきれいにするっていうのは大事なんだけど、一番メインに置かなきゃいけないのは心なんだね。
 で、それは普通の人もそうだし、修行者も同じだけども、我々の不幸のすべての源は心にあると。あるいは幸福のすべての源はすべて心にあると。
 これはもうちょっと発展させると、シャーンティデーヴァの入菩提行論にあったように――この世で楽しんでいる人はすべて、利他、つまり他人の幸福を願ったからだと。あるいは、この世で苦しんでいる人はすべて、自分の幸福のみを、つまりエゴを追求したからだと。そういうものすごくこう断定的な、ズバッとした教えがあるわけだけど、これはまあ、この教えの発展形ですね。
 つまり目に見える現象っていうのはすべて、つじつま合わせに過ぎないんだね。カルマのつじつま合わせ。
 例えば、よく論理的にこう、人生哲学を語る人がいるよね。こうこうこうしたら幸福になるんだよとか、成功するんだよと。あるいは例えば、いや、君はここでこう、この仕事を成功させるには、まずこのプログラムを組んで、このステップを踏んでこうやらないとダメだよ、あ、やっぱり失敗したねと。それはこうやらなかったからだよと。もちろんそのような表面的な条件っていうのも、この世で生きる上で当然働いているんだが、それはあくまでも二次的なものなんです。それをやったから成功したとか、それをやんなかったから成功したとかいうよりももっと奥の、第一次的な因として、心があるんです、っていうことをここで言っているわけですね。よって、すべては心に基づき幸せになり、心に基づき不幸になるんだよと。
 もちろんこれはいつもカルマの法則でいうように、我々は、過去世からのカルマの積み重ねとか、あるいは、表面的には汚れているとかきれいだっていっても何層も我々の心はあるわけだから、一見心の汚い人がこの世で幸せになったりとか、一見心のきれいそうな人が不幸だっていう場合も当然あるわけだ。それはそういった、過去世のカルマなり、あるいはまだ表面に現われていない奥底のその精神の状態によるのかもしれない。
 でも本当にその人の心が、けがれが本当に少なくなってきたら、少なくともその人は不幸にはなかなかならない。あるいは逆にけがれがほとんどになってきたら、その人は幸福にはなかなかならない。何でかっていうと、当たり前の話だけれども、結局、幸不幸を感じるのは心だから(笑)。ね。外側をいかにこう整えたとしても、それを感じるものは心だから、例えば心が本当に清らかであるとしたら、その人はどこにいても幸福です。どんな状況でも幸福になってしまう。で、心が本当に汚れている人がいるとしたら、どんな状況でも小さな不幸を見つけて、ああ俺は不幸だって思ってしまう。
 それはまあ皆さんの周りを見ても分かると思うけども、なんでこの人はこんな、客観的には幸せな環境にあるのに、こんなに一人で不満や苦悩を抱え込んでいるんだろうとか。あるいは逆に、あ、この人はこんなにいろんな苦境に陥っているのに、すごい明るいなとかね。いろいろそれはあると思うけども、結局それは第一義的に来るのは心なんだね。

コメント(8)

心が一切を作るのだという言明は確かにいろいろな角度から考えられますね。
何よりも心の力への大きな信頼がうかがえる。その大きな力を持つ心とダイレクトにつながろうとする意志もここから生まれてくるだろうし、そのための実践もまたここから生まれてくるように思います。


◎永遠の真理

【本文】

 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついにやむことがない。
 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みがやむ。
 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを似てしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みをすててこそやむ。これは永遠の真理である。



 はい。これももう、読んだ通りですね。これはもう、このまましっかり読んで、日々の教訓にしたらいいですね。
 まあこれは、かれはわれを罵った、害した、われにうち勝った、われから強奪したって書いてあります。まあ、この他にもいろいろ当てはまると思いますが、つまり、あいつは俺を昨日、こんなに罵った、とかね。ああ、こんなにも私のメリットを奪ったとか、いろいろあると思うけども、ちょっとストレートな言い方してしまうと、「そんなものは忘れてしまえ」と。
 昔、私、小学生とか中学生のときに、武道が好きで、空手とか好きで、あの、皆さんちょっと世代が違うから知ってるかわかんないけど、極真空手の大山倍達っていう人がいて(笑)、知ってる?

(U)名前は聞いたことあります。あの、牛と闘ったっていう(笑)。

 そうそうそう(笑)。牛と闘ったりした、世界を闘って歩いた人なんだけど、まあ、あの人は実際武道家としては凄い人だと思うんだけど、あの人の本とかを昔よく読んでいて、まあ学ぶところもいろいろとあったわけだけど、すごく私が今でも印象に残っているいい言葉があって、それは、

「人から受けた、裏切りとか苦しみとか、何か悪いことをされたとか、それは、全部忘れてしまえ。
 人から受けた恩とか幸福っていうのは、決して忘れるな」

――という発想があるんだね。これも大変仏教的な発想で、まあ、これはここに書いてあることの発展ともいえるけども、決してもちろん、我々は人からの恩というものを忘れちゃいけない。いろんなかたちでそれは、相手に真の幸福を将来的に与えようと思わなきゃならない。しかし人から受けた苦悩なんてのは忘れろと、ね。――っていう発想があるんだね。これは実際に我々が実現しなきゃならないことですね。
 私はね、昔からちょっと楽天的だったから、もともと、人からされた嫌なことはすぐに忘れる方だったんです。それでもあるとき私は、自分の無駄な心の働きに気が付いた。例えば昨日友達にすごいひどいことをされて、うわーって思うわけですよ。で、次の日に友達に会ったときに、実は忘れているんですよ、そういう感情をね。で、普段通り「やあ」って言って、ワハハってやってるんだけど、なんかねえ、「あ、そういえばこいつにこんなことやられたな」と、「これを忘れるのはしゃくである」と(笑)。「こいつにもっと怨みをぶつけなきゃならない」みたいな、変な、余計な感情が(笑)、浮いてくるのをこう、発見したことがあって。そのときはまだ修行とかしてなかったから、それがまあ、いいんだみたいな感じで、
「そういえばお前、昨日こんなことしやがって!」
とか言ったりとか、あるいはそれさえも言わないで、ちょっとしばらく無視しようとか、そういう、本当は心はそんなに思ってないんだけど、そういうふに考えなきゃいけないような、何かそういう発想があったね。
 ただ、私はもともと楽天的だったから、本音をいうと忘れていたんだけど、ちょっとこう、表面的な悪いデータによって、そういうふうに考えちゃったんだけど、そうじゃなくて本当に心から、なかなかそういう、自分が苦しめられたとか、あの人にこうやられたとかいうことを忘れられないっていう場合も多いと思うね。
 それはもう、忘れなさいと。うん。
 なぜかっていうと、ここにも書かれているように、怨みによって怨みはやまないと。分かると思うけど、例えば誰かがある人に害をなして、それをやられた方がまた害をなして、――まあ私、いつも言うけど、ニュース番組とか見てると、悲しくなることがある。例えば殺人事件とかがあって、その親とかが、犯人を極刑にしてくださいとか言うわけですよ。あるいはもう、私がこの手で殺してあげたいとか。そういう発言がちょっとこう、美しく編集されて語られていたりするわけだけど、それをやってたら終わんないわけだね。それでもしその人が、もしだよ、仇だとかいって相手を殺したとしたら、その犯人の親が今度は恨むかもしれない。だからそれは人間の戦争とかの歴史とかもそうだけど、結局怨みによって、相手に対して仕返しをした場合、当然終わらないわけだね。それぞれに言い分があるだろうし、それぞれにその、何%かの理はあるだろうし。だからそうじゃなくって、完全に、その怨みという感情っていうかな、怨みっていう世界そのものから、どっちかが出なきゃいけない。



◎縁ある人々を救済する方法

 これは前にもそういう話をしたけども、人をね、我々が縁ある人々を救済する一つの手段はこれなんです。救済方法の一つ。
 これはどういうことかというと、例えば私がYさんに憎しみを持ったとしましょう。そのカルマによって、Yさんも私に憎しみを発してきたと。で、また私も憎しみを持ってやり返すと。これは、なんでこれが生じるかっていうと、私とYさんの間に、憎しみの縁があるからです。縁っていう意味の本当の意味はそういうことなんです。カルマを交換し合う相手、っていうことです。つまり、私とYさんには憎しみの縁がある。で、私の中には、憎しみもあれば慈愛もあれば執着もあればいろいろあったとしますよ。でも私は、例えばこの人とこの人には憎しみのカルマが発動しないと。Yさんとだけ発動するという場合があります。その場合、これは憎しみの縁があるっていいます。つまり私とYさんが憎しみの縁で結びついているんです。
 これは、その縁しかない場合、――まあ、その縁しかない場合ってあまりないけども、その縁がメインだった場合、私はYさんから何かやられると、怒ってしまうんです。なんでかっていうと、それしかないから、縁が。他の人から言われても別に怒んないのに、Yさんに言われると怒ってしまうと。どうしても。
 で、これを断ち切るには、相当な努力がいるんです。なぜかというと、Yさんを愛するとか、Yさんを許すとかいうカルマがこっちにない場合、それは努力して作らなきゃならないんだ。本当は、自然にすればこの人を怒ってしまうのが自分のカルマなんだけど、まあ頑張って、愛のカルマもちょっとはあるはずだから、ちょっとだけあるそのデータを拡大させて、思いっきり、くそー……Yさん幸せになってくれ……とかね(笑)。そうやってやるわけです。
 そうすると、だんだんやってるとねえ、やっぱり、すべては修習だから、心は乗ってくるんだね。そうすると、Yさん側にも変化が起きます。だって、このカルマのループっていうのは憎しみによって結びついているはずなのに、全く予期しない慈愛が返ってきたと(笑)。そうなるとYさんとしては、カルマの法則からいって、Yさんも私に、もしくは私以外の他の人に、慈愛を返さなきゃいけなくなるんだね。それによって強引に相手を、慈愛のループの中に巻き込むんです。これは一つの救済方法です(笑)。
 だから本当は、その人とはほとんど憎しみの関係しかないんだけども、自分が頑張って、変えていかなきゃいけない。
 あるいは例えば家族とかって、近いがゆえに、ちょっと悪いことを言っちゃうとかいう場合がよくあるよね。あるいは昔からの友達とかね。そういうのは、善いカルマと悪いカルマとが混ざっているんだろうけど、そういう人たちに対してはできるだけ悪いカルマを出さないようにして、善いカルマ、例えば慈愛とか、あるいは、真理に則ったものの見方で相手に接してあげると。
 そうすると、相手もそれに巻きこまれるから、もう、なんていうか、そういう世界に入っちゃうんだね、相手も。それか、そのカルマさえ全くなくて、自分から離れていくか、どっちかです。
 だから自分にとってはどっちでもいいんだけども、相手が救われるか、あるいは救われなかったけどそういった悪い縁が消えるか、どっちかだね。
 だからそれは一つの、なんていうかな、身をもってする救済方法だね。そうじゃなくて、相手がこういうことやってきたから、いや俺もこういうことやり返すんだっていう「目には目を」的な発想だったら、全くカルマが終わらないし、怒りにしろ憎しみにしろ、全く終わらないと。
 まあ、世の中の、戦争にしろ、いろいろな人間の行動見ていると分かると思うけど。だからどちらかが愛を持って許さない限り、あるいは相手を幸福にしようっていう発想にならない限り、それは終わらないんだね。



◎慈愛によって幸福に引きずり込む

(T)慈愛の縁とか愛の縁がある相手には、幸せを与えたいと思う、みたいなことがさっきありましたけど、慈愛っていうのは普遍的に与えるなものですよね、相手が誰かとか縁があるかとか関係なく。

 それは言葉の定義のあやみたいなものだけど、それはもう完成された慈愛のことで。
 例えばだけど、よく慈愛を母の愛に例えたりもするけれど、母の愛っていうのは別に、完璧な慈愛ではないんです。しかし慈愛の種子とはいえる。なんでかっていうと、例えば、あるお母さんっていうのは、まあ、すべてのお母さんがそうじゃないかもしれないけど、例えば子供のためにはね、自分は食べないでもいいから子供に食べさせるとか。自分はもう寒くてもいいから、いい洋服を買ってあげるとかね。それは、執着ではあるんだが、もう自分はどうでもいいから相手を幸福にしてあげたいっていう気持ちがあるわけだ。これは執着であるし、しかも、なんていうかな、本当の相手の幸福を願っているっていうよりは、現世的な意味も含めて、自分の思う幸福を相手も得て欲しいと思うものだから、完璧な慈愛とは全く言い難いんだが、慈愛の種子ではあるんですよ。つまり「相手よ幸福になれ」っていう単純な思い。で、こっちは無智だから、それが本当に慈愛として完成していないんですね。でも、この種子が大事なんです。
 で、さっきの例え話のね、じゃあなんで、憎しみの縁しかない私とYさんの間で、まあ例えば、――あの、Yさんばかりをあまり例にするとまずいから(笑)、例えばここにものすごい、誰からもね、否定されるような、憎しみしかないような男がいたとしますよ。まあ、そんな人はなかなかいないかもしれないけど、仮にそういう人がいたとしますよ。でも、どんな人にだって、少しは、人に愛を捧げたとかいうカルマがあるはずなんです。それはまあ、迷妄の愛だったかもしれないけど、本当にすべてを捨てて人のために尽くしたっていうことが、ちょっとはあるはずなんです。で、それを利用するんだね。それが全くなかったら、もちろんできません。できないけども、この何億回と生まれ変わってる中で、それがゼロっていうことはあり得ない。だからそのほんの小さなところを利用するんだね。もちろん自分との間にその縁がない場合、それは大変なことなんだけど、大変なことなんだけど、思い切ってやるしかない。
 だからねえ、皆さんは、例えばこういう発想になっちゃだめですよ。……「いや、あの人と会うと、なんか怒りが出るね」とか。「ああ、あの人はなんか皆から嫌われていて、私もなんかあの人に近寄ると、すごく嫌な気持ちになる」と。「ああ、だからあの人は徳がないから、ちょっと避けよう」とか、そういう発想をしちゃいけない。それは、確かに事実そうなのかもしれないけど、それはもっと言ってしまえば、こちら側に、相手の本当はわずか持っているはずの、その小さな愛の部分に気付くだけの智慧がないんだね。
 だから当然、よく仏教とかでいわれるのは、ゴキブリとか蜘蛛って、皆から、見ただけで嫌われると。あれは、彼らに嫌悪のカルマが多いんだね(笑)。ゴキブリとか蜘蛛自体が嫌悪のカルマが多過ぎるから、皆から嫌悪されちゃうんですね(笑)。何もやってなくても嫌悪されてしまう。蛇とかもそうだけどね。で、人間でもそういう人っていると思うんですよ。何もやっていないのに皆から嫌われてしまう。でもそれは決してゼロではないんですよ、愛のカルマとかは。だからそれは、智慧ある人がそれに気付いてあげないといけない。
 だからそういうのを利用して、自分と相手のその悪いカルマを逆転させてしまうっていうか、それがさっきの話なんだ。だからここで言っている慈愛っていうのは、一応慈愛っていう言葉は使っているけど、相対的な慈愛だね。だから完璧な慈愛っていうのは、ここでいつも言っているような、すべてに平等であって、で、自分のエゴを一切入れずに、かつ、その幸福の定義が、単純な現世的なものじゃなくて、最終的な至福の世界に導こうと。これは完全な慈愛の定義なんです。

 でも、これは我々が普段、はい慈愛を持ちましょうね、っていうときに、この完璧な慈愛の定義をいつも当てはめていたら、誰も持てません(笑)。はっきり言って。T君が例えば、「先生、最近慈愛が出てきたんです」とか言っても……「ん? 平等じゃないじゃないか」とか言って(笑)、ね。「無智があるからダメ」とか言われてたら、全然もうダメ。
 最後の最後でそれは達成されるものだから、まずは相対的な慈愛を高めていくしかないんだね。で、その世界に引っ張り込めるだけでもいいんです。完璧じゃなくても。ちょっとでも、それまでもう、本当に人の不幸しか願っていなかった人が、ほんのちょっとでもいいから、あの人幸せになって欲しいなって願えるようになったとしたら、その魂にとって大きな進歩なんだね。
 でもね、実際にね、そういう人って、普通にいっぱいいるんですよ。私もヨーガ教室をやっているといろいろ相談とか受けてて、普通に、「本当に私は人を憎んでしまう」とかね。「人の幸せを願えない」とか。普通の人でですよ。普通にちゃんと、立派に働いているっていうか(笑)、立派に普通に活動している人とかで、「いや、実は」とかいって、そういうことを言っている人がたくさんいる。
 あるいはもう、ずーっともう十年以上も昔の、嫌なことをされた人のことを、その人を殺すイメージをずーっとしていたとかね。そういうことを普通に言う人もいっぱいいる。
 まあ、ここにいるみんなはそうじゃないのかもしれないけど、そういうその、なんていうか、人間の悪しきカルマの連鎖みたいなものがあるんだね。相手もそういう世界に巻きこまれているわけだし。そういったものをこちらから断ち切っていくと。断ち切ってというか、変化させていくということができたら、ちょっとまとめになるけども、それはそれで素晴らしい救済になる。言葉で、「はい君、こうしなさいよ」ってやるよりも、その方が素晴らしいかもしれない。
 だからここは、
「怨みに報いるに、怨みをもってしたならば、怨みのやむことがない。怨みを捨ててこそやむ」
とありますが、これをもっと積極的にいうならば、怨みに対して慈愛をぶつけると。これがもっと素晴らしい。これは単に「やむ」だけではなくて、積極的に相手を幸福の領域に引きずり込むっていうか、そういう効果を生むでしょう。

◎死のことわり

【本文】

 われらは、ここにあって死ぬはずのものであると覚悟しよう。――このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。



 はい。ここは、しっかり死というものを認識しないといけないということですね。
 これはミラレーパの詩でもありますが、
「ちょっと出会ったに過ぎない親戚や友人達と、争い合うとはお笑いである」
っていうことをミラレーパは言っている。
 つまり本当にカルマとか縁の微妙なタイミングによって、我々は今、出会っているんです。で、それはしかも、いつ終わるかも分からない。自分が死ぬかもしれないし、相手が死ぬかもしれない。
 だからまあ、日本の「一期一会」という言葉はとっても素晴らしいわけだけど、この出会いっていうのは本当に一瞬かもしれないんですよ。で、これで終わりかもしれないんです。すごい貴重なものなんだ。だからそれは本当に、自分と他人の、進化とか幸福のためにこそ使われるべきなんだ。
 でも我々は、過去とか未来に対して、無駄な妄想をするんだね。さっきも言ったように、「ああ、こいつに俺は、こんなことをされた」とかね。あと未来のことも妄想するわけでしょ。「ああ、また明日も会って、明後日も会うから、もうこいつにはこういうふうな態度を取っておこうかな」とか、こんなくだらない発想しかしないんだね(笑)。
 そうじゃなくて、まさに今、出会って、もう出会えないかもしれない。自分も死ぬかもしれないし、相手も死ぬかもしれない。こういう、なんていうかな、シビアなっていうか、まあ、ここでは「覚悟」ってあるけども、まさに覚悟だと思うね。私は覚悟という言葉がとても好きなんだけども、覚悟なんですよ、本当に。もう、私は1秒後に死ぬかもしれないんだぞと。そういう世界に我々は生きているんだぞと。これを曖昧にじゃなくて、覚悟を持って考えるわけだ。そうしたら真剣にならざるを得ない。相手とこう、いがみ合っている暇などない(笑)、というのが、ここのところだね。

(T)あ、ちょっといいですか。ちょっと今、うちの婆ちゃんのこと思い出して。

 うん。

(T)今、婆ちゃん、胃癌で危険な状態なんですけど、その婆ちゃんを見てたら、もう死ぬんだなって分かってるから、なんか慈愛みたいのが沸いたっていうか。なんか死にそうな人を見たら、責める気になれないっていうか。

 うん。

(T)だから、この「争いがしずまる」っていう部分を見て、そういう、なんていうか、無常を知って慈愛が出てくるみたいな、そういうニュアンスなのかなって思ったんですけど。

 まあ、それもあるかもしれないね、発展的なものとして。
 まあ、だから仏教っていうのは、まず基本的な、自己のエゴを滅するっていう教えがあって、それから大乗的な、人の幸福のために活動するっていう教えがあって、その上に密教的な、いろいろな法則や考え方を利用して最もスピーディーな方法を取るという、この三段階の教えがあると。例えばこういった経典一つをポッと見たときも、当然その三つの角度から捉えることができる。
 これは原始仏教の教えだから、これだけただ見たら確かに、単純に、無常だからすべては意味がないんだよ、で終わってもいいし、あるいはT君が言ったように、大乗的に、だからこそ相手への慈愛が出るんだって考えてもいいし、それはいろんな角度から考えたらいいと思う。
 もともと、大乗経典っていうか、大乗仏教っていうのはそういうものだと思うんですよ。お釈迦様の教えっていうのはすごくシンプルで、細かく説明されているわけじゃない。ただズバッとエッセンスが説かれていて、それは単純に自分の解脱のための教えと考えることもできるけど、見方次第では確かに人の幸福のためっていう見方もできるんだね。その部分を発展させてまとめていったものが大乗の教えだね。




◎悪魔にうちひしがれないために

【本文】

 この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。――弱い樹木が風に倒されるように。
 この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。――岩山が風にゆるがないように。



 はい。まあ、この第一章っていうのは……例えば次の第二章は「はげみ」といって精進に対して説いていて、第三章は「心」といって心についての話なんですが、第一章は「ひと組みずつ」といって、ひと組みずつの詩をいろいろ淡々と載っけているもので、必ずしも全体が一つのテーマを持っているってわけでもないんですが――今の二つの詩っていうのは、まあ、これも読んで字のごとくなんですが、この世のものを浄らかだと思うか、不浄だと思うか。もちろんこれは原始仏典的な正解からいうと、不浄であると。つまり人間の体は不浄であるし、我々の経験する感覚的喜びも不浄であるし、すべてを不浄だとまず見なさいっていう教えがある。でもそうじゃなくて、曖昧にものを見ていると、すべてが浄らかに見える。
 ただね、もちろんこれは、大乗仏教になると、不浄ではなくて、空だと見るんだね。汚いとかきれいとかを超えて、すべては実体がないんだって見方をする。で、密教の世界に入ると、いや、すべては浄らかだっていうんだね。ここら辺が仏教の奥深いところで、仏教の同じ教えの中で、段階によって、言うことが変わってくるんです。
 全く修行してない人は、不浄なものをきれいだと思っている。はい、第一段階で、まず修行に入った人は、いや、私はすべてをきれいだと思っていたが、汚かった。この世は不浄であると。よってこの世から脱却しなくてはならないと。
 しかし第二段階、大乗の教えに入ると、いや、不浄とか浄とか関係なかったと。すべては何も実体がなかったんだ。実体と呼べるものは何一つ存在しないんだと。
 で、密教に入ると、さらにその本質が分かって、いや、すべては完全で浄らかであったと(笑)。これは、真理の深まりの違いなんだけどね。でも、どの点を取っても真実なんだ。
 ただまあ、これは原始仏典なので、まずはこの世を、スタートとしては、けがれたもの、不浄としてこの世を見なければならない。で、不浄と見ることによって、この世のけがれたものに対する、なんていうかな、感覚の結びつきね、これが、デメリットしかないって分かってくる。よって修行者は、感官を抑制し、食事の節度を知ると。つまり、感覚、この世の様々な現世的喜びに自分の心がとらわれないように普段からチェックしてね――まあ念正智だね。チェックして、食事も節度を知り、信念を持ち、修行に勤め励むと。
 それをやらない者は悪魔に打ちひしがれるんだと。打ちひしがれるっていうのは、悪魔にやられてしまうと。ここでいう悪魔っていうのは、悪魔っていろいろな意味があるけれども、実際に人格を持った、我々の修行の邪魔をする霊的な存在ともいえるし、あるいはそうじゃなくて、我々の心の煩悩だともいえるし、あるいは実際に実体を持ったエネルギーみたいなものだともいえるけども、そういった魔的なものが我々を襲ってきたときに、普段からこの世に執着し、様々な喜びを追い求め、あまり修行せず怠ける者っていうのは、魔的な誘惑が来たときに、まるで弱い木々が、ちょっと風が吹いたらポキッていってしまうように、修行者としてもポキッといってしまうと。
 しかしそうじゃなくて、この世の不浄性を普段から考え、いろいろな現世的なものにできるだけ執着せずに、食事の節度を知り、信を持ち、しっかりと精進している者っていうのは、どんな魔の誘惑、攻撃が来ても、ちょうど風が吹いても岩山が崩れることがないように、全く問題ないよ、というところですね。


ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

超宗派・仏教 更新情報

超宗派・仏教のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング