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超宗派・仏教コミュの十二縁起の法とカルマの流れ

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 12縁起の法というのは、仏教の根幹を成す教えですが、この真義については古今東西、さまざまな解釈がなされてきました。

 私自身は、以下のようなさまざまな意味合いがあると考えています。


?瞬間瞬間、心の働きと現象が生じるプロセス

?生命体が死んでから生まれ変わるまでのプロセス

?生命体がこの世で行動し、それによって生まれ変わるまでのプロセス

?生命体が無明によって輪廻に落下してきたプロセス

?カルマの法則の流れのプロセス

?その他(省略)

?上記のいくつかまたはすべてを混合したプロセス





 この中で今回は、?の、カルマの法則の流れを説明したプロセスについて、簡単に書いてみたいと思います。

 12縁起をこのようなかたちで解説した例は、私の知る限りでは、ありません。ですから以下に書くことは、どこかの論書などにある説ではなく、あくまでも私の個人的な解釈であるということはお断りしておきます。その上で、参考にできる部分があればぜひ参考にされてください。




1.実際は実在しない現実と呼ばれる世界の物事や行為を実体視する「無明」によって、

2.過去になした行為によりインプットされた情報(「行」)は、生き生きと活動を始めます。

3.この「行」によって、「識」、つまりわれわれの意識が生じます。
 この意識は、「行」のベクトルによって、ある観念的な傾向を持っています。
 「カルマの果報」というのは、二つあります。
 一つは、行為の結果として、自分がなした行為と同様のことが自分に返ってくるということです。
 もう一つは、行為の結果として、われわれの意識のベクトルが決定されてしまうということです。
 つまり行為をしたことによってインプットされた「行」のデータが、すぐさま次の「識」を形作ってしまうということです。

4.「名色」、これは簡単に書きますが、名色=五蘊なので、ここで自我意識の形成がなされるといっていいでしょう。「行」と「識」の働きにより、自我意識が確定されるのです。
 生き生きとした「行」の動きは、「欲求」と「カルマの返り」という二つの可能性を内在しています。その可能性の受け皿として、五蘊=自我が必要なのです。「私」という感覚がなかったら、欲求する主体はありませんし、カルマの返りを受ける受け皿もなくなりますからね。
 つまり、五蘊=自我意識というのは、常に存在しているものではなく、瞬間瞬間、生じては消えているものだと思います。生じては消えるプロセスが間断なく続いているため、まるで常に存在しているように見えるのです。しかしもしわれわれが瞑想などで、少なくともこの名色以前のプロセスに立ち返ることができたら、少なくともその瞬間は、五蘊=自我意識は消えることになります。もちろん、数秒後にはまた生起しているかもしれませんが(笑)。

5.「六処」、これも簡単に書きますと、「名色」で自我意識が確立されたということは、当然、その対称である「他者」や「外的環境」が生じ、自分がその他者や外的環境と接触する可能性が生じます。
 これは言い方を換えれば、自分にカルマの果報を与えてくれる他者や外的環境が整うということです。
 あるいは、自分が欲求を向ける他者や外的環境が整うということです。

6.そしてその「名色=五蘊=自我意識」と、外的環境および他者が、「触(=接触)」します。
 これはここでは、カルマの果報といっておきましょう。
 つまり過去になした行為が「行」としてインプットされたものが、逆転現象を起こし、五蘊=自我意識に、他者や外的環境が何かの影響を与えるというかたちで返ってくるというわけです。
 たとえば簡単な例を挙げるならば、過去に他者に悪口を言ったことによって、今、逆に自分が他者に悪口を言われる、というようなことですね。

7.カルマが返ってくることによって、「受」が生じます。そもそもわれわれが自我意識にとらわれていなければ「受」は生じないのですが、とらわれているので、「受」が生じるのです。つまりその返ってきたカルマに対する、反応が生じるのです。もちろんこの反応の内容は、実体がありません。あるカルマが返ってきたときにどういう反応が生じるのかは、「行」と「識」が決定します。たとえばプライドの強さを形成するような「行」が多くあり、それによって「識」の方向性がプライドの強さを示していたら、悪口を言われるという現象は、耐えがたい苦しみとして感受されるでしょう。しかしそれは他の人にとっては、別に苦しみでない場合もあります。

8.「行」や「識」の影響によって、現象に対する偏った反応(受)が瞬間的に生じてしまうのはしょうがないとして、そこで終われれば、つまりすぐに心を切り替えられれば問題はないのですが、人はそこでその反応に対して、強い「愛」を抱きます。「愛」という言葉は勘違いされやすいですが、愛情とかのことを言っているわけではなく、渇愛(タンハー)と呼ばれるものです。つまり、「行」や「識」の影響によってほとんど無意識的に生じた反応に対して、強い好感や嫌悪の気持ちを持ってしまうというわけです。

9.この好感や嫌悪の気持ちも、短い間の感情で終わればいいのですが、それは知らず知らずのうちに、「取」、すなわち強い執着、とらわれへと変わります。
 たとえば例を挙げますと、過去に他者に悪口を言ったというカルマ(「行」)の果報として、他者に悪口を言われるという現象(触)が生じ、それに対して、「行」「識」の影響によって苦しいという感じ(受)が生
じます。そしてその苦しみへの嫌悪感(愛)が生じます。
 この嫌悪感を、この人は「わざわざ」、修習するようになります。「ああ、私はこんなことをされた、ああ、私はこんなことを言われた」ということを、考えなくてもいいのに考え続けます。表層意識でも考えるし、潜在意識でも考えます。
 これによってこの人は、仕返しをしようと思うかもしれません。あるいは仕返しをしないまでも、潜在意識が、その相手に対しては冷たい態度をとろうという方向を選択するかもしれません。
 これが「取」です。
 もう一つ、善行のパターンで説明しますと、たとえば、過去に人を称賛したカルマ(「行」)の果報として、他者に称賛されるという現象(触)が生じ、それに対して、「行」「識」の影響によって嬉しいという感じ(受)が生じます。そしてその喜びへの好感(愛)が生じます。
 この好感を、その人は修習するようになります。「ああ、わたしはこんなことをされて嬉しいなあ。ああ、私はこんなことを言われて嬉しいなあ」ということを、考え続けます。表層意識でも考えるし、潜在意識でも考えます。
 これによってこの人は、もっと称賛を受けたいと考えるかもしれません。あるいは逆に、今度は称賛を受けられなかったときに、苦しみの「受」が生じ、嫌悪の「愛」が生じるかもしれません。このようにして、「取」、つまりとらわれていくのです。

10.こうして、カルマから生じた現象に対する好感や嫌悪感にとらわれた人は、そこからまた新たな行為(アクション)を起こそうとします。その舞台は当然、この輪廻の生存の世界(「有」)です。これによってわれわれはこの輪廻の生存の世界に強く結び付けられます。これが「有」です。つまり逆に言えば、われわれは多くの「とらわれ(取)」によって、この世で何事かを行為したいという欲求により、瞬間瞬間、この輪廻の生存の世界(「有」)に結び付けられているのです。

11.そしてその強い好感や嫌悪感から来る行為(アクション)の欲求を満たすため、われわれは瞬間瞬間、この世に生まれ出て(「生」)、さまざまな行為を行ないます。
 つまりここでの「生」とは、お母さんのお腹からこの世に生まれ出るということではなく、われわれがカルマの果報に対する反応として、瞬間瞬間、この世に出現して、またもやこの世でさまざまな行為を行なってしまうこと、と解釈します。
 そしてもちろん、その行為はまた、「行」にインプットされ、回転するカルマの輪というろくろに、また一つのベクトルを加えます。
 
12.十二縁起の最後は「老・死」です。通常の十二縁起の解釈では、ここは当然、この世に生まれ出たわれわれが老い、死んでいくという解釈ですが、今回の解釈でも、そのようにとってもかまいません。つまりこの輪廻の生存を舞台にカルマの果報が返り、そのカルマの果報に対してまた新たな行為(アクション)を返すというこの「カルマの輪の回転」の舞台として、この「現実」と呼ばれる世界での人生があるわけですが、その受け皿としての五蘊の肉体は、老い、死んでいきます。
 死というのは、カルマの果報のベクトルが大きく変わるきっかけとなります。内在していたカルマのうち、たとえば人間界では現象化しにくいカルマが多くたまってしまった場合、人間の肉体の死を契機として、そのたまっていたカルマが一気に噴出し、そのカルマにあった世界に生まれ変わることになります。
 この「老・死」のもう一つ別の解釈としては、この世の無常性を示しているとも解釈できます。「取(とらわれ)」によってこの世でさまざまな行為を行なっても、すべては無常なので、成功してもそれは衰え、最後は滅します。しかしそれはカルマの内在因としてまた「行」にインプットされ、また将来のカルマの果報と、心のベクトルを生み出すわけです。



 以上の内容はもう少し複雑な心理的プロセスについても説明可能ですが、話をわかりやすくするために割愛しました。


 さて、では具体的にどうすればいいのかということですが、これもできるだけ簡潔に書きますと、

 まず「無明」、すなわち物事を実体視する無智が晴らされさえすれば、その人はカルマの法則から解放されます。しかしこれはもちろん実際は、深いサマーディと智慧の修行によって、真の明智(ヴィディヤー)を得なければ無理です。しかし完全には無理でも、常に物事の空性を頭に置くことは大事です。

 次に「行」と「識」の動きを止めるというのは難しいので、真理に基づいた行と識の形成に励むしかありません。
 具体的にはもちろん、日々、身・口・意の善行に励むことがひとつです。
 つまり身体において殺生をなさず、慈愛を持って生き物に接する。
 盗みをせず、布施をする。
 邪淫をせず、清浄な人間関係を保つ。
 言葉においては、うそをつかず、真実を語る。
 意味のない言葉を言わず、意味ある言葉を語る。
 悪口を言わず、優しい言葉を語る。
 人の仲を裂くような言葉を語らず、人を和合させる言葉を語る。 
 そして心においては、執着をせず、放棄の心を持つ。
 怒り・憎しみを持たず、慈愛・慈悲を持つ。
 誤った見解を持たず、正しい見解を持つ。

 以上のような善行に励みながら、正しい教えを学び、正しく瞑想し、真実の経験を積み重ねることで、「行」は浄化されていきます。

 しかし「行」から自然に形成される「識」の浄化を、自然に任せていたのでは時間がかかるので、意識的に「識」を形成します。つまり「行」の中の、まだ少ない真理の情報を意識的に引っ張り出し、真理に基づいた観念的意識を、無理やり形成するのです。
 こう言うと難しく感じるかもしれませんが、簡単に言うと、常に真理の教えに基づいて生きるということです。
 
 そしてカルマの果報が返ってきた(触)とき、そこで悪しき「行」と「識」から生じる、偏った苦楽の感受の生起を、許してはなりません。できれば、何があっても心を動かさない訓練が必要です。

 しかし実際は苦楽の感受が動いてしまうことの方が多いでしょう。しかし瞬間的にそれらが動いても、次の「愛」までは展開させないことです。つまり苦楽の経験に対して、好悪の感情を持たないということです。
 そしてできるなら「変容」を行なえば、修行はより速く進むでしょう。
 簡単に言うと、たとえば苦しみの感受を経験したとき、それを嫌悪するのではなくて、「ああ、悪いカルマを落としてくれてありがとう」と、感謝の気持ちを持つ訓練をするのです。こういったことの繰り返しにより、悪しきカルマの連鎖は、ベクトルが徐々に善のカルマの連鎖のほうに変わっていきます。
 「変容」に関しては、さまざまなやり方がありますが、割愛します。
 もし「変容」ができない場合や、やり方がわからない場合は、少なくとも心を動かさないことです。
 動いてしまうとしても、それを「取(とらわれ)」にまで展開させてはなりません。
 
 仮に「取(とらわれ)」にまで展開してしまったとしても、実際にそのような悪しきカルマの連鎖からくる行為に出てはいけません。じっとこらえてください。決して悪業を行なってはなりません。教学をし、懺悔をし、心を静め、何をなすべきで何をなすべきでないかを思索してください。

 こういったことを日々考え、自分にあてはめ、自分の五蘊、行為、そして行や識を浄化していくことこそが、仏教やヨーガの修行の大きなポイントになると思います。

 そして最終的には深いサマーディに入る準備が整い、サマーディの中で智慧を得、無明を越えることも可能になるでしょう。

 
 以上、個人的経験と見解から、12縁起の法のひとつの解釈を説明させていただきました。皆さんの生き方の何がしかの参考になれば幸いです。

  

コメント(9)


 さて、十二縁起の法については、今までも日記に何度か書いてきましたが、またいつもとは別の角度から、十二縁起の法を軸に、「幻影の世界」と「幻影を超えること」について、少しまとめてみました。

 ちょっと今回は難しく感じるかもしれませんが、よく読むとそんなに難しくはないので、チャレンジして読んでみてください(笑)



☆無明

 誤解を恐れずに書けば、無明とは、「忘れている」ということだ。
 何を忘れているのか? それは、真実を忘れている。
 そのため、以下に書くような十二縁起のプロセスを、自分だと錯覚してしまう。
 以下に書くように、われわれはただのデータに対して、「自己」という錯覚を抱いてしまう。
 すべてはただのデータの流れであって、もともと「自己」というものはない。
 でも実は、そのデータの奥にあるものがある。
 修行をしていると、だんだんそれに気づいてくる。
 しかし普通は、忘れている。


☆行

 行とは、簡単にいえば、カルマの流れ。
 常にただ流れ続けている。
 われわれの身口意の働きによって、これらはさまざまな生成変化、生起と滅尽を繰り返す。


☆識

 識とは、単に意識といってもいいし、識別作用といってもいいのだが、
 この段階ではまだ、実は自我意識は確定していない。
 それはただの識別であり、ただの意識なのだ。
 行をもととして、ある偏向を持った意識、識別が生じる。
 でもまだそこに「私」という感覚があるわけではない。
 ただの識なんだ。


☆名色

 行・識の一部を、自我化する。
 ただ流れているカルマ、ただあるだけの識に、「私」という感覚を持ってしまう。
 それが名色=五蘊。
 つまり身体・感覚・想念・行・識。
 五蘊に自我を持つというのではなく、
 行・識に対して自我意識を持つことによって、五蘊となる。
 つまりこれは、「私」という意識のよりどころなのだ。


☆六処

 行・識の一部を、「私」として固定化してしまった。
 しかし行・識の流れは、うにゃうにゃと、さまざまな展開をする。
 それらは、「私」と固定化した幻影の範疇には含まれないものもあるので、
 その含まれないものは後に、「周りの世界」という発現の仕方をする。
 その発現の内在的可能性、それが六処だ。
 もちろん、この「周りの世界」というものも、
 「外的自我」に他ならない。
 仏教ではこれを「法我」という。


☆触

 行・識の流れのうち、「自己」と認識した部分と、「周りの世界」として発現の内在的可能性を持っていた部分が、交わってしまう。


☆受

 「私」が「周りの世界」を経験しているという錯覚。
 本当は、「私」も「周りの世界」も変わりはない。一つのデータの流れに過ぎない。
 以前、「私」と認識していなかった部分の行や識の流れが、五蘊以外のものとして、自分の世界に生じてきただけ。
 それはただのカルマの流れに過ぎないのだが、すでに一部分に「私」という自我意識を持ってしまっているために、カルマによって、この錯覚の経験において、「苦」や「楽」を感じる。


☆愛

 行・識の流れと、自我意識の作用により、受の経験に対して、「好き・嫌い・どちらでもない」の評価を下す。


☆取

 それらの経験へのとらわれ。


☆有

 受・愛・取によって、流れ行く夢のようなカルマの幻影を固定化し、確固たる世界観を確定する。つまり自分が作った世界に閉じ込められる。

 ところで、これらのプロセスは、時間的プロセスではない。


☆生
☆老・死

 生まれるから終わりがある。
 世界が有として固定されてしまったので、その限定された世界の中で、始まりと終わりが生まれる。
 本来、行・識の流れ、カルマの流れには、始まりも終わりもないのだが。

◎死後のプロセス

 さて、死というのは、固定化された有からいったん解き放たれるチャンスである。
 死後、12縁起に従って、世界の固定化が再び始まるが、そのときに善良で幸福なカルマの世界に固定化されれば、幸福な世界に転生できる。
 そのためには、徹底的に心を浄化し、功徳を積んでおく必要がある。





◎夢にたとえて

 このプロセスは、夜、睡眠時に見る夢のプロセスにたとえるとわかりやすい。

 われわれは睡眠時のはじめ、「私は実は○○という名で、今、寝ているのだ」という自意識を失っている。つまり忘れているのだ。これが無明。

 このとき、普段ああだこうだと考えている表層的な意識や、確固たる自我意識などは消えている。しかし依然として、行、すなわちカルマの流れは続いている。

 そのカルマの流れから、識が生じる。しかしここにはまだ、何の自我意識もない。夢でいうなら、ただなんとなく、心に情報が浮かんできているような状態だ。

 そのなんとなく浮かんだイメージや情報のある部分に、「私」という認識を持つようになる。これが名色だ。
 つまりもともとは、夢の始まりは、「私」という感じはない。ただなんとなく、全体のイメージが流れているだけなのだ。その中の一部に「私」という自我意識を持つことによって、当然、その「私」以外のイメージは、「周りの世界」「他者」ということになる。これが「名色・六処・触」のプロセスだ。

 この夢の世界は全部自分の中で展開されるイメージに過ぎないのに、その一部分を自己と考え、他の部分を「周りの世界」「他者」と考え、そこでその周りの世界や他者を相手に、さまざまな経験が始まる。この経験において、「苦」や「楽」が感じる。
 その人の身には、現実世界では何も起きていない。寝ているだけなのだ。しかし夢の中では、たとえばおいしい食べ物を食べて、おいしい味覚を味わっている。あるいは誰かに切られて、強烈な痛みを味わう。
 修行が進んでくると、夢が鮮明になってくるので、本当に現実世界と変わらないような五感の経験を、夢においてすることができる。
 しかしすべてはイメージの経験に過ぎない。イメージの経験に過ぎないのに五感の苦楽がはっきりと生じるということは、結局、あらゆる感覚的経験は「概念的経験」に過ぎないのだ。カルマによって苦を感じたり楽を感じたりしているだけであって、何か実体のある苦や楽があるわけではない。

 そしてその「苦」や「楽」に実体があると思い込み、とらわれることによって、その世界は固定化される。つまり最初は夢というのは、うにゃうにゃとした、よくわからないイメージの連続なのだが、そのイメージが、整然とした「世界」として、ある一定の世界観を持って固定化されるのだ。それはそこでの概念的感覚経験に対する、執着や嫌悪によって、世界を実体化してしまうのだ。

 ところで、夢の中では、いかに世界を実体化して見ようとも、その世界に本当に引きずり込まれ、転生してしまうということはない。なぜなら、今ここの「生」のほうが、より強い、確固たる「有」だからだ。
 だからあくまでも夢というのは擬似的なたとえ話としてつかわれるのだが、このプロセス自体は、12縁起のプロセスでわれわれがカルマの幻影を実体視し、輪廻に転生してくるプロセスと、全く同じなのだ。



◎智慧と浄化


 結局、なすべきことは何かというと、「幻影の浄化」と、「幻影であると悟ること」である。

 後者を「悟り」「明」というが、これは実際に悟られなければならない。擬似的な悟りでは駄目だ。

 また、菩薩の場合、悟りを得ても、この幻影の世に身をおかなければならない。また菩薩でなくても、実際に悟りを目指している間は幻影の世界にとらわれているので、この幻影の世界の浄化というものがどうしても必要になってくる。

 「帰依」の修行は、幻影を悟り、真実に目覚めるのに大変有効だ。

 「すべてを師や至高者への供物と考えること」は、この幻影の世界の浄化に大変有効だ。
 なぜならわれわれは、けがれた過去の経験という幻影を土台として、新たな感覚的幻影に、評価を与えるから。
 そんな過去の経験など関係なく、すべてを「師や至高者への供物」と評価するなら、そこで新たな行・識の動き(カルマ)がインプットされ、行・識は浄化され、この世界も浄化される。

 「慈悲」もまた、この世界の浄化に大変有効だ。
 「慈悲」の教えを学び、慈悲によって世界を見ようという訓練をすることによって、行・識は浄化され、この世界も浄化される。 

 これらの手助けとしては、個人的には、「バガヴァッド・ギーター」「入菩提行論」などが良いと非常に思います。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=498584340&owner_id=535251
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=228410106&owner_id=535251


 「智慧」の修行が進んでくると、この世が実体がないという感じが強くなってきて、よりどころのなさを感じ、何というか、どのように生きていいかわからなくなることがある。
 だから教えをしっかりと学び、教えどおりに生きるのだ。
 あるいは聖者の伝記を読んだり、師の生活を見て、それらを真似するといい。
 修行に対する姿勢とかだけではなくて、たとえば食べ物の好みや、言葉遣い等も含めて、その聖者や師の、いろいろなところの真似をする。
 すべては幻影だから、実際は何をどうしようがどうでもいいのだが、生き方を間違うと、苦しみの世界に落ちる。完全に悟っていないと、やはり悪趣は苦しい。
 聖者の幻影を真似ることによって、聖者に近づくことができる。


 まとめると、大事なことは、
1.すべてを幻影だと悟り、真実を悟ること。
2.幻影の世界を浄化すること。

 悟りのために有効なのは、
1.サマーディの修行
2.帰依の修行
3.それを支えるもろもろの土台の修行

 幻影の浄化に有効なのは、
1.徳を積み、悪を避けること。(布施・戒・忍辱・懺悔など)
2.すべてを至高者への供物と見ること。
3.慈悲の修行。
4.聖者や師の生き方を思い、まねること。



◎菩薩になる意味

 さて、すべてが幻影だとしたら、私もまた他者の世界の幻影の一部分を演じている。
 私が意識的に菩薩行をなすことによって、縁ある衆生に、良い影響を与えることができる。
 自らが、他者にとっての、「幻影を浄化してくれる幻影」「悟りに導いてくれる幻影」になることができるのだ。
 しかしそのためには、本気で自己のカルマを越え、菩薩道を歩かなければ駄目だ。
 本気で菩薩道を歩くなら、必ず他者の幻影に、良い影響を与えることができる。

 「12縁起の法」が、仏教の中心的なテーマのひとつであることは疑いない。

 しかしそもそもその12の項目の一つ一つの意味とは何か、
 そして「縁起」の意味とは何か、
 これらについて、古来よりさまざまな説がある。

 これは修行における課題でもあるので、
 究極的には、個々人が修行によって悟っていくしかないわけだが、
 私は今まで、私が考えるところの12縁起について、何度か書き記してきた。

 今回もまた、これまでとは別の角度から少し書いてみたいと思う。

 ナーガールジュナは、それまでの仏教界の常識とは違い、
 「縁起」を「相互依存」という意味に解釈した。
 そしてその流れをくむチベット仏教なども、「相互依存」という意味での縁起の解釈を、重要視している。

 しかし、相互依存としての12縁起って何?
 わかったようで、わからない人がほとんどだと思う。
 
 そこで今回は、「相互依存」という観点から
 私の考える12縁起を、簡単に説明してみよう。

 ここに書くことはあくまでも私自身の気づきであり、
 また、「答え」ではなくあくまでも「ヒント」なので、
 真実を求める方々が、何らかの参考にしていただけたらいいと思います。




 長があるから短がある。
 短があるから長がある。
 どちらか一つで自存することは不可能である。

 同様に、
 善と悪は相互に依存して存在し、
 生じることと滅することも、
 光と闇も、真と偽も、重いことと軽いことも、
 すべてはお互いに依存しあうことでそれぞれ存在しているように見えているだけのものであり
 真実にはいかなる物事も自存することはない。
 
 同様に、

 無明あるがゆえに、行(経験から生じる潜在的な情報)がある。
 智慧があれば、経験に引きずられることはないから。
 しかし同時に、行があるがゆえに無明がある。
 経験に引きずられることで、真実が見えなくなるから。

 行があるがゆえに、識別作用がある。
 経験をもとにして識別が決まるから。
 しかし同時に、識別作用があるがゆえに行がある。
 経験に対して何らかの識別をすることで、それがインプットされたものが行だから。
 
 識別作用があるがゆえに、自我がある。
 識別の主体が必要になるから。
 しかし同時に、自我があるがゆえに識別作用がある。
 識別の主体である自我がなければ識別することもできないから。

 自我あるがゆえに、他者がある。
 しかし同時に、他者があるがゆえに、自我がある。
 
 自我と他者があるがゆえに、それらの接触がある。
 しかし同時に接触がなければ、自我と他者があるとはいえない。

 接触があるがゆえに、感覚がある。
 しかし同時に感覚がなければ、それは接触とはいえない。

 感覚があるがゆえに、それに対する好き・嫌いの渇愛がある。
 しかし同時に好き・嫌いの渇愛がなければ、そもそも苦楽の感覚という幻影は生じない。

 好き・嫌いの渇愛があるがゆえに、その渇愛の対象を取ることとが生じる。 
 しかし同時にわれわれがその対象を取っていなければ、そこには好き・嫌いの渇愛もない。

 渇愛の対象を取ることがあるがゆえに、有(存在)がある。
 もともと有(存在)は幻影にすぎないが、「取ること」によってその幻影が生じるから。
 しかし同時に有(存在)がなければ、「取ること」はできない。

 有(存在)があるがゆえに、生じることがある。
 有(存在)とは生じるものであるから。
 しかし同時に生じるということがなければ、それは有(存在)とはいえない。

 生じることがあるがゆえに、衰退することと終わることがある。
 しかし同時に、衰退することと終わることがなければ、生じることもない。





 つまりこの相互依存の12縁起というのは、
 合わせ鏡の中の無数の鏡のように、
 どれ一つも欠けることは不可能であり、
 この12縁起を終わらせるには、
 そのすべてを同時に終わらせるしかない。

 といってもそれはとても難しい。

 現実的な対応としては、
 これらすべてのシステムについて日々考え、
 これらのシステムに基づいて自己を日々観察し、
 どの部分でもいいから、アプローチを繰り返し、
 それぞれの項目を弱めていく。
 それによって全体のガチガチとした結びつきを、少しずつでも弱めていく。

 日々考えることと、
 日々自己観察することについては、
 各自で真剣に行なえばよい。
  
 そしてアプローチに関しては、「放棄」と「変容」の方法がある。
 細かく説明すると長くなるので、端的に具体的な実践例をあげていこう。


 ☆日々教えを学び、自分の考え方を変えていく。

 ☆自動的に生じる識別を日々の経験に対して当てはめるのではなく、
  教えにのっとって物事を見る(正見)。

 ☆または、できるだけ識別をやめる。
 
 ☆自我意識をできるだけ弱める。

 ☆または、「私は菩薩である」「私は神のしもべである」等の自我意識を強く持つ。

 ☆自己と他者という識別を日々弱める。

 ☆他者を自己のように愛する。

 ☆苦楽の幻影性を日々観察する。
  苦しみから逃げず、楽におぼれない。

 ☆または、すべての経験に感謝する(すべてというのが重要)。

 ☆または、すべての経験を、神や仏陀への捧げものと考える。

 ☆好き・嫌いの二元性をできるだけ離れる。

 ☆すべての衆生を愛する。
  そして一切の憎しみを捨てる。

 ☆心を外側の世界に粘着させない。
 
 ☆世界を固定しない。

 ☆すべてが瞬間瞬間、生じては滅していくことを常に観察する。

 ☆未来への期待・恐怖と、過去への後悔・思い出を捨て、ただ今この瞬間に集中し続ける。
※以前の日記より転載


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 以下に書くことは、あくまでも今朝わたしがインスピレーションで感じたことであって、どこかの仏典や論書に根拠があるわけではないので、注意してください(笑)。


 まず簡単に、12縁起をまとめてみましょう。

?無明→?行→?識→?名色(五蘊)→?六処→?触→?受→?愛→?取→?有→?生→?老死

 さて、まず修行のプロセスとしては、徳を積み、戒を守ることによって、悪趣の縁を切り、天へと至ります。しかしまだこの段階で至る天は欲界の天界どまりであり、それは限定された六道輪廻の中で良い道を選択したに過ぎません。

 欲界の輪廻を超えてまず色界に至るには、欲界の「有」を超えなければなりません。そのためにはその前にある「取」を超えなければなりません。

 ?愛とは簡単にいえば、好き・嫌いの感情です。それが「取」になったとき、それは強固な「とらわれ」となります。つまり、それがないと我慢できないような精神状態となります。つまりこれは「貪り」ですね。
 実はわれわれはこのとらわれ、貪りによって、この欲界に結び付けられているのです。
 「これがないと嫌だ」「こうならないと嫌だ」「こうでないと生きていけない」・・・このような意識が、小さなことから大きなことまで無数にあり、それらがわれわれを欲界に結び付けています。

 よってわれわれはまず、「取ることと取らないことの平等心」によって、この取を超え、欲界を超えなければなりません。つまりこの段階では、まだ完全に対象に対する好き嫌いの感情を克服したわけではありませんが、少なくとも様々な対象がカルマによって自分の前に現われたり消えたりするがままにしておき、「これがなければやっていけない」ということを超えることです。
 この段階では、カルマ・ヨーガや、精神的な不所有・知足の修行がとてもいいと思います。つまり自分の人生のすべては神やブッダの愛で守られていると考え、自然に与えられたもので満足する訓練です。

 こうして貪りを超え、欲界を超え、色界に入ると、四無量心の深化のプロセスが始まります。この基礎において、チベットでは「平等心」が置かれているわけですね。
 ここでの「平等心」とは、「好き嫌いの平等心」です。なぜなら、四無量心における愛とか哀れみとかの定義は、無条件の愛であり哀れみなのです。無条件ということは、あの人は好きだから愛するけど、あの人は嫌いだから愛せない、ということが、塵ほどもあってはならないのです。完全にすべての例外なき、すべての衆生への愛でなければなりません。
 そのためには十二縁起の8番目の「愛」を超えなければなりません。この愛は「渇愛」であり、エゴに基づいた好き嫌いの感情に過ぎないからです。よってここで、真の慈愛を得るために、「好き嫌いの平等心」を身につけるのです。

 こうして平等な眼で衆生を見、四無量心を育てつつ色界を上がっていくわけですが、その最高の世界は、「苦楽を超える世界」といわれます。つまりここで出てくる「捨」とはまさに、「苦楽の平等心」なわけですね。つまり十二縁起の?愛からさらに一つさかのぼり、?受を超えるわけです。「受」とは苦楽の評価ですから。

 そうして無色界に入った修行者は、まず「空無辺」という境地に入ります。
 空間が無辺である。つまりこれは私は、「自と他の平等心」ではないかと思います。
 空間という概念こそが、もともと区別できないものに区別をもたらしているわけですから。
 つまりこれは?名色・?六処・?触などを超えるプロセスといってもいでしょう。
 
 次に修行者は、「識無辺」に入ります。
 つまりこれは?の「識」の超越ですね。
 つまり「これはこうである」「あれはああである」といった、行によって生じる固定的な識別作用の超越です。つまりそれは「こうであるとかああであるとかの平等心」といえます(笑)。

 次に修行者は、「無所有」の境地に入ります。
 この辺は難しいので簡単にいえば、行すなわち縁起の流れというかカルマの流れというか、そういったものに対する実在意識そのものの超越ではないかと思います。
 これを超えるということは、時間の超越、すなわち過去と未来と現在といった観念を平等に見、超越することを意味するのではないかと思います。

 次に修行者は、「非想非非想」の境地に入ります。
 これも私見になりますが、これは低い解脱の超越ではないでしょうか。
 つまり単に想いが滅して無になっただけの低い解脱ではなく、より高い解脱に至る為には、その「無」への執着も超えなければいけません。つまり「想いがあることとないことの平等心」ですね(笑)。

 そして最終的なブッダの境地においては、智慧によって輪廻を超え、慈悲によってニルヴァーナを超える、つまり「輪廻とニルヴァーナの平等心」の境地である「無住処ニルヴァーナ」の境地に至るわけですね。



 いかがでしょうか(笑)。最後に、「区別」と「平等」という観点から、この12縁起とそこからの解脱のプロセスを簡単にまとめてみましょう。


 単なる縁起・カルマ・経験の流れに過ぎないもの(行)を実体視することによって縁起の法が始まります。これは本来自由な魂が、変化、すなわち「時間」に束縛されるといってもいいかもしれません。

 そこから「あれこれの区別」すなわち「識」が始まります。

 識の強まりによって自我意識が形成され、「自と他の区別」が生じます。

 自と他の接触によって、あるときは楽、あるときは苦を感じます。つまり本来平等である経験に「苦楽の区別」を生じさせるのです。

 苦と楽があるわけですから、当然そこから「好き嫌いの区別」が生じます。

 そしてそれは強烈なとらわれとなり、われわれはこの欲界の六道輪廻に結び付けられます。

 
 そこで修行を志した者は、まずそのとらわれを超えるために、「取ることと取らないことの平等心」の修行をします。つまりそれがあってもなくても心が動かないように訓練することで、欲界を超え、「取」を超えます。

 次に色界の四無量心の基礎として、「好き嫌いの平等心」を身につけることで、「好き嫌いの区別」を超えます。

 色界の最終段階で、「苦楽の平等心」を得、「苦楽の区別」を超えます。

 そして無色界に入り、「空無辺」の境地において、空間を越えます。空間を越えるということは「自己と他者の平等心」であり、名色の超越です。

 次に「識無辺」の境地において、「あれこれの区別」を超え、「あれこれの平等心」に至ります。

 そして行・縁起・カルマの流れそのものに実体がないことを悟り、「過去と未来と今の平等心」を得、「時間」を越えます。

 そして単に想いがあるとか無いとかを超えた「想いがあるなしの平等心」によって低いニルヴァーナを超えます。

 そして最終的に、輪廻とニルヴァーナさえも平等に見ることで、最高のブッダの境地である無住処ニルヴァーナに至るわけですね。



 取る・取らないを平等に見て、欲界を超える。
 好き・嫌いを平等に見て、四無量心を修習し、
 苦楽を平等に見て、最高のサマーディに至る。
 自と他を平等に見て空間を越え、
 あれこれを平等に見て、識別を超える。
 過去と今と未来を平等に見て、縁起の流れにとらわれずに時間を越え、
 想いのあるなしを平等に見て、低いニルヴァーナを超える。
 そして輪廻とニルヴァーナさえ平等に見たならば、
 無明を超えたブッダの境地に至る。

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