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海野宿コミュの(6)海野宿と本陣

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 海野宿の本陣を勤めた藤田氏の古文書が、早稲田大学に所蔵されていたので、町ではこれをマイクロフィルムに収めてこられました。それによると永禄7年(1558)・慶長8年(1603)・寛永2年(1625)から明治16年(1883)まで、合計1294点が、古文書研究会によって解読されました。
 
 藤田與一兵衛信道は藤原鎌足(ふじわらかまたり)公七世の孫で藤田家の祖。
その子弾正胤顯高(だんじょういんけんこう)は武田信玄の旗下に属し上州小幡に住み、弘治元年(1555)8月24日沼田城に於いて戦死しました。
その子信吉は当時21才であったが、信玄が天正元年(1575)信州駒場で病死したあと勝頼の代となってから上杉の被官となり、沼田城におりました。
天正6年3月13日春日山に上杉謙信没してあと小田原の将北条氏邦は沼田城を攻め、信吉は降伏し再び城代となりました。天正8年6月武田勝頼の領有になり真田昌幸と共に沼田城を守っておりました。
天正18年(1590)豊臣秀吉の命により北条氏政に渡すが後豊臣氏に亡ぼされました。
 
 信吉は慶長15年(1610)4月15日木曽奈良井で73才にして卒去された。
信吉の子五兵衛吉道は佐久郡前山に住み、その子市太輔栄吉は小諸藩仙石家の家臣簿田七郎兵衛の娘を妻に迎え、本海野に住し本陣を勤め、それ以来八世藤田傳左衛門国直まで本陣を勤めました。
 


 
 物々しい大名行列は槍を立て、金紋の先箱に長柄傘(ながえがさ)、騎馬と徒歩(かち)の共侍が前後をかこみ、茶・弁当係りの茶坊主頭(同朋(どうほう))までがつく豪勢な行列があった。
そのため諸大名は豪華を競い合い、前記のほか弓隊・鉄砲隊、道具では長持・靴籠(くつかご)・具足櫃(ぐそくびつ)、そのほか漬物桶・風呂桶・殿様専用の便器、それに碁・将棋の娯楽用具、飼鳥まで携行するばかな大名もおりました。
 
 加賀百万石の前田侯などは、風呂桶ばかりか、中に入れる水まで加賀の清水を運ばせ、千曲川のせせらぎを聞きながら入るなど、正気の沙汰とは思えなかったそうです。
だから、昔から仰々しいことを「大名行列のようだ」と言われております。
 
 大名行列が宿場に入るときは、2日前から宿場の入口と本陣の玄関に、「何々守旅館」と書いた「関札」(木札)を掲げました。大名のほか公家衆・代官・門跡などは本陣泊まりだが、この木札が出ている時は、他の大名は脇本陣か旅籠屋に泊まらねばならなかった。
脇本陣には、大名が本陣に入ったあと、家老や奉行など同行の重役が泊まることもあった。
つまり本陣の補助機関にほかならなかった。
 
 本陣は土地の名家がつとめ、平屋作りで門・玄関を構え、玄関を上がり、奥まったところに殿様の入る上段の間(ま)があるが、庭をへだてて厩(うまや)と土蔵があり、植込みや置石のないのが特徴であった。
これは忍者に備えたものであった。
また食事も本国から連れてきた料理方が持参の材料で作っておられます。これも敵に毒を盛られないための用心であります。
 
 本陣へ泊まる資格の上下を決めるのは、格による親藩・譜代・外様などで決められております。
次に禄による石高で、さらに老中・寺社奉行などの役職で、その他に三位から従五位などによる官位の順序に従って上下を決められておりました。
 
 大名には年に一度と隔年の参勤交代があり、本陣とは切っても切れない親密な関係があり、定宿として経済的スポンサーの役割をしておりました。
そんな関係から本陣が災害などに遭うと、大名が金を出し合って再建に協力したり、家臣並に扶持米を与えることもあった。
 
 しかし、幕末に大名が窮乏すると、本陣の経営も苦しくなってきておりました。
大名行列も華やかさを失い、なりふりかまわず簡素化されていったようです。

文化8年(1811)越後高田の榊原侯は、毛槍も先箱も廃し、わらじばきの野営でお国入りをしている記録もあり、そうなると本陣も成り立たなくなり終わらざるを得なくなりました。
こうして明治初めの頃には本陣も、ばたばたとつぶれております。

(時代考証辞典より)
 

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