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カナダの歴史と政治コミュのカナダ首相列伝(4)

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 (1) 連邦草創期(1867〜1920)
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1611536&page=1&id=33586167
 (2) 地域政党繚乱期(1920〜1963)
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1611536&page=1&id=64625958
 (3) カナダ主義の時代(1963〜1993)
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1611536&page=1&id=53709081
 (4) 多党制の時代(1993〜)
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1611536&page=1&id=36034582


 (4) 多党制の時代(1993〜)
●英語の不自由と顔面麻痺を克服した「気さくな独裁者」
 第25代 Joseph Jacques Jean Chrétien
 (1993年11月4日−2003年12月12日)
●党内抗争で政権奪取、今なお続く後遺症
 第26代 Paul Edgar Philippe Martin
 (2003年12月12日−2006年2月6日)
●保守合同で12年ぶり政権交代
 第27代 Stephen Joseph Harper
 (2006年2月6日−2015年11月3日)
●スーパースターの御曹司、国民に親しまれ親子で首相の座に
 第28代 Justin Pierre James Trudeau(2015年11月4日− )


●Justin Pierre James Trudeau(1971〜)
 第28代首相(2015年11月4日〜)

 ジャスティン・トルドーは、ピエール・エリオット・トルドー首相とマーガレット・トルドーの長男としてオタワの病院で生まれた。
 父ピエールはカナダ史上のスーパースターであり、ジャスティンは首相官邸で育ち、生まれたころからカナダ人に見守られるように育った。現職首相の子が生まれるのは、マクドナルド首相の娘マーガレット・メアリに次いで2人目である。母マーガレットの父は、ジェームズ・シンクレア水産大臣である。
 ジャスティンには、弟アレクサンドルとミシェル(1998年雪崩のため死去)がいる。母マーガレットは後に再婚し、カイルとアリシアを産んだ。父ピエールは、デボラ・コイン氏との間にセーラを産んでいる。
 ジャスティンは、マギル大学とブリティッシュコロンビア大学で学び、卒業後はバンクーバーのウェスト・ポイント・グレイ・アカデミーとサー・ウィンストン・チャーチル・セカンダリースクールで教師を務めた。
 ジャスティンは若いころから自由党員となっていたが、議員になる前からいずれ首相候補になるものと目されていた。2006年党首選には立候補せず、ジェラルド・ケネディ候補を支援した。彼は途中で敗退し、ステファン・ディオン候補支持に回った。
 2008年総選挙で、ジャスティンは初めて立候補し、初当選した。ディオン党首は辞任し、党首選が開催されることになると、ジャスティンの名が候補に挙げられたが、彼は出馬せず、マイケル・イグナティエフが党首に就任した。
 2011年総選挙では、自由党は34議席と結党以来最低の大敗を喫し、イグナティエフ党首は辞任した。ジャスティンはこのときも出馬を取り沙汰されたが、彼は沈黙を守った。しかし2012年10月になると、出馬を明言した。ジャスティンはまだ当選3回で41歳だったが、低迷する自由党にあって党再生のための最後の切り札と見なされていた。最有力候補だったマルク・ガルノー候補も辞退するに及び、得票率80.1%で圧勝し、党首就任した。彼は政治歴が浅く、外交・経済手腕は未知数だったが、各種世論調査はジャスティンが党首なら支持率が急増することを示した。
 彼は就任以来高い支持率を誇っていたが、2014年秋にイスラム過激派のテロが続発すると、若く経験のない彼は頼りないと見られたのか、支持率が下降を始める。翌年8月の解散時には、支持率3位から選挙戦を戦うことになった。だが戦後最長の選挙戦は、自由党に有利に働いた。序盤で支持率トップに立った新民主党は、政権奪取を意識して、均衡財政を主張した。だがジャスティンは、景気を刺激するために財政支出を増大させ、当面は赤字財政とするという方針は、有権者の心を巧みに捉え、10月には支持率トップに立った。
 かつてロン毛だった彼を、保守党は「素敵な髪」と揶揄する広告を作り、新民主党も保守党の批判広告を作ったが、自由党は中傷合戦から距離を置いた。ロースクール出身でない彼はエリートではないが、人々に親しまれるよう努め、選挙期間中は多くの支持者とともにセルフィーを撮らせ、予想を覆し過半数を獲得し、次期首相に指名されることになった。
 妻ソフィー・グレゴワール=トルドーは、弟ミシェルの同級生で幼なじみ。2003年、テレビタレントとなっていた彼女と再会し、デートを重ね2005年に結婚。ザビエル・ジェームズ、エラ=グレース・マーガレット、アドリエンの3人の子がいる。

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●Joseph Jacques Jean Chrétien(1934〜 )
第25代首相(1993年11月4日〜2003年12月12日)

 ジャン・クレチエンはケベック州シャウィニガンで、19人兄弟の18番目として生まれた。生まれつき片耳が聞こえず、また少年期にベル麻痺を患い、顔面左側が麻痺している。
 ラバル大学で法学を学び、弁護士として勤めた後、1963年総選挙で初当選する。彼は、議員になるまで英語を話すことができなかった。初めて国会議事堂に入ったとき、先輩議員に「君は新人だから後ろの席に座るんだよ」と言われると、首相の椅子を指して“Someday I be sitting up there.”(でも俺いつか、あそこに座る/正しくは“Someday I’ll be there.”)と語ったという。

 (1) 出世街道
 彼の英語は生涯たどたどしいものだったが、少ない言葉数で効果的に語った。小さい体で闘志満点の彼は「ストリートファイター」の異名をとり、トルドー内閣の国家収益大臣、インディアン問題及び北方開発担当大臣、産業・貿易・商務大臣、大蔵大臣を歴任した。1980年のケベック独立を問う住民投票では法務大臣・司法長官、1982年の新憲法制定時には憲法担当大臣を務め、重要な役割を果たした。
 1984年にトルドー首相が引退した際、自由党党首選に出馬する。顔面麻痺を取り沙汰された彼は「私は口の両側を使って二つのことを使い分けたりしない」と語ったが、ジョン・ターナーに敗れた。アイオナ・キャンパニョロ議員は、クレチエンを「投票では2位だったが、与えた印象では1位だった」と評した。
 ターナー首相はクレチエンを副首相・外相に任命したが、この年の総選挙で自由党が敗北すると、二人は対立するようになる。クレチエンは1986年議員を辞職し、民間企業で働いた。
 だがターナー党首は1989年に辞任し、党首選が行われることになった。左派のクレチエンがトルドーの後継者、右派のポール・マーチンJr.がターナーの後継者として有力視された。マーチンは、クレチエンがケベック人であることに目をつけ、ミーチレイク協定に賛成か反対かの表明を迫った(賛成なら野党党首として不適格、反対ならケベックでの人気を失う)が、クレチエンは党首選に勝利した。

 (2) 野党党首
 マルローニ首相はミーチレイク協定・シャーロットタウン協定の失敗、戦後最大の不景気、増大する財政赤字、新しい連邦消費税(GST)などで支持率を下げ、世論調査で自由党に政権を譲ることが決定的となった。そこでマルローニは1993年6月に退陣し、初の女性首相キム・キャンベルが政権に就いた。彼女は9月に下院を解散し総選挙に打って出たが、各地でバーベキュー・パーティを開催し、なんとか支持率を自由党に近づけることができた。
 だが自由党は、112ページに及ぶ詳細なマニフェスト(「赤本」と呼ばれた)を発表した。そこにはGSTの「見直し」と北米自由貿易協定の「再交渉」(「破棄」ではない)が記されていた。このような詳細なマニフェストはどの党も発表していなかったことから、自由党は世論調査で支持率を倍増させた。しかしこの時点においてもなお、クレチエン党首個人への人気は、キャンベル首相に遠く及ばなかった。
 そこで進歩保守党は、テレビでクレチエンの顔面麻痺を嘲り「この人がカナダの首相?」と中傷するネガティブキャンペーンを始めた。保守党候補の中からさえ放送中止を求める声が上がり、キャンベル首相もこの広告について事前に知らされていなかったが、放送中止を命じた。しかし彼女は謝罪しなかったため、支持率は急降下した。クレチエンはこのCMについて、少年時代に受けたからかいに言及し「私がまだ子供のころ、人々は私を笑い者にしていた。でも神様がほかの資質を与えてくれたので、私は感謝してそれを受け容れた」と演説すると、聴衆の多くは涙を流した。これを境に、彼個人の支持率も急上昇し、自由党の圧勝は確実となった。
 1993年10月の総選挙で、自由党は定数295のうち177議席を獲得して地すべり的圧勝を収め、クレチエンは政権に就いた。進歩保守党はわずか2議席と歴史的惨敗を喫した。


写真右:自由党圧勝を報じた10月26日付グローブ&メイル紙。
 (3) 総理大臣
 トルドー、クラーク、マルローニらが首相就任前には党内主流でなかったのに対し、クレチエンは1965年以来全ての自由党政権で閣僚を務めたため、読売新聞は「古くて新しい人」と評した。あらゆる大臣ポストを経験した彼は諸事に通じており、高度に中央集権化された、しかし内部の批判には非寛容な「フレンドリーな独裁」と呼ばれた政権を築いた。
 クレチエン首相・マーチン財務相のコンビは、420億ドルの赤字解消、5年連続財政黒字、5年にわたる1000億ドルの減税は歴史上最大の減税を実現した。またクレチエン政権の時代には進歩保守党が凋落し、保守政党が2つに割れていたことから、1997年・2000年の総選挙を楽勝し、戦後唯一の連続3選を果たしている。
 だが政権末期には、社会保障費削減から公共サービス低下を招いた。このまま彼が党首では次の選挙は危ういとみなされるようになると、マーチンは閣僚でありながら次の党首選に向けた運動を公然と行うようになる。クレチエン首相が閣僚の選挙運動を禁止したにもかかわらず、マーチンは従わなかったため、首相は2002年6月、マーチン財務相を更迭した。ところが閣外に去った彼は却って選挙運動に専念できるようになり、党内の大勢を味方につけてしまう。するとクレチエン首相は8月、次期党首選に出馬せず2004年2月に引退すると、1年半も前に発表した。これは「総理・総裁の椅子は明け渡すからもう勘弁してくれ」という、首相の事実上の敗北宣言だった。
 レイムダックと化したクレチエンは、国民にも党内にも気兼ねする必要がなく、自由に政権を運営できるようになる。イラク戦争不参加は、この特殊な状況で実行されたものである。
 2003年11月の党首選で、マーチンは9割もの支持を受けて圧勝すると、クレチエン首相に対し、引退時期を前倒しして総理・総裁の椅子を早く明渡せと迫った。首相は12月、総督に辞表を提出し突如政権を投げ出す。顔面麻痺と英語の不自由を克服し、財政赤字を解消し3度の選挙に勝利した英雄は、こうして表舞台から去っていった。
 辞任後クレチエンは、1995年のケベック独立を問う住民投票に関して、独立を阻止するためのキャンペーン費用が広告代理店を経由して自由党に流れたという「スポンサーシップ事件」について、ゴメリー報告書で「責任あり」と名指しされ、晩節を汚した。


写真左:1998年スタンレーカップのプレイオフ準決勝において、クレチエン首相はクリントン大統領と賭けをした。オタワ・セネターズ対ワシントン・キャピタルズの試合で、勝った国のユニフォームを負けた国の元首が着るというものである。試合はオタワが敗れ、クレチエンがキャピタルズのユニフォームを着ることになった。
写真はセネターズのユニフォームを着たクレチエン。
図右:同性婚への態度を変えてきたクレチエン首相をおちょくったマンガ。
●Paul Edgar Philippe Martin(1938年8月28〜 )
 第26代首相(2003年12月12日〜2006年2月6日)

 (1) 生い立ち
 ポール・マーチンJr.はオンタリオ州ウィンザーに生まれた。父ポール・マーチンSr.は保健福祉相・外相を歴任した自由党の重鎮で、党首選に2度出馬して敗れている。マーチンはカナダでは珍しい二世議員である。
 両親は、マーチンにフランス語を覚えさせるため私立のフランス語校に通わせた。彼はフレンチ・イマージョン教育を受けた最初の首相でもある。
 マーチンはオタワ大学とトロント大学で学び、卒業後はトロント大学ロースクールに進み、弁護士資格を取得。その後カナダ汽船のオーナーとなり、巨万の富を築いた。

 (2) 政界での活躍
 1988年総選挙で初当選して政界入りしを果たし、1990年には自由党党首選に出馬した。ケベック選出議員のマーチンはミーチレイク協定を支持したが、ライバルのクレチエンは態度を鮮明にしなかった。そこでマーチンはクレチエンが内心では反対しているのを見抜き、討論で旗色を鮮明にするよう迫った。クレチエンはケベック人なので、反対すればケベックでの人気を失うことになるからである。会場は、クレチエンに対する「裏切り者」コールで溢れかえった。しかしマーチンは、結局クレチエンに敗れた。
 マーチンはその後、選挙のためのマニフェスト「赤本」執筆を担当した。自由党は1993年総選挙で圧勝し、マーチンはクレチエン内閣の財務相に任命された。
カナダはその時点で、G7の中で最も巨額の財政赤字を抱えていた。マーチンは財務相就任中に420億ドルもの赤字を解消し、5年連続財政黒字を計上して、360億ドルもの債務を支払った。読売新聞は1995年のハリファックス・サミットにあたり、G7で最も優等な政権はクレチエン政権だと評した。また2001年にはマーチンが「世界経済フォーラム」の「夢の内閣」閣僚に選ばれるなど、クレチエン首相を凌ぐ人気を博した。

 (3) 確  執
 クレチエンは飾らない気さくな性格だったが、部下には絶対の忠誠を求め、裏切りは許さなかった。彼は90年党首選でのマーチンの行動を生涯許すことはなかった。クレチエンは1997年総選挙で過半数をわずかに上回る勝利を得て、2期目に突入した。クレチエンの人気は翳りが見え始め、マーチンがクレチエンを引退に追い込み政権を奪取するのではないかという噂も流れた。ところがクレチエン首相は2000年、抜き打ち解散・総選挙に打って出て議席を大幅に増やし、3期目に突入する。自由党は唯一の全国政党であり、保守党は2つに割れていた。ケベック連合はケベック州だけの党であり、自由党政権はいつまでも続くかに見えた。マーチンはクレチエンと4歳しか違わず、クレチエン政権長期化に焦りを覚えるようになる。
 クレチエンが閣僚の党首選運動を禁止したにもかかわらず、マーチンは活発に活動したため、2002年6月クレチエンはマーチン財務相を更迭した。だが閣外に去った彼はかえって自由に行動できるようになり、やがて党内の大勢を味方につけてしまう。するとクレチエン首相は8月、次期党首選に出馬せず2004年2月に引退すると、1年半も前に発表した。これは「総理・総裁の椅子は明け渡すからもう勘弁してくれ」という、首相の事実上の敗北宣言だった。
 自由党党首は自らの意志で退くものであり、党首を引きずり降ろす行為は伝統に反していた。マーチンのやり方に反発したジョン・マンレー副首相らクレチエン派は、党首選に立候補しようとしたが、マーチンの圧力に屈し辞退に追い込まれた。こうして唯一の対立候補となったシェイラ・コップス元副首相を、マーチンは93%もの圧倒的な支持で倒し、党首の座に就くとクレチエン首相に対し、引退時期を前倒しして総理・総裁の椅子を早く明渡せと迫った。クレチエン首相は12月、総督に辞表を提出し突如政権を投げ出す。マーチンはその日総督官邸で、父マーチンSr.が死んだとき国会議事堂に掲揚された旗を持って宣誓した。彼は父が成し得なかった野望を、ついに達成したのだった。


図:「父上、王冠で遊んでもいいのですか?」「獣に奪われないようにしろよ。」
クレチエンは党首の座を自分に忠実な者に継承させようとし、マーチンを警戒した。左からジョン・マンレー、アラン・ロック、ブライアン・トビン、シェイラ・コップス。コップスは党首選でマーチンに敗れ、残りは全員辞退に追い込まれた。
 (4) 総理大臣
 政権に就いたマーチンは、自分に逆らって党首選に出馬しようとしたマンレーらを閣僚に任命せず、冷遇した。彼はクレチエン政権で冷え切った米加関係改善を期待されたが、首相就任後すぐにスポンサーシップ事件が発覚した。マーチン政権は選挙の洗礼を受けていなかったため、国民の信を問うため下院を解散し2004年6月の総選挙に打って出た。
 マーチンはクレチエン派を冷遇したため、党内には大きな亀裂が走り、自由党の士気は上がらなかった。そして、今までは有力野党が存在しなかったので安心して党内抗争に熱中できたが、2003年保守合同によりカナダ保守党が結成されていた。
 選挙戦の序盤は保守党がリードしたが、自由党は保守党の右翼イメージを攻撃し、定数308のうち135議席を獲得し、過半数割れながらかろうじて政権を維持した。新民主党は閣外協力を約束したが、19議席しかなく、合わせて154議席と過半数に1議席足りなかった。2005年5月の予算案は、否決されれば解散・総選挙は必至だったが、下院で賛否同数となり、議長採決で際どく成立させた。

 (5) 野党転落
 2005年11月1日に発表されたゴメリー判事の最初の報告書は、スポンサーシップ事件に関しマーチン財務相(当時)は責任なしとしたが、クレチエン首相と自由党ケベック支部には責任があるとした。この発表後、新民主党のジャック・レイトン党首は、民間健康保健の禁止を条件として自由党への閣外協力を続けると発表したが、マーチン首相はこの取引を拒否したため、保守党・ケベック連合・新民主党は共同で内閣不信任案を提出し、171対133で可決された。それまで内閣不信任は、予算案の否決と、ミーエン内閣信任案が否決された前例はあったものの、内閣不信任案が可決されたのは史上初めてであった。
 総選挙では当初、自由党が保守党をリードした。だが選挙期間中にグッデール財務相のインサイダー取引疑惑が浮上し、自由党の腐敗が主な争点となった。自由党は前回同様、ネガティブキャンペーンを用いたが視聴者には不評で、保守党にダメージを与えることはできず、いっぽう守党はGST減税などわかりやすい政策を掲げた。
 翌年1月23日、定数308のうち自由党は103議席に終わり、保守党は124議席を獲得して12年ぶりの政権交代を実現した。マーチンは総理・総裁の即時辞任を発表した。


図右:十月危機でトルドー首相「これは国家の危機である。」
    ミーチレイク憲法危機でマルローニ首相「これは国家の危機である。」
    ケベック独立危機でクレチエン首相「これは国家の危機である。」
    スポンサーシップ事件でマーチン首相「これは国家の茶番である。」
★カナダの事業仕分け「プログラム・レビュー・テスト」

 行政刷新会議事務局の加藤秀樹局長は、事業仕分けはカナダで90年代に行われた「プログラム・レビュー・テスト」をモデルにしたという。

 進歩保守党のマルローニ政権下で、財政赤字は206億ドルから450億ドルに拡大した。これはGDPの6%にあたり、歳入の実に35%が利払いに費やされていた。1993年の総選挙で、財政赤字解消の見通しについて問われたキム・キャンベル首相は「今世紀終わりまでには」と答弁し、失笑をかった。下院の任期が5年しかないのに、財政赤字解消に7年もかかるのは遅すぎるし、人気のない彼女が7年も首相を務めるつもりになっていたからである。
 野党自由党のジャン・クレチエン党首は、財政赤字を3年でGDPの3%以下にすると公約し、総選挙に大勝して政権を奪回した。クレチエン首相・マーチン財務相のコンビは、さっそく事業仕分けに取りかかる。連邦政府が行う公益事業プログラムについて、(1)公益性はあるか、(2)政府がすべきか、(3)州に委譲できないか、(4)民営化できないか、(5)効率化できないか、(5)今やるべきか、の6つの観点に基づき、財務省が提示した歳出削減案を受けて、各省庁がレビューを行い、内閣に設置された特別委員会がこれを精査した。これを「プログラム・レビュー・テスト」という。
 いっぽう歳入面では、法人税引き上げ、キャピタルゲイン控除廃止、ガソリン税・タバコ税増税などを実施した。

 この結果クレチエン政権は、連邦公務員4万5000人(19%)を削減し、1997年度以降5年連続財政黒字と、5年にわたる1000億ドルにおよぶ史上最大規模の減税を実現した。読売新聞は、ハリファックス・サミットで「G8首脳中最も成績がいいのはカナダのクレチエン」と評した。
 カナダの財政赤字解消は、アメリカの戦後最大の好況期と重なっており、また旧二大政党の進歩保守党が凋落し、保守政党が2つに割れて保守票を奪い合い、政権交代の危機がないという幸運にも恵まれていた。クレチエン首相は1997年・2000年の総選挙にも楽勝して戦後唯一の連続3選を果たし、財務大臣もマーチンが8年半の長期間務め、継続的に任務に当たることができた。

 だがクレチエン政権末期には、帳尻合わせのための社会保障費削減から公共サービス低下を招き、病院での診療待ちが常態化した。クレチエン首相は、自分の追い落としを画策したマーチン財務相を更迭する。しかし人気を失ったクレチエンに付く者は少なく、マーチンはクレチエンを総理・総裁の座から引きずり下ろし、政権を奪った。かつての盟友だった両者は、今は犬猿の仲である。
 ハーパー首相は今週、首相に就任して5年を迎える。少数政権はほとんどが1年持たないのが通例だが、ハーパー政権はまもなくピアソン政権を抜き、史上最長の少数政権になろうとしている。
 5年前に彼が首相に就任したとき、保守派の人々は彼が期待に応じこの国を劇的に変革してくれると思い、リベラル派の人々は彼がこの国をすっかり変えてしまうのではないかと危惧した。だが5年間の少数政権の間、彼は驚くほどわずかな業績しか為さなかった。ハーパー政権の法案成立率は、歴代政権と比較しても異常に低い50%弱である。

 マルローニ元首相は1月21日、ハーパー首相は新聞の見出しや世論調査を気にせず、残りの任期のうちに何か大きなことを為せと、グローブ&メイル紙に語った。
 マルローニ自身は8年の政権の間、実に様々の大きなことを為した。米加自由貿易協定、GST(連邦消費税)、そしてケベックを憲法体制に取り込むための2つの改正試案ミーチレイク協定とシャーロットタウン協定である。そして、それらはことごとく大きな反感を買った。
 だが以降のどの政権も、自由貿易協定とGSTを踏襲している。進歩保守党がカナダ史上最悪の敗北を喫した原因は明らかに彼にあり、彼は史上最低の首相と当時も今も呼ばれているが、保守派の間ではこの2つの政策は高く評価されている。マルローニ元首相はこう述べる。
「私は、かつて自分が学んだことを思い出す。首相として大切なことは、10日間の新聞の見出しより、10年先の最善を考えることだ。」

 マルローニ元首相は昨年、E型肝炎にかかった。それが原因で糖尿病を患い、1日に3回インシュリンを注射しなければならない。だが病気を患っているにもかかわらず、マルローニ元首相のハーパー首相への誉め殺しは止まらない。彼は首相在任中と同様、世間を騒がせる癖が直っていないらしく、黙っていることができないようだ。
「5年近い少数政権にもかかわらず、ピアソンはメディケアと新国旗を制定した。第一に、才能がなければ首相にはなれない。第二に、政治的才覚がなければ5年もの間少数政権を維持することはできない。ピアソン首相とハーパー首相は、どちらもそれらを持っていると考える。」
 だが大きなことを為すには、マルローニには過半数政権があった。ピアソンは少数政権に甘んじたが、新民主党の協力を得られた。しかしハーパーには、潜在的な連携相手がいない。ハーパー首相は先日、個人としては死刑に賛成だが、政府としてはそのような政策を採る考えはないことを明らかにした。

 ハーパー首相は就任以来、ずっと少数政権に甘んじ、野党との妥協を余儀なくされてきた。最初の2年は予算を成立させるために、分離主義のケベック連合と取引したほどである。いったい彼は首相になって、自分のやりたいことを本当にやれたのだろうか。
 彼は次の総選挙に負ければ即時引退、勝っても2・3年で勇退するだろう。次の党首が誰になるかは明らかでないが、もし次の党首がバリバリのreformer(※「改革派」ではなく「改革党員」)で、右翼アジェンダを前面に押し出すようなことになれば、保守党はオンタリオと東部のレッド・トーリーに見捨てられ、政権を失うことになるだろう。
 政権を失ったいかなる首相も、在任中は野党党首より人気があるのが普通である。政権交代は与党の失策で起こるのであって、野党に魅力があるからではない。野党は政権を奪回するためには何もする必要はなく、与党の失策を待てばいい。魅力あるマニフェストなど作る必要はないし、作っても有権者は読まないだろう。
 ハーパー首相は個性のない人物と見られてきたが、政権基盤の弱さが彼を常に抑止してきたともいえる。党内の右派(旧カナダ同盟)と左派(旧進歩保守党)の間で巧妙にバランスを取ることで分裂を回避し、自分のやりたいことはひたすら我慢して、無事是名馬を貫いてきた。
 クレチエン首相はマーチンの追い落としにあい、1年半も前に引退を発表した。だが逆に、次の党首選に出馬しないと決まれば、かえって自分の好きなようにやれた。ハーパー首相にとってのフィナーレが近づいているが、彼が最後に何を為すのかは、まだ明らかではない。
図:ハーパー首相、歴代首相のアドバイスを聞く(大爆笑ものあせあせ(飛び散る汗)
(1)マルローニ元首相
「本当に偉大な首相になるための鍵は、何か大きなことをすることだ。新しい税の導入や、憲法について。」
(※マルローニは、ミーチレイク協定にあるケベックを「独特な社会」とする条項について“All it means is dick to me”と語ったと、友人の著書「マルローニ秘密のテープ」で暴露された)
(2)マーチン前首相
「うーん、右翼デマゴーグを使えば、この国で最も偉大なリーダーになるはずの人の政治生命を早期に破壊することもできるよ。いや、待て、君はすでにそうしたじゃないか。」
(3)クレチエン元首相
「二つの言葉だ。ペッパー。スプレー。」
(※1997年にバンクーバーで開催されたAPECで、東チモールへの人権抑圧に抗議するデモ隊に警察がペッパー(催涙)スプレーを使用したことについて、質問されたクレチエンは意味がわからなかったらしく「ペッパーなら皿の上にかけるものだろう」と答えてひんしゅくを買った)
(4)キャンベル元首相
「私のところに相談に来たのは、正しい判断よ。たとえわずか4か月の首相在任とはいえ、私は並外れた洞察力をもって…そもそも、私が最初の女性首相であるという事実を…ハーバード大学ジョン・F・ケネディ校の終身教授職に…」
(5)クラーク元首相
「一千年の間働き続ける一千人の記者も、私の身にふりかかった3分の1の侮辱を書き換えることすらできずにいる。」
(※彼は66%の支持を受けながらそれを不十分として、党首選の開催を要求し敗北した)
(6)ターナー元首相
「案ずることはない、スタンフィールドさん、我々はまだ、自由貿易を打倒できる。」
(※スタンフィールドは進歩保守党元党首。ハーパー首相の名はスティーブン。完全に呆けている。ターナー元首相は米加自由貿易に反対した)
(7)ディオン元党首
「おい、僕は現に首相になったことはないのに…」
(8)トルドー元首相の墓
「今のままでいい。もし誰かが文句を言ってくるようなら、そいつらはどうするのが最善だったのかわからない、感謝の念もない糞野郎どもだ。」
●Stephen Joseph Harper(1959〜 )
 第27代首相(2006年2月6日〜2015年11月3日)

 (1) 自由党と進歩保守党に失望
 1959年トロントに生まれる。高校生のころ自由党のトルドー首相に憧れていたハーパーは、自由党青年団に所属していたが、トルドーが推進した石油利潤を各州に再分配する「国家エネルギー計画」に失望する。1978年トロント大学に入学するも、2か月で中退。アルバータのインペリアル石油に勤めた後、1985年カルガリー大学で経済学を修め、1991年カルガリー大学修士課程を修了。
 1985年進歩保守党のジム・ホークス議員の秘書となるが、マルローニ首相のケベック優遇に幻滅して離党し、1987年の改革党創設に参加する。

 (2) 改革党とカナダ同盟
 党創設大会での演説でプレストン・マニング党首に注目されたハーパーは、若干20代で政策委員長に抜擢される。1988年総選挙ではマニフェストの作成を任されたが、全員落選の憂き目に遭う。ハーパーもカルガリー・ウェスト選挙区で、かつて仕えたホークスに挑んだが落選した。
 1993年総選挙で、ホークスを破り初当選を果たす。だが改革党は西部のための党にすぎず、大票田の中部では全く受け容れられなかった。また改革党が極右に傾いていくことに、ハーパーは危機感を抱いた。そして彼自身は同性婚に反対であるにもかかわらず、政治は良心の問題に立ち入るべきでないと主張し、党が同性婚廃止の政策を掲げることに反対した。1995年には進歩保守党の一派が、シャレー党首とマニング党首を追放してハーパーの下で新党を結成しようと謀る事件が起きた。ハーパーはやがてマニング党首と対立するようになり、1997年議員を辞職、2000年総選挙にも出馬せず、国政の第一線から身を引いた。
 2002年3月、新しく結成されたカナダ同盟の党首選に出馬して勝利すると、同年6月の補選で当選し国政に復帰を果たす。2003年12月には、老舗の進歩保守党との保守合同を実現してカナダ保守党を結成し、党首に選出された。
 ハーパー党首は新党の綱領に、同性婚・妊娠中絶・フランス語公用語化反対を盛り込むことを阻止した。悲願の政権交代を実現するには、議席の多い中部進出が不可欠だった。そしてオンタリオにはレッド・トーリーの支持者が多いことから、新党は極右から穏健な中道右派へ路線転換しなければならなかったからである。

 (3) 2004年総選挙:手痛い失敗
 ポール・マーチン首相は、スポンサーシップ事件の発覚に頭を抱えていた。そこで首相は、新しく旗揚げしたカナダ保守党に十分な時間を与えないよう、早期解散・総選挙に打って出た。
 マーチン首相は党首討論でも歯切れが悪く、またオンタリオの自由党政権の不評も相まって、世論調査ではしばしば保守党がトップに立つことがあった。だが自由党は、カナダ保守党には隠しマニフェストがあり、かつての改革党のように女性・同性愛者・少数民族を差別するだろうと、テレビCMで執拗に攻撃した。党首としての経験が浅いハーパーは、これに熱くなり、しばしば感情的に反応した。
 ハーパーはこの選挙で、かつて改革党・カナダ同盟が見捨てていたケベック州において精力的に運動した。党首に就いてからフランス語の特訓を受け、CMでもフランス語で話した。
 カナダ保守党にとって最初の総選挙は、政権奪取はならなかったものの、99議席を獲得し、与党自由党を過半数割れに追い込んだ。注目すべきはオンタリオで、自由党が100議席獲得していた金城湯池であったが、保守党はなんとか24議席を獲得し食い込むことに成功した。しかしケベックでは、1議席も獲得できなかった(進歩保守党がケベックで議席を獲得できなかった例はない)。ハーパーは悩んだすえ、党首に留まることを決めた。党員たちは、旗揚げしてわずかな期間に彼が新党をまとめあげ、最初の選挙を躍進に導いたと評価したのである。

 (4) 野党解散要請事件
 総選挙の2か月後、ハーパー党首はモントリオールのホテルで、ケベック連合のジル・デュセップ党首と新民主党のジャック・レイトン党首と会談した。そして3人は9月9日、エイドリアン・クラークソン総督に、以下の書簡を送った。
「我々は、下院において多数派を占める野党3党が、合意に近づいたことを謹んで報告する。我々は、解散が要請されるべきだと確信する。閣下は憲法上の権限を行使するに当たり、野党党首に諮り、全ての選択肢について検討すべきである。」
 3人はその日共同記者会見を行い、議会のルールを変えることと、総督が総選挙を公示する前に自分たちと相談することを要求する意図であると発表した。ハーパー党首は「国家を動かすのは議会であって、最大与党でもなければ、その党首でもない」と語った。また3人は、これは連立政権樹立を意味するものではないと説明した。
 ところが、後に保守党議員となるマイク・ダフィーが10月4日、「総選挙を行うことなく首相を変えることは可能である」と語った。この発言は、保守党が総選挙なしに政権を奪取しようと企図していることを示唆した。するとその翌日レイトン党首は、ハーパー党首はケベック連合と組んで、マーチン首相を選挙の洗礼なくして政権から引きずり降ろし、彼自身が取って代わろうと企だてていると語り、三党合意からの離脱を宣言した。だが保守党とケベック連合は、レイトン党首の非難には根拠がないと一蹴した。
 デュセップ党首は2011年政治危機のさなか、自由党が新民主党・ケベック連合と野合し選挙の洗礼なしに政権を簒奪しようとしているというハーパー首相の非難に対し、ハーパー自身もかつて野党と談合し選挙の洗礼なしに政権を奪取しようとしたではないかと暴露した。

 (5) 2006年連邦議会選挙:総理就任
 スポンサーシップ事件に関するゴメリー委員会の報告書は、当時の自由党政権に責任があるとする内容だった。これを境に自由党の支持率は低下したため、これを好機と見たハーパー党首は2005年11月24日、内閣不信任案を提出した。すると新民主党は、自党が提案した健康保険民営化を阻止する法案を自由党に拒否されたため、閣外協力の取り止めを発表した。内閣不信任案は171対133で可決されたが、これはカナダの憲政史上初めてのことだった。マーチン首相は下院を解散し、2006年1月23日の総選挙が公示された。
 自由党はまたしても、保守党の隠しマニフェストを批判した。だがハーパー党首は前回の失敗に懲り、感情的にならず、減税や犯罪厳罰化を粛々と訴え、選挙戦の緒戦をリードした。
 保守党政権になれば戒厳令が敷かれるという、自由党による(ややナンセンスとも言える)ネガティブCMは、軍の抗議により放送中止となった。自由党はマーチン首相派がクレチエン前首相派を冷遇したため、党内に大きな亀裂が走り、士気は上がらなかった。そこへラルフ・グッデイル財務大臣のインサイダー取引疑惑が発覚し、自由党は長期政権に驕っているという印象を与えた。
 選挙結果は、過半数は逃したものの、保守党は124議席を獲得し、以下自由党103議席、ケベック連合51議席、新民主党29議席、無所属1議席(定数308)となり、ハーパーはついに悲願の政権交代を果たしたのだった。
 2006年2月6日、ハーパーは首相として宣誓した。
「カナダとイギリスは、チューダー朝、プランタジネット朝、マグナ・カルタ、人身保護法、権利の請願とイングランドの慣習法の偉大な時代に連なる王冠の黄金の環によって結びついている。」
 ハーパーのこのスピーチについて、グレアム・フレーザーは「ディーフェンベーカー以降のカナダの首相で、最も王室に忠誠を誓った宣誓である」と評した。





 (6) 2008年連邦議会選挙:再び少数政権
 保守党は政権を奪取したものの、過半数割れであった。歴代政権の法案成立率はおおむね90%程度だが、ハーパー政権は過半数割れなのでわずか48%であった。どのような法案も野党の協力なしには可決できなかったし、初めの2度の予算案は、ケベックに予算を割くことを条件にケベック連合の同意を取り付け、可決させている。だが保守党は単独では法案を可決できなかったが、野党3党いずれか一つの協力を得れば可決できたので、最も魅力的な案を提示する党とパーシャル連立を組んで乗り切ってきた。いっぽう自由党は、法案を否決させるためには野党3党すべての連携が必要だった。
 ハーパー首相は2008年9月、過半数獲得を期して解散・総選挙に打って出た。だが選挙期間中にリーマン・ショックが起こり、与党の経済政策への逆風となる。保守党はオンタリオで躍進できず、ケベックで上積みできず、ニューファンドランド&ラブラドル州では進歩保守党政権に造反され全ての議席を失い、議席を143に増やしたものの、過半数には及ばなかった。保守党の得票率22%はカナダの歴史上、与党最低の得票率であった。

 (7) 2008年政治危機
 2008年総選挙で敗北した自由党では、ディオン党首が辞意を表明した。ところがハーパー首相は翌年度予算案に、政党助成金廃止を盛り込んだ。これは、野党3党を決定的に追い詰める結果となった。野党3党は政党助成金を死守するため、ハーパー内閣を不信任し、3党連立政権を樹立すると発表した。ハーパーは、ディオン党首が辞意表明したため、たとえ彼らが政権を倒しても首相候補はいないだろうと、高をくくっていたのだった。
 ヨーロッパ諸国を歴訪していたジャン総督に、野党3党は連立政権協定に合意したという手紙を送った。するとハーパー首相も手紙を送り、野党党首と会ってはならないという手紙を送った。ただならぬ事態を見たジャン総督は、予定を切り上げて急遽帰国し、その翌日総督公邸でハーパー首相と会談した。
 首相は、連邦議会の停会を要請した。国事行為に関する首相の総督への「助言」は、形式的なもので長時間にはならないのが通例だが、この会談は異例の2時間にも及び、総督はついに議会の停会に同意した。このとき二人にどのようなやり取りがあったのかは公表されていないが、誰もが停会などできないと予想していたとき、ハーパー首相は側近に、総督は必ず停会に同意すると語っていた。いっぽうジャン総督の側近は、総督は首相に脅迫され狼狽していたと漏らしている。
 議会の停会により内閣不信任が不可能となると、自由党内ではディオン党首に即時の辞任を求める声が高まり、彼は12月、首相に指名されるはずだった日に辞任した。連立反対の右派は巻き返しを図り、右派のイグナティエフが新しい党首に就いたことで、連立協定は反故にされた。
 停会は2009年1月26日まで続いたが、ハーパー首相はこの年12月30日にも、バンクーバー・オリンピックを理由に3月3日まで連邦議会を停会し、1年に2度の停会を実施した。だが国民の多くは、アフガニスタンに抑留されたカナダ兵に関する審議を封じるのが真の理由だと疑った。アンガス・リード社の世論調査は、カナダ人の53%が停会に反対だとする結果を示した。

 (8) 上院改革
 ハーパー首相は2004年、「上院は、首相のお気に入りの仲間たちのためのゴミ捨て場のままである」と語った。カナダ保守党は、その前身の改革党・カナダ同盟時代から、選挙のない上院に反対してきた。彼は2008年12月まで、上院の欠員を指名・補充しようとはしなかった。マイケル・フォルティエ氏は唯一の例外で、ハーパー首相の腹心だった彼には、上院議席のほかに公共安全大臣ポストも与えられたが、それは明らかに公約違反だった。これについてハーパー首相は「保守党はモントリオールで議席を得るのが困難だった」、フォルティエ氏自身は「選挙に出馬したくなかった」と弁解した。
 フォルティエ氏は閣僚でありながら、下院に出席しなかったので、彼に代わって政務次官が答弁した。2008年、彼は上院議員を辞職し、下院選挙に出馬したが、落選した。
 ハーパー首相は2008年12月、突如上院の18人の欠員について議員を指名した。2009年8月には9人、2010年1月には5人を指名し、ついに上院で第一党となった。指名された人々の多くは、保守党の大口献金者などだった。自由党は、ハーパー首相を“Harpocrisy”(偽善はhypocrisy)と非難した。
 ハーパー首相は結局、上院改革については何もできず、歴代首相と同じことをしただけに終わった。
 (9) 2011年連邦議会選挙:ついに過半数に
 KAIROSへの資金援助に関する同意書を改竄した問題について、オダ国際協力大臣は2010年12月「誰がやったのかわからない」と答弁したが、翌年2月にこれを翻した。これは憲政史上初めて、現職閣僚が「議会侮辱」に問われるという結果を招いた。下院で過半数を占める野党3党は内閣不信任案を156対145で可決させ、総選挙をひき起こした。
 保守党はケベックでわずか5議席しか獲得できなかったものの、オンタリオで73議席を獲得して第一党となり、全国では166議席と、ハーパーは3度目の正直でようやく過半数を手に入れた。保守党の連続3選は、50年ぶりであった。

 (10) 2015年連邦議会選挙:下野
 2014年4月、ハーパー政権を支えてきたフラハティ財務大臣が死去したニュースは、不吉な前兆だった。それと前後してジム・プレンティス氏、ジェイソン・ケニー氏、ピーター・マッケイ氏ら重要閣僚が次々に政界引退を発表し、ハーパー首相との不仲を思わせた。
 2015年5月、保守党のお膝元アルバータ州の総選挙で、進歩保守党が44年の一党支配を終え、新民主党による初の革新政権を誕生させたことも、ハーパー政権に暗い影を落とした。
 8月に解散・総選挙が公示されると、いち早くトップに立ったのは新民主党だった。保守党はマイク・ダフィー上院議員の裁判が重なり、上昇気流に乗れなかった。国民は何より、変化を望んでいた。ハーパー政権は財政均衡を重んじたが、カナダ銀行が景気刺激のために利下げをするなかで緊縮財政に努めることは、意味をなさなかった。新民主党も、政権奪取を意識したのか均衡財政を主張したが、トルドー党首の訴える少々の財政赤字を3年続けるプランの方が、有権者に評価された。保守党はニカブ問題で新民主党を攻撃し、トルドー党首を「素敵な髪」と揶揄する批判広告を打ったが、中傷合戦から身を引いた自由党が支持率を上げていった。結果は99議席と、10年ぶりの2ケタ議席に留まった。ハーパー首相は党首を辞任した。

 (11) 異色の経歴
 カナダ首相は圧倒的に弁護士出身が多いが、ハーパーはロースクールを卒業していない。またカトリックが多いなか、ハーパーは福音派クリスチャンである。大学を中退していること、自由党・進歩保守党・改革党いずれも主流になれなかったことなど、ハーパーの経歴はエリートにはほど遠い。
 だが彼の独特の経歴とバランス感覚は、右翼のカナダ同盟と中道右派の進歩保守党が合同したカナダ保守党の指導者として、重要な資質となっている。彼自身は妊娠中絶・同性婚・死刑廃止に反対だが、それを政治日程に乗せることはしないと公言している。2006年12月、同性婚廃止が連邦議会で否決されると、彼は「将来この問題を蒸し返すことはしない」と約束した。また2006年11月、ケベック連合提出の「ケベック人は国を構成する」動議についても、他党に反対させるための謀略と見抜き、「ケベック人はカナダの中で国を構成する」という修正動議を提出し、ケベック連合を逆に反対に回らせた。
 人権問題には独特の対応を見せる。中国系移民への人頭税について2006年6月に謝罪し、誤った情報を提供したためシリア系カナダ人がシリアで投獄された事件についても2007年1月に謝罪、カナダ国籍のウィグル人活動家が中国で拘束され2007年4月に起訴された件では中国に抗議している。2007年11月には日本の慰安婦非難決議に同調し、2008年6月には先住民への同化政策について謝罪、2008年8月には北京オリンピックボイコットは拒否したものの、開会式への出席を見合わせた。
 環境問題については、産油州アルバータを基盤としていることから、2011年京都議定書から脱退した。
 アンガス・リード社が10月30日に発表した世論調査は、10年近く続いたハーパー政権の業績について、カナダ人は高くも低くもない評価を下していることを示した。
 ハーパー首相の業績は「平均的だ」と回答した人は29%、「平均以上」と回答した人は18%、「傑出したリーダーだ」と回答した人は5%だった。
 ハーパー首相の地元アルバータ州では、被験者の40%が「平均以上」または「傑出している」と回答したが、「平均以下」と回答した人は18%、「劣っている」と回答した人は25%もいた。
 保守党支持者では、「傑出している」と回答した人はわずか16%、「平均」あるいは「平均以上」と回答した人は76%だった。
 被験者はまた、ハーパー政権の業績のリストを提示され、そのうち最大の成果と失敗を2つずつ選ぶよう依頼された。最大の成果として、およそ4分の1が2006・2007・2008・2015年度の均衡予算を挙げた。GST(連邦消費税)を7%から5%に減税したことを挙げた人は、36%だった。ところが2番目に多かった選択肢は、「これらのどれでもない」で24%だった。
 最も悪い業績としては、多い順に27%が京都議定書脱退、26%が科学者が研究について発言することを制限するいわゆる「科学者への口封じ」、20%がテロに加担した二重国籍者の市民権剥奪を含むC-51法案を挙げた。
 スティーブン・ハーパー前首相が近いうち議員を辞職し、政界から引退すると、ハフィントン・ポストが8月22日に報じた。
 2015年の総選挙で敗北した彼は、党首を辞任し一介の平議員となった。彼はそれ以来、連邦議会に思い出したように登院したかと思うと、また登院しなくなったりを繰り返してきた。彼は今の連邦議会で99回投票したが、議会では一度も発言せず、委員会でも一度も発言せず、一つの法案をも支援していない。それでも17万400ドルの給与を受け続けている。
 カナダ納税者連盟のアーロン・ウドリック理事は、ハーパー首相が行った年金改革によって、彼自身の議員年金が180万から220万ドル削減された事実を指摘し、賞賛した。
「何百万ドルもあきらめる政治家を私は知らないが、彼はそうした。それで我々は、その点において彼に大きな拍手を送ることができる。」
 スティーブン・ハーパー前首相は8月26日、下院議員を辞職し、引退した。戦後では珍しい連続3選を成し遂げたが、最初の2期は過半数に満たない少数政権だった。長続きしないだろうと思われていた彼の政権は9年271日に及び、歴代6位の長さで、マクドナルド以降の保守党政権では最長となった。
 ハーパー政権で国防大臣などを歴任したジェイソン・ケニー氏は、ハーパー前首相を称えた。
「19世紀のジョン・A・マクドナルド卿以来最も長く続いた保守党政権を築くため、彼は人格と大きな知恵と休むことなき仕事ぶりをもって保守勢力を再編した。」
 同じくハーパー政権で厚生大臣などを歴任したロナ・アンブローズ暫定党首も、特に保健政策について評価した。
「保育手当の創設は何十万もの子供たちを貧困から救い、母体・新生児・小児保健イニシアティブは世界の何百万もの母親と赤ちゃんの命を救った。」
 だが保育手当を廃止した自由党政権のマルク・ガルノー運輸大臣は、異なる見解を述べた。
「我々は、ハーパー首相の事績の全てに同意するわけではない。我々自由党は、我々の価値に沿うよういくつかのことは変えていく。だが彼が行った適切な措置は、適切なまま残ることになる。」

 コメディアンのマーク・クリッチ氏は同日、ハーパー前首相引退の報に接し、SNSサイト「インスタグラム」に自身の写真を掲載した。それは、彼がハーパー首相のクローゼットに入っている姿で、キャプションとして「スティーブン・ハーパーは辞職した。私は今彼のクローゼットにいる」と書かれていた。
 2014年10月22日に起きた連邦議会銃乱射事件のとき、ハーパー首相はいったんクローゼットに隠れ、その後別の場所に避難したと言われている。連邦警察(RCMP)は後に、首相は以前に受けた避難訓練のとおりに行動したと語った。
 だがこれに対し、保守党のミシェル・レンペル議員はツイッターで怒りをあらわにした。
「本当に、あなたのこの投稿に対する不快感を表現する言葉が見当たらない。」
「あなたは、銃声が自分に近づいて来るのを聞いたことはないのでしょうね。」
「あなたは、自分の仲間が生きているのか死んでいるのか不安に思ったことはないのでしょうね。」
「あなたは、誰かが死んで自分が生き残ったことを申し訳なく思ったことなどないのでしょうね。」
「あなたが掲載したものは、風刺でもなければコメディでもない。」
「こんなものは、胸糞悪い(fucking)困惑でしかない。」
「私を怒らせてくれてありがとう、このクソ野郎(you asshole)。」
 レンペル議員は後に、不適切な言葉を用いたことについて謝罪した。クリッチ氏は、次のように述べた。
「ミシェルと私は、いい会話をしたと思っている。彼女は激昂したことについて謝罪し、私も写真を削除した。もうどちらも、互いを悪く思っていないよ。」
●副島隆彦(そえじまたかひこ)の学問道場
http://www.snsi.jp/tops/kouhou/1802
内容が支離滅裂で、どこから突っ込んでいいのかわかりません。

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>ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング「カナダの吉田茂」

何を理由に言っているのかわかりません。

>ピエール・トルドー「カナダの田中角栄」

そう書くと、金権政治家だと思われるのではないでしょうか。

>ジョー・クラーク「カナダの中曽根康弘 チップマンク・オブ・レーガン 悪い奴」

何を理由に言っているのかわかりません。

>ブライアン・マルルーニー「いい奴」

尊大な人です。

>スティーヴン・ハーパー「カナダの安倍晋三」

保守政治を転換させた、という意味ではそうですが、意味不明です。

>1867年にイギリス政府と交渉して独立を達成した

「独立」ではなく自治政府の発祥。イギリス政府と「交渉」とは何のことでしょうか。

>アルバータ州ですが、ここはカナダの西側の大きな州で、もう非常に寒いところで、行ったことはないけど、大雪原の荒涼たる地帯です

冬は寒いですが、年中寒いわけではないし、「大雪原」ってヌナブートじゃあるまいし。小麦の産地ですが。

>ハーパーは実際、ビル・ゲイツの子分で、ビル・ゲイツからお金ももらっている

妄想です。

>カナダ自由党にカナダ労働党がもうかなり昔に吸収されていった

そんな事実はありません。マニトバ自由党がマニトバ進歩党を吸収したことならありますが。新民主党と勘違いしていないでしょうか。

>ポール・マーティンは、2003年から2006年まで3年間やっていますが、ケベック州と書いています

選挙区はケベック州ですが、生まれはオンタリオです。名前でわかる通りアイルランド系で、父も政治家ですがオンタリオ生まれです。父の母がフランス系でした。

>そんなにアメリカに逆らっている感じでもなくて

結構逆らってましたが。イラク戦争に参戦しませんでした。

>マルルーニーというのがいて、この人はたしか反サッチャー主義です
>どうもこのときは反イギリス、反レーガンみたいな感じで

この時代は小さな政府が流行していて、マルローニは公社の多くを民営化しました。レーガン大統領とはアイルランド系どうしでウマが合ったようで、歴代首相の誰よりも親米政策を採りました。何もわかってないですね。

>スティーヴン・ハーパーは、今のマルルーニーを嫌っていました。マルルーニーが育てたわけじゃないんです。ですから、保守党内部の右派と左派というか、「民族派」と「アメリカの手先派」に分かれている感じです

マルローニがケベックを贔屓して、保守党の本拠地である西部を軽視していることをハーパーは批判しました。嫌っていたのではないと思います。どちらも右派で、どちらも親米です。

>トルドーが出現する前は、カナダはもう何というか、チャーチルの言いなりになっていた、と言うべきでしょう。イギリスの言いなりなんです。やっぱりイギリスの植民地ですから。戦前も戦後も、チャーチルがカナダ政治を動かしたと言っていい

そんなことはないです。

>もう一つ、ソーシャル・クレジットという派閥があった。それは非常に独特な集団です。ソーシャリスト、すなわち社会主義者というほど左翼じゃない

ソーシャル・クレジットは普通に保守で、労働運動や社会主義とは関係ありません。
 ジャン・クレチエン元首相夫人のアリーヌ・クレチエンさんが9月12日、死去した。享年84歳。
 二人は、ジャン氏が17歳、アリーヌさんが15歳のとき知り合った。彼女は家計を助けるため16歳で高校を中退して働き、彼は工場で働きながら大学に通った。それでもアリーヌさんは、ジャン氏が将来首相になる人だとわかっていたという。なおジャン氏は、政界に入るまで英語を話せなかった。学業を中退したアリーヌさんは、いつか外国に行き外国語を学びたいと考えており、夫の政界での成功によりそれはかなえられたが、夫の出世とは対照的に、自分は表舞台に出ようとはしなかった。


写真:2000年の連邦議会選挙。
 ジャスティン・トルドー首相は8月2日、18年連れ添ったソフィ・グレゴワール=トルドーー夫人と別居すると、インスタグラムで公表した。首相府も同日、2人が法的な別離合意書に署名したと発表した。
 ジャスティン・トルドー首相は1971年、ピエール・トルドー首相(当時)の長男として生まれた。ソフィ・グレゴワール=トルドーー夫人は、1975年に生まれた。トルドー首相の弟ミシェルの同級生で、二人は幼馴染である。タレントになった彼女は2003年、チャリティショーでジャスティン氏と再会し、2005年に結婚、二男一女をもうけた。

 父のピエール・トルドー元首相は1971年、カナダの現職首相として唯一結婚した人物となった。だがいっぽうでは女優バーブラ・ストライザンドを公共の場に同伴し、オンタリオ州首相ボブ・レイの姉妹ジェニファー、リオナ・ボイド(ギタリスト)、マーゴット・キッダー(女優:スーパーマンの恋人役で有名)、キム・キャトラル(女優)、デボラ・コイン(憲法学者)とも交際するなど浮気癖が直らず、マーガレット夫人は精神科に入院したこともある。その夫人もエドワード・ケネディ上院議員やローリング・ストーンズのロン・ウッドと関係し、1977年に別居を公表、1984年には離婚した。ピエール・トルドー首相は現職首相として唯一離婚した人物だが、ジャスティン・トルドー首相もいずれそうなるだろう。
 キム・キャンベル元首相は、1993年に首相に就任したとき離婚歴があった。首相在任中は事実婚していたが、パートナーを政治に巻き込まないため隠していた。

 ジャスティン・トルドー首相は父と異なり、女性関係のスキャンダルがない。2016年議会で、背後にルース・エレン・ブロソー議員がいることを知らず肘で胸を突き(エルボーゲート事件)、謝罪した。2018年には、教師時代の2000年、ミュージック・フェスティバルで女性レポーターに猥褻な行為をしたと報じられ、謝罪した。
https://news.yahoo.co.jp/articles/42d93e161906a5d06327ecac485bf85f0c8cc07a?page=2
>カナダの首相官邸、すなわちサセックス24番地のリドー・ホールに引っ越したとき

とても詳しい記事ですが、リドー・ホールは総督公邸。住所はサセックス・ドライブ1番地。
 ジャスティン・トルドー首相の妻で別居中のソフィ・グレゴワール=トルドー夫人が不倫していたと、ナショナル・ポスト紙が10月25日に報じた。
 アナ・レモンダ氏は、オタワの医師マルコス・ベットリ氏に対し2023年4月に提訴した離婚訴訟において、夫が「主要なメディアの注目をひく著名人と関係し、相当のセキュリティ問題をひき起こした」と主張した。その人物の名は法廷文書に記されていないが、同紙はそれがグレゴワール夫人だと確認したという。
 レモンダ氏は、元夫のプライバシーには関心はないが、この問題によって子供たちのプライバシーが侵害されるのを懸念している。いっぽうマルコス氏は、妻が彼のパソコンを無断で使用し「親密な写真」を入手して、それを公表すると脅迫したと主張した。

 連邦警察(RCMP)は、退任した首相にも要望があれば警護をつけている。クレチエン元首相は退任後も警護されたが、ターナー元首相は地下鉄に乗って弁護士事務所に通ったため、警護を断った。グレゴワール夫人は2017年、インターネット上でアルバータ州の女性から脅迫を受けているが、法廷文書に記載されたベットリ氏の家の前には、なぜか覆面パトカーに乗った私服警官がいるという。

 グレゴワール夫人は2020年3月には、イギリスの俳優イドリス・エルバ氏と同じイベントに出席し、その後二人とも新型コロナに感染したと同じ日に発表したため、ベッドで同衾したと噂された。

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