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カナダの歴史と政治コミュのベルニエ外相、女性問題で辞任

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 5月26日、「マッド・マックス」の異名を取ったマクシム・ベルニエ外務大臣兼フランコフォニー担当大臣が辞任した。2006年2月のハーパー政権発足以来、不祥事で閣僚が辞任するのは初めてのことになる。

 2007年8月の閣僚任命式に、ロー・カットで胸の谷間を露出した元モデルの恋人を同伴したのが、事の始まりだった。だがこのジュリー・クイヤールさん(38)は、知る人ぞ知るケベックの暴走族「ヘルズ・エンジェルズ」の顔役であった。かつては幹部ジル・ジゲールの恋人だったことがあり、1997年には暴走族「ロッカーズ」メンバーのステファン・シロワと結婚している。ジゲールは銃砲類不法所持・麻薬類不法所持容疑で逮捕されたが、1996年ギャングの抗争で射殺され、死体がハイウエーの側溝に捨てられていた。敵対ギャングからの情報では、クイヤールさん自身も殺害する対象に挙げられていたという。
 シロワと離婚し、現在は不動産業を営んでいる彼女がどういう経緯でベルニエ外相と知り合ったのかについては明らかになっていないが、任命式の2週間後にはベルニエ外相は、クイヤールさんを「配偶者」として、公費で外交に連れて行くことができる同伴者として登録申請している。現に昨年の中東諸国公式訪問や国連総会には、ベルニエ外相はクイヤールさんを同行している。なお二人はその後別れ、現在は交際していないという。

 自由党のディオン党首とケベック連合のデュセップ党首は、「暴走族と密接な関係にあった女性と現職外相が交際するのは、国家の安全・機密保持の観点から問題ではないか」と下院で詰め寄った。だがハーパー首相は「プライベートな部分は政治とは関係ない」、またバン・ローン保守党幹事長はトルドー元首相の「個人のベッドルームで起きていることに国家は干渉できない」という発言を引用して、外相をかばう姿勢を見せていた。
 ところが26日、ベルニエ外相はクイヤールさんのアパートにNATOサミットの機密文書を置いていたと認め、大臣を辞任した。クイヤールさんの弁護士は、文書は先週末外務省に返還したとコメントした。

 ベルニエ外相はこのところトラブルの連続で、保守党筋によると、夏には更迭される見込みだったという。3月には、カナダ外務省がアメリカ民主党予備選に介入した「オバマ・リーク疑惑」が報道された(http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29044021&comm_id=1611536 参照)。4月にアフガニスタンを公式訪問したときは、「カンダハル州知事は腐敗しているのでやめさせろ」と言って内政干渉と非難された。5月には、台風の被害に遭ったミャンマーへC-17輸送機を送ると約束したが、このとき4機のうち使用できるものは1機もなく、飛行機を100万ドルでレンタルして送る羽目になった。最近では、外相が昨年11月にラオスでの2日間の会議に出席するため、2万2000ドル以上も航空運賃を支払っていたことが明るみに出た。
 このころ外相は首相筋から、あと一つでも問題を起こしたら辞めてもらうという警告を受けたという。

 後任の外務大臣にはデビッド・エマソン貿易大臣、フランコフォニー担当大臣にはジョゼ・ベルネ文化遺産及び女性問題担当大臣兼公用語担当大臣が就任した。


写真:閣僚任命式に臨むマクシム・ベルニエ外相(右)とジュリー・クイヤールさん(左)。

コメント(8)

カナダのイメージ

昔:山々の谷間に輝くモレーン湖
今:ジュリー・クイヤールの谷間
 保守党は今ハリファックスで党大会を開催しているが、マクシム・ベルニエ議員(元外務大臣)は8月23日、離党して新党を結成すると発表した。
「私はこの1年、この党はあまりに堕落しており、知的にまた道徳的に改善は不可能だと悟った。」
「実際のところ、議員たちの多くが供給管理システムに反対していることを私は知っている。だが国民の利益を守るより、選挙区で票を買うことの方が重要なのだ。」
「党はその基軸となるべき保守的な原則を放棄し、票のために有権者と利益団体に膝を屈した。」
 「ケベックから来たアルバータ人」と呼ばれた彼は、酪農が盛んなケベック出身であるにもかかわらず、酪農供給管理システムの撤廃を主張する。彼はまた、自由党政権がアメリカに報復関税を課し、シーア党首がこれを支持したことを批判した。
「私は貿易戦争に反対し、カナダの消費者のために働く唯一の議員である。」
 彼は9日前にシーア党首と会談し、離党を決意したと明かした。
 彼の地元ケベック州ボース選挙区の保守党支部は、1人を除く役員全員が同日に辞任した。うち一人は彼の父で、進歩保守党議員だったジル・ベルニエ氏である。彼らは新党に移籍するという。シャルル・ラフラム支部長は「我々は、党のためというよりマキシムのためにそこにいた」と語った。

 シーア党首は、ハリファックスでインタビューに応じた。
「マキシムは今日、決断した。彼は今日、ジャスティン・トルドー氏を助けることに決めた。」
「私は常に、彼に個人的野心は脇に置いて、全ての保守派が終結できる共通項に集中するよう要求してきた。だが彼は一度も、彼が訴えている問題について、私や私のスタッフのところに言いに来なかった。」
 ハーパー前首相は、ツイッターでこう述べた。
「マックスが党首選の結果を受け容れず、保守党を分断しようとしていることは明らかだ。彼の今日の決定は、カナダ保守党が党首のもとに団結し、前進するのを助ける。」
 トッド・ドハーティ議員は、ベルニエ議員を厳しく非難した。
「あなたには、幹部会で意見を述べる機会はいくらでもあった。機会があったとき、あなたは黙っていたか、周りの人々を非難した。あなたは、ツイッターでは威勢のいいことを言う。吠えてばかりで、噛みつくことはない。恥を知れ。」

 ベルニエ議員は2017年5月、党首選で圧倒的な本命に推されていたにもかかわらず、若く閣僚経験もないシーア氏に僅差で敗れた。それは、供給管理システムの緩和ではなく即時撤廃、政府の健康保険からの撤退など、あまりに急進的な主張が敬遠され、脱落した候補たちが次善の選択としてシーア氏を支持したからにほかならない。だが彼は、その結果を受け容れられなかったようだ。彼は本を出版するつもりで、その内容の一部を2018年4月にウェブ上で公開した。そこには、供給管理システムを維持する目的で、党首選に投票するためだけに入党した「偽の保守派」に担がれてシーアが勝ったと書かれていた。カナダの政党は、入党するのに資格は問わないし、党首選前に入党者が増えるのはよくあることである。ベルニエ議員の発言は、党員と党首を侮辱するものであった。
 かなり多くの議員たちが憤り、彼の除名を訴えたが、シーア党首は彼を影の内閣から外したものの、除名はしなかった。保守党の弱いケベックで確実に勝てる貴重な人物であることと、党は多様な意見を尊重し、内部抗争していないというイメージを守りたかったからだった。
 こうして辛くも除名を免れた彼は、8月15日に新たな舌禍事件をひき起こす。
「カナダは、自由党の極端な多文化主義の下にある。我が国の創設者の像が一つの街で撤去されるとき、M-103号動議の提案者である自由党議員が出席する中、一つの公園の名がパキスタン創設者の名に最近改められた。パキスタンのインドからの独立は、100万人の死につながった。」
 なお「我が国の創設者」とはジョン・マクドナルド初代首相のことで、「M-103号動議の提案者」とはパキスタン系のイクラ・カリッド議員のこと、「パキスタン創設者」とはムハンマド・アリー・ジンナー初代総督のことで、彼の名を冠した公園はウィニペグにあるものである。
 この発言もまた、多くの人々の反発を買った。タンザニア系のディーパク・オブレイ議員は、彼の発言から距離を置いた。
「ベルニエ氏はただ、自分が言いたいことを言っただけだ。それは、彼の意見だ。」
 党首選で彼を支持したトニー・クレメント議員は、今の彼は自分がかつて支持した人とは別人だと述べた。
「マックスはいずれ、自分が天に向かって腹を立てていることに気づくだろう。」
 シーア党首はこのときも除名を拒否したが、彼の発言を冷たく突き放した。
「マクシム・ベルニエ氏は党内で公的な役職に就いてなく、いかなる問題についてもカナダ保守党の意見を代弁するものではない。個人的には、右だろうと左だろうと、国民を分断するアイデンティティ・ポリティックを使う政治家には、同意しない。私は、この種の政治に関わることはない。」
「保守党はカナダの多様性を祝福する。そして保守党政権は、この国に来ることを選ぶ世界中の人々を歓迎し続ける。我々が建設した社会なのだから。」
 ジェームズ・ベザン議員は、謝罪を要求した。
「マックスはお粗末な判断を下し続けて、議員たちと絶えず争っている。」
 ベルニエ議員が「移民を制限すべきだ」と発言したことも、移民問題担当のミシェル・レンペル議員に何の相談もなかった。前日の22日には、ついに彼女から「アンドリュー・シーアとジャスティン・トルドーの、どちらに勝ってほしいのか決めるべきだ」という最後通牒を送られた。

 ベルニエ議員の離党と新党結成は、入念に練られたものではなく、党内で多くのもめごとを起こし居場所を失ったすえのことのようだ。彼は離党しても自分の選挙区で当選はできるだろうが、「338の全選挙区に候補を立てる」と言うその候補は誰一人として擁立できていない。党のマニフェストも発表されてなく、保守党との違いを訴えることも難しい。おそらくは、経済的には自由放任主義のリバタリアンで、社会的には移民制限・伝統主義を訴えるのだろう。彼はリバタリアン党から入党するよう誘われたが、断っている。
 ベルニエ議員について印象深いのは、暴力団関係者の女性と交際し、その自宅に機密文書を置き忘れて外務大臣を辞任したことである。カナダ人の多くはまだ、彼の軽率なイメージを忘れてはいない。
供給管理システムについては以下を参照。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1611536&page=1&id=66263101
 多くのカナダ人が、保守分裂を覚えている。進歩保守党があまりにケベックを優遇し中西部をないがしろにしたという理由で、改革党が1987年に結成された。また進歩保守党がミーチレイク協定をまとめられなかったという理由で、ルシエン・ブシャールが離党し1990年ケベック連合を結成した。前者は進歩保守党の中西部の地盤を奪い、後者はケベックの地盤を奪った。換言すれば、両者は本拠地以外での議席獲得は困難だったが、特定地域で票を集中的に獲得できたため、1993年総選挙でどちらも50議席以上獲得できた。
 マクシム・ベルニエ元外務大臣が保守党を離党し、新党結成に動くというニュースは、関係者に多少の衝撃を与えた。彼は338の全選挙区に候補を立てるというが、資金や組織力はあるのだろうか。ストックウェル・デイ元国際貿易大臣は、ベルニエ氏に追随して離党する人はほとんどいないと予測したにもかかわらず、その影響力を懸念した。
「問題は、自由党政権を維持するのに半分(の離党者)は必要ではないことだ。多くの選挙区で、わずか2・3%獲ればいいだけだ。ジャスティン・トルドーは得票率約39%で、2015年総選挙で過半数を獲った。」
「保守党は、支持率も高く、基金調達も好調で、私はこの党大会が党の歴史上最も多い参加者だったと思っている。だが票を割るなら、トルドー氏の立場は強固なものになるだろう。」

 2017年党首選でベルニエ氏は巨額の資金を集め、49%もの票を獲得した。自分の地盤であるケベックからも、党の根拠地であるアルバータからも票を集め、リバタリアン的経済政策を掲げたが、レッドトーリー(保守党左派)からも票を集めた。彼は幅広い支持を集めているようだが、特定地域で集中的に支持されているわけではないので、票を分散させるリスクがある。緑の党は全国で、2004年に得票率4.3%、2006年に4.5%、2008年に6.8%、2011年に3.9%獲得したが、票の分散のため1議席も獲れなかった。
 最近の政党支持率調査では、与党自由党と保守党は拮抗しているものの、今総選挙が実施されたら自由党が過半数を獲る確率は、48%と算出されている。
 ここで仮にベルニエ新党の得票率を2%とすると、連邦議会で影響力を持つほどの議席獲得はできないが、自由党が過半数を獲る確率は65%にはね上がる。ベルニエ新党の得票率が5%なら、自由党過半数は81%である。ベルニエ新党の「保守党に与える影響力」は、壊滅的に大きい。

 スティーブン・フレッチャー元運輸大臣は、2015年の連邦議会選挙に落選し、現在はマニトバ州の州議だが、次の連邦議会選挙に立候補することを保守党に阻止された。彼は、保守党内にベルニエ氏のシンパは少なからずいると予測する。
「党員の半分は、マクシムの主義主張を支持する。そして残りの半分は、アンドリュー(シーア党首)について行く。そこで問題になるだろう。」
「アンドリューは、選挙区で私が保守党の予備選に立候補するのを妨害した。党員の意思が完全に無視される問題が、国中至るところにある。候補擁立は公開されたものでなく、密室で決められている。候補者は、党中央の要請でパラシュート降下しているのだ。」
 彼は、シーア党首は責任を取らなければならないと語った。
 マクシム・ベルニエ元外務大臣は9月14日に記者会見を行い、新党「カナダ人民党(英語:People's Party of Canada/仏語:Parti populaire du Canada)」の旗揚げを発表した。
「あまりにも長い間、カナダの政治は、普通の市民から乖離したオタワの政治家や官僚、利益団体、カルテル、ロビー団体、国際機関、労働組合に乗っ取られてきた。」
「今こそ政府が、カナダの人民を第一とする時である。」
 彼は新党の政策として、小さな政府、自由市場主義を支持し規制に反対、健康保険への政府助成の廃止、酪農供給管理制度の廃止、憲法の護持などを掲げた。なお党首選は実施しないという。

 レポータからの質問は、彼の移民政策に集中した。彼は保守党党首選で、新移民に「カナダの価値」調査を実施すべきだと主張したケリー・リーチ候補を批判したが、その後自由党の移民政策を「極端な多文化主義」と批判した。かつての発言とその後の発言をどう一致させるのかと問われた彼は、「新党は一歩進んで独自の政策を採る」と答えてお茶を濁した。具体的には「同性愛者は処刑されるべきだと考えるような人を移民として受け入れてはならない」「カナダに来る移民の総数を減らしたい」と述べた。
 新民主党のシン党首は、ベルニエ党首を「反移民党を創ろうとしている」と非難したが、彼は排外主義者の居場所は新党にはないと明言した。
「移民に反対する極端な人々、彼らはこの党で歓迎されない。それは明白だ。私には、この党から出馬する候補を選ぶ特権がある。そして我々は、我が党の価値を共有する人々を選ぶ。」
 先週グローブ&メイル紙に、反移民の極右団体リーダーと会談したと報じられたことについて、ベルニエ党首は事実と認めたが、彼らの組織の見解を知らなかったと語った。また党首選敗退時に、リバタリアン党とナショナリスト党から党首就任を要請されたが、断っている。
 保守党のガーマント・グリューワル元議員や「マリファナ王子」マーク・エメリー氏らは新党支援を公表しているが、ベルニエ党首のほかに同席者はなく、彼は一人で記者会見を行った。保守党議員を勧誘したかと問われると、彼は議員ではなく支持者を引きつけたいと語った。
「私は、元同僚の支援を期待していない。私は、彼らの立場を尊重する。私は、彼らに呼びかけなかった。私は、彼らに支援を求めなかった。実は私には、その時間がない。私は、助けを求める人々と話すのがとても忙しい。」
●再建党の悪夢
 ベルニエ党首は、彼の試みを「カナダ史上独特のもの」と評した。だが批評家の間では、83年前の再建党の悪夢を思い起こす人がいる。

 世界恐慌の中、ヘンリー・ハーバート・スティーブンス貿易通商大臣は、価格特別委員会の委員長に就任した。人々はそれを「スティーブンス委員会」と呼んだ。彼は大企業による価格操作と市場操作を強く非難し、ベネット首相が考えるよりはるかに急進的な政府介入を主張した。だが首相には、財界を敵に回す政策など採れるはずもなく、スティーブンスを保守党幹部会から追放する。スティーブンスは、保守系新党「再建党(Reconstruction Party)」を結成した。
 再建党は「公共事業を行い、労働争議を仲裁し、高所得者へ増税し、天然資源開発により財政赤字を克服し、農産物を管理する委員会を設立する」と主張し、「ニューディールのカナダバージョン」と呼ばれた。それらのポピュリズム的政策は、あたかもベルニエの正反対でありパロディを見るかのようだ。ベルニエが保守党の右に行ったのに対し、スティーブンスは保守党の左に行ったのである。ベネット首相は再建党を「解体党(Deconstruction Party)、これまで政権を獲ったことのない、無謀な個人的野心から考え出された新奇な運動」と揶揄したが、実際のところ、保守票分散が自由党を利することに真剣に困惑していた。彼は手紙にこう綴っている。
「総理大臣は、どんな種類の同僚にも適応できる。だが寛容さには、限度がある。無知は許されるが、裏切りは許されない罪である。」

 1935年の総選挙は、保守党にとって惨事となった。野党自由党は得票率44.7%で、前回の45.5%と大差なかったにもかかわらず、議席を89から171に増やし、安定多数を獲得した。与党保守党は得票率29.8%ながら39議席にとどまり、前回より95議席も減らした。再建党は得票率が8.7%もあったにもかかわらず、当選者はスティーブンス党首1人にとどまった。グローブ紙は「これは選挙ではない。虐殺だ」と報じた。
 次の党首になるロバート・マニオンも落選し、「反逆は40議席を損なった」と憤慨した。自由党候補が当選したうち48選挙区で、自由党候補と保守党候補の得票差は、再建党候補の票数より少なかった。もしも保守党分裂がなければ、両党の得票率合計は38.5%に及び、自由党を過半数割れに追い込め、保守党は強力な野党たりえただろう。

 スティーブンスはその後、党首選を実施し、彼自身を当選させ、党綱領を制定した。レスブリッジ・ヘラルド紙は、こう評した。
「スティーブンス氏は彼の党を創り、その綱領を制定して、その党首を選出し、彼自身を当選させることに成功した。そして、ほかには誰もいない。」
 彼は1938年保守党に復党し、再建党は解体された。再建党は、彼を追放した保守党に復讐するという観点では大きな役割を演じたが、再建党それ自体は何の存在意義もなかった。


写真:ヘンリー・ハーバート・スティーブンス。

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