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カナダの歴史と政治コミュのサン=ピエール&ミクロン諸島

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 ニューファンドランド島の沖合に、北米に残された最後のフランス領サン=ピエール&ミクロン諸島がある。サン=ピエール島は面積26平方キロで人口約6900人、ミクロン島は面積205平方キロで約700人が暮らす。残りの8つは小さな無人島で、うち5つには名前がついている。オー・マレン島は面積1.5平方キロで、一時は人口200人を数えたが、1965年を最後に無人島となった。そのほかの島はグラン・コロンビエ島、プチ・コロンビエ島、オー・ピニョン島、オー・バンケール島である。使用されている言語はフランス語が多く、英語もわずかに話されている。

 1520年10月19日、ポルトガル人ジョアン=アルバレス・ファグェンデスが発見し「1万1千人の処女の島」と命名した。ファグェンデスは翌年、エマヌエル王より特許状を賜るが、ポルトガルはこの地に植民地を拓かないことになり、特許は有名無実のものとなった。
 1536年にはフランスのジャック・カルティエが上陸し、漁師だった聖ペテロに因んでサン=ピエール島と命名した。当初はバスク人が漁期に訪れるのみだったが、1604年フランスのバスク、ノルマンディ、ブルターニュから最初の移民団30世帯が移住した。
 1713年のユトレヒト条約でイギリス領となり、フランス人入植者は退去した。だが1763年のパリ条約で、フランスが北米大陸の植民地全てを喪失した見返りとしてフランスに割譲され、仏領カナダの難民が移住する。その後フランスがアメリカを独立戦争で支持したため、両島はイギリスの攻撃を受け、1778年から1783年までイギリスの占領下に置かれ、島民は追放された。両島は1783年のパリ条約でフランスに返還された。1793年にはイギリスに再び占領され島民が追放され、1802年のアミアン条約で再度フランスに返還された。ナポレオン戦争ではまたもイギリスに占領され、1815年のパリ条約でフランスは両島の領有権を最終的に回復した。

 サン=ピエール&ミクロンの産業は、タラ漁を中心とした漁業がほとんどで、アメリカが1920年から禁酒法を施行するとアルコール密輸の拠点として栄えたが、このブームも1933年の禁酒法廃止で終わった。現在、住民の多くはバスク系のフランス人である。

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●サン=ピエール&ミクロン諸島「解放」(1941年12月24日)

 1940年フランスがドイツに降伏し、ドイツ傀儡のペタン元帥を首班とするビシー政権が成立したが、ド=ゴール将軍一派はイギリスに亡命し「自由フランス」政権を樹立した。イギリスは自由フランス政権を支持したが、アメリカは喉元のカリブ海にフランス植民地があり、ビシー政権と敵対することは好ましくなかった。自由フランス政権は国民の信託を受けていない勝手な政権であり、ルーズベルト大統領は傲慢な野心家のド=ゴールを嫌っていた。
 サン=ピエール&ミクロンのド=ブルナー総督はビシー政権を支持したが、目と鼻の先にあるニューファンドランドはイギリス領(まだカナダ連邦に編入していない)で、カナダとアメリカも至近距離にあることから、露骨なドイツへの協力は避けてきた。だがカナダとまだ参戦していないアメリカは、サン=ピエール&ミクロンの資産を凍結した。
 そのころサン=ピエール&ミクロンに滞在していたフランスの漁師たちは、ドイツ占領下のフランスに戻ろうとせず、この地に留まったため島の人口は急増した。やがて島の食糧が底をつき、輸入したくても資産を凍結されているため金がなく、飢饉が迫っていた。カナダ・アメリカ両政府はついに、資産凍結を一部解除して毎月8万ドルの使用を認めた。

 このころ、カナダとイギリスはすでに連合国側でドイツと交戦していたので、ビシー政権がサン=ピエール島を通る海底電線を盗聴し、機密をドイツに流すことを恐れた。またビシー政権がサン=ピエール&ミクロンに強力な無線送信所を建設し、カナダの検閲を受けることなくドイツのUボートを支援するという情報もあった。カナダとイギリスはこの機に島を接収しようと考えたが、カナダ国内のフランス系住民を刺激するのを恐れ、タイミングを見計らっていた。
 これらの動きを察知した自由フランス政権は、島内で密かに反乱を計画した。1941年12月24日、自由フランス軍が抵抗を受けずに上陸し、島を占領する。彼らは島民の熱烈な歓迎を受け、マスコミも「最初に『解放』されたフランス領」と報じたが、この上陸作戦はカナダとアメリカの同意を事前に得たものではなかった。アメリカが裏で糸を引いていると勘ぐられるのは必至であり、ビシー政権を刺激すれば、北アフリカにあるフランス植民地を敵に回すことになりかねないため、アメリカは強く抗議した。
 そこで自由フランス政権は占領を正当化するため、住民投票を実施した。投票用紙に印刷された選択肢は「自由フランス」と「枢軸国との共同統治」の二つであり、反対する方を傍線で消す方法で行われた。12月25日に行われたサン=ピエール島での結果は、自由フランス650票、枢軸10票、無効100票であった。無効票がやたら多いのはビシー政権への支持表明を憚ったものと思われ、ほとんどは印のないものだが、なかには「ペタン元帥万歳」「ペタンはドイツ人ではない」「ジャンヌ・ダルク政権希望」などと書かれたものもあった。26日にはオー・マレン島で住民投票が行われ、自由フランス63票、無効3票となった。29日のミクロン島での結果は自由フランス69票、枢軸4票、無効72票となり、住民の98%が自由フランス政権支持を表明した。
 だがその後各国間の妥協が成立し、サン=ピエール&ミクロンにおけるビシー政権の主権が確認されるとともに、無線送信所は連合国の監視下に置かれることになり、ドイツにとって何の役にも立たないことになった。アメリカは1973年のカサブランカ会談を境にビシー政権と断交し、自由フランス政権を承認した。

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