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紀勢本線コミュの新宮城跡

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 新宮駅から北へ約600m。
 https://www.google.com/maps/@33.7297582,135.9925534,18z

 新宮城の地は熊野川沿いの標高42mの小山で、河内源氏の棟梁である左衛門大尉源為義(ミナモトノタメヨシ)が熊野別当の娘に産ませた丹鶴姫(タンカクヒメ)の居館があった場所です。丹鶴姫の実弟が以仁王(モチヒトオウ)の令旨(リョウジ)を全国の源氏残党に伝えた新宮十郎行家になります。丹鶴姫は新宮別当行範(ギョウハン)の妻となりますが、承安3(1173)年に夫が死去した後は剃髪して鳥居禅尼と名乗り、居館に隣接して夫の菩提寺東仙寺を建立する一方、新宮別当家の実権を掌握し、治承4(1180)年に甥の源頼朝が挙兵すると源氏方に加勢、更に娘婿で当初平家方に味方していた田辺別当家の湛増(タンゾウ)を源氏方に寝返らせる工作に従事していたともされています。文治2(1186)年には実弟の源行家が誅されますが、丹鶴姫は対平家戦の功績によって源頼朝から建久元(1190)年に紀伊国佐野庄と湯橋、建久5(1194)年に但馬国多々良岐庄の地頭に任命され、女性の身でありながら鎌倉幕府御家人の地位を得ています。そして、丹鶴姫の居館のあった小山は丹鶴山と呼ばれる事になるのでした。
 戦国時代に新宮を領した堀内氏善は関ヶ原合戦で西軍に与して改易され、慶長6(1601)年に37万6560石で紀州和歌山藩主となった浅野幸長(アサノヨシナガ)は重臣の浅野忠吉に新宮28000石を与えました。忠吉は丹鶴山にあった東仙寺と香林寺を移転させて平山城の新宮城の築城を開始、翌慶長7(1602)年に完成させました。新宮城は別名丹鶴城とも呼ばれました。
 新宮城は元和元(1615)年の一国一城令で一旦廃城となりましたが、元和3(1618)年に幕府から再建が認められ、浅野忠吉は工事を開始します。ところが、元和4(1619)年に紀州藩主浅野長晟(アサノナガアキラ)は安芸国広島へ転封となり、代わって紀州555000石の藩主となった徳川頼宣は附家老(ツケガロウ)水野重央(ミズノシゲナカ)に新宮35000石を与え、新宮城再建を継続させました。2代水野重良は寛永5(1628)年に城下の田地であった伊佐田(イサダ)に堀を設け、寛永10(1633)年に三層五階の天守閣を持つ城を竣工させましたが、明暦元(1655)年に城下町が全焼する大火があり、寛文4(1664)年の地震によって松ノ丸が崩れたため、3代重上(シゲタカ)が石塁等を造築、寛文7(1667)年に堅牢な近世城郭が完成したのです。
 本丸の北方には出丸、西方には鐘の丸・松の丸・二の丸が上下連郭式に配置され、北方の熊野川沿いの水の手には船着き場が設けられていました。二の丸には上屋敷が置かれ、その南方に隣接して下屋敷がありました。
 紀伊半島南部は台風や地震の被害を受けやすい場所であり、宝永4(1707)年の宝永地震では城の石垣に大きな被害が出て、幕府の許可を得た上で宝永6(1709)年に大補修工事が行われました。文化5(1808)年には暴風雨により城が被災、安政元(1854)年の大地震でも城に被害が出るなど、災害の記録が多く残ります。
 慶応4(1868)年1月24日、新政府の「維新立藩」により新宮城主水野忠幹(タダモト)は35000石の大名として認められ、藩庁は下屋敷に置かれています。
 明治4(1871)年7月に廃藩置県が行われ、新たに置かれた新宮県も下屋敷を県庁としましたが同年11月には和歌山県に統合されたため、明治5(1872)年1月には城内の御道具・武具類が全て売り払われ、同年5月には城の敷地・建物は和歌山県の所管となりました。
 明治6(1873)年1月の廃城令より、新宮城の天守閣以下の建物や土地は旧藩士に払い下げられる事となり、明治8(1875)年までに全て取り壊されて、旧材は寺院等に転用されました。
 明治24(1891)年には二ノ丸(上屋敷)跡に天理教南海大教会が開設されています。
 大正9(1920)年に至って、伊佐田池(イサダノイケ)とも呼ばれていた堀の埋め立てが始まり、大正11(1922)年には工事が完了、「丹鶴町」と呼ばれる市街地が新規造成されました。
 昭和20(1945)年7月24日、B29爆撃機編隊が阿須賀・伊佐田・丹鶴町にかけて250kg爆弾38発を投下し、新宮高等女学校の校舎が全壊して死者50人・負傷者200人の被害が出ましたが、城跡は大きな被害を免れました。また、昭和21(1946)年12月21日の南海大地震で新宮市街地は壊滅的打撃を受け、この時に新宮城天守台は半壊した模様です。
 昭和27(1952)年に鐘ノ丸跡に旅館「二の丸」が開業し、遊具やビアガーデンも設けられました。昭和29(1954)年は日本一短いケーブルカー(南紀ケーブル)も開業し、定員10名・軌道約100m・駅間88mの距離を運行していました。
 昭和47(1972)年には天理教南海大教会が移転し、跡地には天理教会婦人部が経営する正明保育園が開園して現在に至っています。
 昭和54(1979)年10月、新宮市が本丸跡および登城道の全範囲を買収、翌昭和55(1980)年には二の丸旅館が廃業したため鐘の丸・松の丸も買収して、丹鶴城公園としての整備が開始されました。ケーブルカーの運行は、昭和55(1980)年11月の美智子皇太子妃の訪問時が最後となってしまいました。
 平成15(2003)年には国の史跡に指定され、平成29(2017)年には続日本100名城に選定されています。

コメント(33)

右側のお写真は国道42号線の橋梁ですね(2つとも)。紀勢本線はこの城址のほぼ真下をトンネルでぬけ、いきなり熊野川をわたりますから、(逆方向の)亀山方面からの列車に乗るとちょうど城址に体当たりするような錯覚を覚えます(私だけかもしれないなあ)。

↑のケーブルカーの残骸を目撃しました。10年くらい前ですが…。
確かに、この写真は国道のものです。鉄橋の方のイイ写真があったら貼り付けて下さい。
JR東海のオレンジカードにありましたので、貼り付けてみます。ピンボケぎみですが…。

新宮城は明治8年の解体ということです。何かの記念で再建してもらいたいものですね。天守からの風景は格別この上ないこと間違いなしですから。
写真は〔紀州〕にしては短いので、普通列車なんですかね?
城が再建されれば、ケーブルカーも復活してくれるかもしれませんねえ。
はい、普通列車として余生を過ごしていた頃の写真です。これは津駅で購入したような気がします(はっきり思い出せないですけれども)。集客力がつけば、ケーブルにもお客がつくと思うのですがねえ。
湯浅城みたいに城郭型旅館にしちゃう手もありますね。まあ、史跡指定地なんで法的には難しいんですが…。
もしできたら、泊まりたいですね。
付家老・水野殿の気分になれるかも…。
新宮市内には大型宿泊施設が無いですから、そんなのが出来ても面白いでしょうね。
まあ、近傍に勝浦温泉や「奥熊野」の温泉があるなかで、新宮市内への観光目的の宿泊客がどれくらいなのかが問題ですね。
市内でも掘れば温泉くらい出るでしょうから、熊野川で鵜飼や網舟でもやれば、何とかなるのでは?
新宮市は案外みどころが少ない?というか、目玉となるような観光地が少ないですね。神倉神社のお燈祭(火祭り)のような集客性の高い観光資源がもっとあればと思います。熊野川を活用するのも一手段ですなあ。佐藤春夫や東くめの名前をもっと使ってPRするとかですね…
城の天守閣を再建した町は、どこでも観光客が増えてるよーですから、是非、何とかして欲しいですね。
城下町・新宮については、【城下町】コミュの「紀州新宮」トピ(http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=2220624)へどうぞ!
話題になっていたケーブルの詳細がわかりました。
旅館二の丸が「新宮観光」という会社をつくり、1954(昭和29)年8月に開業したようです。1964(昭和39)年に経営を「近鉄観光」へ譲渡。その後、1976(昭和51)年に旅館二の丸が買い戻し、「和歌山観光」が経営にあたるが、1980(昭和55)年の旅館廃業で運行休止となった模様です。このときの取扱いが「廃止」ではなかったようですが、1994(平成6)年に路線免許が失効したようです。

*日本鉄道史で最短の営業距離:72m
 (この記録は破られていないようですよ)
私が1981年に訪れた時は、まだ旅館もケーブルカーも営業してましたが…。
あれあれ。本に書いてあった情報なんですが。。。
私が行ったのは1981年8月でしたが、営業してるよーに見えて、実は閉鎖されてたんですかねえ??
本を読み返してみると、旅館廃業後、新宮市土地公社が城址、旅館あと、ケーブルを譲渡したとありました。
正式な営業休止の届けは1981(昭和56)年10月に出したということですから、この公社が営業をしていた可能性もありますね。
そうすると、大審問官さんの目撃情報と一致しますね。
なるほど。私は断末魔の姿を目撃してたワケなんですね!
新宮城址の最近の話題です。
新たな発見があった模様☆
以下、産経新聞(和歌山地方版)の記事を引用します(http://www.sankei.co.jp/chiho/wakayama/070321/wky070321000.htm)。

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新宮城跡の「水ノ手郭」調査終わる
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 新宮市教委は、新宮城跡の「水ノ手郭」で行っていた発掘調査がほぼ終了したとして、その成果を発表した。これまで地表に出ていた石垣の下からさらに約3メートルの石垣が現れ、5メートルを超える石垣が築かれていたことが分かった。

 「水ノ手」とは、城の内部や周囲にある河川や井戸などの水源のこと。「水ノ手郭」とは、「水ノ手」を守るための石垣などを意味する。新宮城では熊野川に面した一帯が「水ノ手」と呼ばれており、石垣が築かれ、船着き場が設けられていた。

 今回の調査で石垣が5メートルを超える高さで、強固な形状で築かれていたことが明らかになり、守りのための軍事的な機能を十分に果たすことができる石垣だったことが示された。

 平成6年度と10年度に行われた発掘調査では、炭納屋とみられる建物群が見つかり、本来は軍事的な性格の強い場所だった水ノ手郭が、江戸時代の安定期に経済的な性格の施設に変わっていったことがすでに判明している。

 昨年11月から約120平方メートルで発掘調査を実施していた。
(2007/03/21 03:38 産経新聞)
台風12号のため大規模な土砂崩れが発生した模様です。
 10月08日金曜日、40年振りに訪れました。
左;鐘ノ丸石垣
中;本丸
右;本丸石垣
左・中;天守台
右;本丸よりホテルニューパレスを望む
左;鐘ノ丸より本丸を望む
中;鐘ノ丸虎口
右;鐘ノ丸より熊野速玉大社方面を望む
左;松の丸虎口
中;丹鶴公園遊歩道
右;二の丸石垣
左;二の丸南門
中;二の丸東門
右;二の丸石垣

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