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五井先生コミュの宗教と平和

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宗教と平和P001

 序文

 宗教とことさらに申しますと、すぐに迷信という言葉がかえってくるような風潮が日本人の一般のなかにあります。それでいながら、誰れもがなにかを求めている。この直接求めているものは、地位や権力や、物質でありましても、その根本は自己の平安と生命の自由な立場というものを求める想いでありまして、それが形をかえて、物質や地位や権力を欲っする、というように動いているのであります。

 この求める想いが生命の根源に深くなればなるほどより宗教的になり、その想いが浅ければ、物質的、現象利益的になるのです。

 ですからいかなる人でも、心の奥底で宗教的なものを求めているのですが、その

コメント(33)

宗教と平和P002

想いを自分でわからずにいるだけなのであります。生命の自由を得るということと、心の平安を得るということは、地球人類の窮極の問題でありまして、これをやさしくいえば、世界人類が平和になる、ということであるのです。

 唯物論と唯心論と思想的に大きく二つに分かれておりますが、こういう見地に立ちますと、全く一つの目的をもって働いているのでありまして、対立抗争する理由が一つもないのであります。対立抗争する所以のものは、仏教的にいう業、私流にいえば業想念なので、この業、業想念が、この地球界から消え去れば、生命の本然の相は明らかに現われてまいりまして、地球人類は平和そのものになるのであります。

 私はこういう理論を、種々とかみくだいて本書で認めておりますが、単的に私の申し述べたいことは、人類の生命そのものは、善も悪もなく、光明そのもの、美そのもの、真そのものであるのだから、その生命の本然の姿を汚さぬよう、汚したらすぐにぬぐい去っておくよう、人類の一人一人が心がけてゆくことが必要であって、
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生命を汚したままで悟ろうとしたところで、世界平和運動をしたところで、業の波動世界を、ぐるぐる廻わりしているだけで、ますます生命を漏らしてしまうだけで、 果ては、地球滅亡にまでいたってしまうのだということなのです。

 そこで本書は、常に生命をいきいきと光あるものにしておき、世界人類平和のために、少しでも役立つ人間が多く生れでるようにと、深い祈り心で書きつづったものであります。それを一口に申しますと、消えてゆく姿で世界平和の祈りということになるのであります。

昭和四十三年五月

五井昌久
宗教と平和P007

宗教とヒューマニズム

十人十色の人間

 人間というものは十人十色、百人百色といわれるように、人間という等しい名称で呼ばれながらも、実に多様な心の動きをもち、多種類の精神的なものを含めた生活内容をもつものです。

 それは人間という一つの名称で呼ばれるにしては、あまりにも大きな相違点を示す生活様式、または精神内容をもっている個々人や、集団があるからです。

 鳥類や獣類にも種々の種類がありますけれど、形や性能の上におけるような複雑きわまる相違は見られません。

 一体なにが人類にこのような複雑性を与え、大きく広い範囲の形の上における相連並びに精神状
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態における相違を、創りあげさせてしまったのでありましょう。いうまでもなく、考える能力、想念する力が、人間の複雑性を築きあげてしまったのであります。

 人間という形の上では、頭があり胴があり手足があり、そして眼は二つあって、鼻が一つある、 というように大小の差はあっても、いずれも等しい形態のものでありますが、思考の面、想念の面になりますと、十人十色ということになってきて、すべてにおいて全く等しい、という人間は見当らないのです。

 自己の欲望のために、平気で人を殺害できる漢も人間と呼ばれており、自己の欲望のすべてを捨てて、人類社会のために尽している人も人間であります。前者と後者との心境のへだたりはどれほどのものであるかはかり知れません。

 そこで釈尊はこうした心境の相違を仏、菩薩、縁覚、声聞、天人、阿修羅、人間、餓鬼、畜生、 地獄など大きく十に分けています。しかし実際の区分は何万何千になるかわかりません。この区分はそのまま他界における境界になるわけです。

 このように現象の世界の人間は実に複雑なる心境の相違をもち、そうした人々が入り交って生活しているのであります。
宗教と平和P009

 ところがこの人間を肉体界に生存せしめている生命と普通呼ばれている力は、全く一つのものであると考えられております。

 聖者における生命も、殺人者における生命も全く一つのものであって、生命そのものにおいては差異のないものと一般は認めているのであります。聖者が死んでも一つの生命が肉体から消えたのであり、極悪殺人者のそれも何じように一つの生命が肉体を去ったということになるのであります。

 離れもかれも生命においては一つである、というのが民主的な考えであり、人道的考えであるのですが、聖者の死と極悪殺人者の死との民衆に与える影響は著しく相異ったものになるのです。どこに一体その相違ができてくるかといいますと、勿論人間世界にその人たちの生存が片方が有益であり、片方は有害であった、という差異によるのであります。

 有益であった者の生存は称えられ、そして死は惜しまれるのであり、有害であった者の生存は恐れられ、憎まれ、死は喜び迎えられるのであります。(その正不正を誤まり思われた場合は別として)

 生命と呼ばれる等しき力をともに与えられながら、一人は人生を有益に生き、一人は有害に生き
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るということは、実に不思議なことであると思うのです。

 その相違はどこにありや、と疑問を起さぬわけにはゆかなくなります。

 それは、各人の想念行為の相違によるのであります。想念が、神(生命の源、本心)に近づいているか離れているか、あるいは素、いわゆる利己的欲望が強いか弱いか、本心(光明)を厳う暗雲が濃いか薄いかによるのです。

 人間の生命は同等の価値をもち、生命の根源においては、すべて一つなのである、ということが、意識的無意識的にかかわらず、真実にわかっている人は、他人の生命や生存価値を、自己のそれと同等に見得る人であります。自己欲望のために、他人の損傷を考えぬような人は、口でどのように立派なことをいおうと、人間の真実の在り方、人類の本質というものを知らない人なのであります。もっとも、大きく広い意味の人類貢献のために、少数の他人に損害を与えるような時は、これはまた別に考えられる問題であります。それは人類に貢献した実質のブラス、マイナスの差によって定められるべきだからであります。

 ともあれ、多くの人間のために有益でありたい、と思う想念は生命を生かしている想念であって、愛であり光であります。本心開発の姿であります。
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ヒューマニスト三つの形

 人道主義者というのは、このように、人間のためになることを考えないではいられない人、人類のためということを思わずにはいられない人のことをいうのです。この人たちは常に、多くの人々の生命とか、生活とかを思考し、行為していて、自己だけの利益のなかに安住することのできない性をもっているのです。自己を犠牲にしてでも、人類社会のためになりたい、という想いが、無理に意識するわけでなくとも、いつでも心のなかに浮んでいるのです。

 だからといって、この人たちが神仏を思い、祈りの生活をしているか、というと、そうではないのです。真の宗教者は勿論人道主義者でありますが、人道主義者必ず宗教者というわけではないのです。反宗教的人道主義者、唯物論的人道主義者もかなり多いのです。

 人道主義者のなかには三つの型があります。一つは、神仏を信仰する、いわゆる宗教的人道主義者、一つは神仏は否定しないが、その力に依存もしないで、人間そのものにある能力(これは実は思い違いなのであるが)をもって、人類社会のために働く、最後の一つは、神仏とか宗教とかは、 人間の創り出した迷信であって、この世の幸不幸、社会人類の進歩向上は、すべてこの肉体人間の
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なかにある能力をもってなすのである、と肉体人間以外の一切の力を排除して、人類社会に尽そうとしている、唯物論的人道主義者(共産党にはこういう型の人が多いのです。)の三つの型なのです。

 このうち第二と第三の人道主義者には、文化人と称される知識人が多いのです。

 いわゆる、種々の著書をあらわし、新聞の文化欄に一筆し、ラジオやテレビやその他講演会に出席して一席弁じている人たちをはじめ、各種の社会事業に名を連ねている人や、そうした人たちにつながりをもっている人々であります。

 ここでは売名的な人々は除いて、純粋な人道主義者だけについて申しあげることにしますが、この人たちは、学問的知識もあり、社会的な名声もあり、あるいはそれにつらなっている人々であります。

 こうしたグループは、肉体以外の世界だの、その影響についてなどは、少しもその考えのなかに入れてはおらず、ただ、自分たちの肉体的知識経験だけを力にしているわけで、人間の幸不幸は、 肉体に生存している期間だけであると一様に思っているのです。

 ですから、この肉体世界、形の世界だけの人類の幸不幸、人間の幸不幸を問題にしているので。
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一にも二にもこの世の環境の整備、環境の発展進歩のために力をそそいでいるのです。環境がよくならなければ、人間は絶対に着くならない、社会政策が立派であれば、おのずから人間は善くなってゆく、というように考えているのです。

 このような考えが根底になっての活動なのですから、科学への献身(医学も含めて)によって、 肉体生活期間の延長、文明文化の進展をはかり、各種社会施設の拡充完備による生活の安定などに力をそそいでゆくことになるのです。そしてこの裏づけとして、隣人愛、同胞愛、人類愛を人々に説き、教育しているのです。

 こうした人々のなかには、宗教者をも超える立派な人格行為の人もあるのですが、この種の人々のように、宗教的でない人道主義者は神の存在を、肉体人間の生活とあまり関係のないもののように考えていたり、神仏を否定していたりする思想が根底であり、過去世からの因縁因果ということに一歩もわずらわさず、しかも、人間は生命において、なにびとも等しい価値をもつものである、 という思想をもつものでありますから、この世界の人間生活の不平等が、実にたまらなく不快であり、不平であり、不満であることになってくるのです。片方では、大邸宅に住み、豪華な生活をしているブルジョアがあり、片方では、働けど働けど楽にならないプロレタリアの生活がある、とい
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うことは、一体どこにその原因があるのか。それはひとえにブルジョア(資本家)に味方する政治家たちが悪いのである、だからこうした悪政治家を倒して、真に民衆のために働いてくれる政治家を立てて、民衆本位の政治を樹立させよう、という考えになってゆき、これが社会主義者と立場を同じくしたり、共産主義の線に足を踏み入れていったりするのです。

 ですから愛深い人たちは、おおむね社会主義とか、共産主義に同調するか、神仏一元の宗教的立場に挺身するかのどちらかになってゆき、どちらつかずの立場で、自己だけが安穏でいる生活には耐え得られなくなってくるのです。

 人道主義の立場、民主主義の立場でいう人間の生命の価値は、なにびとにおいても等しいものである、ということは真実なのであります。それは、第一の宗教的人道主義者の主張でもあるのです。しかし、真の宗教者は、生命の等しい価値というものを、肉体だけについていうのではなく、 魂の面、雪の面においていうのです。いいかえれば、生命の本源の世界における個生命の価値を等しいと認めているのです。

 能力の相違があるかぎり生命価値の平等はない
宗教と平和P015

 肉体というものは、生れおちたその時から、能力、貧富、環境の差をもっていることは、なにびとも認めないわけにはいきません。

 このうち能力(身体の強弱も加えた)の差における不平等はど、その人たちの将来の幸不幸、貧富や地位にはなはだしい相違をみせつけるものはありません。これは生命の価値の平等、ということと、まるで反対な現われ方なのです。

 生命の価値が平等でありながら、なぜこの能力がこのように不平等なのでありましょう。能力がこのように不平等である限り、生命の価値のみを、いかに平等である、と叫んだとしても、その叫びは空虚なものであり、そのような平等政策は、絶対に完全になることはないのです。

 たとえ、世界の政治を、社会主義、共産主義になし得たとしても、その最高幹部になり得るものは、なんらかの能力において、他に勝るものであり、末端の役付きに至る迄、その下位の人たちよりも、他力を上位者に認められたものから先になり得るわけです。

 これは、生命の価値の平等によって定った組織ではなく、やはり各種の能力の差によって定まった組織なのです。そして、この者たちがひとたび、肉体の数をぬいだ時、つまり死亡した時における国家今人民の待遇も、その能力の差のごとく不平等なのであります。そうしますと、生命の価値
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の平等ということは、一体どこに消えてしまった、ということになるでしょう。

 結局、肉体というものだけに、生命の価値の平等を唱えている限り、生命の価値の平等はあり得ない、ということになり、人道主義も民主主義も、その根本題目を見失ってしまったことになってくるのです。

 真の生命価値の平等ということは、肉体だけの人間にいうのではないということに必然的になってきます。肉体の他に魂を考え、霊を思い、神の存在を信ぜぬ限り、平等という言葉をつかうことは実に愚かしいことといわねばなりません。

 生命の平等とは、神、絶対者、大生命の立場においていわれることであって、創られたる側の肉体人間のほうからいうべきではないのであります。もし、あくまで、平等を主張するならば、肉体人間が、神と同等の立場に立って、赤児に生れた時から、その能力を平等になし得た時に、はじめていえる主張なのであります。

 いつ自分の児が胎内に入るか、それが男女のどちらであるか、どのような才能をうちに含んでいるかも知らずして、ただ、いたずらに平等を叫び、自由を叫ぶのは実におかしな話であるのです。
宗教と平和P017

 こうした根本的な思想の誤りがあっては、人類を真実の平等にすることはでき得ないのです。愛があっても、それが地上的なもの、肉体人間的なものであっては、けっして人類を平等にすること 、平和にすることも、幸福にすることもできないのです。

 愛といい、生命価値の平等というからには、ひとたびは必ず、愛の本源、平等の本源、つまり神 (大生命)に考えを戻さなければいけないということになります。

 神の力を借りず、あるいは神仏を否定したところからは真の人類愛が生れてくることはあり得なと私は思っております。それはどこかで、なんらかに片寄った感情であって、真の人類愛ではないと思っております。真の人類愛は、神の光、太陽のごとく片寄りなく照すものであって、その光に浴さぬものは、自己が太陽の光を避けているからにすぎぬ、というほどのものであるのです。

 人道主義から宗教へ

 神における生命価値の平等はなぜ肉体生活における平等とはなり得なかったのでしょう。それは、肉体人間の各個人に与えられた生命が、その与えられたそのままに、駅なく汚れなく純粋に話動してはいないからです。
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 生命の純粋な活動というのはどういうことかといいますと、意識的無意識的にかかわらず、個人の生命は、本源の世界において、大生命につらなっているということを認識することからはじまるのです。大生命につらなっていて、一つであるとわかってくると、自己の生命は個人のものであって、個人のみのものではない、人類すべての幸福のためのものであるということがはっきりしてきます。ですから、人類の幸福を損う想念行為、自己を損う想念行為、つまり、自国だけの、自己の階級だけの、自家だけの、自分だけの、幸福を掴むために他を押しのけ損う行為をすることは、生命の純粋な生き方に反するものであり、大生命(神)の意志にそむくものであり、真実の自己を損うものであります。こうした誤った行為を平気でできる人は、もうすでに人道主義から離れているのであって、生命価値の平等をいう資格はすでにない人々なのです。

 生命はこうした誤った想念行為によって、次第にその純粋性を蔽われ、その不純の濃度によって、その生命価値は、下落していったのであります。そこで自分に与えられている生命を自我欲望で汚さず、礙なく純粋にその生命のままに働いている人を、聖者とか偉人とか賢者というのであって、このような人々と、犯罪者や、それに類似する人々との生命価値は、勿論大なる差異を示すものであります。
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 いいかえますと、自己の生命を純粋に生かす想念行為そのものが、もうすでに人類のためになり、大生命の意志にそっているものであるということになるのです。表面に意識せずして、自己の生命を純粋に生かしきっている人は、その潜在意識に、自己の生命の尊さを意識し、大生命(神) の恩寵を受けているのです。

 ここで問題になるのは、どうして一人の人がそのように生命を純粋に生かすことができ、他の一人が不純に生きるような性質に生れているかということです。話がここまでくると、もうすでに、 単なる人道主義では問題を解明し得なくなってきて、宗教的解明にまつより方法がなくなってくるのです。

 それは、人間は生命そのものであって、肉体は、生命から発した想念が、三界(霊、幽、肉体) を輪廻転生しているのだ、生れかわり死にかわりしているのだという、仏教的な説きかたによって解明されるのです。

過去世の因縁をのぞいては考えられない

 現代の人は、真の人間(生命、雪)というものと肉体(想念)というものとを混合して考えてい
宗教と平和P020

て、相異なり、差異の烈しい想念行為の肉体の個々人を平等に扱わなければ、生命の平等性を侵していると考えているのです。これは大なる誤りであって、真の生命価値は勿論平等でありますが、 ひとたび、さまざまな想念をつけて、肉体として生れて来た以上は、各自すべて不平等なのであります。なぜならば、各自の想念行為にはなはだしい差異があるからです。

 いいかえますと、太初に大生命から個々の生命として分れて、生命そのものの霊的生活の時には平等であったものが、肉体という衣をつけた生活をはじめた時から、次第に各自想念行為に差異ができてきて、子供から孫、孫から會孫となってくるに従って、生命(霊)と想念(肉体)とを、次第に肉体一元と認めるようになってきて、その想念が大生命(神)により近づいているか、離れているかによって、その生命の輝きに差異ができてきたのです。それが現在の人間生活の不平等の原因になっているのです。仏教的にいう因縁因果(原因結果)ということになります。

 今、赤児に生れたその時、すでに貧富の差があり、体力、能力の差異が内包されているということは、過去世において、それらの魂が、いかに生命を輝かに純粋に生きたか、生命の光を蔽って生きたか、いいかえれば、真の愛の想念行為に生きたか、愛を離れた生き方をしたかの差異が内包されているということなのであって、この理を知らずして、いたずらに人類の平等、個々人の平等を
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叫んでも、決して、人類も、個々人も平等にはなり得ないのです。

 そこで、真の宗教者は、生命(神、霊)と、幽体肉体にまつわる想念とをはっきり区別して、生命を純粋に輝かすためには、今迄の誤まてる想念、生命の光を蔽う想念、つまり、愛にもとり、他の不為、国の不為、社会の不為になるような、喜怒哀楽、妬心、不安、恐怖等々の業の想念を、消え去りゆく想念として、消し去ってゆくことを教えているのです。

 その方法は、まず常に神(守護の神霊)を思いつづけることです。それは大生命(神)と個生命を真直ぐにつなぎ、礙なく生命の光を天と地に交流させる最大の方法だからなのです。そして同時に身辺に起る自己に不利な事態、脳裡に起る心を乱す想念を現われては消えさりゆく姿と観じつづけてゆくことなのです。そうすることによって、過去からの誤まてる想念が消えてゆくとともに、 それだけ生命の光を蔽っている不幸の影が消え去るので、光が充分に輝き出だし、生命の純粋な姿が、その人間の肉体生活に次第に現われてくるのです。

心と形におのずからなる調和

 こうした方法を根底にして、各種の社会施設や、科学の応用をしてゆけば、心と形の両面に平和
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な姿が現われ、ことさら生命価値の平等などと呼ばなくとも、おのずから調和した世界が現出してくるのです。

 しかし、誤った宗教者たちのように、いたずらに自己らの教団入りを強要し、入らねば罰があたる、とか、不幸がくるとかのおどし文句をいったり、神仏のなんであるかを、自己そのものが知らずして、幽界あたりをうろついている低設想念に踊らされて、神のおつげ的に無知なる人々に不安定なる依頼心を起させ、各自が神からきているという真理を曇らせて、その独立心、独創性をうばってゆくような者は、唯物論者より以上に世を毒すると思うのです。

 人間はすべて、自己内部にある神の意志によって動くようにならねばならぬので、その神の意志、神の力を発現させるためにこそ、宗教者の役目があるのです。

 私はこの神を、宇宙神を根本にして、人間内部の中心に直霊、分霊があると説き、その働きを真直ぐに純粋になさしめるために、守護神、守護霊という、浄化の働きをたすけるための力を外郭に置いて、守護神、守護霊に感謝をしつづけていれば、守護の神霊の光によって、必ず、人間の過去世からの業生的因縁が浄められ、消え去ってゆき、人間本来の真実の姿、分霊、直霊の光が、そのまま肉体に現われて、神そのままの働きを、この地上世界においても発揮することができるのです
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よ、と説いているのです。

 創造主的神は法則として働く神であり、守護の神霊が、救いの神として働いているのですから、 ただ一口に神とか、宇宙神といっていたのでは、救われの実感が起りにくいから、私は特に守護靈を強調しているのです。

 守護神は、神界の座にいて、守護霊は祖先の浄まった代表として、肉体に密着し、個々の人間の本心発現、生命の完全発揮を援助していることは、実にはっきりした事実として、毎日私は体験しているのです。
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宗教は阿片か

阿片的宗教というもの

 宗教は阿片なり、とは昔からよく聞く言葉であります。これは昔から為政者や権力者が、宗教の教えを自己の都合のよいように宗教者に説かせて、人民を思うように使った、それはちょうど阿片のように人の心をだめにする、と唯物論者が宣伝したことに語因があるようですが、私は、この小論では、そうは解さず一般の誤った迷信邪教の状態にたとえて説明することにいたします。事実誤った宗教の道に入ったり、邪しまな信仰をすることは、阿片吸飲者のそれのように、その人の一生を破壊し去ってゆきます。そこでさわらぬ神にたたりなし、などというような言葉も生れてきたわけです。
宗教と平和P025

 「緑の魔境」という記録映画をみましたが、南米の未開の地の一宗教的行事を実写しているところがありました。

 一人の教祖的女性を中心にして、種々と神に捧げる行事をやっているうちに、男女の信者たちが、自然に踊りはじめ、その踊りがしだいに狂熱的になりだし、ついには狂人そのままの、獣的な狂態で性衝動でのたうちまわるような、見るも醜悪なる手ぶり体つきで烈しく踊りまわるのには、 思わず眼をふさぎたくなるほどのものでした。

 これが宗教的恍惚境であるとしたら、宗教とは、人間を神性から獣性に転落せしめるものであって、たしかに阿片的であることは間違いありません。こうした宗教が南米の未開の地にのみあると思って、一笑にふしていたらとんだことになるのです。なぜかといえば、現今の日本の宗教界にも、これほどではないにしても、これに願したものや、無知の大衆を戚かくや、現世利益の押し売りで、入会させ、神の名を借りて個人の人格やその自由を束縛しているものがたくさんあるからです。

 宗教とは、個人を真の自由に解放し、与えられた生命を、素直にそのままに、のびのびと働かせ得るように導くものでなければなりません。いいかえれば、神と人間との関係を認識させ、日々心
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を不動に安心立命の生活を営めるようにさせるものでなければなりません。そうした生活には自然と神が現われているものであります。神が現われているとは、神は愛であり、叡智であり、真であり、美であり、善であるのですから、宗教に入ったとするならば、愛か智か真か善か美か、いずれかの姿がその人その生活の面、行動の面に現われてこなければならないのです。

 常識をはずれた狂乱の踊りや、恐怖を与える言動や、個人の自由を縛り、その生活を不安心にし動揺させるような宗教者や宗教団体があったとしたら、その宗教は神のものではなく葉のもの誤ったものであります。

 宗教に入ったために家庭を不和にしたり、友人知己を失ったり、常識生活の知人から眉をひそめられたりするような奇矯な行為言動をするようでは、宗教は阿片なり、といって常識的人々から嫌われてもいたしかたのないことでありましょう。

 宗教団体に入ったりすると、とかく、ひとりよがりになり、自分の団体以外の人々が一様に一段おとるようにみえたりしてくるものです。ですから、自分の所属する団体以外をすべて邪教視したり、敵視したり、あわれんだりするのですが、これこそ、真の宗教を知らぬ、道をふみはずしている人であるのです。
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 宗教とは第一に調和を旨とするものです。調和とは愛の別名にほかならないからであります。そうした大事な神のみ心をはずれていては、いかにどのように大声叱汰して神仏の道を説こうとも、 それは誤りであるのです。

 宗教指導者は慈悲心の深い者であるはずなのですから、その慈悲心の輝きで、おのずと人を浄め神仏と人間とを一つにつなぎあわせてゆくべきであります。

 最後の審判を予言し、人を恐怖させながら、自己の所属団体にひきいれようとするような宗教者は、やはりあまり上等とは申せません。

 古代の聖者はすべて、神仏が愛であり大慈悲であることを脱いているのであり、人間各自のなかに神仏が厳然として存在しているのであるから、汝らの内部の神性、仏性を一日も早く現わすように祈れよ、といっているのです。祈るということは、いのちを宣言するということ、つまり、生命の真実の姿を現わすということでありますから、人間が、自己に与えられた生命を素直にさわりなく不安なく、言動行為に現わせばよいわけなのです。ところが、生命を素直にそのまま現わすということはなかなかむずかしいことなのです。

 なぜかと申しますと、生命が、自由自在にしてすべてなる神から分け与えられたものである、と
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いうことが、肉体発生以来次第に実感から遠ざかってゆき、ついには、唯物論のように、肉体人間だけが全存在であって、神などはないという極端な思想が勢いをしめ、神仏信仰者といえど、ただたんに神様におすがりする、神の僕である程度の信仰になっていて、神と人間とが一つのいのちであり、親子的関係で結ばれているという実感をもつ人々がはなはだすくなくなってきたからです。

 自他を裁き、貴め、束縛して、自他の心の自由を失わせてゆくことは、その人々の魂の進化には役立たず、かえって業因縁の渦を厚く濃くしてゆくことになり、いつまでたっても、神そのままの生命の光を、この人生に交流させることはできないのです。

 宗教的になるにしたがい、その人の心が、種々の事柄にとらわれやすくなったり、偏狭になったり、一つの枠内にとじこもってしまったりするようになって、自己に与えられている職業生活をおろそかにするようであっては、これもやはり阿片的迷いの宗教というよりほかはありません。

死の恐怖を克服する

 人間が真実の宗教生活に入り、意識的にせよ、無意識的にせよ、神との交流がすっきりした形で
宗教と平和P029

行われている場合は、生活の貧富にかかわらずその人は、心がおのずから明るく、自由に、不安の影なき生活を送れるようになるものなので、宗教生活に入りながら、心に暗い影、恐怖の影があり迷いの想いにとらわれているようであっては、それは誤りの宗教生活であるのです。

 肉体人間の生活には、つねに死というものへの恐怖とそれにともなう様々な不安(老病貧苦など)があります。それは唯物論的生き方では、どうしても解脱し、超越し得ることはできません。 どうしてかといいますと、唯物論すなわち、五感に観ずる形の世界だけの探究では、真理を知り得ないからであります。

 いかに哲学的につき進んでも、その学問が行動として、実際体験にまで進まぬかぎり、その哲学は、ただたんに、知識欲を満足させるためだけであって、真にその人に真理を知らせるものではありません。真理を知るためには、ただ行為による体験的認識か、無我の全託かの二つよりないのであります。

 人間はいづこよりきたり、いづこにゆくか、人間とは一体何か、こうした疑問は哲学的疑問であり、これをなんらかの行動にうつして、自己全体で知ろうとするところから宗教がはじまるのであって、眼に見、耳に聞き、手にふれるこの現象生活の利害関係だけを問題にしての宗教入り、とい
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うのは、実は宗教の門に入ったのではなくして、いぜんとして、その人は唯物論の世界、肉体世界だけの人であるのです。ですから、神と人間との真実の関係や、与えられた生命の正しい生かし方を教えず、その場その場の現象利益だけを与えたり、あてもの的にものを教えたり、教わったりするだけで、宗教であるとか、宗教信者であるとか思ったりしたとすれば、それは、神のみ心にかなう生き方ではなく、業因縁的、たんなる生活の方法でしかないのであって、とうてい死の恐怖を超越する日覚や、それにまつわる不安にまけない自覚をもち得ることはできないのであります。

 その場その場の幸不幸だけを問題にして生活してゆくようでは、なかなか神への道に達することはできないのです。

 知識の人々や学者先生方の一部が、とかく宗教を馬鹿にしたり、問題にしなかったりすることに、現今までの宗教が、一般民衆の生活からはなれすぎたり超越しすぎていたり、形式的であったり、あるいは遂に現世利益的であり迷信的でありすぎて、崇高な精神的雰囲気を欠いていたりするからなのであります。真実に大生命(神)と人間(小生命)との正しい関係を説きあかし、人間が神との正しいつながりに入った時に、おのずから奇蹟と人々に思われるような現世利益が生じ、その素の人が、知らず知らず安心立命の生活に導かれているようなものがあったら、いつかは
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まじめに問題にし、探究してくることであろうと思います。

 宗教を口にする人々が、みなこのようになってくることを私はひたすら祈っているのです。

宗教を信ずる人には重大な責任がある

 宗教指導者はもちろん、宗教信者とみずから思っている人々は、唯物論の人々より、重大な責務をおっている者なのであります。なぜならば、宗教を口にするからは、いずれも神仏を認めているからなのであります。そのように神仏を認めている人々が、神仏を認めぬ人々の前に神や仏の姿を嘲笑されるような形で現わしたとしたら、それだけ神仏の存在を否定したことになり、唯物論者に味力したようなことになってしまうのです。

 宗教信者が、神仏を認める場合には、必ずといっていいほど、神仏の絶対性、完全円満性、大愛、大慈悲、大自由、超越性を想定しているものであります。肉体人間を超越せる存在者、神、仏であるわけです。この超越せる神仏を認識して、いくぶんなりとも神仏の力を得ている人々の行為言動が、唯物論者のそれよりも劣っているようでは、全く困りものであります。それは現象生活の乏で、気をいうのではありません。貧乏生活や病床にありながらも、その貧しさや病気にとら
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われず、神仏の愛を設災できるような心境にあれば、その人は貧して貧せず、病んで病まずでありまして、神仏をそこに現わしているのであります。信仰生活に入ったからといって、急に貧乏生活をまぬがれたり、病気が即座に治ってしまった、というようになる人ばかりはおりませんから、そうした形のことはひとまずおいて、その時々の心の在り方をいうのであります。

 不幸にあって不幸の感情を題え、恨みにもって愛をむくい、むくいを求めず人を愛し、己れのごとく他人を愛し、誇らず卑下せず、人を責め裁かず清く明るく、真をもち、心の姿美わしく、その日その日の生活ができるようになってこそ、宗教者といえるのであります。宗教信仰者は、すくなくとも、神仏を信ぜぬ人々よりは、右のような行為に近づいていなければなりません。近づく道に入っているわけなのであります。

 こうした道に遠いものこそ、その宗教は迷信であり、邪教であり、阿片的であるといわなければなりません。

永遠の生命と一つになるために

 宗教者とは永遠の生命を求める人をいうのです。永遠の生命、大生命(神)と自己とを合せしめ、
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自己が永遠の生命と同一の者であることを確認し体験しようとして探究している人をいうのです。

 自己が肉体だけにいるのではない、ということを知れば、その人は死の恐怖をのがれることができます。

 自己が大生命(神)と一つの座にいるのである、と知れば、すべての迷いは醒めはて、自由自在心を得るにきまっています。

 ところが、この心境になるためにはなかなか段階があります。私は、この段階を自然に気づかぬうちに上昇してゆく方法を自分の体験をもととして教えているものなのです。

 人間は肉体だけにいるのではなく、霊界にもいるのである、ということは、私が、はつきり体験し、今でも一日中体験しているのですからまちがいはありませんし、皆さんのなかでも体験した方が相当あるでしょう。しかし、完全円満な、自由自在な、大生命(神)と座を一つにする直霊(真我)である、ということは、普通の人ではなかなかわかり得ないのです。これは筆にも口にも説明しにくいので、ただたんに、キリストや釈迦牟尼仏のように、光り輝いて、神の座にいるのである、と説明するわけです。いいかえれば、皆さんの直霊は、キリストと同一であり、釈尊と同一であるといえるのです。とこう申しましても、やはりなかなかなっとくできないと思いますし、クリ
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スチャンの人には怒られてしまうかもしれません。しかし、これは事実なのであります。

 事実であるといっても。これはちょっとなっとくできそうもありません。そこで私は、一度説明を改めまして、大神線(大生命)の救いの光の面を守護神とし、その守護神の下に、祖先の悟った人が守後置として働いており、あなた方を常に守護して、あなた方の業因縁の想念を浄めつづけていてくださるから、寝てもさめても、守護神、守護霊に感謝しつづけていなさい、そうすれば必ず、いつかは業因縁が静めつくされてあなた方は悟道の生活に入るのです、と説いているのです。

 業因縁(業想念)が浄められれば、自己の本体が神の座にあることが自然とわかってくるものなのです。

 そのことを、キリスト教の人たちは、イエスのみ名によって、信者は天国に入る、といっているのです。それはイエスのみ名によらなくとも、自己が神と一つの者である、ということをさまたげる想念を浄め去ってゆけば、その浄まりにしたがって、その魂は上昇してゆくのです。そしてその想念が、すっかり神と一つの想いになりきった時には、その人は神の座の自己(真我、直霊)と一休になり得るのです。
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自分の生活に神の心を現わそう

 現象世界の人間は本心(神)と業想念の二元的生活をしているのであり、業想念の彼にとらわれている以上は、本心(神)が、その生活に顔をださぬのですが、業想念波の浄まるにしたがって、 本心の輝きがその生活を照らしはじめるのです。ですから、本心のより多く顔をだしている人は、 それだけ神の心、愛(慈悲心)と真と美とが、その生活面に現われてくるのであります。

 いかに神の教えを説こうとも、その人の行為が、愛と真と美とにもとっていたとすれば、その人は、真の宗教者でないばかりでなく、宗教にそむくものであるのです。

 ですから、眼を怒らせ、口をとがらせて、自己の所属する宗派に人をひきいれようとするようでは、その人の姿に神も仏も現われていないのですから、その人は真の宗教信者とはいえないのです。

 私たちは一日も早く、自己全体の雰囲気から、明るい柔和な、調和したひびきを放つようにならなければいけないと思います。

 宗教信者という者は、あのように優しく、あのように温く、あのように親切で思いやり深い人た
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ちなのであろうか、と、誰れにでも思われるようになりたいものです。

 自己の自然の行為のなかに、愛があふれ、誠意がにじみでているようになることが、宗教信者になったおかげでなければなりません。そして、その行ないが、常に叡智に導かれていて、誤らなきものであるようになることが必要なのです。

 宗教理論がわかっても、霊能が開かれても、その人の自然の行為が、人を傷つけたり恐怖させたりするようでは、宗教者とも、宗教信者ともいうことはできません。

 自身の偉さを他に見せたい心、人に知らせるために、善行為をしてみせる心なども、見る人が見れば醜い、いやらしいものなのです。

 明るく、素直に、幼児のような純真さで、神を呼び得るような、そんな宗教信者は、どんなに巧みな理論者より、神に愛される者であります。

 仏教で、空の境地をしきりに説いているのは、それまでの知識や経験のすべてを捨ててしまって、無色透明になれ、ということなので、無色透明の心になれば、神(本心)の光が、そのまま入ってきて、神仏そのままの行為が自然にできる、というのであります。しかし、この肉体人間はなかなか空になること、無色透明の心になることができないので、私は、空になれなどと説かず、頭
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脳をかけめぐる想念は、やがておのずと消え去るのだから、そのままかけめぐらして、ただひたすら、自分の過去世からの心の汚れを浄めていてくださる守護霊守護神に感謝をしつづけなさい、そうしているうちに、自然と、空の境地と同じように、自分の内部の光と神仏の光と一つにつながってしまって、自己の日常生活の言動行為となって、神のみ心が現われてくるのです、と説いているのです。これはやさしくできる神への全託の行為なのです。

 百の理論を知るより一つの実行

 すべての理論も説法も、人々に行為せしめるためのものなのですから、聴いたこと、読んだことのただ一つでもよいから実行してゆくことが大事なのであります。

 柔道のこの技は、このようにしてかけるのですよ、といくら説明だけきいても、それだけでは、 柔道がうまくなるわけがありません。やってみなければいけません。練習しないで上手になるものは何一つとしてないのです。宗教とても同じことです。理論や説法を、読んだり聴いたりするだけで、心をよろこばせているだけでなく、読んだり聴いたりしたら、すぐに実行にうつしてみることが大事なのです。百の理論を知っていて行じぬ人よりも、一つの理論を知って行じている人のほう

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