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五井先生コミュの神様に頼ることと我即神也

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我即神也へ至るには、神様へ頼ることから自然に入る方がいいようです。

神様、お願いします、と全託しておきながら、自分の思いや行動が、神様のようになっていけばいいので、もし自分が神様だから、すべては完璧に出来るという負担を感じている方がおられるとしたら、神様にすがって、お願いして、どうぞ宜しくお願いします、とやった方が、力みなく自然に神様の中に入りやすいのではと思います。

その結果、自然と自分が無くなり、気がついたら神様のようになっていた、そんな感じでいいのではないでしょうか。
肉体の自分では出来ないこと、神様には出来ることと、逆に、神様には出来ないが、肉体では出来ることがあります。
その両者が違う働きを受け持って、この地上に地上天国を現そうとしています。

例えば、肉体の人間は、眠る時は、自分の意志で眠りに入ることは出来ません。
気がついたら眠ってしまう、肉体側はただその眠りに入りやすい環境を整えるだけしか出来ません。
心臓の動きも、寝ている間の呼吸も、自分の意志ではないのです。
また眠ってからの夢の処理も、自分ではなく、守護霊さんがやっています。
朝起きてからの行動の先に起こる出来事も、すべて神様の働きがあればこそ、無事にその日を過ごすことが出来ています。

肉体がやることは、こちらの現実で起こる出来事の対処、肉体の健康管理や、肉体の言葉、想念、行為の管理です。

お祈りも、自分の意志でやっていても、実際の目で見えない部分の働きは神様がやって下さいます。

このように考えると、神様のお働きに頼ることは自然なことであり、また頼るというよりもおまかせせざるを得ないのが、肉体の人間であります。我即神也の真理は、肉体の自分が何でも出来る、頼らずに生きられる、そういう意味ではありません。

男女がそれぞれ働きが違い、夫婦として家庭を作っていくのと同じで、神と人間も、役割分担をして、一つの働きをしているのだと考えれば自然ですね。

間違った例は、人間が神様に頼って、やるべきことをしないでいることです。人事で出来ることをしないで、ただ神様お願いしますというのは、神様も働きようがありませんし、神様に対して申し訳ないことです。

神様は、お願い事をする対象ではありませんし、ご利益を賜る対象でもありません。
今までの歴史が、神様と人間の間に大きな壁がありました、それがこの「我即神也」の真理が下ろされたことにより、全く両者の壁が取り払われ一つになったわけです。

神と人間は別々ではなく、一つのものであるということ、それは人間が神と対等であるという意味ではなく、神と人間が一つになって、はじめてこの世界で働ける神人となるのであることを忘れてはならないと思います。

自分が神様のようになろうとするよりは、神様どうぞお願いしますと明け渡して、自分を無くしていけば、神様だけが残ることになりますので、その結果、自然と神様の使いやすい器となり、肉体が空になることで、気がついたら我即神也そのものとなっていた、となるのでしょうね。
ふんわりとおまかせしつつ、無心に日々やるべきことに専念する、安心して神様にすがりつつ、祈りの中にすべてを投げいれてゆく生き方が、我即神也の基本ではないかと思いますが、皆様いかがでしょうか?

コメント(44)

しばわんこファンさん

>行とか色々やったって、それで簡単に習慣がかわったり運命変わったりする実感ないですし、やはり五井先生、王仁三郎氏などのレベルの方が個人相談にのって、きめ細かい指導をしなければ個人の運命や習慣は簡単に直らないと思います。

肉体人間は、最初から駄目なんだ、ということが本当に分からないと、救われないと五井先生がおっしゃられている通り、一旦業生の世界に入ると、一人ではそこから出ることは出来ないんですよね。

なので、守護霊、守護神の援助があり、目に見える形での五井先生のような方も現れて下さる。
そこに素直に自分を委ねて、肉体の自我の自分で動く習慣を変える、祈りや、言霊、統一、感謝行
など、最初は思いが続かなくても、行為を続けるうちに、必ず意識は変化してゆきます。けれども、

人は皆レベルも違うし、生まれてくる環境、体、性格も、すべては前回(前世)の引継ぎですから、同じ
ことをやっても、同じ結果にはなりません。それこそ、どんなに行を続けても、変わった実感が持てない、目の前の状況が変わらないと感じるかも知れませんが、その変わらない状況の中でしか、今の
自分を変えることが出来ないというのが真実なんです。

苦しいからこそ、なぜ?と追求してゆく、もしもその問題がなければ、その人はせっかくの自分を変え
るチャンスを失ってしまいます。

この世に生まれてくる前に、自分を変えるために、わざと色々な困難を作って、挑戦しているのは、
ほかならぬ自分なんですよ。今度こそ自分を変えたい、その一心で生まれてきて、見事にその自分
が作った設定の通りになっています。だからこそ、到来したまたとないチャンスだということですね。

>人間は肉体だけじゃないから病気は治らなくても大丈夫

肉体は健康体であるのが当然望ましいことで、治らなくてもいいということではないですね。
ただし、障害を持った方のように、前世あるいは先祖の因縁を代表して消すお役目の方もおられます
し、障害者が逆に健全な心を持って、社会に素晴らしい働きをしている方もおられrますので、障害者
だから不幸とは言えない場合があります。彼らにとっては、失ったものより、今あるものの大切さや、
人間としての誇り高い生き方をされている、まさに神様のような方もおられます。

体は不自由でも、心が自由でいつも笑顔な人。手足なく、顔と胴体しかない人、それでも口で絵を描く
という人もいます。
そんな姿を見せられた時には、今、自分達は手もあり足もあり、何でも一人で出来る、まさに自由その
もの、何でも出来るという気持ちになります。

大変な状況の中でも、必ず解決できる、何か良い方法が現れる、自分の中に一筋の光明が見えてく
る、そんな瞬間が必ず訪れます。それを信じていただきたいと思います。

Rahiriさん

>自分が本来 神そのものであると、頭で理解出来たとしても でも今現在、目の前の問題で苦しんでいるとしたら、そこをどうやって整合させるのか?ということなんですよね。

苦しんでいる肉体の自分と、神の自分を例えるなら、スクリーンに映し出された映像が肉体、映写
側が、神ということですね。光の元は神ですけど、それを写しているスクリーンは、神ではなく紙か
ビニール?ということになります。光がきれいに当たらないで、途中屈折しているから、まともな映像
に見えない、屈折している原因は、カルマという偏光壁の存在です。この壁が薄くなると(次元上昇)、ちゃんとした映像が見えてくる、という感じでしょうか。











ツトムさん、

>苦しんでいる肉体の自分と、神の自分を例えるなら、スクリーンに映し出された映像が肉体、映写
側が、神ということですね。光の元は神ですけど、それを写しているスクリーンは、神ではなく紙か
ビニール?ということになります。光がきれいに当たらないで、途中屈折しているから、まともな映像
に見えない、屈折している原因は、カルマという偏光壁の存在です。この壁が薄くなると(次元上昇)、ちゃんとした映像が見えてくる、という感じでしょうか。

カルマによって光がきれいに当たらないから、まともな映像が映らないから人生の苦しみがあるとしたら
、それこそこの物質界は苦しみに満ち満ちた世界であり、人間は文字通り[苦しむ為に生まれて来た]ということになりませんか?

それなら わざわざ人間なんかにならなくても、神そのものの[まんま]でいれば良いんじゃないですか?
しばわんこファンさん、

そうですね、自分の想いから逃げることは出来ない、その通りと思います。
逃げることをせず、そこにしっかりと向き合っていけば、必ず道は開かれてゆくことと思います。

Rahiliさん、

その通りです。
お釈迦様は、この世に生まれてきたのは、苦しむため、と言われました。
では、なぜ神は、人間になってまで苦しみを体験しようとしたのでしょうか?

神という存在は、最初から完璧完全そのもの、何かをより良くするというものもなく、そのまま
で最善、最良の姿なんですね。そのため「選択」という概念そのものがありません。
より愛を深めるとか、より○○になるとかいうものが存在しないんです。
これは、完璧であることが、変化のない、自由のない世界であることを意味します。

そこで、その「自由」「選択」という体験の出来る、この人間世界を創ったとい うわけですね。
これは神が一つ意識を分離させたことで、「何かを選ぶ」ことが出来るようになりました。

カルマというのは、その「選択」を可能にするプログラムと言えます。
最善、最良という法の外に出ることによってのみ、その最善、最良 の道を選択することが可能
となる、より大いなる愛、より大いなる素晴らしさ、 より大いなる喜びを追求し、探求してゆくこ
とが可能となりました。

光と闇、善と悪、喜びと悲しみなど、どちらか一方だけしかなければ、その片方を選ぶことは出
来ませんし、認識も出来ません。神は、この自我の世界、カルマプログラムを起動することによ
って、その選択の自由を生み出しました。

自我意識というのは、悪者のように思われがちですが、そうではなく、神自身が、選択の自由を
もたらす上での素晴らしいツールとなっているということですね。

「苦難の中から最善を選択する」というのは素晴らしい体験なんです。
光の当たらない業の世界に、本来の神そのものの姿を現してゆくことの喜びは、神様の世界に
はなかったものではないか、自分はそう思います。
>>[8]

あなたの話は理屈としては理解できます。

しかし、その内容に関しては大いに疑問があります。

なぜなら 神の世界 ・・・・ 最初から完璧そのもので 他の様々な体験が出来ないから、この世界が創造されたという話は、幾多のスピリチュアル関係の本で うんざりするほど読みました。

しかし そんなに単純に つまり肉体人間に こんなに簡単に解釈&解説できてしまうほど 宇宙創造に於ける神の意思というものはお粗末なものなのでしょうか?

一番波動が荒いとされる物質次元の存在に そんなに簡単に解釈出来てしまうとしたら、神も人間も大した差は無いという話になりませんか?

『次元が違う』というのは文字通り、この世界の理論や常識では全く捉えられない、全く解析・理解不能で当然のはずなんです。
Rahiriさん、

肉体の頭で考えて考えて考えぬいた末に、発見された物理の法則は、人間の考えたものでしょうか?

今の文明は、まだ高度な文明からすれば、まだまだ幼稚なものと思いますが、それでも、一度発見され
た法則というのは、万人にとっての普遍的な真理となっています。それは一個人の考えではなく、宇宙
の法則、絶対的真理であるからです。

発見されれば、それが万人共通の真理になるのが科学です。

でも、宗教における真理というのは、悟りを開いた人がそれを発見し、説いても、万人共通の真理とはなりません。

それはなぜでしょうか?

宗教における真理というのは、それを体験した人でしか、真理を理解することが出来ないからです。

それを真理であると、確認するためには、自分自身の体験を通してでしか知るすべはないんです。

Rahiriさんが、自分の書いた体験を読まれても、それはRahiriさんご自身の体験ではないため、その
理解を共有することは出来ません。

しかし、少なくとも、自分の体験と、過去の聖者、賢者の方が説かれていたことを比較し、共通点を
見出すことで、これは正しかった、いや間違っていた、という客観的判断をすることは出来ます。

そして何より、自分の心(ハート)が、元々は神そのものであったという記憶を持っています。

温かい感じ、嫌な感じ、気持ちいい感じ、不快な感じ、うれしい気持ち、有難い気持ち、それが一体
どこから来ているのか? を辿っていくことで、それが何なのかの正体を見極めることが出来ます。

肉体の自我なのか?それとも神としての本心なのか?

それは頭で理解することは出来ません。

頭で考えても、考えても、どこまで考えても答えは出ません。考え抜いた末に、考えることをやめた時、
(無になる、自我が消えた時) はじめて本当の答えが見つかります。

努力した末に、偉大な発見をした科学者のように・・ですね。

分からない、理解出来ない、そこが人間の良さだと、自分は思います。

Rahiriさんの謙虚な人間としての視点は、素晴らしいと思います。






http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=5524010&id=75563320
しばわんこファンさん、

おかげをいただく前提でお祈りをしているのではなく、自分の本心を開くためにお祈りをしているのです。
本心が開いていくことで、自分の今までの見方、感じ方、現実の捉え方が変わってゆき、心が平安になってゆきます。
そうすると、今までどうにもならないと思っていた現実が、結果的には変わりはじめるんです。

努力の方向性のどこが間違っているのか?をあえて書かせていただくとしますと、「現象利益」を目的
にされているという点です。

「現象利益」は、目的ではなく、「本心を開く」ことが目的です。

自分の本心へ向かう「努力」、お祈りや日々の行の積み重ねがまずは必要ではないでしょうか?

例えば、その人の性格や気質が、暗かったり、短気であったり、否定的なものを抱えていて、あまり人から好感をもたれなかったとします。すると、会社面接でもよく思われずに落とされてしまう、などという結果になってきます。

でも、いつも明るくてニコニコして、その人の近くにいるだけで安心感があり、気持ちが良くなるという印象を人からもたれますと、それだけで、人がどんどん自分の周りに集まり、人気も上がり、その結果、
仕事も運気も良くなっていくなっていく、気がつくと、人から頼られたり、相談を持ちかけられたり、会社
では、上役になっていったりするんですね。

これは、おかげとか、神様ごとではなく、その人自身の魅力と人柄が自分の環境を作っていったわけ
で、信仰していたからでも何でもないんです。

自分が人から好かれる人になる、ただそれだけのことなんです。

本心を開くというのは難しいようですけど、実はそういう当たり前の、いい人になるということなんです。

そうすれば、自然と何でも良くなってゆきます。

あながち宗教をしていると、すぐに何かに頼ろうとする習慣が出来てしまいます。
運が悪いのを、何かのせいにするのでなく、今の自分が人から好かれる人間になれるように努力精進
してゆくことは大事なことかと思います。

その上で、お祈りをし、神様に感謝を捧げてゆくという行為が、さらにその人を光輝やいたものにしてゆくことでしょう。

しばわんこファンさんの天命が完うされますように

世界人類が平和でありますように












本心が開けて行くことも、ある意味では神様から戴く おかげなのではないですか?
そうですね。

ここではご利益の意味で使っておりますが、

本当のおかげは、「何もしないで」いただくおかげでは無く、必ず「努力精進が伴う」おかげであります。

前者のおかげは、タダで得した気分になります。これはニセモノです。

後者のおかげは、その人の努力精進に応じて頂けるおかげです。これが本物です。

前者を求める人は、堕落への道、自分の尊厳を失う道へと進んでしまいます。

後者を求める人は、自立自尊の道へと至ります。

どちらを求めているのか?

自らの心をしっかり見つめていきたいものですね。

そんなに単純に本物or偽者って区別出来るものではないと思いますよ 。。。。 (^^;ヾ

私たちが神様から戴いている[おかげ]というのは、私たち自身が気づかないものまで含めて、ありとあらゆるものがあります。

当然その中には 私たちが努力・精進して手に入れたわけではないものも 沢山あるわけです。

大体 この宇宙が存在することに関して、その為の努力・精進している人っていますか?
本物か、ニセモノかを一番知っているのは自分、つまり神(良心)です。

人がなすべき努力もしないで、ただ神様にすがり、お願いばかりして、もしお願いが叶わなければ
神様が悪い、なぜ願いを聞いてくれないんだろう?そう思っている人は世の中にはたくさんいます。

神様を現実逃避の対象としてしまっている人は、過てる信仰観を持った人達です。
神社にはこんなお願い事ばかりする人が、後を絶ちません。

自分が本来神そのものであり、全ての運命、環境を作り出している張本人であると知ったなら、
神様にお願いしよう、という意識自体が大きく変わってゆくに違いありません。

本物とは、神様の自分を開くこと(努力、精進)によってのみ現れてくる(引き寄せられてくる)環境
そのもののことであります。

神様から戴いたというより、自らが引き寄せた、ともいえると思います。

そして、その神そのものの本心が開かれることによって、はじめて身の回りに在る「おかげ」に気づ
くことが出来るようになるのです。

本心が開かなければ、そのすでに在る「おかげ」にすら気づくことなく、生涯を終えるかも知れません。
もし、五井先生の教えを知らなければ、守護霊、守護神様のお働き(おかげ)も分からないままでした
から・・・

真理を知ること、自らの心を高めてゆくこと、その努力精進の出来ることが、この世界に生まれてきてもっとも価値のある、尊いことであると私は思います。



宇宙そのものが 常に変化・進化の途上にあり、全ての存在もまた発展途上にあると言えると思います。

ですから あらゆる存在、全ての人の人生は これ全て進化・発展の途上にあります。

つまり全ての人は皆、今現在[その人にとっての必要なプロセス]を生きているとも言えます。

したがって 人の数だけ人生観があり、人の数だけ価値観も存在します。

それを本物とか偽者とか、正しいとか間違っているなどと決め付けられるものではありません。

言えるのは あくまでも自分の人生に対してのみ、今の自分にとって必要なものとか 自分にとってより好ましい生き方という捉え方でしかありません。

それを あたかも人類全てに共通する普遍的なモノサシが存在するかのごとく勘違いしてしまい、教科書的というか優等生的な生き方を自分はしていると、ある意味で選民意識に染まってしまうのは白光の悪い癖だと思います。
白光に入ったから、真理の中にいる、救われた、そう思うのは間違いですね。
目の前に真理があっても、気づかなければ、何もなりません。
それは、真理を頭で理解していると、そうなりがちで、実際に行為として現してゆく中で、はじめて理解出来るものであります。
何が本当の真理なのか、そうでないのかを実感出来るとすれば、それは各人の体験以外にはありません。
正しいと自分が思うことを行じて、その結果を全て自己責任で受け入れてゆく、ただそれだけであると思います。




Rahiri : ツトム ご両人様

神理はそれぞれに ご存知のようですね

ただ 文章に表すと、 言葉足らず!! ニアンス?は伝わり難いですねぇ〜

あえて、 過激な表現をしてでも?? 次のコメントを引き出す!!

それも、また良いのではないでしょうか。

そして、 其の都度 新たな気付きなり、 自身の確認する事となるのですから。

   あえて  過激?!!な文章も ・・・・ですよ。ねぇ〜

批判 : 非難 : 評価も下さず。 ・・・・ですよ。

  プロセス通りに、体験を楽しみましょう。

五井先生は  すべてを、 ご存知で 人類即神也の印を 「 文章を 」
 降ろしてくださいました。

( 我即神也、 人類即神也、 は昌美先生により 神界の五井先生より下されたものです。)

それぞれの役目が違う、のです。

私達も五井先生よりお役目をいただいて、五井先生と一体の働きをしていくのです。

寝ても覚めても・・・

世界人類が平和でありますように。   です。
>>[33]

>何かムシャクシャしたら、五井のバカヤローでも何でもいいから、私にぶつけなさい、と五井先生はご著書の中で言われていたけど、

私は最初それを本で読んでビックリしました。それの書込みで白光に行ってみようと思いました。

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