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パセオフラメンコ社長室コミュのフラメンコ公演忘備録

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 広まりながら深まる。
 深まりながら広まる。

 そんなイメージで改めてスタートする、
 フラメンコライブのガチンコ感想欄。

 寄稿されたライブ感想は、まずは日刊パセオフラメンコに転載。
                (http://www.paseo-flamenco.com/)
 さらにセレクトしたものを月刊パセオフラメンコに掲載します。
 (次回は2012年1月のライブ感想=2/5締切〜2012年4月号掲載)

                      

コメント(417)

フラメンコ・フェスティバル2014 / サムライ・フラメンコ

2014年5月4日(日曜)  新宿文化センター・大ホール
【バイレ】河内さおり/ルイス・デ・ルイス/イバン・バルガス 
【カンテ】エル・ガジ/マヌエル・デ・ラ・マレーナ/ミゲル・デ・バダホス
【ギター】エミリオ・マヤ/パコ・イグレシアス/蒲谷照雄

「哀切の深みは、超えたところに。」

 サムライ・フラメンコ。その名の通り武士道がテーマの作品。

 フラメンコの舞台にどのように武士道の演出を取り入れるのか興味深く観た。そもそもなぜ「侍」を名づけたのか、その文化性をどう表現するのか。形態、所作、精神性、それに異国の文化との対比等、芸術においてその表現方法は様々だ。

 舞台はアンソロジーの要素を持つ一部と、創作的な二部とで構成される。序盤、静寂の舞台に白の着物を身に付けた舞踊手・河内さおり。作法に則り張りつめた空気の中、剣を手に取る。剣の動きは妖しく光り、剣術経験者ならではの所作は瞬時にして空間を支配する。緊張感の高まるプロローグだ。
 対称的に、後の場面で真紅のドレスを身に纏ったその姿は情熱的で、弾けるような情感で客席を包み込む。緩急の妙、リズムのよい展開。

 この作品には二人の男性舞踊手、ルイス・デ・ルイスとイバン・ガルバスが共演している。ルイス・デ・ルイスの舞いは直線的で序章となる剣の舞いと重なるようだった。一方、イバン・ガルバスのそれは柔らかく、二人による掛け合いにも対比の妙を感じる。

 若手男性舞踊手達の舞いを観ながら思ったのは、異性からの視点。異性である舞踊手の舞いを観る時、男女ともセクシャリティな要素が加味されることは当然だ。男性ならば女性舞踊手が持つ肉体の曲線やプロポーション、所作の柔らかさ、本能を呼び覚ますような動物的な魅力等に惹かれるだろうし、女性ならば男性舞踊手への着眼点も違うだろう。

 では同性愛的要素を除いた男性が観る、男性舞踊手の魅力とはどこか? 
それは深い部分にある「哀切」への共感にあるのではないだろうか。
 様々な芸術において、物悲しく哀れな想い(哀切さ)に惹かれるのは対極にある「歓喜」を求めるからこそ。喜びを認識出来るのは、苦しみや悲しみ、哀切を感じ取ることが出来るからだ。虐げられた歴史、未来への渇望、不撓不屈さ、そうした苦悩と強さに触れてこそ尊敬と深い感動を得ることが出来、それはセクシャリティな魅力を超えたところに存在する。

 後半、二部では舞台に設えられたテーブルでワインを愉しみ踊る場面。その様は男が女を慈しみ、女が男を慈しむ朗らかさと艶やかさがあり、心を軽くしてくれる。哀切と艶やかさを楽しめるフラメンコならではの楽しみ。
 終盤、河内は般若の面で現れた。般若面は「嫉妬、恨みの篭る女の顔」としての鬼女の能面。ここで用いた文化的意味は推察しかねるが、再び緊迫感あふれる場面となった。続くソレアでは河内、ルイス、イバンによる熱の籠った舞いが激しい感情を表出する。

 数々の修練を経た舞踊手の舞いから哀切を感じ取るには、鑑賞者にも顧みる心が必要だ。心が荒んでいては何も感じない。芸術に触れる時、感じるままにいられることが大切でそれは幸せなこと。
セクシャリティな視点や表層的な文化対比を超えてこそ、本質的な部分に触れられることに気付かせられた作品だった。


(修正があったので差し替えます)

現代舞踊協会+日本フラメンコ協会 日西交流400周年記念特別企画公演
モダンダンス5月の祭典『バラと桜の祝祭』
5月20日(火)〜23日(金)/東京(池袋)東京芸術劇場プレイハウス
(20日・23日)【踊り】花輪洋治/山田恵子/加藤みや子ダンススペース/鈴木敬子/石井智子スペイン舞踊団/鈴木眞澄スペイン舞踊団/チャリート剣持/大塚千津子/三枝雄輔/岡本倫子/森田志保/本間牧子/チャチャ手塚/渡邊薫/小林伴子フラメンコスタジオ/曽我辺靖子フラメンコスタジオ/花岡陽子スパニッシュダンスカンパニー/岡田昌己【カンテ】川島桂子/有田圭輔/石塚隆充/大渕博光/エンリケ坂井【ギター】片桐勝彦/今田央/三澤勝弘/山崎まさし/鈴木英夫
(21日 現代舞踊企画作品「洞の女」)【踊り】(特別出演)小島章司/関睛光/松田知也/井上恵美子ダンスカンパニー/小島章司フラメンコ舞踊団/坂本秀子舞踊団/日比野京子モダンダンススタジオ【カンテ】アギラール・デ・ヘレス【ギター】マヌエル・デ・ラ・ルス
(20日、21日、23日の回を鑑賞)

閃きの向こう側へ            
 
 異ジャンルとの交わりは新鮮な閃きをもたらす。
 それを芸術に昇華させるために挑んでいく過程には、歓びの裏にいくつもの悩みや苦しみを伴うだろう。伝統の重み、文化の違い、その水際での葛藤を乗り越えてなお追求せずにはいられないもの、そこから人の心を動かすものが生まれて来るのだと思う。フラメンコとモダンダンスの記念すべき初の競演は、アートの豊饒な可能性を示してくれた。

 山田恵子さんと花輪洋治さんによる誇り高いスペイン舞踊『ソレア風の前奏曲』で幕が開く。舞踊芸術への志の高さが伝わってくる。加藤みや子ダンススペースの柔軟な身体を駆使した『カディスの娘たち』。若々しいモダンダンスにアンダルシアの太陽の輝きをみた。鈴木敬子さんの『ダンサモーラ』はイスラム文化が濃厚に薫るベリーダンスにフラメンコの魂を注ぎ込み、観る者の胸の底にある情感を熱く呼び覚ましていた。 石井智子スペイン舞踊団は、アンダルシアの洞窟で受け継がれて来た、いにしえのフラメンコを絵画的な美しい色彩で鮮やかに蘇らせていた。鈴木眞澄スペイン舞踊団はファリャの『はかなき人生』を優雅に舞い、スペイン古典舞踊からフラメンコへの流れをエレガントにつなげていった。三澤勝弘さんのギターソロによる「シギリージャ」、その深淵なフラメンコの音色に襟を正す。石塚隆充さんは「ファンダンゴ」を日本語で弾き語りフラメンコの心を身近なものに引き寄せてくれた。鈴木英夫さんと山崎まさしさんによるギターデュオはモノトーンの郷愁を立ち上らせる。エンリケ坂井さんの唄う渋いソレアにヒターノの哀しみを想う。そして第一線で活躍する舞踊家8名が一堂に会した華やかなクアドロフラメンコに心が湧き立った。森田志保さんのタンゴが印象深い。野性的な反射神経の中にモダンな色香を漂わす。そしてソレアを踊った本間牧子さんの凛とした眼差しには深い愛の信念が宿っていた。小林伴子フラメンコスタジオ・ラ ダンサによる打楽器のみのパフォーマンスはその繊細さに圧倒される。パリージョ、バストン、カホン、そしてパルマ。一糸乱れぬリズムの上に小林伴子さんが華麗なエトワールの風格でさらにパリージョを重ねて行く。緻密な響きの重なりが創り出す濃厚なうねりに吸い込まれた。曽我辺靖子舞踊団は、斎藤タカヤさんのジャジーなピアノと大渕博光さんのメロディアスなカンテとの洗練された融合で、都会的でドラマティックな世界を描き出す。すっきりとしたフォーメーションの移り変わりは女性美を浮かび上がらせ、モダンフラメンコの結晶の煌めきをみせた。花岡陽子スパニッシュダンスカンパニーは、ヒターノの一家の来し方をノスタルジー溢れる舞踊で描く。フラメンコを踊る幼子が家族のもとに駆け寄って行く。その愛情に満ちたシーンが幼少の頃の遠い記憶を蘇らせ、そこはかとない切なさが沁みた。最終日、すべてのラストを飾ったのは岡田昌巳さんのスペイン舞踊。脚の不調が心配されていたのだが、気迫の復帰を遂げられた。自分を信じて歩み続けるということは孤独との闘いであると岡田さんは身を持って示してくれる。苦しみを浄化させたフラメンコは凄絶なアイレに満ちていた。「赤い靴」を自ら履いて踊り続けて行く姿が、映画『サンセット大通り』で迫真の演技を貫いたグロリア・スワンソンと重なって見えた。日本のフラメンコの礎となってきた美しき執念を目の当たりにし、思わず居住まいを正した。 (続きます)
(続きです) 
 小島章司さんが特別出演、振付をされた現代舞踊企画作品『洞の女(どうのひと)』は特に深く胸に刻まれている。異質なものと出会う歓喜と苦悩を描いたこの作品は、今回のコラボレーション公演に託した望みを見事に象徴していた。宮殿の娘と洞窟のヒターノたちとの交流そして別離。そこに潜む深い憂いを小島章司さんが声なき慟哭の独り踊りで表現する。ラストシーンは、そういった出会いの繰り返しが新たな変化をもたらしていくという希望を予感させ、そこに救いがあった。舞踊、音楽ともに、異ジャンルのアートからインスピレーションを得て、互いに恐れずに踏み込んでいったからこそ生まれた記念碑作品となっていた。

 アーティストたちの閃き、そしてそれに向かう果敢な挑戦を目の当たりにした濃密な四日間は、あっという間に過ぎ去った。ここで生まれた素晴らしい作品群が今回の上演のみでしか観られないとしたら、あまりにも惜しい。再演を重ねることで、これらの作品がさらに成長して行くことを願う。そしてこの公演の理念とともに次世代へと継承されることを祈っている。
desnudo Flamenco Live Vol.13 小島章司 魂の贈り物
6月5日(木)/東京(代々木上原)ムジカーザ
【バイレ】(特別ゲスト)小島章司/佐藤浩希/矢野吉峰/末木三四郎/関�掌�/松田知也【カンテ】マヌエル・デ・ラ・マレーナ/アギラール・デ・ヘレス【ギター】マレーナ・イーホ/斎藤誠

十字架を背負う男たち         

 男だけによる浄夜はモノトーンの幻想となり胸の奥底に留まり続ける。
『歓喜の歌』の低いハミングが流れる。「すべての人々は貴方の翼のもとで兄弟となる」というベートーヴェン第九の詩のイメージが浮かぶ。男たちに囲まれ、佐藤浩希が横たわり、その上に小島章司が身体を重ねる。静謐なエクスタシーが漂う。それは継承のための神聖な儀式だった。息が詰まるような無言の緊張感。ムジカーザの張りつめた空気は、満場の観客の濃密な歓びに満ちていた。持ち望んでいた『魂の贈り物』、5年ぶりの幕開けだった。
 
 小島直伝の振付はフラメンコの重厚な伝統美を現代に伝えてくれる。5人の男性がタキシードで踊った「ファルーカ」は、誇り高いダンディズムを薫らせる。アントニオ・ガデスの禁欲的な色気が蘇る。それは渇望し続けていたフラメンコだった。無駄なものをすべて削ぎ落とした直線的で厳格な動きはあくまでもエレガントで、清冽な余韻を残す。今ではあまり踊られなくなったという「ハレオ エストレメーニョ」は懐かしさの中に粋な味わいを醸す。雄々しい力強さを持つ末木三四郎と両性具有的な繊細さを持つ松田知也が視線を絡ませながら踊るパレハの妖しい魅力に引き込まれた。矢野吉峰、関�掌�、そして佐藤浩希による「ソレア」では、信念を貫こうとする彼らの闘志に圧倒される。美しい魂を求め厳しい闘いを乗り越えて来た小島章司の孤高の精神が彼らの踊りに深く宿っていた。端正なフラメンコは踊り手の個性を明確に映し出すもの。初演時と同じメンバーが5年という歳月を経て、それぞれのアルテを鮮やかに深め、そしていっそう極めようとしている姿にも、私は感動を覚えた。
 
 黒装束の小島章司が舞うトナ・イ・シギリージャは圧巻だった。小島が厳かに舞台へと向かう。その姿は、自ら十字架を背負いゴルゴダの丘を目指すキリストを彷彿とさせる。その十字架はフラメンコの神に選ばれた者に与えられた宿命であり、その歩みは苦悩の重みを感じさせながらも一歩ごとの前進に深い歓びを滲ませる。小島の研ぎ澄まされた魂はカオスを浄化していくエネルギーに溢れていた。ストイックに自らの人生をフラメンコに捧げて来た気高い心は私たちの煩悩さえも透明なものにし、見えないはずのものを見せ、聴こえないはずの声を聴かせてくれる。スレンダーな肢体はしなやかな御神木の存在感を持つ。75歳の強靭な生命力はどこまでも精神の根を張り、枝を伸ばし、フラメンコを畏れ愛する若者たちの神々しい拠り所となる。そして彼らの真摯な想いを包み込んでいく。
 
 ラストシーン。横たわった小島を5人の使徒たちが棺を担ぐように高らかにリフトする。静かなる絶頂。けれどそれは終焉ではない。小島章司のエロスとタナトスの血は次世代の男たちに受け継がれ、彼らの体内で色濃く流れていくであろう。その「贈り物」は彼ら個人のみならず、そこからさらにフラメンコの果てない海に広がり、永遠に昇華し続けていくに違いない。
新宿芸術家協会公演 Vol.18 ベートーベンを踊る〜現代のカオス新宿より〜
6月15日(日)/東京(新宿)四谷区民ホール
【第一部フレッシュコンサート】曲沼宏美/樋口あかり/金城瞳/松本れいか/鈴木彩乃/伊勢亀つむぎ/四方芙紗江/早川光江/鈴木滋子/中原美智代/鈴木恵子/川口正美/林裕子/町井直美/真鍋留美子/山根智子/廣野久美子/金井信子/岩崎祐希子/古井戸栞/佐藤敏輝/佐々木紀子【第二部ベートーベンを踊る】秋田勇魚/雑賀淑子/佐藤雅子/佐々木麻希子/竹井まりな/平松加奈/石田紫織/石井由実子/小林祥子/五十嵐美和/松本薫/五十嵐由希子/大谷けい子/入月兼一/上田ふみこ/古田真祐子/高畠伸吾/井出壮志朗/矢吹由羽/小林伴子/吉野弘志/豊剛秋/ナルシソ・メディナ/渡邉美紀/渡辺麻紀

豊かなカオス                

 静けさの中、美しい月をひとり見上げる孤独。青白い光に狂気へといざなわれていくような怖さをふと覚える。

 笙とベースによる『月光ソナタ』で小林伴子さんがフラメンコを踊る。異文化の三位一体は「もののあはれ」の境地をみせてくれた。ベースが低く囁くように、あるいは想いと連動する鼓動のように、三連のアルペジオを弾き続ける。笙が野を渡る風のように『月光』の旋律を奏でる。笙の音色の意外な官能性に引き込まれる。艶やかな音は時おりすすり泣くように擦れ、野性的に喉を鳴らす。人の息遣いの波がリアルに吹き込まれていく。小林伴子さんが純白のバタ・デ・コーラをまとって佇む。パリージョが渇いた音をゆったりと響かせる。音の間に在る情感の気配が胸に沁みる。秘めた想いをていねいに言葉に置き換えていくような切なさが滲む。ここではいつもの流麗なフラメンコ的連打以上に多くを物語っているように感じたのが不思議だった。

『月光ソナタ』を書いた頃、ベートーヴェンはすでに難聴の兆しを感じていた。翌年には「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いたという苦悩の時期であり、その意識は内向性を深め、常人には決して聴こえないものを聴いていたのではないだろうか。その狂おしさは月の光の妖しさとともに、ベースに笙にそして小林さんのアイレに浸透していく。スリリングな音の対話のセッションは官能のうねりとなって昂揚していく。そして再び静けさが戻り、小林さんの白い後姿が月光に溶け込んでいく。なまめかしい幻影の余韻が残る。
 
 雑賀淑子さんの端正な朗読とギターソロによる『月光ソナタ』のコラボレーションからはベートーヴェンへの敬意が伝わって来た。佐藤雅子さんによる、第九とインド宮廷舞踊のエキゾティックなアンサンブルは、幻想の旅へといざなってくれる。小林祥子さんは自らベートーヴェンを演じ、音楽の力によって自殺の危機を乗り越えた歓びを舞った。大谷けい子さんは大気の精霊となり、声楽4重唱による『歓喜の歌』と共に朗らかな踊りで生命の輝きを表現した。ナルシソ・メディナ氏と渡邉美紀さんは『悲愴ソナタ』の嘆きと渇望を、力強いコンテンポラリーダンスに託した。第1部は恒例のフレッシュコンサート。門下生たちが踊りに込めるそれぞれの決意や幸福への想いが伝わって来る。彼女たちの伸びしろが清々しい。ひとりずつ名前をコールされての晴れやかなレヴェランスがアートの未来に希望をもたらしてくれる。

 18回目となる新宿芸術家協会公演。毎年「現代のカオス新宿より」と銘打っており、今回は舞踊家たちがそれぞれのアートを楽聖ベートーヴェンの音楽に昇華させた。真剣な遊び心に満ちた上質のパフォーマンスが生まれて来るのは豊かなカオスの懐があってこそ。そしてその街に誇りを持つアーティストたちの粋が歴史を重ねている。
オペラ『アイナダマール』プレコンサート
魂の詩人ロルカとアンダルシア 〜『アイナダマール(涙の泉)』への旅〜
6月28日(土)/東京(日比谷)日生劇場
【カンテ】石塚隆充【ロルカ役・朗読】伊礼彼方【ギター】智詠/ICCOU【ヴァイオリン】SAYAKA【ベース】コモブチキイチロウ【パーカッション】大儀見元【ピアノ】石塚まみ【バイレ】アントニオ・アロンソ/伊集院史朗(パルマ)/吉田久美子(パルマ)/朝日千晶/伊藤拓【オペラ】飯田みち代/清水華澄/馬原裕子/平塚洋子(ピアノ伴奏)

現代に生きるロルカ           
 
 ロルカがピアノを弾き、当時のスター、ラ・アルへンティーナが歌うスペイン民謡のCDがある。80年以上も昔の陰翳ある味わい深い響き。そこからはスペインの古い歌を採取するだけではなく自ら編曲し演奏したロルカの音楽的才能の一端が伺えるが、それ以上に彼の郷土への深い想いが感じ取れる。
 
 今回のプレコンサートは、そんなロルカの魂を鮮やかに蘇らせてみせた。エキゾチックな酒場の雰囲気の中で、石塚隆充がミュージシャンと共にヒターノの哀歓を生き生きと歌い上げる。俳優の伊礼彼方は、粋な白いスーツ姿でロルカを演じる。終始、舞台上の片隅のバーで演奏に聴き入り、ワインを飲み、思考し、そして艶やかに詩を朗読する様はまさに美しいロルカその人だった。そしてそのヒターノとロルカとの対比にふいに気付かされた。

 ヒターノの血を遠くに引きながら、グラナダの裕福なインテリ家庭に生まれ育ち、リベラルな思想を受け継いだロルカは、ヒターノたちのたくましさの中に凄絶な美学を嗅ぎ取っていた。刹那的な生き方の背後には常に死がある。その闇にロルカは惹かれたのではないか。けれどその憂いに満ちた芸術に共感しながらも、ロルカはその繊細さゆえにスノッブな距離を保ち続けるしかなかった。舞台ではそんな孤独感が浮き彫りにされていた。だからこそ安全に生きる道を選ばなかった。浮き草のように漂う魂が死を呼び込んでしまったようにも思える。無意識を支配していた死がヒターノとロルカを結び付けていた。皮肉にもそのギャップは、ロルカの凄惨な死をもって初めて埋めることが出来たのかも知れない。

 石塚の端正で伸びやかな歌声が、スペイン民謡に新たな生命を吹き込んだ。このコンサートのためにロルカの原詩に深く踏み込み、かつてロルカを歌った巨匠カマロンの偉大さと向き合いながら、いにしえの曲を譜面に起こしたという。アカデミックに声楽を学んだ石塚もフラメンコの魅力に憑りつかれ、その精神を次世代に伝えようとしている。彼もまた現代のロルカなのかも知れない。石塚がこの日のために曲をつけたという『スペイン警察隊のロマンセ』の昏い響きが胸の底になおも残る。「老いたヒターノらが逃げまどう」という詩の描く残酷な光景は、ロルカの死の翌年に起こる、ピカソが描いたゲルニカの悲劇を不吉に予感させる。詩人の繊細な直感は人間持つ残酷な本質をあぶり出してしまうものなのか。

「アイナダマール」とはアラビア語で「涙の泉」を意味する。グラナダのオリーブ畑にあったその名を持つ泉でロルカは惨殺された。愛する故郷で彼はどんな想いで死んでいったのか。「スペインでは死によって幕が上がる」と語ったロルカの歌の世界に触れた今、心はすでに11月に初演されるオペラ『アイナダマール』に飛んでいる。
チャチャ&マミ ジョイントライブ
6月18日(水)/東京(新宿) エル・フラメンコ
【ルンベーラ】チャチャ手塚【バイレ】鈴木眞澄【ギター】鈴木英夫/山��まさし【カンテ】永潟三貴生【ベース】五十川博


破顔一笑の夜


「いろいろな経験をしてきたけれど、これからもフラメンコで生きていく」。
鈴木眞澄作詞、鈴木英夫作曲、チャチャ手塚歌唱による
ルンバ「Tantos Recuerdos(たくさんの思い出)」は、
3人で作ったので3人揃ったときにだけ披露するのだという。
歩いてきた道のりを噛みしめ、未来の希望を語るこの曲は、
節目節目で大切に歌われて、今宵のオープニングを飾った。

鈴木眞澄が踊り、チャチャ手塚がルンバを歌い踊る。
1曲終わるごとに2人の積み重ねてきた友情と
破局(!)の危機の話と、
これまでのこと、これからのことが語られていく。
客席からはなぜかトークのたびに笑いが起こる。
舞台上の人々の人柄が会場を包む、
明るく、和やかで、それでいて一曲一曲が真剣勝負のコンサートだ。

チャチャの歌うルンバは最初は甘く切なく、
やがてテンポを上げて力強くなっていく。
パルマをたたく鈴木眞澄も最後は一緒に歌い、盛り上げる。
こちらも一緒に歌い出したくなる。

タブラオを盛り上げていたのがブレリアではなく、
ルンバであり、ルンベーラだったのはそんなに古いことではない。
ステージの要所要所で美人のルンベーラが登場し、
思い切りセクシーで、哀愁漂うルンバを歌い、踊って魅せる。
そういうタブラオのほうがずっとずっと楽しかったんじゃないだろうか。
その晩のエルフラはほんの少しだけタイムスリップしたかのような
空気を醸し出していた。

今年の初めに鈴木真澄と会ったとき、たまたま、
「自分が踊っているのはシンプルでオーソドックスなフラメンコだ」
という話になった。
現代フラメンコは、振りが複雑で、いかに細かく、いかに速く動けるかを
追い求めるようなものも多い。
例えば、その複雑な振りをところどころ簡単にして踊ることと、
もともとシンプルに作ってあるフラメンコはタイプが違う
と話していたのが印象的だった。

今回のライブは、その話の意味を直接見て感じたいと思って行った。
いざ、鈴木のアレグリアスが始まると、
あっという間にそのフラメンコに没頭してしまった。
「シンプルでオーソドックスなフラメンコ」というと、
何十年前の古いフラメンコをずっと踏襲する
と誤解されそうだが、そうではない。
オーソドックスなフラメンコの約束事を守ることで、
カンテとギターとバイレにあ・うんの呼吸が生まれ、
だからこそそれぞれが新しいことに挑むことができる。
観客は、「次にこう来るな」と思って期待していると、
ちゃんとそこで来てくれる。そして、「そう来たか!」となる。
カンテとギターに身を委ねたバイラオーラは解放され、
鳥のように舞台を泳ぎ、舞台の空気を大きく攪拌していった。
攻めているのに満たされている。
「シンプルでオーソドックスなフラメンコ」はとても新しくて、
おなかの底のほうに灯がともるようなフラメンコだった。

その夜の感想は一言で表すと、「めっちゃ楽しかった!」だ。
にっこにっこの笑顔で会場を後にした。
フラメンコ劇「ヨコハマ・ヴァンパイア」〜孤独と苦悩に捕らわれた魂の叫び〜
7月12日(土)東京(赤坂)ノヴェンバー・イレブンス1111
【脚本 演出】 畑圭之助【演技 踊り】 箆津弘順【作曲 演奏】 渡辺イワオ【監修】 立花真弓


「芝居の中のフラメンコ」


ストーリー仕立てのフラメンコ公演は数多くあるが、
出演者が二人だけというのは見たことがない。
いったいどんなものが始まるのか想像がつかないまま開演を待つ。

おそらくヴァンパイアであろう箆津が現れると、
キーが狂ったような旋律が始まる。
ふいに焦燥に駆られたエスコビージャが始まり、
激しいギターが踊り手をさらに追い立てていく。
踊り終わると箆津は息を切らせた様子も見せず、
椅子に座って、静かに語り始めた。

「ヨコハマ・ヴァンパイア」は横浜開港150周年の際に、
ミュージカルとして上演された作品だ。
開港とともに寒村だった横浜が栄え、外国人が移り住み、劇場が建つ
という歴史を追いながら、
その劇場で歌手としての才能を開花させていく村娘と、
異国から流れ着いたヴァンパイアとの
出会いと別れ、そして再会を描く。
箆津は振り付けでの参加だった。
本公演は、フラメンコ音楽と一人芝居に再構成されての再演だ。

ストーリーもののフラメンコは、普通踊り手がセリフを言わない。
あくまでフラメンコ側から芝居へのアプローチだが、
これはセリフあり、演技ありの芝居側からフラメンコへのアプローチで、
「フラメンコミュージカル」と言ってもいいかもしれない。

一人芝居用の脚本では、主人公のヴァンパイアの心情が中心に描かれている。
長身で細身の箆津はヴァンパイアが乗り移ったかのようで、
血への渇望、罪の意識、生き続ける孤独、初めての恋、
ヴァンパイアとしての自分と人間としての自分との間で揺れ動く心を吐露していく。

それらの心の有り様にフラメンコ音楽が見事にマッチする。
舞台の隅に座り、眼光するどく演奏する渡辺の存在も空間を圧迫した。
聞き慣れた定番曲ではなく、この作品のために作曲された数々の曲は、
ヴァンパイアの心の動きをとらえた緊張感のある濁った音を出し、
聴いている者の心を掻きむしる。
それに合わせる箆津の踊りはマントを翻すように大きくうねり、
靴音は抑制されて繊細さが伝わってくる。

世の中にあまたあるミュージカルの中で、
本格的なフラメンコが踊られることはほとんどない。
さまざまなジャンルを踊る名うてのミュージカルダンサーたちでも、
普通はフラメンコが踊れない。
それだけフラメンコの音楽や踊りは特殊な芸術なのだろう。
日頃、フラメンコもどきの音楽や踊りを見てもやもやすることも多いので、
芝居の中に本物のフラメンコが入っているだけでも新鮮で、爽快だ。

会場にはフラメンコファンと演劇ファンがいた。
演劇ファンにとっての本格フラメンコは、
思いも寄らぬ素敵なギフトのようなものだろう。
フラメンコファンにとっては、タブラオの狭い空間での演劇は
少し気恥ずかしかったかもしれない。
ジャンルミックスは産みの苦しみも大いにあると思うが、
いろいろな可能性を秘めている。今後を期待したい。
オペラ『アイナダマール』プレコンサート
魂の詩人ロルカとアンダルシア  〜『アイナダマール(涙の泉)』への旅〜

2014年6月28日(土)/東京(日比谷)日生劇場
【カンテ】石塚隆充【ロルカ役・朗読】伊礼彼方【ギター】智詠/ICCOU【ヴァイオリン】SAYAKA【ベース】コモブチキイチロウ【パーカッション】大儀見元【ピアノ】石塚まみ【バイレ】アントニオ・アロンソ/伊集院史朗(パルマ)/吉田久美子(パルマ)/朝日千晶/伊藤拓【オペラ】飯田みち代/清水華澄/馬原裕子/平塚洋子(ピアノ伴奏)


「心の痛点を知る詩人、ロルカ」

 「死は、スペインでは、他のどこにおける死よりも生命力にあふれている」ロルカによるこの言葉は彼の思考と創作を見事に表している。

 スペインを代表する詩人ロルカの作品を味わうには、スペイン内戦時代、宗教を下敷きとする死生観を知る必要があるだろう。
1936年、38歳という若さでフランコ派クーデターの最中、政治活動者とみなされ銃殺されるこの若き天才詩人は、国民的人気者でもあった。30歳で出版する詩集が文壇で評価され、その後劇作家としても活躍するロルカの周辺には、前衛芸術家サルバドール・ダリや、後に「アンダルシアの犬」、耽美的作品「昼顔(カトリーヌ・ドヌーヴ主演)」を創る、ルイス・ブニュエルらが居る。

 ダダイズム、キュビズム、シュールレアリスム、デ・ステイル等様々な芸術運動が生まれ、その一方戦争に翻弄される20世紀初頭に大人への階段を上ったロルカの特徴は、芸術運動を基にする自由な思想と、遠くヒターノの血を継ぐ悲哀と死への傾倒ではないだろうか。
 今年11月に初演されるオペラ「アイナダマール」のプレとなるこの舞台はアンダルシアの酒場を模した雰囲気のなか進んでいく。白のスーツとソフト帽に身を包むロルカ(伊礼彼方)がバーカウンターでワインを飲みつつ思考を重ね、詩を朗読し、酒場の一角で美しいメロディに乗せて石塚隆充が唄うロルカの詩に、聴き入る設定だ。

 プログラムは一部ではスペイン民謡を中心に、二部ではロルカの作詞を中心に構成された。
スペイン民謡の詩は、街、店先、畑など日常風景を切り取ったものが多く、メロディの向こう側に景色を感じる不思議さがある。それは言語の壁を超え、感情を喚起する万人に共通した心象風景を巧みに衝いてくるからなのだろう。
 そしてロルカによる詩は、もう一歩踏み込んだ情動や心模様、抗えない自然の持つ力や、生と死を謳い、私たちの「心の痛点」を衝いてくるようだった。だからこそ石塚の端正さが適度な柔らかさを伴い、ゆったりとした空気を醸し出していたのだと思う。

 印象に残る舞踊手アントニオ・アロンソは激しさだけではない厚みのある存在感でロルカの世界観に奥行きを与え、アレンジの効いた洗練された音は、バックミュージシャン達の質の高さを伺わせてくれた。

 オペラ・コミックの形態を取るこうした作品で最大の課題は言語の違いだ。スペイン語を理解できない観客が多い日本ではその言葉の意味を知り、味わい深くする切掛けを掴めないことが多い。しかしここでは後方に日本語訳を映し出すことによってカンテのリズムに身を任せつつ、ロルカの詩の意味を噛みしめることができた。単純な事だが作品を伝えるには大切なことだと思う。

 ロルカは詩や戯曲を発表する前に必ず仲間の前で朗読していたと言われるが、それは詩は読まれるものではなく、謳われるものであるとの思考からなのだと改めて気付かされた舞台だった。

言葉の魅力を前面に出すこの試みに、再び触れてみたい。



プリメラフラメンコフェスティバル2014
フラメンコのニューウェーヴ Vol.14『絆』第一日
7月18日(金)/東京(新宿)全労災ホール スペース・ゼロ
【バイレ】宇根由佳/井上圭子/鍜地陽子/小島慶子/小島正子/大塚友美/草野櫻子/入交恒子【ギター】宇根理浩/鈴木淳弘/小原正裕/金田豊/徳永武昭/鈴木尚/原田和彦/高橋紀博【カンテ】有田圭輔/川島桂子/ミゲル・デ・バダホス【パルマ】伊集院史朗

それぞれの愛の形             

 心を寄せる女性舞踊手には、誰に対するよりも気持ちを込めて伴奏する、
とギターをたしなむ知人男性二人が語り合っていた。
 
 なるほどそうであるならば、群舞の中でただひとりギタリストの心を捉える女性は、やはり人を惹き付ける華のあるバイラオーラであり、 溢れる恋心をギターに託して想いを遂げる男性もまた、より繊細で豊かな感性を持ったアーティストといえるのかも知れない。それぞれそんな歴史もあったであろう、フラメンコを通して結ばれた夫婦たちの競演、その熱さに酔いしれた。
 
 宇根理浩、宇根由佳夫妻のタラント。ギターの温もりに包まれ、憂いを帯びた表情で踊る宇根由佳は、男たちの憧れ見る幻想のような芳しさを放つ。鈴木淳弘、井上圭子夫妻のアレグリアス。優雅なバタ・デ・コーラの舞いは咲き誇る大輪の花を想わせ、繊細なサパテアードはバレエのステップのよう。それを支える鈴木の笑顔。愛情に煽られて踊る歓びを想像する。小原正裕、鍜地陽子夫妻のシギリージャ。小原の、シタールを思わせるプリミティブなギターの響きが激しく心を揺さぶる。それは硬派で闘争的な鍜地の踊りと絡みながら共に高みを目指す。フラメンコの源流を大胆に遡ることでシギリージャの魅力を際立たせた重厚な作品だった。金田豊、小島慶子夫妻のセラーナ。小島の荘厳な佇まい。その気迫から情感が静かに溢れ出す。かつて師事したファルーコの誇り高さを受け継いでいく。格調高い舞踊に揺るぎない信念が宿っていた。永武昭、小島正子夫妻のタンゴ・デ・マラガ。夫婦の誠実な愛情が滲む。この包容力のある優しさが若手実力派ギタリスト兄弟を育てた。家族への憧憬がこみ上げる。鈴木尚、大塚友美夫妻のタンゴ。色彩溢れるギターにコケティッシュなバイレが柔らかく絡んでいく。浜松への郷土愛を感じる。それはヘレスに暮らしフラメンコを粋に楽しむ男女の姿と重なりゆく。原田和彦、草野櫻子夫妻のアレグリアス。奔放な伸びやかさの中にも端正な折り目正しさがある。都会的な洗練がすっきりと滲む。高橋紀博、入交恒子夫妻のタンゴ・デ・マラガ。高橋のギターソロがゆるやかに湿度を高めていく。その音色に安心して身を委ね、入交は憂いと歓びの陰翳を鮮やかに踊り、詩的でドラマティックな世界を創り上げていく。
 
 これまでライヴやリサイタルで見ていたはずの実力派アーティストたち。夫婦の競演によって、それぞれの持つ本質がより明確に浮き彫りとなっていた。フラメンコの美しさは、清濁併せ持つ人間の本音で勝負する潔さにある。その極みともいえる恋愛を通じて結ばれた男女が織りなす舞台だからこそ、内なるものがストレートに溢れ出ていた。そのリアルな躍動感に胸を打たれる。そういったものを引き出し合う相手と巡り会い、互いに芸術を高めていけるとは、なんと素敵なことだろう。あえていえばもっと官能が出てもいいと思ったが、この奥床しさが日本人のフラメンコの良さなのだろう。
印象的な舞台創作で、発表会というレベルを超えて楽しめたので書いてみました。
舞踊手による舞台演出、をテーマにしています。


「舞台創作を観る楽しみ」〜屋良有子フラメンコ教室・発表会〜

 7月19日(土) 中野ゼロ小ホール
 第3回屋良有子フラメンコ教室発表会
 
 踊り:屋良有子フラメンコ教室生徒有志 屋良有子
 カンテ:高橋愛夜 パブロ・セルバンテス、
 ギター:石井奏碧


 何かを学び、表現する。
 そこにある喜びは何物にも代えがたいものだ。

 フラメンコ教室の発表会には様々なドラマがある。学ぼうとする生徒の背景、出逢い、衝突する壁。見方は様々だが修練の結果による舞踊の他、主宰する舞踊手による舞台構成・演出の才を観る楽しみもあると思う。
 舞踊手がキャリアを積み、認知度を高め、技術も高まる時、次のステップとなるのは舞踊団の設立だろう。フラメンコ鑑賞者がまだ少ない日本で舞踊団を設立することは高い壁だ。
教室とは違い、作品を創り出す舞踊団では舞台構成、演出、照明、貫くコンセプトなど舞踊技術とは違う視点と才能が必要で、重層的な芸術であるフラメンコのもう一つの魅力はこの舞台演出にもあると思う。

 スペインで一流と呼ばれる舞踊手のリサイタルでは其々を担うプロフェッショナルが関わっているが、原点にあるのは作品の切り口であり、その着想・視点の質の高さには他のアートからのエッセンス、文化・芸術への傾倒等が高い次元で成立しているのを感じずにはいられない。しかし初めからそれが出来る訳ではないだろうし、背景となる文化の蓄積が創作を重ねることで昇華していくのだろう。そうした創作の芽を発表会と言う場で発見することも魅力の一つだ。

 舞踊手・屋良有子教室の発表会を観るにあたり思っていたのは、国内コンクールで数々の受賞を重ね、海外でも修練を重ねた屋良が発表会という場で何を演出し、何を魅せてくれるのかだった。

 始まりは、静寂。
 客席袖からゆっくりと舞台への階段を上がり、無音の中、黒いドレスに身を包んだ屋良のサパテアードが鳴り響く。静寂は重圧。観客が息を飲む瞬間だ。やがてナレーションが聴こえてくる。

 〜踊ることで見えないものが見えることがある。
  踊ることで知らなかった自分に気付くことがある。
  今から幕があけば二時間後には終わっている。
  でも今からの一瞬一瞬がみんなの心に残っていく。
  一瞬が永遠になる。だから踊ろうと思う。〜(一部略)

 これから演じる踊り手たちの心情、背景を想像させ、共感を呼ぶ演出だ。
 舞台を通じて感じるのは制約下での工夫とアイデア。曲調に合わせた照明、照射移置の移動、オンとオフ。観客の視点を動かしながら群舞を構成するセンス。

 劇場での公演の楽しみはタブラオとは違い、舞台空間を使い切った時の見応えにある。それは設えに凝るだけでなく、演劇で用いるような想像させる空間演出が作品に奥行きを与えていくものだ。

 印象的だった場面をいくつか挙げれば、カルロスサウラの映画音源を用いたセビジャーナスは観客と一体となって踊り手を取り囲む様な楽しさがあり、ガロティンではストリートで踊る格好良さ、そして屋良と舞台経験もある生徒によるシギリージャでは荘厳な演劇的要素を感じる深みと厚さを感じた。

「一瞬が永遠になる」

舞台芸術は儚い。だからこそ美しい。
琴線に触れるその思考から生まれる次の作品も楽しみだ。




追伸

予定外の執筆ですので、掲載判断はお任せ致します。

いい内容だね。次の二つの理由から忘備録への掲載は難しい。
� 屬Δ舛糧�表会も書いて」という要望が殺到する。��掲載スペースがすでに満員。
ただ、内容がいいのでボツにするのは勿体ない。
例えば「異視点」への転載。�猗�表会�瓩箸いΕ薀ぅ堯Ω�演からの異視点。
第2回アントニオ・ペレスの仲間たち『写真が語るとき…記憶とフラメンコ』
7月31日(木)/東京(世田谷)キッド・アイラック・アート・ホール
【バイレ】田倉京/奥野裕貴子/水野恵/萩原淳子【ギター】小林亮【カンテ】エル・プラテアオ

ドラマを感じるフラメンコ     

 写真はその人の辿って来た年輪をも映し出す。 
 アントニオ・ペレス氏が捉えた表情は、誰もがリラックスした笑顔をこちら側に向けている。その自然な笑顔はペレス氏に向けられたものなのだが、その写真を見る者にもその快い空気は共有され気持ちをほぐしてくれる。写真はシャッターを押したその一瞬の現象を捉えるだけではなく、その場に漂う雰囲気、そして被写体がこれまで歩んできた時間の奥行きをも捉えることの出来得る豊かなアートなのだと改めて感じる。
 
 ペレス氏の2回目となる今回の写真展は、ユニークな仕掛けがなされていた。被写体となったスペイン人フラメンコアーティストたちの写真はそれぞれ2枚組となっている。一枚は今のフラメンコを捉えたもの。そしてもう一枚は人生の分岐点を示す大切な写真とともに写っているもの。過去と現在の2枚の写真から、彼らのそれぞれのドラマがくっきりと浮かび上がってくる。

 アリシア・マルケスの、アンダルシア舞踊団に入団した時の晴々しい笑顔。パトリシア・ゲレーロの、フラメンコを踊る母親を真剣に見つめる少女の頃の真剣な眼差し。そしてミゲル・ペレスの、パコ・デ・ルシアの『二筋の川』のCDを大切そうに持つ謙虚な表情。彼は11歳か12歳でこのCDと出会った時からギタリストとしての道が変わり、自分の考えもフラメンコも自由に流れるようになったという。どのアルティスタも今の表情に迷いは無くスッキリとした誇らしさを滲ませていたのが忘れ難い。くつろいだ会話によって心が開かれ自然にルーツが語られていく、そんなやりとりが目に浮かぶ。ペレス氏の優しい包容力は被写体のありのままの魅力を引き出し、そこからさらに彼らの持つ豊かなフラメンコのアルテへの想像を広げてくれる。

 写真の醸し出す暖かな雰囲気は、当日のライヴをも包み込んでいた。舞踊家たちの矜持ある佇まい、その真摯なフラメンコから、彼女たちの持つそれぞれのドラマをいつも以上に感じずにはいられなかった。昨年代々木公園でのフィエスタ・デ・エスパーニャの運営スタッフとして奔走され、成功に導いたひたむきさが滲む田倉京さん。スペイン人アルティスタの招聘や地方ツアーといった活動を通してご夫婦でフラメンコを普及していく鮮やかなリーダーシップを感じさせる奥野裕貴子さん。大震災がきっかけとなり、フラメンコで地方から盛り上げていくことこそが自身の役割と決意し、即、地元愛知県に戻り行動を起こしたという、深い慈愛のフラメンコを舞う水野恵さん。そしてアントニオ・ペレス氏と共に写真展、ライヴ、クルシージョ等、多彩な活動を行うことによって日本とスペインとの橋渡しとなっている、しなやかさと強靭さを持つ萩原淳子さん。そういった個々の信念が、生きて来た厚みとなって彼女たちの踊りに漲っており、それは確実に未来へとつながって行くことを感じ、胸を打たれた。
 
 舞台上のものがすべてという考えも潔くて良いだろう。けれどやはりアルティスタたちの確固とした生き方が滲むアルテを私は見たい。 なぜならフラメンコなのだから。
>>[393] しゃちょさま

承知しました。舞踊手による舞台創作という視点で異視点に取り込んでみます!

『第44回野外フェスティバル 真夏の夜のフラメンコ2014』
8月2日(土)3日(日)/東京(日比谷)野外大音楽堂
【バイレ】ラ・ファルーカ/ダビ・サンチェス/フランシス・ヌーニェス/アンドイッツ・ルイバル/
サンティアゴ・エランス/奥濱春彦/AMI/鈴木敬子/谷淑江(2日)田尻希絵/森田志保/
松彩果/笹岡洋子(3日)/屋良有子/河野睦/田倉京/
(小松原庸子スペイン舞踊団)北山由佳/渡邉美穂/他
【カンテ】ナタリア・マリン/ミゲル・ロセンド/ミゲル・デ・バダホス
【ギター】アントニオ・ゴンサレス/高橋紀博

「真夏の祭典、ビバ・フラメンコ!」

地下鉄の階段を上がりかけると「時雨」というより「豪雨」に近い蝉の声が降り注いできた。
日比谷公園内の野外音楽堂。
石造りの座席は、まだ昼間の熱気を含んでいる。
2日初日の気温は36度。
客席中でうちわをあおぐ手は、さざなみが立っているかのようだ。
突然の爆竹とファンファーレ。
緞帳がわりの花火が上がるとイスラム様式のアーチ門から、闘牛士と踊り子たちが現れた。
20人を超す荘厳な「エスパーニャ・カーニ」。
颯爽たる金糸のマタドールに釘付けになる。
解放的な野外とあって、そこここでアルコールを楽しむ様子が見られ、
銀座あたりで仕入れたのか、ビール片手に生ハムやデパ地下の惣菜をつつく上級者も。
花火お祭りフラメンコ。
真夏の夜を皆、楽しむ気満々である。

マラゲーニャの叙情的なサリーダに乗ってダビ・サンチェスと谷淑江が登場。
深海を思わせるブルーのバタ・デ・コーラとマントンが波のようにうねっていく。
谷の美麗な世界を織り上げた。
巨匠ファルーコの娘にしてファルキートの母、ラ・ファルーカ。
生粋のヒターノ一族である。
カンテのナタリア・マリンとのかけあいがすごい。
魂をやりとりするように、ナタリアが渾身のカンテを投げかけると、
それにファルーカがパソで応酬する。
まるで喧嘩腰のアレグリアス。
後半ではソレアを踊り、振り上げた腕に、佇まいそのものに、フラメンコの真髄を覗かせた。
官能的なパレハから凄烈な群舞を率いた笹岡洋子。
黒に赤を効かせた衣装、宵闇に赤く浮かび上がる舞台。
美意識の高さと構成力が圧巻だった。

続く日本人ゲストのクアドロ。
身体中の深層筋を駆使して流麗な曲線を紡ぐ森田志保。
大舞台を瞬く間に森田の世界へと塗り替えた。
テーブルを音楽陣が囲み、ミュージックタイム、かと思ったら
奥濱春彦が円形テーブルに乗り上げた! 
カルメンでも有名なシーンだが、マイケル・ジャクソンがテーブルに乗って
足技を見せつける名場面。あれを奥濱はやってのけたのだ。
超絶サパティアードが夜空を突き抜け会場は大興奮。
公演の数日前、テレビでその優美さを印象付けた鈴木敬子。
舞台上の華々しさはその何倍も。
エメラルド色の衣装に際立つ白い肌。
伸びやかなガロティンはスペインらしい快活さに満ちていた。
AMIは指先の一本に至るまで緻密なアイレを行き渡らせては大舞台から放ち、
クアドロの締めにふさわしい存在感を見せつけた。

フラメンコの中でも最たる極みを集め、合間に迫力満点の群舞のクラシコを挟む。
真夏の夜空を次々彩る大輪の花火のように、一曲一曲が盛大に打ち上げられた。
フィナーレで小松原氏はセビジャーナスを舞った。
その立ち姿のお美しいこと。
「オーラ」などと簡単には言い表せない重厚な何かをまとっている。
どれほど多くが憧れ、この背中を見つめてきたのだろう。
44回目を迎えた本公演。
自分の道を貫くことの素晴らしさ。
そして培ってきたものを一瞬でも長く多くの人に楽しんでもらいたいという思い。
「フラメンコを愛している仲間たちが集まってくれました。ビバ・フラメンコ!」
誰よりも深い愛情が言葉に込められていた。
まだどこにも行っていない自分の夏を、今から始められるだろうか?
逡巡しながらその場を後にした。
日本フラメンコ協会 第23回新人公演 群舞部門 
8月22日(金)/(東京)なかのZERO大ホール

信頼と誇りの結晶             

 昨年の5組からさらに増えた充実の8組。今年特に感じたことは、地方のパワーと関係性の多様化。それは広がりゆく可能性を持つものです。
 
 熊本から参加された林田紗綾主宰エストゥディオ・アレグリアスの「ソレア・ポル・ブレリア」。11名の一糸乱れぬシャープな踊りの中に、調和の暖かさが滲みます。松彩果主宰エストゥディオ・カンデーラ発「森の踊り子号」による「グアヒーラ」は、涼やかな風の中を優雅に闊歩していくしなやかな現代女性たちの群像劇。山梨から参加された新田道代主宰フラメンコ教室Arbol de Flamenncoの十代の姉妹による「アレグリアス」。シンクロした清楚な踊りが初々しい。今後の成長が楽しみです。鈴木眞澄主宰のフラメンコスタジオ・マジョールによる「パコの思い出」。14名が輪となる厳かな追悼の儀式。3人の男性がアイレを引き締める。パコを失った哀しみ、そして彼に捧げる祈りが優雅なスペイン舞踊から静謐に伝わって来ました。鍵田真由美・佐藤浩希フラメンコスタジオの4名による「ファンダンゴ・ポル・ソレア」。完成度の高さは群を抜いていました。師である鍵田真由美の薫陶を受けた舞踊は、内側から放射状に花びらが開いていくように鮮やかで情感豊か。プロフェッショナルに鍛え上げられた彼女らの肉体は、内面のひだをあますところなく発露させ、その流れるような躍動美はストレートに胸に響きました。二村広美フラメンコ教室Las Flores Miasによる「セビジャーナス」。人生を謳歌する伸びやかな踊り。陽気な会話によって肩に入っていた力がふと抜けるような明るさに満ちていました。鍜地陽子フラメンコ舞踊団Las Azulindasによる「シギリージャ・イ・マルティネーテ」。力強い自律心に支えられた硬派のフラメンコ。結成時からたゆまなく歩み続けて来た意志がテアトロの空気を熱くしていく。彼女たちの確かな深化は未来に向かう勇気を与えてくれます。そして全国(沖縄、大阪、岐阜、東京、金沢、仙台)から集まった6名から成るHijas de Manzanillaによる「マルティネーテ」の気迫に圧倒されました。カルメン・レディスマの振付けはフラメンコの原点である黒い血を感じさせる。音楽、構成、すべてが彼女らの強靭な意志によって融合し、絶え間ない苦しみをはねのけて行く人間の剥き出しの強さを放っていました。多様な背景を持つ8団体の群舞、その色彩の豊かさは、日本のフラメンコが成熟して来たひとつの証といえるのではないでしょうか。

 奨励賞を受賞したHijas de Manzanillaのメンバーの方の言葉が印象に残っています。
「本番ではお互いの顔を見て絶対大丈夫という確信があった。演技直前に皆の名前がコールされた時、このメンバーで舞台に乗れる幸せ、そして誇りを感じました。言葉は要りませんでした」
 群舞の意味とは? と、よく問われることのひとつの重要な答えがここにあると感じました。時間を掛けて築き上げて来たからこそ生まれる仲間同士の信頼。その手応えを感じる歓び。独りでは決して得られないその想いの波動は、個を重んじるフラメンコだからこそ、より鮮烈に輝き、観る者の心をも打つのです。
熊川哲也 Kバレエカンパニー〈15周年記念公演〉
『カルメン』
10月9日(木)/東京(渋谷)Bunkamuraオーチャードホール
【芸術監督・演出・振付】熊川哲也【音楽】ジョルジュ・ビゼー【舞台美術】ダニエル・オストリング【管弦楽】シアター オーケストラ トーキョー【指揮】井田勝大【バレエ】(ホセ)熊川哲也/(カルメン)白石あゆ美/他
 
 ビゼーの歌劇『カルメン』へのリスペクトから生まれたこの作品は、まさに「踊るオペラ」。鍛え抜かれたダンサーたちの身体からエモーショナルな歌声が流れて出て来るようでした。
 
 白石あゆ美が演じたのは、これまで幾多描かれてきたような妖艶なカリスマ性を持つ女ではなく、コケティッシュで小悪魔的なカルメン。すべてのことに真剣な情熱を傾けるからこそ一か所には留まっていられない、それゆえ自由奔放に映ってしまう機知に富んだ美しい蝶のような存在。そして熊川哲也はテクニックは言うに及ばず、純粋な心で素朴にカルメンを愛し抜くホセを演じ切り、そのまっすぐな熱い瞳に引き込まれました。

 ビゼーのオペラは全4幕で展開され、上演時間も3時間以上に及ぶ長大なものですが、そのストーリーと音楽を忠実に反映しながらも全2幕のグランドバレエに仕立て上げることで、『カルメン』の情熱的な世界は削ぎ落とされ凝縮されて、より濃密な愛の物語を浮かび上がらせました。第1幕では、カルメンとホセが出逢って恋に落ち、愛を確かめていく様をじっくりと描き、第2幕では、カルメンの心変わりから終幕までをアッチェルランドのテンポで一気に駆け抜けて見せる。熊川の演出は、クラシックバレエの品格を高く保ちながらもドラマティックなエンターテインメントとしても秀逸。そして人間の本質を突いた新解釈のラストシーンは胸をえぐるものでした。

 音楽の昂揚と共に高まる緊張感。一瞬のクライマックスは衝撃的。その直後に訪れる暗い静寂。それはフラメンコの呼吸そのものでした。ホセの虚ろな目はもうカルメンしか見えていない。そして息絶えたカルメンを抱き上げた彼の焦点の合っていない眼差しに、 私は恍惚が浮かんでいるのを見ました。衛兵たちが駆けつけ遠巻きに眺める。ホセの世界はすでに二人だけで満たされている究極の愛の空間のみであり、そこには人を寄せ付けない、静かに狂った歓びの結界がありました。否、狂ったと決めつけるのは部外者に過ぎず、ホセはただ渇望した場所に佇んでいたのではないか。不実、欺瞞、無関心、そんな虚しい人間関係ばかりが横行する現代、狂うまで女を愛し尽くしたホセ、殺されるほど愛し抜かれたカルメン、残酷ながらも私たちはどこかでそういった一途に貫かれる愛に憧れているのかも知れません。だからこそ、このドラマは形を変えながら永遠に語り継がれていくのでしょう。
ねじ8/Double the double bass in JAPAN 2014

2014年10月24日(金)/ ソノリウム

 【バイレ】森田志保 【コントラバス】セバスチャン・グラム、齋藤徹
 【カンテ】デエゴ・ゴメス

 心地良い歪みを感じる不思議な時間。このライブを一言で言えばこんな感じだろうか。天井の高い、少し歪んだ白い空間ソノリウムで繰り広げられた創作表現は、観る者を少しずつ異空間へ引き込んでいった。

 森田志保、ねじ。リーフレットにはタイトルと演者が記載してあるだけで、中は白紙。括りつけてある小さな赤い三角旗は何かを予感させる。
 テーマとなるコントラバスには静寂が似合う。奏者セバスチャン・グラムはジャズ、現代音楽等で活躍し、ピナバウシュ舞踊団にも楽曲を提供。もう一人の奏者・齋藤徹はクラシック、現代音楽、ジャズだけでなく舞踊、演劇、映像等、国内外での活動域が広い。今回使われた楽器は二人のコントラバスのみ。映像とのコラボレーションGravitacionに続く取組みだ。
 
 客席に暗闇が訪れ、奏者二人が舞台へ。静寂のなかコントラバスが響く。その音は弦を弾くだけでなく、時に擦り、時に叩き、白い空間を縦横に飛び回る。音響効果を計算された素晴らしい空間ならではだ。やがて赤いドレスを身に纏った舞踊手・森田が素足で舞台へ。摺る、踏む、歩く。素足の音がコントラバスと呼応し物語を紡いでいく様は演劇のようで、歪な動きは不思議と心に残り、何かを想起させる。

 カンテ、デエゴ・ゴメスが舞台へあがる二部ではロルカ・スペイン民謡(四匹のロバ、チニータスのカフェ、セビージャの子守唄)をコントラバスで。森田はパリージョを用いコントラバスの周りを舞い、時に止まる立ち姿はフラメンコの時とは違い、少し歪んで舞踏のようだ。
 コントラバス奏者が舞台に戻ると、互いに音と動きに反応し、感情と思考を解き放つ。奏者二人は舞台を転がり! 赤い三角旗を手品のように引っ張り出し! 弦を持った森田はコントラバスを弾く!
 少し不思議なこの一連の流れは、実に穏やかな旋律のようで不思議な時間。無伴奏のなか、素足で踊る場面も印象的だ。

 現代音楽、舞踏、フラメンコ。垣根を取り払い感じるままに。森田の語る「何かを選択する時、感覚で判断したい」とは感性を開くこと。この作品ではカンテ以外即興と聞いたが、綿密に計算されたように全てが滑らかだった。
 冒頭の白紙の意味、小さな赤い三角旗等の仕掛けも知的好奇心を擽り、まるで不思議な時間を創り出す奇術師のよう。音の意味さえ考えてしまうこの作品で、感じるままにいることの大切さを気づかせてくれた。


石井智子スペイン舞踊団公演
「LORCA ロルカII 〜カンテ・ホンドの詩〜」
ーPoema del Cante Jondoー
2014年11月6日、7日(金)/東京(日本橋)日本橋劇場
【バイレ】石井智子/エル・フンコ/石井智子スペイン舞踊団
【ギター】オスカル・ラゴ 【カンテ】マティアス・ロペス/エル・ガジ


セマナ・サンタ(聖週間)の祭りの夜。
真っ暗な中にたくさんのろうそくの火、蛍の瞬き。
2階席に現れた歌手。サエタの歌が天から降ってくる。
太鼓の喧騒。
子供が香炉を振り回し、お香の香りがふんわりと流れてくる。
十字の形に影を作る照明。
闇に溶けそうな石井智子が踊る。
髪が宙を舞い、肢体をしなやかにうごめかせて、祭りのエネルギーを具現化する。

かすかな光の空間は五感を研ぎ澄まさせ、劇場を異空間に変える。
一気に舞台の世界観へ観客を引きずり込む求心力は見事だ。

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続く「ドス・ムチャーチャス」で、ロルカはローラとアンパーロという正反対の乙女をうたう。
オレンジの木の下で恋を夢みるローラ。
歌手たちはパルマではやし立てるようにカンティーニャスを歌う。
歌はオレンジの木の枝のように石井を包み、彼女は少女のようにクルクルと踊る。

昨年、ディエゴ・カラスコと踊ったときも、ディエゴと遊ぶように
即興的に踊ったシーンが印象的だったが、
この力みの抜けた、邪気のない彼女は観ているものを幸福にする。

もう一人の乙女、アンパーロは家に中に閉じこもり、
外の世界をうらやみながら孤独に耐えている。
白いドレスに身を包んだ石井智子は先ほどのローラとは別人。
内面の葛藤を発散することのできない悲しい人を演じ分ける。

毎回楽しみな群舞は今回も圧巻だった。
揃っている揃っていないという表面的なことではなく、
全体が一塊で迫ってくるような、群舞としての統一のマグマを感じた。

添い遂げることのできない男女のすれ違いを描いたファンダンゴは現代的。
ファンダンゴは近年また踊られる機会が増えてきている。
振付はエル・フンコ。複雑な足をさらりとやってのけるフンコは、
今回なんだかとても凛々しくて、男臭かった、踊りも雰囲気も。
「黒いマントを着て女は思う。世界はちっちゃく、心ははかりしれないと」
という詩に乗せて踊るソレア。
このファンダンゴからソレアへの流れは、情感に溺れすぎず、
あくまで身体の動きとして表現されている。
踊り手として攻めの姿勢が感じられて、次の石井智子も見たいと思った。
NISSAY OPERA 2014
オペラ『アイナダマール』(涙の泉)【日本初演】
11月15日(土)/東京(日比谷)日生劇場
【作曲】オスバルド・ゴリホフ【指揮】広上淳一【演出】栗國淳【管弦楽】読売日本交響楽団【マルガリータ・シルグ】横山恵子【ヌリア】見角悠代【ロルカ】清水華澄【ルイス・アロンソ】石塚隆充【ギター】智詠/フェルミン・ケロル【カホン】朱雀ハルナ

 最愛の人の訃報を遠く離れた場所で聞いたとしたら、それはどれほど辛いことでしょう。そんな想いが接点となり、この深遠なオペラ『アイナダマール』の世界へと自然に入り込んでいきました。
 
 この物語は、ロルカを愛し、彼の作品において数々の主役を演じた女優マルガリータ・シルグが、ロルカとの想い出を回想する形で描かれていきます。二人が逢った最後の夏の日、マルガリータは、共にキューバへ行こうとロルカを説得しますが、ロルカはそれを受け入れることなく危険なグラナダに戻り、そこで惨殺されることになります。マルガリータ・シルグ役の横山恵子は一貫した美しい発声で、マルガリータの嗚咽を天上の歌に昇華させ、嘆きの心を歌い上げていきます。彼女の透明なソプラノとフラメンコギターとの悲哀に満ちた共鳴が胸に響きました。
 
 オペラ全篇がロルカに捧げる「レクイエム」となっていました。死者に捧げられる鎮魂歌は、後に残されて歌う者の心もまた鎮めてくれるのだということに気付かされます。ゴリホフによる音楽は激しさを内に秘めながらもそれを憂いのうねりの中に抑えつつ哀しみを凝縮させて、ひたすら死に突き進んで行く。不思議なことに、死に近づいていき不穏な闇の広がりを感じていくほどに、現在生きていることの歓びが胸の奥から立ち昇って来るのです。
 
 カンタオールの石塚隆充は、ロルカを射殺する冷酷なピカレスク、ルイス・アロンソを圧倒的な存在感で演じました。銃声が無情に響き渡りロルカが倒れる。一瞬、時が止まる。過去と現在を行き来する幻想的な情景と音楽の中で、カンテで歌われるこの場面だけはリアルな事実を残酷にさらけ出します。ロルカに死をもたらすシーンが、彼自身、終生愛したフラメンコによって歌われることは皮肉な気がしました。けれどフラメンコもまた人間の不条理な宿命の根深さから生まれて来たもの。黒光りするアルテの重みが際立っていました。指揮者広上淳一がオーケストラと創り上げる音楽には有り余る情熱を抑制した洗練があった。智詠とフェルミン・ケロルのギターと朱雀ハルナのカホンによって奏でられる昂揚感あるフラメンコは、その美しい均衡を保つクラシック音楽に風穴を開け、生き生きとした解放感を与えていました。80分間の濃密なオペラはロルカの詩そのものの世界観を持ち、その深い哀しみの陰影に没頭したのでした。
PUNTOS Y LÍNEA 点と線
2014年11月14日(金)、15日(土)/東京(麹町)セルバンテス文化センター東京
【カンテ】ダビ・ラゴス/エル・ロンドロ【特別ゲスト】小島章司【バイレ】AMI(鎌田厚子)/森田志保【ギター】フラビオ・ロドリゲス/フアニ・デ・ラ・イスラ

AMI、森田志保、小島章司(ゲスト出演)という
自身の名前を冠したリサイタルで観客を呼べる3人が一堂に会したコンサート。
それぞれがたっぷり時間をかけて、渾身のパフォーマンスをする。
このうちの一つを観るだけでも来た甲斐がある、
観ていてワクワクするパフォーマンスだ。
それでも、このコンサートの主役は踊り手ではなく、カンテだった。

ダビ・ラゴスは昨年(2014年)、カンテのコンクールにおける最高峰
カンテ・デ・ラス・ミナスで大賞を受賞した、いま勢いのあるカンタオールだ。
日本で活躍中のカンタオール、アギラール・デ・ヘレスの甥でもある。
彼の歌を日本に紹介したい。
フラメンコの歌をもっと聴いてもらいたい。
その思いが結晶化した時間となった。

コンサートは歌で始まる。
ダビ・ラゴスは伴唱としても人気があり、近年何度も来日している。
そこでの彼は舞台全体を俯瞰して見るような包容力が感じられるが、
カンテ・ソロとなると少し変わる。
いや、本人は変わらないが、自身のアートの世界にもっと入り込む。
自由に伸び、自由に膨らみ、自由に揺れ、
ぎりぎりのところまで行って、気持ちよく帰ってくる。
カディスの青い海のアレグリアス(と書くと陳腐だけれど、でも本当にそう)。

その歌を受け取って、AMIが踊る。
AMIの踊りはダビの歌と溶け合って、
どこからが歌でどこからが踊りかわからない。
フラメンコの沼に沈んでいくようなシギリージャ。
やがて、踊りが終わるとダビの歌がつなぎ、
導かれるように森田志保が現れる。
グアヒーラの歌は舞台上に拡散し、
森田志保は音の粒と戯れるように舞う。
比べることに意味があるのかどうかわからないが、
AMIが沼なら、森田は大きな湖だ。
扇子は水しぶきを上げ、奔放に泳ぐ。
また歌がつなぎ、小島章司へとつなぐ。
彼はただただ存在する。
フラメンコに挑む姿は戦いのようでもあり、遊びのようでもあり、生活のようでもある。
歌にくさびを打つ。
フラメンコとともに生きるための証を一足一足に込める。
また歌がつなぐ……。

まず歌があって、踊りの間もずっと歌がつながり、また歌に戻っていく。
踊りはPUNTOS(点)、歌がつないで、LÍNEA(線)となる。
幾筋もの線が集まってフラメンコの大河となる。
フラメンコの歌をもっと聴きたい。そんな夜だった。
「あたたかい空間」

Manzanilla Special Live 2014 en Fukuoka

ロス・ピンチョス/福岡市
2014年11月1日土曜日

【カンテ】アルバロ・ラミレス
【ギター】ファン・ソト
【バイレ】(1・2部)ファン・フェルナンデス
(1部)樺澤 幸、古迫 うらら、吉原 ゆり
(2部)市村 美穂、加来 幸子、山根 律子

オープニングは、パレハのセビジャーナス。
ファン・フェルナンデスを相手に、女性バイレが入れかわってゆく。しっかりと視線を合わせ、つかず離れずの距離で触れ合う様は、何とも官能的。
それから、女性バイレのソロへと続いていく。
1部は、樺澤幸の漆黒の中でコンパスを刻んでゆくソレア、古迫うららの愛嬌たっぷりのアレグリアス、吉原ゆりの母性と色気を感じさせるバンベーラ。
2部では、市村美穂の包み込まれてゆくカンティーニャス、加来幸子のまぶしく輝くアレグリアス、山根律子のゆったりとしたタラント。
それぞれの暮らしを大事にしながら、地に足をつけて活動している踊り手たちの、個性をじっくりと味わえた。
そして、ファン・フェルナンデスのソロ。
かなりの長身なのだが、長い手足をもて余すことなく、セクシーかつ男性らしい踊りだった。
踊るときの鋭く、真剣な顔と、話すときのあどけない表情のギャップが面白い。
カンテのアルバロ・ラミレスの声は、とても切ない気分になり、またギターのファン・ソトの音色は、月明かりの雰囲気を感じさせた。
最後は、フィン・デ・フィエスタ。出演者たちのブレリアを楽しめるだけでなく、ロスピンチョス恒例カマレロの飛び入り出演も、お楽しみ。毎回感じるが、粋という言葉がぴったりのお二人なのである。
とてもアットホームなライブで、心も身体もじんわりと暖まった。
マンサニージャ企画にて、全国各地で行われたライブ。
1部と2部というだけで、全く違う雰囲気を味わうことができたのだから、あちこちでいろんな化学反応が起こったのではないだろうか。
平富恵スペイン舞踊生活25周年記念公演
Zodiac  ゾディアック 〜星は語る〜
11月7日(金)/東京(大手町)日経ホール
【バイレ】平富恵/ルイス・オルテガ/ハビエル・サンチェス/アンドイッツ・ルイバル/永田健/ローリー・ドワイヤー/秦史乃/増野恵美子/北島ナディア/瀬戸口琴葉/(平富恵スペイン舞踊団)山田美貴子/稲葉由希子/平尾華子/岡田和緒子/神谷雅子/川島あい/脇川愛/戸谷紀子/秋山千草【カンテ】マリア・デル・マル・フェルナンデス【ギター】ダビ・ドゥラン・ヒル/片桐勝彦【パーカッション】すがえつのり【チェロ】今泉文希
 
 華やぎのある大河の流れ、その根底には哲学がある。まさに経験の重みが生かされた舞踊生活25周年記念にふさわしい舞台でした。
 
 伝統的占星学における12宮星座の物語は、存在の死生観を表しているそうです。宇宙に散らばっていた物質が集まって星となり軌道を構成し、爆発によって死を迎える。その欠片はまたどこかで出会い結びついていく。その繰り返しはまさにフラメンコの姿と重なります。インドから長い時を経て伝わり民族や宗教が混在するスペインで開花し、さらに世界に散らばって新たな命を吹き込まれ深化していく舞踊。それは人の一生にも通じるものがある。

「星は語る」と名付けられた舞台は、12星座の物語一つひとつに色彩豊かな舞踊が振付けられた永遠の組曲。冒頭の「おひつじ座」は天地創造の物語。ギリシャ神話のような衣裳をまとった女性たちの行進はやがて軌道のサークルを描く。それはかつてニジンスキーが踊った『牧神の午後』のニンフたちを思わせ、意識はいにしえの時に引き込まれて行きます。そして天の川を仰ぎ見、輝く星をみつけ、星座を辿るように、ソロ、パレハ、群舞が鮮やかに散りばめられていく。伝統的スペイン舞踊、フラメンコ、アルゼンチンタンゴをモチーフとしたモダン舞踊などが流れるように配置されたプログラムには時間の奥行きと空間の広がりがある。この創造的な舞台から強烈に伝わって来たものは、プリミティブでシンプルな舞踊の力。平さんがこれまでのリサイタルで試行錯誤を重ねながら辿り着いた境地でした。そして、大胆な発想力はもとより、音楽、構成、衣裳すべてにおいて彼女の磨き抜かれたセンスが行き届いており、演出家としてのスケールの大きさも伺えました。

「二度と同じ人生を歩めないからこそ、『生きたい』という気持ちを込めてこの作品を創りました」と平富恵さんは語っています。遥かなる天体の営みに人生を見出し、それをフラメンコの精神に注いで体現する。そしてその核心にあるものを自らの内側に取り入れ強さを身につけて来た、そんな彼女の姿勢が舞台から伝わり、観る人に勇気を与えてくれます。三人の実力派スペイン人バイラオールに囲まれてなお、ひときわ輝きを放つ美貌のバイラオーラ平富江さんは、今この瞬間に咲き誇っているように見えながら未だ開き切ってはいない、地中深くに根を張り続ける大輪の花であり、これからさらに洗練されていく彼女のフラメンコを私は見たいと願うのです。
Bailaores 〜フラメンコの真髄〜
2014年11月15日(土)/東京(青山)草月ホール
【バイレ】アントニオ・カナーレス/ラファエル・マルトス【カンテ】エル・プラテアオ/ディエゴ・ゴメス【ギター】エミリオ・マヤ/高橋紀博

正直なところ、カナーレスはそんなに好きなバイラオールではない。
ワイルドでちょっと怖いから。
そんな私でもクスクス笑って、次に何が出てくるかとワクワクして、
終演時には「キャー、カナーレスさま!」な気分になって、
寄席に行ったみたいにほっこりして帰りました。


言ってみれば、シンプルな舞台だ。
舞台装置はほとんどなし。音楽はギターとカンテのみ。
ラファエル・マルトスがカナーレスに出会い、フラメンコを継いでいく
というストーリーは芝居というほどでもない。
フラメンコだけを見せる舞台で、いともやたすく人心を操るカナーレスは、
全くもって人たらしで、超一流のエンターテイナーだ。

クリスティーナ・オヨス舞踊団などで活躍したラファエル・マルトスは
ソリストとしての気品があって、スマートな踊り手だ。
強いて言えば、生真面目な印象。
彼が道に倒れ、カナーレスと出会って再生していく演目は、
アレンジしたフラメンコの組曲仕立てになっている。
5拍子のタラントが面白い。
ティエントになってからのラファエルがいい。
タコンの音がシャープにリズムを刻み、都会的な男らしさを見せる。

そこに、色とりどりのスカーフを腰にだらしなくぶら下げたカナーレスが登場。
格好悪い。
でもまあカナーレスだし、という許容した忍び笑いが会場から起こる。
そして、カナーレスとラファエルはユニゾンでタンゴを踊り出すのだ。
ラファエルもこっそり仕込んであったスカーフを使って!
カナーレスが赤いスカーフを投げれば、ラファエルも投げる。
緑のスカーフを振り回せば、ラファエルも振り回す。
フラメンコを受け継ぐシーンが、こんな安い手品の興行みたいでいいのか? 
その頃になると会場は全くのリラックスムードで、笑い声は大きくなっている。
ふと気がつけば、ラファエルが色気のある踊りになっている。
格好いいじゃないですか。

カナーレスだって、格好悪いだけじゃ終わらない。
最後のソレアは素の彼がにじみ出る。
ファルセータが縦横無尽に変化しても、自然に対応していく。
さあ、エスコビージャで楽しもうぜ、
と粒ぞろいの小さなサパテアードを転がして、ドカンと爆発。
会場の「アントーニオ!」という和やかなハレオも極上のエッセンスとなる。
そして、ソレアはブレリアに変化せずに、ソレアの余韻を残して終わっていった。           

マリア・パヘス 2015年・来日公演寄稿 1/2


【Yo, Carmen ―私が、カルメン―】


 舞踊手マリア・パヘスの魅力。それは創り出す作品の芸術性はもちろんのこと、社会への発信力、そして内面への深い掘り下げにあるのではないでしょうか。

 セビージャに生まれ、4歳からフラメンコを学び、15歳でプロの舞踊手としてデビュー。アントニオ・ガデスの元で活躍後、自身の舞踊団を設立。アイリッシュ・ミュージカル「リバーダンス」では自ら振付けた「ファイアー・ダンス」をソロで踊り世界的な知名度を上げると共に、その後のスペイン舞踊界で数々の賞を受賞していくマリア・パヘス。
 伝統的なスペイン舞踊に現代的なアートの要素を取り入れ、それを自身の表現として溶け込ませる思考はフラメンコの分野に留まらず異文化にまで及び、その芸術性の高さと深さを作品ごとに創り出しています。
 例えば与謝野晶子の短歌への傾倒は、抒情的な心象風景を切り取り、その色彩感を咀嚼しつつ舞踊に繋げ、建築家オスカー・ニーマイヤーへの尊敬は、その建築的要素を舞台構成、照明、衣装等に取り入れ、新たな意味を持たせていました。


 少しだけ前作「ウトピア」を題材にマリア・パヘスが何を想い、何を伝えようとしていたのか寄り添ってみましょう。

 総合芸術といえる建築、それは静態の美。それをフラメンコという動態の美へ取り入れるという試みが「ウトピア」では行われています。では何故建築家オスカー・ニーマイヤーに関心を持ったのか?マリア・パヘスは自身の言葉でこう語っています。
 「ニーマイヤーが作品をつくる過程、それは、まず簡単なデッサンをして、そして詩を書くそうですが、それが自分の創造のプロセスと非常に似ていました」
その曲線に目を留め、そしてプロセスに関心を持ったのです。

 アートには様々な形態があり、舞踊であれ、建築であれ、創作のプロセスやイメージの膨らませ方は人それぞれです。しかし、共通点もあります。

 軍事政権下では亡命経験もあるオスカー・ニーマイヤーは、ブラジリア首都計画を手がけるなど建築界の巨匠でした。その作風はモダニズムを下敷きとし、自由に流れる感覚的な曲線を建築に取り入れること。つまり自然界の曲線です。一方マリア・パヘスが作品で表現しているものは、人間と自然との対話。こうした人と自然へ向ける意識は両者に共通するところです。


 分野を超えたアートの触発は刺激的で力強く、その原点には現代芸術の礎となるバウハウスやダダイズム発祥のキャバレー・ヴォルテールがあり、いずれも現代舞踊と深い関わりを持っています。

 バウハウスは20世紀初頭、ナチスにより閉校されるまでドイツ・ヴァイマルに存在した建築・工芸・写真・彫刻・演劇・舞踊等、芸術とデザインに関する総合教育を行った学校で、モダニズムと呼ばれる合理主義・機能主義的なデザインを生み、現代にも大きな影響を及ぼします。注目すべきは建築と舞踊が同じ目的で存在したこと。またキャバレー・ヴォルテールにはチューリヒに亡命した様々な知識人が集まり、パフォーマンスアート(身体芸術)の原点となるダダイズムが生まれました。

 こうした歴史背景を持ち、その影響下にあった建築家オスカー・ニーマイヤーに触発され「ウトピア」を創り上げたことは、例え無意識下であったとしてもマリア・パヘスの視線がとても深いものだと想像させ、そこにはフラメンコ舞踊という枠で括っていては見えてこない本質があります。

⇒ 2/2 へ
マリア・パヘス 2015年・来日公演寄稿 2/2


【Yo, Carmen ―私が、カルメン―】


今回、来日公演で私達が目にするのはあの「カルメン」。

 フランスの作家プロスペル・メリメによる原作は、民族構成の複雑さや下層社会の抱える厳しさを背景に、ある男が情欲のため情熱的なジプシー女に振り回され犯罪に手を染め破滅していく物語。
 カルメンはジプシーの女でスペインにとっては異邦人であり、ドン・ホセはバスク少数民族、そして語り手はフランス人など原作では欧州社会の持つ文化的緊張感を醸し出しています。

 私達が持つ、激しく恋に燃え心変わりしやすい危険な女というイメージは19世紀後半のジョルジュ・ビゼーのオペラによるところが多く、その影響下で後の映画や舞台等が創られたからです。

 こうした今までのカルメンは、実は男性達によって築き上げられた幻想の女性で、マリア・パヘスはその幻想を否定し、すべての女性の中に潜むカルメンにスポットライトをあて、作品にしました。

「私は、男性の想像の産物としての女性ではなく、本当の女性の姿を描きたかった」
 と語る彼女の言葉には、
「私たち女性は、みなカルメンなのだ」
 というメッセージが込められているのです。


 舞踊手マリア・パヘスのもう一つの側面、それは社会へのメッセージを持つ表現者の顔。
 革命家としても認知される前述のオスカー・ニーマイヤーとも共通するのは、芸術家としての社会性です。
 昨年来日時も被災地である東北を訪れ、子ども達との交流を持ったのも、常に社会を意識し、アーティストとして何を還元できるのかを思考するからこそ。 

 現代における社会的・文化的な性差のありようを考える、ジェンダー。 綿々と続く人類の歴史の中で培われた、同等でありつつも異質である男女の意味は、カルメンと言う一人の女性をマリア・パヘスが演じることにより、私達は感じ取ることが出来るでしょう。

 
 オペラ「カルメン」のジョルジュ・ビゼーの楽曲が随所に散りばめられ、古典とは一味違ったエキゾチックな雰囲気を持つ今回の作品。

 「Yo, Carmen ―私が、カルメン―」

 十幕で構成され、マリア・パヘスのソロは勿論、舞台空間が伸縮し奥行きさえ感じさせるような群舞や、チェロ、ヴァイオリンも加えた抒情ある音、心に響くカンタオーラ。
 それらに加え、歌人・与謝野晶子やブッカ―賞作家マーガレット・アトウッド等、世界の女性文学者の詩歌を取り入れたところも見所となるでしょう。

 女性としての経験、成熟を重ね、円熟した今だからこそマリア・パヘスが取り組むカルメン。

 彼女の持つ文化への思考、社会への発信、時代を切り拓く力を感じつつ、先鋭的な触覚が創り出した時間を堪能すれば、より深い感動を得られるはずです。


鍵田真由美・佐藤浩希フラメンコ舞踊団公演/
『道成寺』
11月21日(金)/東京 日本橋公会堂
【バイレ】(清姫)鍵田真由美/権弓美/矢野吉峰/松田知也/関�掌�/東陽子/工藤朋子/末木三四郎/柴崎沙里/小西みと/関祐三子/坂口真弓/鈴木百々子/美山琴里【真笛・筝】山口幹文【和太鼓】(安珍)斎藤栄一/金子竜太郎【奄美大島民謡】里アンナ【三味線】中田誠【筝】山野安珠美【篠笛・胡弓・音楽監督】吉井盛悟【演出・振付】佐藤浩希               
 
 鍵田真由美さんの姿には、生贄に選ばれた巫女のような凛とした凄絶さがありました。深い包容力で女たちの情念を一身に受け止め、それを祈りにも似た舞踊で昇華していくのです。

『道成寺』のもととなった『安珍清姫伝説』。大蛇となった清姫が、自分を裏切った安珍を、逃げ隠れていた鐘もろともに焼き殺したという伝説はおどろおどろしいものを感じさせますが、鍵田さんの一途な舞踊は清姫の心を掬い上げ、少女の純粋性を浮かび上がらせるのです。浄瑠璃の人形を思わせる憂いのある表情と、柔軟性を駆使したしなやかな舞いが伝えるのは、開花し切れない蕾に秘められた情熱。届かぬ狂おしい想いは全身を貫き、我が身を大蛇に変えてしまうほどの怨念となっていく。バタ・デ・コーラの長さにもそれは象徴されます。後ろに引かれる長い長い純白の裾は、恋しい安珍の心だけを追い求めて白蛇と化してしまう清姫の哀れな執念そのものでした。私は舞台を観ていたというより、鍵田さん演じる清姫の心と同化し、恋の痛みを内側から感じている、そんな夢を見ていたような気がします。泣きながら目覚めた時、心の傷が浄化されていた、そんな記憶がよみがえっていました。
 
 音楽陣も素晴らしい。民謡界、邦楽界、和の様々なジャンルから集結した実力派アーティストたちの競演は、舞踊と互角に溶け合っていました。伝統を踏まえつつ�犧��瓩硫擦鯀呂辰討い海Δ箸垢詒爐蕕慮悗蠅反完婬い蓮∩葦凖�な閃きのあるスリリングな音楽を生み出し、その響きは「道成寺伝説」の魂を現代へと鮮やかにつなげていました。
 
 千秋楽のカーテンコール。佐藤浩希さんの、歓びと淋しさが入り交じりながらも、何か突き抜けたような笑顔が忘れられません。「人間の本質にある醜さをも芸術として美しく描く、それがフラメンコ」。自身の抱く理想にさらに一歩近づけた手応え、そんな充実感が溢れ出ていました。
 
 アーティストたちとの幸福な出会いから生まれるインスピレーションを大切にして、数々の名作を創り上げ再演を重ねて来たアルテイソレラ。今回の新生『道成寺』には、多彩な経験を経て、巡り巡って行き着いたシンプルな原点というものを感じました。豊かな蓄積を背景にした爽やかな原点回帰。アルテイソレラの飽く無き挑戦に胸が高鳴り続けます。
小松原庸子スペイン舞踊団創立45周年記念公演プレ・オープニング
「フラメンコ 粋と情熱―その神髄を杉並に」
2014年12月3日(水)、4日(木)/東京(高円寺)座・高円寺2
【バイレ】マルコ・バルガス/クリスティアン・ペレス/奥濱春彦/入交恒子/浅見純子/北山由佳/正木清香/里有光子(4日のみ)/屋良有子(3日のみ)/田倉京(3日のみ)/小松原庸子スペイン舞踊団【カンテ】ナタリア・マリン/ミゲル・デ・バダホス【ギター】高橋紀博/ペペ・マジャ“マローテ”

 今回、興味があったのは会場の大きさだ。
「座・高円寺2」は舞台と観客が近い。
小松原庸子舞踊団と言えば、バタ・デ・コーラやマントン、
あるいは大人数での群舞なので、大きなホールでの公演がほとんどだ。
それを近い距離で見るとどういうことになるのだろうと思ったら、
想像以上に楽しかった。
特にクアドロがいい。
ミュージシャンのみならず、他の踊り手も舞台をもり立てる
臨場感と会場サイズがマッチしている。
会場のハレオも後半に行くにつれて大きくなっていった。

 小松原庸子舞踊団が地元・高円寺で公演するのは初めてだと言う。
地元の劇場で区民が集える公演を開催し、
フラメンコ芸術を地元に還元する意義は大きい。
プログラムはフラメンコになじみのない人へフラメンコの紹介とでもいうように、
舞踊団の群舞、スペイン人ゲストのソロ、クラシコ・エスパニョール、
クアドロ・フラメンコとさまざまなフラメンコがテンポよく展開した。

 マルコ・バルガスはビセンテ・アミーゴの「Vivencias imaginadas」で
エレガントな大人の男を見せた。
クリスティアン・ペレスはクラシコ・エスパニョールが好きなのか、
ラビ・ダ・ブレベは一応団員と同じ振付だったのだが、
ニコニコしながら団員よりかなり派手に手足を動かしていた。
彼の性格を表すような陽気なクラシコに声を出して笑いそうになった。
屋良有子と田倉京のバンベラは、昨年の「真夏の夜のフラメンコ」の再演。
少しタイプの違う二人によるパレハは、昨年は少し異質感が見えてしまったが、
今回は呼吸が合ってきたというか、有機的なものの絡みを感じた。
奥濱春彦は、最近小松原舞踊団では創作ものを踊ることが多かったので、
久しぶりに彼のどフラメンコを観た。
ナタリア・マリンの歌うマルティネーテが会場に響き渡る。
北山由佳の踊りは以前とは変わった。
もしかしたら数年かけて変わっていたのかもしれないが、
今回はっきり見えたのは劇場の近さゆえだ。
しっとりとマダムの貫禄がつき、あえて可動域を狭くして
振り回さない動きに美学を感じた。最後の群舞のカラコレスでは、
北山から視線を外せなかった。

 距離の力はすごい。全部見える。
アーティストに近いということは、こんなにもアドバンテージになるのか。
フラメンコを観るとき、会場で選ぶというのも選択肢になりそうだ。
小松原庸子スペイン舞踊団創立45周年記念公演
「フラメンコ 伝統とモダンを踊る」

2015年3月13日(金)14日(土)/東京(池袋)東京芸術劇場プレイハウス
【ピアノ】ドランテ【バイレ】ファン・オガジャ/ダビ・サンチェス/アンドイッツ・ルイバル/クリスティアン・ペレス/奥濱春彦/鈴木泰介/大前裕太郎/AMI(鎌田厚子)/鈴木敬子/中島朋子/青木愛子/ラスルイサありみ/谷淑江/田尻希絵/北山由佳/秦史乃/団野美歌/笹岡洋子【カンテ】ナタリア・マリン/ミゲル・デ・バダホス【ギター】高橋紀博/ペペ・マジャ【ベース】フランシス・ポセ【パーカッション】ハビ・ルイバル

「舞踊団創立45周年記念」と銘打った公演は、
まず舞踊団を中心にした踊りから始まった。
谷淑江が、いっときの恋に揺れる人妻をしなやかな肢体で表現する。
青木愛子と田尻希絵が「ベナモール」で見せたのは、
見事なパリージョと凛としたクラシコ・エスパニョール。
出演者が次々に入れ代わりながら総勢で踊るのは「アレグリアス」だ。
マントンとバタ・デ・コーラが舞台を埋め尽くすレビューのようなきらびやかさは、
小松原庸子舞踊団の真骨頂だろう。
45年という歳月の中で、舞踊団メンバーは新陳代謝を繰り返さねばならない。
苦しい台所事情という時代もあっただろう。
総出の「アレグリアス」は、これまで舞踊団を支えてきた者から
これから支えていく者へとバトンが渡されるような光景だった。
これが小松原の群舞だ、私はずっとこれが見たかった。

二部は、フラメンコピアノの名手ドランテの
「ディディアナ」から着想した創作フラメンコ。
これも小松原舞踊団で続けてきたものだ。
幸せな時間が一転、スペイン内戦で引き裂かれる恋人たちをAMIと奥濱春彦が演ずる。
踊ることと役になりきることが高次元で両立していて目をそらさせない。

そして、ドランテのピアノ・トリオ。
突然、会場が音楽ライブになる。
芸術劇場はいい音で気持ちがよかった。
普段CDで聴くとドランテはジャズ寄りだと感じるし、
ピアノ、ウッドベース、ドラムの構成はまさにジャズトリオだ。
両手が伸びやかに別のメロディを奏でる二声の演奏は、
クラシック的な端正さもある。
だが、生で聴いたら、ドランテはものすごくフラメンコだった。
ジャンルにとらわれず彼のやりたい音楽がどんどん広がっている印象だが、
その根底にフラメンコの文脈を感じたのは発見だった。

小松原庸子の大きな功績の一つは、
国内外のアーティストの招聘だと思う。
フラメンコに流派のようなものがあるとすると、
流派を越えてさまざまなアーティストたちが招かれる。
「いいものはいい」という屈託のない声が聞こえてくるようだ。
ふと、日本人が共通して持っている故郷の母像が浮かぶ。
いつ帰っても故郷の母は、やれ好物だ、豪勢な肉だ、旬の果物だと
食べきれないほどのご馳走を用意して待っていてくれる。
小松原庸子という人は45年間出し惜しみせずに、
今できることは全部見せる、という公演をし続けてきた、
フラメンコへの愛がほとばしる人なのだと思う。
現代舞踊公演:2015都民芸術フェスティバル
2015年2 月26 日(木)/ 場所 東京芸術劇場

�睫酥�智子(構成・振付)「FLOR DE PIEDRA 序章」 

【バイレ】高野美智子 /神谷真弓、河野 睦、河村由紀子、北原やよい、田中菜穂子、松原恵子 【ギター】原田和彦【カンテ】エル・プラテアオ、森 薫里、【パーカッション】伊集院史郎
【競演作品】モダン:内田香(構成・振付)「concentration 記憶のカケラ」/コンテンポラリー:上原尚美(構成・振付)「たくましく生きる」


 リサイタルを観に行く前は心が軽い。この日、芸術劇場のカフェで開演を待っていると、隣に同じリサイタルに来ている様子の二人連れ。モダンダンスに知人が出演するようだが、初めて観るフラメンコに興味津々だった。
 都民芸術フェスティバル「現代舞踊公演」。コンテンポラリー、フラメンコ、モダンダンス、其々の分野から女性コレオグラファー(振付師)による作品を上演する試みだ。今回は異なる分野を同じステージで観ることによって、その魅力を比較出来る稀有な機会。しかも群舞であるだけに興味が尽きない。

 思い浮かべたのは「デザインコード」と「オスカー・シュレンマー」。

 デザインコードは都市や建築において、ある集合体をデザインする際に取り決めるデザインの指針で、全てを統一するのではなく、個別に自由度を持たせつつ全体的な調和を図る手法だ。群舞を観ていつも思うのはデザインコードとの共通点。「集中、拡散、反発、融合、線状、円弧、グリッド、ランダム」等、形態操作の手法は舞踊手の配置や動態に似ているし、素材や色調の整え方は、衣装、舞台構成、ライティングに通じる所を見出せる。
 オスカー・シュレンマーは20世紀の前衛芸術家。ドイツ・バウハウスで教鞭をとりトリアディックバレエを創作。形・色彩・空間、高さ・奥行・幅など三位一体を創作原理としていた。その作品はかなり不思議なものだが、三次元を意識した幾何学的な舞台構成は現代に続く90年前の着眼点だ。

 今回、印象深かったモダンダンス・内田香の作品は、舞台を手前から奥に三分割した幾何学的なライティング、調和と崩し、対称形を用いない群舞の構成など、フラメンコでは観られない魅力を放っていて美しかった。
 一方、�睫酥�智子の作品は、フラメンコならではの洗練された華やかさが引き立ち、特に真っ直ぐと伸びた光の筋へと向かう場面は神聖さを感じさせ、情熱だけではない魅力を放っていたと思う。
それぞれの舞台を観て改めて思うのは、フラメンコの持つ「音」の魅力。それは響くサパティアード、震えるカンテ、波打つギターの音色等、コンテンポラリーやモダンにはないもの。冒頭の二人連れもそこに感動していた。

 舞踊技術だけでなく、舞台構成での新しい着眼点、新しい技法での造りこみはフラメンコの新たな魅力を広げ、新たな鑑賞者を増やしていくきっかけにもなり得るのだと、改めて予感させる現代舞踊の競演だった。



IDA Y VUELTA 徳永兄弟フラメンコギターライブ
2015年3月28日(土)/東京(目黒)東京倶楽部
【ギター】徳永健太郎/徳永康次郎【カンテ】大渕博光【バイレ】SIROCO【パーカッション】容昌【バイオリン】森川拓也

昨年アルバム「IDA Y VUELTA」を発表した徳永兄弟による
東京でのアルバム発売記念ライブ。
その日、東京倶楽部目黒店は満席に近かった。
日本でフラメンコと言えばフラメンコダンス。
音楽ライブにたくさんの観客が集まるのが単純にうれしい。
徳永兄弟目当ての人はもちろん、他のメンバーそれぞれにファンがいるようで、
フラメンコの楽しみ方が広がっているのを感じる。

気持ちのいいブレリアから始まる。
すぐ気持ちが解放されて、ライブ会場の壁を突き抜けて視界が広がる。
突如、「街聴きしたい」という思いがわき上がった。
音楽プレーヤーにポケットに入れて、
ちょっといい音のヘッドホンを使って、
東京の街を歩きながら聴きたい。
街聴きが合わないフラメンコはあるかもしれない。
日本の街の側がフラメンコに似つかわしくないからではないかと思うけれど。
彼らの音楽は異国の特殊な民族音楽ではなく、
現代の日本の日常になじむ音楽だ。
後日SNSに、「街聴きしたいフラメンコ。
ポピュラー音楽しか聴かない人でもすんなり聴けるんじゃない?」と書いたら、
音楽好きの友人たちから「聴いてみたい」というコメントがあった。
すぐ彼らのYouTubeの動画をリンクした。
そういう交流もうれしい。

繊細なタッチの康次郎のグラナイーナ。
詩情性に溺れすぎない演奏に実直さがにじみ出る。
健太郎のタランタは、熱情があふれ出すのを抑えず、
ぎりぎりのところでコントロールする。
まるで飛んでいくような健太郎とがっちりと支える康次郎の
ディオから繰り出される音楽は複雑なコンパスを駆使し、
気を抜くと置いていかれそうだ。
踊り伴奏では、ここまで自在に細かく変化させるのは難しい。
音楽ライブならではのドライブ感だ。

このアクロバティックとも言える演奏に、
パルマとパーカスとバイオリンがさらりと合わせてくる。
このスリリングさ。
ジャズやラテン音楽などジャンルを越えて活動している
大渕博光、容昌、森川拓也だからこそだろう。
バイラオール・SIROCOはアルマ・フラメンカの公演で全国を一緒に回った仲。
何十回も一緒に合わせたブレリア「解放」は天晴れなシンクロ率。
エネルギーが体の中心を通って大地に落ちていくようなボディと、
楽器となって音楽と一体化する靴音がカタルシスを生み出す。

というわけで、終演後真っ先にCDをゲットして、現在街聴きを実行中。
Tap×Flamenco Live

2015年4月4日(土)/東京(新宿)エルフラメンコ
【フラメンコ】稲田進/永田健/土方憲人/中原潤/上籔洋子
【タップ】SARO/洞至/PORI
【カンテ】須田隆久【ギター】今田央【パーカッション】橋本容昌
【トランペット、パーカッション】西岡ヒデロー


「フラメンコのサパテアードとタップダンスがバトルをする」。
企画を聞いただけでワクワクする。
このライブの主役たちは男!男!男! 
バイラオールが出てきて一技、タップダンサーが出てきて一技、
ストリートダンスバトルのように技を競い合う。
ライブは靴音の嵐だ。
腹の奥のほうが沸騰する。

すっと立ち、微動だにしない美しい立ち姿のフラメンコたちは
垂直に足を打ち下し、重厚な音を出す。
一方タップダンスは、体を自由に泳がせながら靴を蹴って軽妙な音を繰り出す。
どちらも靴を床に打ち付けて音を鳴らすものなので、
コラボレーションはすんなりまとまりそうだと思っていたが、
最初に感じたのは「違い」だった。
フラメンコは即興性が高いと言われるが、
即興ができるのは、実は多くの決まり事があって、
みんながそれを守るからだ。
フラメンコファンはみんな何が決まり事で、
何がその場のエモーショナルなものかを知っているから、
「いよっ待ってました」という楽しみ方をする。

ところがどっこい、ここにはそんな予定調和なものは来ない。
演奏も構成も間違いなくフラメンコの曲に、
いつもと違うアセントのマルカーヘが入る。
ギターのファルセータに沿って細かいタップが入る。
フラメンコとタップが全然違う足の使い方で
一緒にスピーダしてジャマーダで締めるのは、
とんでもなく変な光景だ。
いったん「こうあるべき」という決まり事を壊し、
タップとフラメンコの両方から歩み寄って再構築していく。
それはフラメンコの概念を取っ払って見ると、
期待を裏切られる快感に満ちている。

この再構築を支えたのがバックのミュージシャンたちだ。
印象的だったのは「イパネマの娘」「この素晴らしき世界」「イエスタデイ」
といった有名なポピュラー曲だ。
コンサートになじみの曲が流れる効果は絶大だ。
これらの曲をブレリア風やラテン風にアレンジして、スペイン語で歌う。
ハンモックに揺られるような今田央のギターに
西岡ヒデローのトランペットが郷愁を誘う。
そこに乗せる須田隆久の歌はフラメンコのカンテより少し楽しげ。
ラテンが得意な容昌のパーカッションもこの手の音楽にはドはまりしている。

なによりミュージシャンたちがにこやかで楽しそうだ。
いつもと違うへんてこなリズムの応酬に、
「そう来るなら、こう演奏しますか」とでも言いたげで、
歌と楽器と踊り手の三位一体は、少し形を替えて、この舞台にも構築されていた。
マリア・パヘス舞踊団「Yo,Carmen−私が、カルメン」
2015年4月24日(金)〜26日(日)/東京(渋谷)Bunkamuraオーチャードホール
【バイレ】マリア・パヘス/マリア・パヘス舞踊団【カンテ】アナ・ラモン/ロレト・デ・ディエゴ【ギター】ルーベン・レバニエゴス/ホセ・カリージョ�爛侫�ティ�瓠撻僉璽�ッション】チェマ・ウリアルテ【チェロ】セルヒオ・メネム【バイオリン】ダビット・モニス

正直に言うと、今までマリアは少し遠い存在だった。
例えるなら、クラスのリーダーで頼りになるけど、私の仲良しグループじゃない子。
「カルメン 前奏曲」で始まったオープニングは、
白いアバニコだけが暗闇に浮かび上がる。
ライティングが絶妙で、開いては閉じ、
クルクル回って陣形を替えるアバニコはまるで生き物のようだ。
研ぎ澄まされた演出に一瞬でマリアの世界へ連れていかれると同時に、
「ほら、やっぱりマリアって特別な子」と、マリアとの距離を感じる。

そんなマリアが既に出し尽くされて陳腐化しているカルメン像に迫る。
タイトルは「私が、カルメン」。
ここで描かれるのはどこにでもいる女性。
本を読む女性たち。
アラビア語、日本語、ルワンダ語、ペルシャ語
といった幾つもの言語の詩が朗読され、
言葉の響きに導かれるように動く。
読書によって精神の自由を得る女性。
母になり、赤ん坊を慈しむ女性。
エプロンをして、ほうきを持ち、掃除、洗濯、料理にいそしむ女性。
ここで描かれるのはどこにでもいる女性……、というか、隣のおばちゃん。いや、私。

今までのマリアの公演では、マリアは主役、舞踊団はその他大勢だった。
衣装も違えば振付も違う。
それが今回は同一の衣装、同一の振付でマリアが群舞の一員となる。
(それでも、どこに彼女がいるか、探さなくても一発でわかるのは驚異的だが) 
家事をしながら踊るアレグリアスのエスコビージャ。
フラメンコを習った人なら一度はやったことがあるような初級のサパテアードを、
マリアと舞踊団がわいわいガヤガヤと踊る。
友達の家の台所で遊んでいるみたいだ。
マリアと舞踊団が口々に歌う。
「偽りの人生なんて欲しくない。この体、このお腹、この小じわがいとおしい」。
おばちゃん讃歌だ。
演奏陣の男性は一分の隙もなく見事な演奏を繰り広げるが、
全く姿を見せず、舞台はほとんど女性だけで展開していく。
女の一生に男なんか添え物なのか?

「素顔の自分で」と歌った舌の根が乾かぬうちに、
絢爛豪華な衣装と醜悪なまでのアクセサリーをまとって「ハバネラ」を舞い、
それを一つ一つを静かに脱ぎ捨てていく。
ほとんど皮膚のような薄っぺらな衣装になって、肢体を堂々とさらす。
女の業から、世の中のしがらみから解放されて踊るのは、
たくましく、力強いソレアだ。
私は私の足で歩いていく、とでも言いたげに。
やっと私はマリアの友達になれた。
「人はなぜ、絵はがきの風景を探すのか?」
第三回萩原淳子フラメンコ公演
2015年8月30日(日)/東京(明大前)キッド・アイラック・ホール
【踊り】萩原淳子
【ギター】エミリオ・マジャ
【歌】エル・プラテアオ

萩原淳子さんのソロ公演と旦那様アントニオ氏の写真展の同時開催からはご夫妻が考える問題提起が浮かび上がる構造が丹念に作り込まれていて、衝動や叫びというものとは距離を置いた様に見えて、それでいてフラメンコの奥深さを感じることも出来る実に味わい深い、しかし楽しい公演でした。
絵はがきに込められた風景を私たちはその土地そのものと思い込む傾向がありますが、そうした思い込みや刷り込み、軽々な判断にくさびを打ち込む写真の数々。ゴミ処理場に立ち上る褐色の煙と、絵はがきの風景の対比には吸い込まれんばかりでした。人が生きていく上で、自分の考えを持つこと大切さは言うまでもありませんが、それが思い込みや偏見になっていないか、立ち止まり振り返り足下を見つめ直すことの大切さは、簡単なようで案外難しいこと。これを意識すること、常に自らを冷静に見つめてみること、そんなメッセージは写真展からでも痛いほど伝わってきました。そして始まるソロ公演は冒頭の十秒間だけ写真撮影可とのこと。蓋を開けたら、その仕掛けに納得し、大いに盛り上がった十秒間でした(実際には一分位あったのかな?)
El delantal タンゴ・とってみる、La cola しっぽ・つけてみる、El tópico 固定観念・かえてみる と演目に盛られたメッセージは楽しげだけど、よく考えるとなるほどと思うメッセージが詰まっていると思います。しかし、だからといって踊りそのものに大きな主張を込めた物語があるのではなく、そこには萩原淳子さんらしいフラメンコが展開され、安心してその世界に浸ることができました。その踊りは実に精緻に作り込まれ、衝動と対極にあるような予定調和を感じさせてくれるものでした。安定感、安心感、そして笑顔。しかしソレアで見せた底知れぬ瞳の奥によどみ引き込まれんばかりに深淵な闇。どちらも萩原淳子であり、あたかも観音と阿修羅の二面性をうかがわせるたたずまい。
フラメンコが展開していく世界は芸術として何処までも高みを目指すもの、メッセージを持ちつつも踊りや曲としての味わいを追究するもの、そして何処までもプーロで昔ながらの伝統を重んじ守っていくものがあると思いますが、萩原さんのそれは写真展とともに多面的に遊び心を持ち、踊りとしての完成度や時に見せる茶目っ気や奥深い闇に遊ぶことのできるとても充実したものだと感じました。押しつけがましくなく、それでいて見終わった後に残る余韻からは確実に自分の存在を見つめ直してみたくなる衝動に駆られるという一粒で二度ならぬ三度も四度も楽しめるお得感。踊りのすごさだけに目を奪われがちですが、そんな彼女と旦那様が作り込んできた世界を是非ともご自身の目で、頭で、いや全身で感じて欲しい、そんな公演でした。次回はどんな視点で切り込んでくるのか、今から楽しみです。

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