ウィスコンシン州ミルウォーキー出身。アイオワ大学で心理学を学び、数年間はカウンセラーの仕事をしていた。後にロサンゼルスへ渡り、ジャズ・クラブで歌い始める。1975年にワーナー/リプリーズからデビュー。1978年にLook to the Rainbowが、1979年にAll Fly Homeがグラミー賞の最優秀ジャズ・ボーカル・アルバム賞を受賞した。
1980年からはジェイ・グレイドンやナイル・ロジャース、ナラダ・マイケル・ウォルデンらのプロデュースの下、AOR/ブラック・コンテンポラリー路線でポップ分野でのヒットも生み、1982年にはBreakin' Awayでグラミー賞の最優秀男性ポップ・ボーカル賞と"(Round, Round, Round) Blue Rondo A La Turk"で最優秀ジャズ・ボーカル賞を、1993年にはHeaven and Earthで最優秀R&Bボーカルを受賞した。この功績によりジャズ、ポップ、R&Bの3部門にまたがってグラミー賞を獲得した、最初の個人となる。
1985年にはUSAフォー・アフリカに参加し、ウィ・アー・ザ・ワールドのブリッジ部分でリードボーカルをとった。
1999年にワーナー/リプリーズからヴァーヴ傘下のGRPに移籍。ジャズ寄りの作品も発表している。
2006年にはギタリスト兼ヴォーカリストのジョージ・ベンソンとの共作、"Givin' It Up"を発表しており、自己のヒットナンバー、"Mornin'"をカバーしている。
2010年7月に公演先のフランスで呼吸障害で倒れ、病院に搬送。「重篤な状態」とも報道されたが、順調に回復[1]。9月には日本で元気な姿で公演も行われた。
■Nat King Cole(ジャズシンガー、ジャズピアニスト)誕生日。ナット・キング・コール(Nat King Cole、1919年3月17日 - 1965年2月15日)は、アメリカのジャズ・ピアニスト、歌手。
本名:ナサニエル・アダムズ・コールズ(Nathaniel Adams Coles)。「キング」は愛称。
アラバマ州モンゴメリーで生まれた。母・ペリーナは教会のオルガン奏者で、コールは12歳まで母からオルガンを習った。
1930年代からピアニストとして活動。スウィング・ジャズ時代末期の傑出したピアニストとしての業績を残した。1939年にピアノ、ギター、ベースのシンプルな編成からなる「ナット・キング・コール・トリオ」を結成。 ビッグバンドの時代におけるコールの編成は革新的とみられ、トリオバンド流行の火付け役となった。
ピアニストとしての活動の間、艶のある声を買われて、歌手としても活動するに至った。1944年、歌手として「ストレイトン・アップ・アンド・フライ・ライト(Straighten Up and Fly Right)」を大きくヒットさせた。
1948年3月28日、歌手のマリア・エリントンと結婚。5子を儲ける。1950年代以降はジャズからポピュラー界に軸足を移し、テレビにも多く出演し広く大衆的な人気を得た。
1950年以降の歌唱では、「モナ・リザ(Mona Lisa)」「スターダスト」「ルート66」「トゥー・ヤング(Too Young)」「ホエン・アイ・フォール・イン・ラブ」「ネイチャー・ボーイ(Nature Boy)」などが知られる。「スマイル」は、もともと映画「モダン・タイムス」のテーマ曲(インストゥルメンタル)であるが、コールのレコードのために歌詞が加えられたものである。
ポピュラー界で人気者となったコールも、1956年にはストレート・アヘッドなジャズアルバム「アフター・ミッドナイト(After Midnight)」を発表し、自分の原点を見つめ直した。
1961年にシングル「レット・ゼア・ビー・ラヴ(Let There Be Love)」がイギリスでヒットした。
歌手としてまだ絶頂時の1965年2月15日に、カリフォルニア州サンタモニカの病院で肺ガンにより死去した。1964年の「L-O-V-E」が、生前最後の大ヒット曲となった。
ジャンルレスで革新的、英ジャズ界を牽引する伝説のサックス奏者
アフロ・カリビアンのルーツに回帰した新譜を携え、再登場!
UKジャズ界を牽引する伝説のサックス奏者、コートニー・パインが最新アルバム『House Of Legends』を携え、ダンサブルでリズミカルなステージを繰り広げる。1964年、英国ロンドンに生まれ、'87年ジャズの伝統に対してこだわりをみせたデビューアルバム『Journey to the Urge Within』で英ジャズ界の歴史に名を刻む。ジャズを中心にロック/ソウル/レゲエ/ヒップホップなどジャンルレスな活動でジャズファン以外からも注目を集め、2000年36歳にしてOBE、'09年にはその上のCBE(大英帝国勲章)を授与される。最新作ではアフロ・カリビアンのルーツを持つジャマイカ系英国人として、メレンゲ、スカ、カリプソ、メントといった音楽をミックスし、サックスを通して自身のルーツや伝統に深く踏み込んだ作品となっている。色鮮やかなカリビアン・サウンドから打ち出される強靭なグルーヴと痛快なリズムが、あなたの心を解き放つ。
シカゴにおいて、アヴェルサからのイタリア系移民の家庭に生まれる。本名はレナード・ジョゼフ・トリスターノ(Leonard Joseph Tristano)。幼少期に失明したが、十代になる前からピアノと音楽理論を学び、1943年にシカゴ・アメリカ音楽院を修了した。ジャズへの関心から1946年にニューヨーク・シティに転居した。トリスターノは、和声法についての高度な理解力によって、同時代のビバップ運動をさらに上回る複雑な音楽様式に辿り着いたが、本人は常々、チャーリー・パーカーやバド・パウエルから大きな影響を受けていると公言して憚らなかった。トリスターノの様式に影響したその他の人物は、初期の録音からも明らかなように、ナット・キング・コールとアート・テイタムである。トリスターノとその一派は、主流派であるビバップ・ジャズに傾倒していたにもかかわらず、パーカーやディジー・ガレスピーらビバップの旗手たちとは、たまにしか演奏や録音を行わなかった。「トリスターノ派」は、しばしば「クール・ジャズ」と定義されてビバップと対照されてきたが、とはいえこのような呼び方はトリスターノ流の音楽様式を、1950年代の西海岸のクール・ジャズのような無関係な様式と一緒くたにする惧れがある。
エラ・フィッツジェラルド(Ella Jane Fitzgerald 1917年4月25日 - 1996年6月15日)はアメリカ合衆国のジャズ・シンガー。ビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーンと並び称される20世紀の女性トップ・ジャズ・ボーカリストの1人。
13回のグラミー賞受賞に加え、イェール、ダートマス、プリンストン大学において名誉博士号を授与され、ジョージ・W・ブッシュからは大統領自由勲章を授与されるなどレコードセールス、批評の両面で高い評価を受けた。
Lady Ella、またはThe First Lady of Songとも呼ばれている。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第25位。
エラ・フィッツジェラルドは1917年4月にヴァージニア州ニューポート・ニューズに生まれ、ニューヨーク州ヨンカーズで成長した。内縁の関係であった両親は彼女の誕生後間もなく関係を解消している。母はエラを連れて別の男性とニューヨークへ出た後、妹をもうける傍ら、彼女を孤児院に預けた時期もあった。さらに14歳の時には母が心臓発作で死亡し彼女は孤児となった。
境遇の劣悪化にともない、学業への関心は薄れ、やがて売春宿やマフィアの下働きをするようになる。警察による補導や少年院送りを繰り返しながら、ホームレス生活をし 辛酸を味わう。
1934年11月21日に17歳のエラは初めて聴衆の前にデビューした。ニューヨークのハーレムに存在したアポロ・シアターにおけるアマチュア・ナイツでダンスを披露する予定だったエラは、自分の前に出演した地元のダンス・デュオの演技に圧倒され、予定を変更し自分のアイドルであるコニー・ボズウェルのスタイルを真似て歌を披露した。その夜のコンテストに勝利した彼女はチック・ウェブズ・バンドのBardu Aliに見出され、バンドへの誘いを受けた。翌1935年からエラはハーレムのサヴォイ・ボールルームでチック・ウェブズ・バンドをバックに歌手活動を開始した。このバンドと共に、当時のヒット曲を納めた数枚のレコードを作成している。当時病気で療養中であったチック・ウェブの為にヴァン・アレクサンダーと共に作成した一曲『ア・ティスケット・ア・タスケット』が17週間にわたりチャートトップを記録し、アルバムは100万枚のセールスをあげた。1939年にウェブが死亡すると、バンドは名称を"Ella Fitzgerald and Her Famous Orchestra"へと変更しツアーなどの活動を継続した。
1941年からはソロでの活動を開始した。この時期はデッカ・レコードのMilt Gablerがマネージャーを務めている。1955年にデッカを離れた後は、ノーマン・グランツが興したレコード会社ヴァーヴ・レコードに所属した。ウイキペディアより。
サミー・デイヴィスJr. (Sammy Davis Jr. 、- ジュニア、本名:Samuel George Davis, Jr. 、1925年12月8日 - 1990年5月16日)は、アメリカの歌手、俳優、エンターテイナー。
ニューヨーク州のハーレム地区でボードヴィル・ショー巡業を生業とする一家に、アフリカ系アメリカ人の父とプエルトリコ系ユダヤ人[要出典]の母の間に生まれた。
幼少の頃から音楽や楽器、ダンスのレッスンを受け、3歳のときに初舞台に立つ。巡業でアメリカ中を転々としていたため、通信教育で高校卒業資格を取得する。
1944年には徴兵されアメリカ陸軍に入隊し、第二次世界大戦に一兵卒として参戦したものの、その経歴から最前線の兵士としてではなく、兵士向けのショーなどを行う慰問部隊に配属された。
1954年に初のレコードをリリースし、その高いエンターテイメント性と音楽的才能が幅広い層から高い評価を受けて全米で大ヒット作となり、一躍全米レベルでのスターダムにのし上がった。また歌だけでなく、その抜群のリズム感を生かした素晴らしいタップ・ダンスの魅力、またフレッド・アステアやフランク・シナトラなどの、他の歌手やエンターテイナーの物真似芸も得意とし高い人気を得た。
1950年には、当時人気絶頂であったフランク・シナトラに見出され、シナトラとディーン・マーティン、ピーター・ローフォードらとともに「シナトラ一家」(「ラット・パック」)を組み、シナトラがネバダ州・ラスベガスに所有するカジノホテル「サンズ」を中心にツアーを行ったほか、『オーシャンと十一人の仲間』(後にジョージ・クルーニー、ブラッド・ピット、アンディ・ガルシアなどの出演でリメイクされた『オーシャンズ11』のオリジナル)などの映画に出演した。
この頃はアメリカ国内において公民権運動が徐々に高まりつつあったが、南部などを中心にまだまだ白人による人種差別が激しく、多くのホテルやレストランが客として受け入れることを拒んでいたアフリカ系アメリカ人であるサミーを一家に入れて「サンズ」のショーに出演させることに反対するものが多かった。
しかしシナトラはサミーの音楽センスを高く評価していた上に、自身が新興移民のイタリア系であることから、自ら人種差別を受けることも多く人種差別を嫌悪していたため、周囲の反対を押し切ってサミーをシナトラ一家に迎え入れた。
幼少期は絵を描く事や映画を好み、12歳で油絵を州の美術展に出して入賞、15歳で長編漫画を描きあげる。しかし同時期にラジオで耳にしたビバップに強い啓示を受け音楽に興味を持つようになり、15歳の頃に楽器(クラリネット)を手に取って本格的なレッスンを受ける。ハイスクール卒業後はニューヨーク大学(音楽教育を専攻)への学費を得るためにミシン工場の在庫品係として働く。大学を出た彼はまもなく軍隊に徴兵される。陸軍に入隊し名狙撃手と呼ばれ、軍に残るよう説得されるも1958年に除隊する。その後ナイトクラブ等で演奏しジョン・コルトレーンとも知り合うなど腕を磨いた。
デビュー、ジャズ・メッセンジャーズ加入[編集]
メイナード・ファーガソンのバンドを経た後1959年アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズに入団。同グループの音楽監督の地位に就く。同年初リーダー作『Introducing Wayne Shorter』をヴィージェイ(Vee-Jay)に録音。1961年、ジャズ・メッセンジャーズの一員としてモダン・ジャズバンド初の来日を果たし、日本にファンキージャズブームを巻き起こす。またこの時実際に日本のジャズ・ミュージシャンにモード・ジャズを伝授している。
マイルス・クインテットへ[編集]
1964年、マイルス・デイヴィスのクインテットにサム・リヴァースの後任として入団。すでに入団していたハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスとともにいわゆる「黄金のクインテット」としてアコースティックジャズの頂点を極めた。また、マイルス・クインテットへの加入と同時期にブルーノートレーベルでのレコーディングを開始し、数々の作品を発表した。なおこの時期のショーターの作品の中にはいわゆる「オクラ入り」、録音はされたもののそのまま発表されずに仕舞い込まれてしまう音源が多く存在したが、それらは'70年以降にアルバム/楽曲単位で大量に発表されている。1969年のマイルスの作品『In a Silent Way』より、後のメイン・インストルメントとなるソプラノサックスをプレイし始める。
ウェザー・リポート結成[編集]
マイルスのバンドを脱退した後の1970年、ジョー・ザヴィヌル、ミロスラフ・ビトウスらとともにウェザー・リポートを結成。意識的に従来のジャズ・グループの方法論・運営方法を断ち切ったこのグループは、のちに人気ベーシストジャコ・パストリアスの参加も得るなど、クロスオーヴァー・ムーブメントの牽引グループとして人気を博した。また、この間ミルトン・ナシメントとの共同作業によるリーダー作『Native Dancer』を製作(1974年)。ジョニ・ミッチェル、スティーリー・ダン、カルロス・サンタナなどとのレコーディング活動も行う。1976年からはハービー・ハンコックの「V.S.O.P.クインテット」に参加する。
ウェザー・リポート以降[編集]
ウェザー・リポート解散直前の1985年には11年ぶりのソロ・アルバム『Atlantis』を発表し、自身初となるリーダーバンドを伴っての意欲的なツアーを行った。続く『Phantom Navigator』『Joy Ryder』とソロアルバムを発表した後は再びセッション活動等に重点を置き、1989年には、元イーグルスのドン・ヘンリーのヒット曲 "The End of the Innocence"のサックス・パートを担当し、全米8位。1995年には7年振りとなるリーダー作『High Life』を発表する。しかし1996年のツアー中にトランスワールド航空800便墜落事故により妻を亡くす(夫を驚かせるために、訪ねることを事前に伝えずに搭乗したらしい)という不幸が起こってしまう(1985年には、重度の脳性小児マヒであった娘を亡くしている)。