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ここが変だよ比較文化論コミュの日本人はなぜ記憶力を重視するのか

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 (1) 語学力と知育
 最近TPP賛成派のコミュに反対派が侵入し、反対の論陣を張るようになった。するとメンバーの一人が、反対派を追放せよと声を挙げた。私は「賛成論が正しいのなら、反対論を論破してそれを公に示す必要がある」とコミュで主張し、同時に、追放を主張する人はどういう人かと思い、日記を見に行った。その人はフランス語が専門のようで、フランスの新聞社説を和訳して日記に掲載していた。
 私は立場上、フランス語の文献を読むことがまれにあるが、苦手なので、自分にできないことをできる人はすごいと思ってしまう。しかしながらその人は、トップページに「全体公開で日記を書くことがありますが、程度の低いコメントは全て削除することにしています。人間話せば分かるなんて大嘘だと思うので」と書いていた。対話と相互理解の可能性を、ハナから否定しているのである。私が日記にコメントを書いたら「はいはいそうですねー。あなたは天才ですねー。素晴らしいですねー」と書かれたうえ、アクセスブロックされた。なんでもその後日記を非公開にし、ハンドルネームを変え、性別も女性に変えたそうだ。フランス語が得意な人に「天才」と言われたのにも驚いたが、頭は悪くなさそうなのに、コミュニケーション能力のあまりの低さにも驚いた。

 カナダに住んでいたとき、「英語だけはできる」「フランス語だけはできる」人をよく見かけた。言語の学習は、15歳以下では容易であるし、それ以上の年齢では単語を逐一暗記するようなルーチンワークとなるので、時間をかけて地道に行えば成果が出るようになっている。語学力と判断力・思考力・理解力は必ずしも関係なさそうだ。カナダでは5歳の子供でも英語を話しているし、5歳の子供の方が英語がうまい。
 英語で話すのも日本語で話すのも同じことだから、語学力だけあっても内容がなければどうにもならない。「日本はなぜ頻繁に首相が替わるのですか」と英語できかれたとき、答えが“I don’t know”では話にならない。政治に詳しい人なら「日本では両院に選挙があるから」「中選挙区制では派閥があるから」と答えるだろうし、ウィットに富んだ人なら「日本人はシャイなので、名前を覚えられたころには辞めてしまうのです」と言うだろう。

 (2) 人間コンピュータ
 私見では、最も大切な能力は判断力、それから企画・構想力、情報収集力、理解力、交渉・調整力、最後が記憶力である。手帳があれば記憶力は必要ないが、日本の教育ではこれが最も必要とされている。
 将棋の桐谷広人七段は「コンピュータ」と言われていた。パソコンが普及していなかった時代には、将棋連盟資料室に行く前には必ず桐谷七段のところに行くのが通例だった。例えば、矢倉のある局面で1六歩と突いたときの勝率を知りたい、その全対局について調査したいと思うとき、資料室に行って「この局面で1六歩と突いたときの全対局の棋譜を下さい」と言っても、職員は対応できない。「昭和何年何月何日の、王位戦リーグ戦の米長九段対内藤九段戦の棋譜を下さい」と言わないと、対応できない。そこで桐谷七段のところに行き、「この局面で1六歩と突いたときはどうなりますか」ときくと、「最も最近のものは昭和59年A級順位戦で、先手○○八段が1六歩と突き、後手××九段が7三銀と応じ、以下こうなってこうなって先手が勝ちました。次に新しいのは昭和58年棋聖戦1回戦で、先手△△七段の1六歩に、後手▲▲六段が1四歩と指し、以下こうなってこうなって後手が勝ちました」という調子で、30年くらいの全ての棋譜が頭に入っているのである。
 あるとき将棋連盟で、タイトル戦の挑戦者を決める決勝の対局が行われた。天井にはモニターがあり、控室で盤面の様子を放送しているので、注目の対局だったから、何人かの棋士が控室に集まってきた。某九段が「ここでこう指したら、どうなるんだ」ときくと、その場にいた桐谷七段がいつもの調子で「そう指すのは、昭和何年何月何日のナントカ戦で、後手○○八段が××と指して後手有利になりました。またここに銀を打つと、後手は■■と指すしかないですが、昭和何年何月何日のナントカ戦で先手△△七段が指した▲▲が好手で、先手有利になります」と言うので、某九段はムキになり「じゃあここで□□と指したらどうするんだ!」と言うと、それは過去に指されたことのない手だった。桐谷七段はそれから、自分の実力で某九段と対戦する羽目になり、一方的につぶされてしまった。すると桐谷七段は「ああ、私は人生を間違えた。棋士になんかなるんじゃなかった。これでも学生時代は、広島県で成績1番だったのに」と嘆いた。将棋の序盤は類似形が出るが、中・終盤は常に前例のない形となるので、過去のデータにとらわれずその都度最善手を探っていくことになる。思考力と判断力が重要となり、記憶力は役に立たないのである。
 桐谷七段は、奨励会を卒業しプロになったので才能がないということはないが、最も下のC2クラスを生涯抜けられず、47歳でフリークラスに転落し、10年後に引退させられた。このクラスだと対戦相手もさほど強くはないが、通算成績は327勝483敗と負け越している。とはいえコンピュータのない時代には、誰もが人間コンピュータの世話になったのも事実である。しかし本物のコンピュータで検索できる時代になると、人間コンピュータは必要がなくなった。
 なお桐谷七段は、将棋の世界ではクビになったが、株では3億円稼いでいるということは付け加えておく。

 (3) カナダの教育は叱らない、暗記しない
 カナダに転勤した駐在員が、子供を現地の学校に入れると「カナダの教育はレベルが低い。あれでは帰国したとき、日本の授業について行けなくなる」と言って、子供を現地の日本語補修学校や、はては公文式などの学習塾(!)に通わせることがある。カナダ人の子供ももちろん習い事はするが、学習塾は基本的にない。学校でさんざん勉強したうえ、終業後もまた勉強していたら、勉強しか能のないガリ勉(geek)だと思われるだろう。
 カナダの教師は、テストで児童が綴りを間違えても「出世してタイピストを雇える人になればいい」、計算を間違えても「電卓があるからいい」などと言う。最初はジョークを言っているのかと思うが、そのうち本気だと気づき、親が危機感を持つのである。
 少年期に叱ってばかりいると心が歪んでしまうという理由で、カナダの教師は生徒を叱らない。体罰は犯罪視されており、絶対にタブーである(警察沙汰になる)。たいがいの日本人の親は、カナダの教育は甘いと考える。カナダの教育は、流通の過程を学ぶためスーパーを見学したり、くじ引きで原告・被告・裁判官役を決め模擬裁判を行ったりするのだ。
 誤解しないでほしいのは、裁判は真相究明が目的ではないということだ。検察側は有罪にするのが目的で、被告側は刑の軽減など被告人の利益を追求する。そして裁判官の任務は、被告人は当初は無罪が推定されているから、検察が有罪に足る証拠を提示したかどうかを判断することである。
 模擬裁判のような授業では手間がかかるので、実際に体験するよりも、要点をまとめて暗記させた方が学習能率はいいに決まっている。だがそのような授業では、検察の陳述は有罪に足るかどうかという判断力や、相手の主張の嘘を見抜いて論破するといった能力を養うことが難しい。日本の教育は一般に事実関係に固執しており、その事実に到達するための計算技術取得や、その事実そのものの暗記が教育の中心となっている。そして日本の教育が極端な詰め込みである以上、思考力・判断力・創造力を重視する教育では、帰国したとき日本の入試で勝てないことは明白だ。
 これは、日本の教育が入試と不可分であることが原因だろう。入試で論文を書かせたりディベートを行ったりして、構想力・判断力・説得力を審査することは、基礎学力を測定する目的になじまないし、そもそも受験者数が極端に多いため、コンピュータで大量に採点できない。そこで日本の入試は、採点に紛れがないよう、事実を端的に問うものになるのである。偏差値は日本で特徴的に見られるもので、カナダでは採用されていないし、そもそも入試がない。
 日本の教育は、漢字書き取り、計算問題、年号暗記、元素周期表の暗記などのルーチンワークことに暗記が多い。戦前の教育ではとみに、単純な四則計算や、方程式の問題が数多く教科書に掲載されていた。多くのカナダ人はこのような教育を、時間とリソースの無駄使いで非能率的と考えることだろう。いっぽう欧米の教育は思考力・判断力・説得力を重視するところがあり、ルーチンワークや暗記を軽視する伝統があるようだ。カナダでレジに行くと、たいがいの日本人は店員の暗算が遅いと感じる。だがレベルが低いはずのカナダの方が、人口が4分の1しかいないのに多くのノーベル賞を獲得しているというのも事実である。

 (4) 日本語は暗記に適している
 日本語には語呂合わせが異常に多いということは、日本に生まれた人には気づきにくいが、在日外国人からはよく指摘されることである。これは、日本語の中に同じ意味を持つ和語と漢語と外来語があり、また同じ文字に訓読みと音読み、さらに音読みには呉音・漢音・唐音があるという特性に由来している。同じ意味の言葉や文字があることは、一般に無駄であると考えられるが、この特性が日本語に多様な語呂合わせを産んでいる。
 例えば「九」は訓読みで「ここのつ」、呉音では「キュウ」、漢音では「ク」となる。漢数字だけでなく、アラビア数字で表記されていても読みが複数あることに日本語学習者は面食らうが、「鳴くよ(794)ウグイス平安京」、「一求銃口(1915)対華21か条」のように、豊富な読みが豊富な語呂合わせを可能にしているのだ。
 年号暗記は、日本の教育に特徴的に見られるものである。では欧米にはないのかというと、なくはないが、印欧語では数字の読みは一つしかないから、ニーモニックを作るにも苦労することになる。
 1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見したことには、以下のような覚え方がある。
Columbus sailed the ocean blue,
In fourteen hundred ninety-two.
 語呂合わせではなく、一定のリズムで覚えるのである。上の例では脚韻を踏み、覚えやすくしようと工夫した痕跡がみられる。しかし「意欲に(1492)燃えるコロンブス」の簡潔さには、遠く及ばない。
 また以下のような覚え方もある。
I captured south’s flags.(1865年、南北戦争終戦)
 単語の文字数がそれぞれ、1・8・6・5になっているのだ。単語の綴りを覚えられない生徒はどうするのかとか、最後をうっかり単数系にしてしまったらどうなるのかなどと、疑問に思っていてはいけない。

 在日外国人がよく話題にするのは、日本には記念日がやたら多いということである。3月3日は「耳の日」とか、6月4日は「虫の日」などと、365日のほとんど全てが何らかの記念日になっている。これも、日本語の語呂合わせの豊富さが原因である。
 ただし英語にもむろん、語呂合わせはある。カナダでは、車のナンバーを有料で好きな英数字にすることができるので、“2FAST4U”(Too Fast For You)のような語呂合わせナンバーをみかけることがある。日本の看板でも、電話番号を「●●●−4649(よろしく)」などと掲げているところがあるから、同じことだ。
 中国語は同じ漢字を用いているが、読みは一つしかない。ただし、「一(イー)」を「么(ヤオ)」と読み替えることがある。「一(イー)」〔1声〕は電話で「七(チー)」〔1声〕と聞き違いやすいからである。「二(アル)」を「両(リャン)」と読み替えることもある。

 日本人の英語学習者が“I, my, me, you, your, you”と言っているのを聞くと、ピット首相もピッと吹き出すかもしれない。もしも在日外国人が「ポ・ホ・ボ・ホ・ホ・ポ・ホ・ポ・ホ」と言っていたら、日本人はどう思うだろうか。実はこれは、日本語の助数詞の丸暗記で、「1ポン・2ホン・3ボン・4ホン・5ホン・6ポン・7ホン・8ポン・9ホン」を表している。日本語は数字の読みが複数あり、4は単体では「シ」なのに本数になると「ヨン」になったり、7が「シチ」から「ナナ」になったり、9が「ク」から「キュウ」になったりと多彩に変化し、さらに助数詞が呼応して「ホン」「ボン」「ポン」と音便変化する。「6本」は「ロクホン」ではなく「ロッポン」と読まなければならない。日本語の多彩さは語呂合わせには便利だが、外国人学習者泣かせでもある。

 (5) 日本人と暗算
 日本人の暗算が早い理由として、伝統的算盤教育と九九の影響が挙げられる。「九九」は欧米では「ピタゴラスのタイムズテーブル」と呼ばれ、ピタゴラスが紀元前6世紀に発案したとされているが、ジョン・レスリーは1820年に出版した著書に、99×99までの2桁の換算表を掲げ、生徒に25×25までを暗記するよう勧めている。
 九九は日本には大和時代に、百済から伝来したと考えられていたが、近年になって中国伝来説が唱えられるようになった。もともとは数字の大きい九九から唱えていたので、「九九」と呼ばれた。タイムズテーブルは世界中にあるものだが、日本語の九九は、ここでもやはり覚えやすいニーモニックが古くから考案され、今日に伝えられてきた。「に【ハチ】じゅうろく」「さん【パ】にじゅうし」「は【ッパ】ろくじゅうし」などと、ここでも同じ「8」の数字が多彩に変化し、覚えやすいリズムを形成している。

 さて語呂合わせの貧弱な印欧語では、九九をどう覚えるのだろうか。
One nine is nine.
Two nines are eighteen.
Three nines are twenty-seven.
Four nines are thirty-six.
Five nines are fourty-five.
Six nines are fifty-four.
Seven nines are sixty-three.
Eight nines are seventy-two.
Nine nines are eighty-one.
 英語では数字の読みが一つしかないので、やはり語呂合わせではなく「ター・タッタ・タ・タ・ター」のリズムで覚えることになる。英語ではbe動詞を省略できないので、どのかけ算にも6音節を費やしている。だが日本語の九九は、助動詞と助詞を撤去して数字だけに簡略化されており、ほとんどの九九が5音節以内だから、覚えやすさは一目瞭然であろう。ただし積が1桁のとき、日本語の九九はリズムを整えるために助詞の「が」を挿入する。これは十の位の空位を意識させるもので、珠算において桁取りの間違いを阻止する効果がある。
 日本語と異なり、英語の九九では最初の数が1つずつ変化する。これは英語の語順と関係があるようだ。英語の文中に「2×9」とあったら、その読みはtwo times nineだから、その和訳は「9の2倍」となる。
 ドイツ語圏には「大九九」(großes Einmaleins)と呼ばれる20×20までの暗算ニモニックがあるという。インドでは近年、二桁の九九が教えられるようになり、学校により異なるが、最低でも20×20まで、最高では99×99まで覚える。インド人の多い江東区にはインド人学校があり、生徒の多くは在日インド人の子弟だが、中にはインドと何の関係もなく、数学を学ばせるために子供を通わせている日本人もいるという。
 日本人が暗算を得意とする理由について、私は日本語の九九の優位性を指摘したいが、ある在日スロバキア人は「日本にはチップの習慣がないので、割り勘のとき厳格に1の位までの商を求める必要があるから」と語っていた。

 (6) 結 語
 私は、日本に記念日が多く、日本の教育が暗記中心なのは、日本語に語呂合わせが豊富で暗記に適していることと深い関わりがあると考える。また日本の教育がルーチンワークを重視するのは、漢字は幼少期でないと会得できないことが影響していると考えている。しかし教育に本当に重要なのは判断力や企画力であり、日本の教育は見直されるべきだと思う。

コメント(6)

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=2248113&media_id=95
日本と海外の学校では、教え方や校内ルールなど、非常に多くの違いが存在します。有名なものでは、算数の授業で日本は「3+3は?」といった形で教える形がほとんどなのに対して、海外では「○+△=6ですが、○と△には何が入る?」というような自由な発想力を促す授業が多く取り入れられていたりします。今回は、そんな日本と海外の学校のルールや授業の違い、さらにはちょっと変わった授業の数々も合わせて紹介します。


■日本と海外の学校や授業はココが違う!?
●暗記よりも自由な発想力
冒頭の算数の例のように、海外の小学校では「暗記させる」ということがほとんどありません。考えさせることに重点を置いています。算数や科学だと、「どうやればこういう結果になるのか」というところからはじまり、発想力を伸ばします。また、日本のようにノートにすべて書き取らせる学校も少ないです。

●先生からものすごく褒められる
日本でも生徒を褒める先生はいると思いますが、海外では授業が難しく厳しい反面、ささいなことでもよく褒めます。北欧の学校だと、定期的に表彰状を送る全校集会のようなものが行われている学校もあるくらいです。その反動か、悪い事をすればもう烈火のごとく怒られます(笑)。

●理系・文系といった分け方がない
アメリカの学校では、日本の学校でよくある「理系・文系」といった分け方がありません。高校でも日本の大学生なみに細かい科目の選択ができるため、そういった大ざっぱな分け方をしていません。これも全体の力を伸ばす日本と、決まった分野の能力を伸ばすアメリカとの違いを表していますね。

●小学生の宿題が難しい
日本の小学生の宿題だと、テキストやドリルを数ページやってくる、といったものばかりですが、海外の小学校の宿題は小学生の宿題とは思えないような難しいものが多いです。例えば、あるテーマについて自分なりにまとめて提出、といった大学生なみの宿題があったりします。さらに学校によってはどんな資料を参考にしたかも提示しないといけなかったりする厳しさです。考える力を伸ばす意味では良いのかもしれませんね。

●部活の活動期間が決まっている
アメリカの高校では部活の活動期間が決まっている学校が多く、その期間以外の活動は禁止されています。例えば、アメフト部だと4月〜11月までの8ヵ月間といった感じです。日本だと部活は基本的に1年中できるものですけど、アメリカだとこうした日本にはないルールがあったりします。
そうかな?

結局、暗記力はそこそこ鍛えることができるからで、
脳の処理能力の高さ、PCでのCPUの優劣は、
そこそこ鍛えることはできるものの、運動能力同様「絶対的な差」がありすぎる。
日本の教育は、
それを否定することで「平等をうたう」のが前提だから、
結果、暗記でしか点数を付けられないのではないか?

  例えば、「努力すれば、医者になれる。東大に入れる」など。
  それを認めないと、日本は都合が悪い社会だ。
  最初から、CPUの脆弱な奴は「東大どころか大学は入れない」としたりすると、
  まず金持ちや有力者が不公平だと言うだろうし、
  政治家もしかり。
  彼らはどちらかというとCPUのレベルが低い人が多いからね。

ジャイアンツに入るには、とてつもなく運動能力に恵まれていなければならず、
その中でエースや4番になるには、非常に高いハードルがあるわけだけど、
それについて「スポーツ弱者が巨人の星になれないのは不公平だ」とはまず言わない。
しかしなぜか、お勉強の世界でそれをやると「不公平である」と言うんだよね。

これは日本はが持っている「年功序列」とか「身分制度の名残」とかの序列主義、
そして精神的な「均一性を尊ぶ」「突出した才能を憎む」という、
潜在的な傾向に根ざした結果かも。
「知識量」という「わりとしょーもないもの」(決定的な優劣に見えないもの)をもってしか、
評価を下したくない、
もっと言えば「自分より優れているモノを認めたくない」(自分が劣っている)という、
日本人が持っている精神性に根ざしているのではないかな?
覚えろって擦ってれば教師は思考せず労力も抑制出来る から
英語での円周率の覚え方で、
May I have a large container of coffee?
というのがあると知りました。
単語の文字数がMay (3), I (1), have (4), a (1), large (5), container (9), of (2), coffee (6)となり、3.1415926を表しています。
綴りを間違えると意味をなしません。
>>[5]
続きはないんですかね?
100桁くらいあってショートストーリーになってたら面白いと思いました。

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