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ここが変だよ比較文化論コミュの和洋折衷の文化論:和風文化は衰退しているか

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 日本人はよく「日本文化は独特だ」と言う。彼らは「ドイツ文化とオランダ文化はよく似ているが、日本文化と中国文化は全然違う」と言うのである。カナダ人が見たら、どちらも米や茶を食する、箸を使う、漢字を用いる、祖先を崇拝するなどの共通点をすぐ思いつくのだが。
 日本は6世紀ころに中国から、19世紀に欧米から文化を大量に導入し、その間の期間は他文化の影響をあまり受けていないのは事実である。そして古代に中国から渡来したものは、外国産であることが意識されないほど深く浸透しており、近代に欧米から渡来したものも、我々の日常によく見かけるものであって、カタカナで表記されなければ特別意識に上らないものである。

 (1) 和洋折衷:2つのフォーム
 言葉に和語と漢語があることは、日本語に少し詳しい人なら誰でも知っている。古代の日本では、役職名を全て唐風に改めたり、和歌党と漢詩党がいたり、歴代天皇すべてに漢風諡号と和風諡号をつけたりするなど、和風文化と唐風文化の角逐が見られ、「和魂漢才」という言葉もあった。後に「和魂洋才」「和洋折衷」という言葉も作られ、今や日本文化には食事、便器、装束、髪形、建築物、結婚式など、和式と洋式の2つのフォームが並存するようになっている。
 日本酒はかつてのように職人が経験と勘で造っているのではなく、工場でオートメーション化されている。和服も合成繊維で、バッタン織など西洋の技法で作られている。おせち料理を作ろうとすると、食材のほとんどは外国産になるだろう。だからといってこれらが洋式であるはずはなく、誰が見ても和式である。肛門を洗浄できる便器は、日本企業で製造される国産品だが、和式ではない。洋式と和式の区別はその態様にあるのであって、素材にではない。
 平均的な日本人は、目覚まし時計で起床し、電気カミソリで髭を剃り、パジャマを脱いで、ワイシャツとネクタイと背広を着て、バターを塗ったトーストを食べ、コーヒーを飲み、靴を履いて駅に行き、電車に乗って、鉄筋コンクリートの会社に行く。それでも自分が日本人だということを、疑いもしない。

 (2) 国産の和風「洋食」
 バンクーバーに「洋食屋」という、日本人経営のレストランがあった。カレーライス、オムライス、トンカツ、コロッケ、一銭「洋食」などを出す店だが、カナダ人が見たら外国料理だと思うだろう。トルコライスに至っては、カレーピラフ・スパゲティナポリタン・トンカツの組み合わせが、アジア・アフリア・ヨーロッパ三大陸に跨ったトルコを連想させるというのだが、ムスリムのトルコ人が豚肉を食べるはずはなく、典型的な国産の和風洋食である。
 普通に教育を受けた日本人なら、何が洋式で何が和式かを自明に区別できるが、日本に初めて来た外国人には区別できない。どちらも日本に普通にあるものであり、彼らにとってはどちらも異文化だからである。和語と漢語の区別も、文字に書くと区別できるが、音声では難しい。
 日本文化に和式と洋式の両様があるように、日本語にも固有語と外来語の両様がある。茶碗に盛って和食に出すと「ごはん」だが、皿に盛って洋食で出すと「ライス」と呼ぶ。同様な例として浴槽(バスタブ)、便所(トイレ)、じゃが芋(ポテト)、匙(スプーン)、紐(バンド)、帳面(ノート)などがある。このような現象は、外来語表記専門の文字を持つ日本語の特性というより、むしろ和洋両様式が並存する日本文化に原因があるだろう。

 (3) スタンダードとしての洋式文化
 日本人は明治の初めに髷と帯刀を禁止し、脱亜入欧の風潮の中で西洋文化を大量に導入した。欧米に文明国として認められたいという欲求から、日本政府は装束や建築物などを洋風に仕立てた。そのいっぽうでは、庶民の生活には依然として和食や和式建築は残ったから、和洋折衷と言っても洋式は公の領域、和式は私の領域に住み分けることになった。
 日系アメリカ人の人類学者ハルミ・ベフは、日本人は少なくとも公共の場では建前として公を重んじることから、昨今の日本文化論の隆盛は、和風文化の衰退(という思い込み)からくる危機感から、伝統文化尊重を訴える試みだとした。日本文化論でよく言われる「和の文化」「恥の文化」「義理人情」「謙遜の美学」などが建前の美学であって、実情を十分説明していないという事実は、洋式文化に奪われた「公」と「建前」の領域を奪還しようとする試みを示すものかもしれない。現に日本文化論で賞賛されるのは、もっぱら伝統文化ばかりであり、明治以降の〔和風〕洋式文化がどれほど日本人の生活に浸透し、カレーライスやベースボールがどれほど愛好されているかという事実や、明治以降の建築物が文化遺産に指定されているという事実は、意図的に無視されている。
 こう言うと、「外来文化を日本化して取り入れるのが日本文化の独自性だ」と反論するかもしれない。結論から言うと、どこの文化も独特であり、日本文化だけが独特なわけではない。日本文化の独自性とは、つまるところ非西洋性であって、先進国首脳の中に一人だけアジア人がいるということにすぎない。脱亜入欧の時代に日本は、欧米から文明国として見られているかどうかを過剰に気にかけたのだ。インド・イスラム圏・アフリカの文化も日本や欧米から見れば独特なはずだが、これらの文化は日本に大量に導入されていないので、和式文化を侵食する脅威とは認められないし、彼らにどう見られているかは気にもならないので、視野の外なのである。

 (4) 英語による言語侵食
 イギリスは近世に世界の覇者となり、アメリカは第二次大戦後に世界の超大国となった。英語は、世界で最も多く外来語を提供している言語である。そこで日本と同様に、世界中で英語の外来語がはびこり、英語追放・言い換え運動を行っている国もいくつかある。フランスやカナダのケベックは、その代表である。だがいくらフランス語の中に多くの英語外来語が入っていると言っても、フランス語の語彙の圧倒的多数は非英語であり、フランスで話されている言語も断然フランス語が多いというのが実情である。問題は、外の世界では圧倒的に英語が使用されているということだ。英語がグローバル・スタンダードに採用されたという事実は、公の領域を洋式文化に奪われ、和式文化を私の領域に押し込められた日本と酷似している。一般に欧米人は個人主義だと思われがちだが、日本とフランスには中央集権制と画一主義という共通点があるという指摘がある。
 さて、イギリスは日本と同じ大陸の端の島国だが、英語が世界一外来語の多い言語だということは、見落とされがちである。その理由は、世界のあまりにも広大な領域で使用されたことにより、カナダ語やオーストラリア語などの地方語を生んだという事情もあるが、ノルマン・コンクエストにより大量のフランス語を導入したことは、よく知られている。フランス語中の英語より、英語中のフランス語の方が断然多いというのが実情なのだが、そもそもヨーロッパの言語はどこもラテン語の影響を強く受けていることから、英語の語彙のうち固有のものは20%しかなく、50%がラテン語起源、13%がギリシャ語起源、7%が北欧語起源で、フランス語の借用語は実はそれほど多くはない。
 ある人々は、日本語に外来語が多くなった理由として、カタカナの存在を挙げる。だがカタカナは今では外来語表記専門の文字だから、単に目立っているというだけのことであり、英語やヘブライ語に比べれば、外来語が多いとは言えない。近代中国が和製漢語を大量に導入したのは、もちろん両国が漢字を用いていたのが理由である。
 ヘブライ語は一度死語になったが、旧約聖書がヘブライ語で書かれていたため、世界中に散ったユダヤ人のラビ(祭司)は、それを朗読することができた。20世紀になって、イスラエル共和国はヘブライ語を公用語に制定したが、旧約聖書に記載された単語についてはそのまま使用できたものの、記載されなかった単語は失われてしまった。そこで英語やアラビア語から、大量の外来語を導入することになった。
 イスラム教徒に支配されたイベリア半島のスペイン語・ポルトガル語には、大量のアラビア語の外来語が流入したが、レコンキスタ以降に、ポルトガルはアラビア語系外来語を追放した。スペイン語には今も多くのアラビア語系外来語が残っている。
 多くの民族が流入したタイのタイ語は、3分の2が外来語と言われている。
 トルコ語はアルタイ語族と言われているが、かつてはアラビア文字で表記し、アラビア語の外来語が大量にあった。20世紀に成立したトルコ共和国は、スルタン=カリフ制を放棄し、アラビア文字からアルファベット表記に転換した。大量のアラビア語系外来語を追放した結果、「共和国トルコ語」が成立し、「オスマン語」は死語になった。

 (5) 結  語
 外来文化を取り入れることは、どの国でもやっていることであり、それを自国風に改良することも、普通に見られることである。日本文化が外国の影響を受けていない独自のものだという主張はフィクションであり、また日本文化が他の文化より特別に外国文化の侵食に晒されているとも思えない。
 古代に中国から、近代に欧米から大量に文化を導入した日本が、和式と洋式という2つのフォームを持つに至ったことはユニークと言えよう。このような歴史を踏まえると、今後日本で極端な排外主義・国粋主義が蔓延することは、非常に考えにくいと言わざるをえない。

コメント(3)

英語社内公用語化は「ガラパゴス」「形式主義」「同調圧力」の象徴か?
https://news.yahoo.co.jp/articles/8d6d612a3df754d091f2de7f7563445f2b8306c5

■鹿鳴館以来のコンプレックス?
 「英語社内公用語化」については、昨年6月5日公開「まだ英語社内公用語化? 日本企業が『真の国際化』のために今すべきコト」、2020年1月18日公開「だから日本語はこんなにスゴい! 『外国語コンプレックス』の罠」、2019年7月30日公開「『英語の社内公用語化』ブームが、ひそかに大失敗に終わりそうなワケ」で述べてきた。
 さらに、3月21日に公開されたNewsPicks「2SIdes」という番組でも「英語社内公用語化」について論じた。
 色々な議論がこの中で行われたわけだが、「根本的問題」として「『日本の特定企業』だけが『英語社内公用語化』を声高に叫ぶ」という奇妙な現象がある。
 私が執行パートナーを務める人間経済科学研究所代表パートナー有地浩は、大蔵省(財務省)からフランスに留学し、ディジョン大学および国立行政学院に学んでいる。その後、在インドネシア日本国大使館1等書記官を務めた後、在フランス日本国大使館参事官として、パリクラブ(開発途上国の公的債務の繰延会議)で日本代表を務めた。さらには、世界銀行グループの機関である国際金融公社の東京駐在特別代表も務めている。
 日本を代表する国際派と言っても良い人物だが、その有地も「『日本の特定企業』だけが『英語社内公用語化』を声高に叫ぶ」現象には疑問を感じている。
 実際、(英語話者がメジャーではないのに)英語公用語化を推進するドイツ・フランスなどの海外企業は見当たらない。また、早い時期から海外ビジネスを繰り広げてきた商社、ソニー・トヨタなどの大手メーカーにそのような動きはほとんど見られない。
 結局、「国際化」がどのようなものかを理解していない、つまり「井の中の蛙」(ガラパゴス)だから、いまだに「英語社内公用語化」を推進するのではないだろうか? 
 楽天やユニクロが10年ほど前から「英語社内公用語化」を行う先駆者とされるが、追従している一連の企業も含めて「国際化」が進んでいるようには思えない。むしろ「英語社内公用語化」を行っていない、商社やメーカーの方がより国際化が進んでいるように感じる。
 私も有地も、この奇妙な現象の大きな原因の一つは「日本人の英語(欧米)コンプレックス」ではないかと考えている。明治維新の際の鹿鳴館ブーム、戦後の「ギブ・ミー・チョコレート」と揶揄される「欧米崇拝」的な姿勢がいまだに残っているというわけだ。
 特に、上記のような英語社内公用語化推進企業の経営者は、強い英語コンプレックスを持っているのではないだろうか? 
 わざわざ「英語社内公用語化」を叫ばなくても、英語は世界の主要言語であるから、必要性を感じた「多くの人々は自ら学ぶ」はずだ。それなのに、自主性を尊重せず「社員に強制」することが、「日本的ガラパゴス思考」だと思える。
■横並びの強制 ”公用語“
 もちろん、英語を活用したり、「国際化」することに反対ではない。むしろ、積極的に行うべきだと考える。
 しかし、英語を積極的に活用(自主的)することと、公用語化(強制)することとは天と地ほどの開きがある。
 たぶん、欧米のようにマスクの着用を強制をする必要がない、同調圧力が強い日本では、公用語強制の問題点が理解できないのかもしれない。
 しかし、歴史を振り返れば、「自国言語」を奪われた国も多い。英国の(旧)植民地では当然英語がよく通じる。その方が「支配者」に都合がよかったからだ。かつて日本が統治した地域で日本語が使われたのと同じ理屈である。「権力者の都合」によって言葉が変えられたということだ。
 もちろん、今では英語圏の支配者ともいえる米国も、元々は英国の植民地であったからこそ英語がよく通じるのである。ただし、建国以来の移民には、英国系はもちろんのこと、ドイツ系、ネーデルランド(オランダ)系、イタリア系なども多く、彼らのコミュニティでは、それぞれの母語が多用されていた。また、現在もアジア系やヒスパニックなどのコミュニティで同様のことが起こっている。
 ところで、米国には法律で定められた公用語がない。しかし、カリフォルニア州では1986年の州法改定で、共通語であり公用語であるのは英語である旨を明文化している(約30の州が公用語を定めている)。
 カリフォルニアは、よく知られるように人種のるつぼでありヒスパニックなども多いから、スペイン語(準公用語)ではなく英語が公用語であることを明確にすることが必要であったのかもしれない。
 このように「公用語」には、深い政治的、文化的背景があるのに、それらを無視したような議論が蔓延することが、日本のガラパゴス性の象徴だと感じる。

■ウクライナでの「ロシア語禁止」はどうなのか?
 東京新聞2020年1月17日の記事「ウクライナ、ロシア語広告禁止 影響力排除狙いか」によれば、2020年1月16日(今回のロシア侵攻の2年以上前)、ウクライナ語以外で書かれた広告を禁じる法律が施行されている。出版物やテレビ番組、ネットサイトから街の手書き看板などすべてが対象だ。
 ロシア語の影響力を排除する狙いとされるが、国民の3割はロシア語を母語としており、ロシア語もウクライナにおける主要な言語の1つだ。
 さらに、今年の1月15日に施行された法律によって、外国語(ロシア語)の出版を「事実上禁止」すると思われる措置が行われている(参照;海外情報翻訳情報局「ウクライナのロシア語に対する締め付けに新たな動き」)。
 もちろん、日本で推進されている「英語社内公用語化」は、日本語を含む他の言語の使用を禁止するものではない。だが、それならば、「自主的に自由に使い分ければよい言語を『わざわざ公用語化』する必要は乏しい」ということだ。
 「強制する」ということに鈍感なのが、「同調圧力」にあふれた日本社会の特性ともいえる。
 ちなみに、ロシアの各共和国の公用語としてはウクライナ語を含む29言語がある。
 世界史的観点から考えると、日本が戦時中に「敵国の言葉である英語を使用禁止にした」のと同じ行動をとっているのがウクライナである。しかも、戦時中の日本には外国人はほとんどいなかったが、ウクライナには多数居住している。
 そして、「英語社内公用語化」は、日本の戦時中の反動ともいえる「ギブ・ミー・チョコレート」であるような気がしてならない。
■トレードオフに鈍感な日本企業
 ところで、人間の脳は、多くの可能性を持って生まれてくるが、成長段階で取捨選択される。脳の容量には限界があるからだ。20歳を過ぎるころには脳の配線はかなり出来上がって固定化している。
 例えば、眼科医は一般的に子供の眼帯を推奨しない。立体視の能力が子供の間に形成されるからだ。この時期に片目だけでものを見て2次元(平面)情報しか脳に入らないと、大人になってから立体(3次元)でものを見るのが困難になるとされている。
 また、成年になってから入国した移民の1世は移民先の言語をなかなか学習できないが、2世、3世の子供や孫たちは流暢に使いこなすことはよく知られている。
 どのような人間にも1日24時間しかない。努力に対して効率的に上達しない外国語(英語)を学習したり、日本語ではない言語で仕事の効率が落ちれば、有用に使えるはずであった時間が失われる。
 トレードオフに鈍感な日本企業については、「競争戦略論」で有名なマイケル・ポーター氏が鋭く指摘している。「何をしないか」が最も大事なのだ。詳しくは2020年8月4日公開「『勝ち残る会社』はここで探せ! 優良企業の宝庫『ポーター賞』をご存知か」を参照いただきたい。
 英語が必要な局面もあるが、「英語社内公用語化」のような無駄な作業に鈍感なことが、日本のホワイトカラーの生産性の低さの原因かもしれない。
 また、英語を公用語化する企業は、「英語が習得できないのは、『貴様らの根性が腐っているからだ』」と言っているだけのように思える。そして、そのような「根性論」を嫌う優秀な人材を排除しているのではないか? 

■校則レベルか……
 学校生活において、スカート丈や髪型がどれほど重要なのかはわからないが、型にはめようとするのが、残念な日本文化である。
 英語をどのように使うかは臨機応変に対応すればよいのに、「校則」=「公用語」にしようとするのが「英語社内公用語化」の本質に思える。
 その校則と真逆なのが、「YOUは何しに日本へ?」という番組だ。外国(人)とのコミュニケーションは、「相互理解」が大事なのであり、英語(言語)はあくまで「道具」にしか過ぎない。
 最近はパンデミックの影響をかなり受けたが、日本に魅力を感じている外国人は多い。フランス語を学ぶ外国人は、フランスの経済力に興味があるわけではない。しかも、日本は世界第3位のGDP大国である。
 日本人が膨大なコスト、時間、手間をかけて「なかなか上達しない英語」を学習するくらいなら、政府などが世界中の日本語学校の費用を負担して、日本語を学んでもらう方がはるかに効率的だとさえ感じる。
 「英語社内公用語化」よりも、「日本の魅力を高め日本語を学習してもらう」ための議論の方がはるかに重要だと感じる。

                       大原 浩(国際投資アナリスト)

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