唐の詩仙　李白コミュの職場でのこと、李さん、李白

　訳あって自動車部品の工場で働いている。この会社は中国からの研修生を受け入れていて（研修生といっても事実上の出稼ぎ労働者のようなものなのだが）、その中に李（リー）さんという職場を等しくしている人物がいる。見た目非常に落ち着いた感じがするので、もう少し上かと思っていたのだけれども、実際に話をしてみると実に屈託のない笑顔をする、齢二十八になる好男子なのだが、彼の立ち振るまいを見ていると自分がそうであるという自覚がまるでないような立ち振るまいをする。その感じに妙に興味を惹かれて一度ゆっくり話をしたいとは思っていたのだが、工場の現場というものはともかく黙々と作業が進められている所で、ごく隣にいる人にすら必要がない限り一言も言葉を発せないまま丸一日を過ごすことも珍しくないくらいだから、一つ作業場を隔ててしまえば接触をする機会というのは休憩時間くらいしかなくなってしまう。休憩時間と言っても十分足らずの間に手に付いた油を落とし、用を足し、水分を補給し等をしていると残された時間というのは微々たるもので、立ち仕事から来る足の疲れを取ろうとすると雑談をしようという時間もなかなか捻出できない。慣れた仕事仲間などはそんななかからも器用に時間を使ったりするのだが、自分にはその手の器用は欠けているらしい。唯一昼食の時間だけはまとまった時間が取れるのだが、その時分には自分は慣れた仕事仲間と絡んでいることが多く、李さんの方でも研修生仲間とつるんでいることが多いものだから、結局気にはなりながらも数ヶ月間という時間をほとんど接触のないまま過ごしてしまっていたのだった。
　さて、そんな彼と会話をする機会を得たのはたまたまだった。その二週間ほど以前から自分は昼勤から夜勤への体調の整えがうまくいかず、昼食の時間（とは言っても夜勤の昼食は夜中の十二時から始まるのだが）を仲間が食堂に向かうのから離れて、持ち込みのコンビニおにぎりを職場にごく近くのテーブルで済ませて、少しでも仮眠を取ってから午後の仕事に備えるようにしていた。(この辺り夜勤時独特の言葉遣いでやや意味が混乱するかも知れないが勘弁を願いたい)そしてその時、カップ麺を片手に一人でその階のさらに暗い方へ歩いていく李さんの姿を見て、初めて李さんが夜勤時には一人で食事を取っていることを知った。そして次の夜勤の回ってきた週のある日、その日は睡眠薬で日中無理矢理いくらかまとまった睡眠を入れていたため、いつもよりは多少動くことが出来たので、歩いていく李さん姿を見て「もしよかったら昼食を一緒にしませんか」と声を掛けてみた。彼は例の屈託のない笑顔で快く了解してくれた。そしてどうやらいつも使用しているらしい少しタガの外れたプラスチック製のベンチの所まで行くと、そのベンチのタガを整え、そばの窓を開けて即席の食事場を用意してくれた。
　さて、話を進める前に少し話しておきたいことがある。それは彼と夜勤を共にしたときによく見た行動で、彼は休憩時間の合間にしばしば渡り廊下に出て夜空を見上げていた。そこは便所を囲うように作られたＬ字型の通路で、彼はそのかすかに便の匂いの漂う角の所に、膝を抱え座り込んで夜空を見上げていたのだった。この工場は町の中心から離れた、回りには田畑が広がるような場所に立地しているのもあってか、そこから見上げる夜空は本当に暗く、また異様に静かだった。私は彼に「何か見えますか？」と聞いてみたことがある。実際月が出るのも建物の裏側で、そこからは黒い夜の帳（とばり）より外に見えるものもないのである。彼は例のように屈託のない笑顔を浮かべて「涼しいから」と答えていたが、その夜空を見上げる姿にはそれだけではない何か独特の感じがあるように感じられた。その姿はずっと気になっていたのだが、ある日、その姿を見ているとき、その横様にふと遠方の地で月光に照らされながら故郷に思いを馳せる李白の姿が浮かび上がって見えた。――彼が間もなく三年の契約期間を終えて日本を発つということは事前に知っていた。それが彼が仕事を納める数日前のことである。
　昼食を共にしながら私はそんな話題を持ち出してみた。彼はカップ麺をすすりながら聞いていたが、（一応断っておくとこのカップ麺は節約ためにしているのではなくて、ただ単に好きで選んでいるものらしい）私が李白が好きなのだというと、彼は「リハク？　リヒャク？」と怪訝な顔をした。「李さんの李に白（しろ）いという字です」と言っても通じないので、私は胸ポケットから品質目標を書けと言われながらそのまま白紙になっていたＩＳＯ９００１の紙を取り出してそこに「李白」と書いてみせた。彼はそれを見てああと納得したようだった。そしてもう一度「リハク？　リハク？」と日本での発音を私に問い質して来た。そして彼は李白が中国で最も人気のある詩人であること、中国では皆が中学校で教えられる詩人であること、中国語での発音では「リィパイ」と言うことなどを教えてくれた。私は記憶を探りさぐりその横に「静夜思」と「頭垂想故郷」と書いて見せた。彼は「静夜思」のことは理解したらしかったが、次の五文字は意味をとり損ねたようだった。私はそれを見て慌てて「頭」の字と「垂」の字を入れ替えた。そこで彼はようやく私が「静夜思」の一文を引用しようとしていることに気付いてくれたらしく、にこやかにうなづいて見せた。「李さんは時々あそこに座っているでしょう?　こんな感じかと思って見てたんですよ」と言うと彼はハハっと笑って二三度大きくうなづいて見せた。その表情が私の心を打った。
　面白いことだ。故郷を懐かしむ方法など誰に教わったものでもあるまい。それが千二百年を隔てた人間の間に同じように息付いていて同じように心を揺らしてしまう。日本人にも故郷を思う心がない訳ではないだろうが、それとは何かが違っているように思える。それはもしかしたら中国人の心というものではあるまいか、私はそんなことを考えていた。
　彼とは日本を発つ前にその後も二度ほど同じような機会を得ることが出来た。それはとても有意義で楽しい時間だった。彼は持っていないというので一方的にメールアドレスを渡す形になってしまったが、便りが来る当てがある訳でもない。ただこう言った時間を共有できたことを素直に嬉しいと思う。日本での生活が安らかであったとは言わないが、激動の中国での生活がまた安らかであるという保証もあるまい。今はただ友人の行く道に幸いのあることを望むばかりである。

静夜思　　　　　李白

牀前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷

寝台に差し込んだ月の光を見詰めれば、
それは恰（あたか）もふり積もった霜のようである。
夜空を見上げては山の端（は）に現れた月を眺め、
頭を低（た）れては遠く故郷を思うのだ。