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雲仙・島原半島の歴史館コミュの航空殉難九勇士

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大東亜戦争(太平洋戦争)末期、昭和19年2月2日、
旧陸軍の飛行機が濃霧と吹雪の悪天候に加えエンジンの不調により雲仙岳中腹に激突
搭乗の会津若松29連隊長、大島護大佐以下9名全員が散華された。

この飛行機には、前々日の1月31日、皇室正殿に於て
天皇自らの手で渡された新軍旗が積まれていました。

この連隊は、昭和17年10月、ソロモン群島ガダルカナル島の激戦で玉砕
その後、再建された連隊に新軍旗が下賜され、
マレー半島にいる現地部隊に帰る途中の遭難でありました。



「その日は、吹雪の上霧が深く、午前十時過ぎ、海の方から爆音がしてきたと同時に頭上を過ぎ、
あっという間に霧の立ちこめた山手で大音響が起きました。
山は険しく、霧と吹雪の中をひざまで没する雪をかき分けて現場まで行きました。
遺体は広い範囲に散らばり、収容するのに四日もかかりました。
機体は谷を隔てて、二つの山に散らばり、重いエンジンは牛に引かせて運びました。
九人の遺体は岳焼場で荼毘(だび)に伏しました。

不思議に軍旗だけは全く無傷で、箱に納まったままでした。
亡くなられた方々が、死んで軍旗を守られたと思います。」

当時救出にあたられた
雲仙市千々石町木場名岳地区の小林ハルヨさん、山本鈴柄さんの話。

>『五十回忌供養記念』航空殉難九勇士奉賛会より引用


戦時中のこの事故の話は当時極秘扱いであったらしく、
一部の人のみに知られていた。
平成となり、当時、小浜町雲仙在住の西久海氏の調査で判明した。


が、
・・・・『五十回忌供養記念』に載っていない当時の細かい記録が現存している。

(調査中・・・・・)

コメント(7)

>当時の細かい記録が現存している。

二月廿三日(水)
雲仙陸軍病院慰問!???


・・・どこ!???exclamation & question
散華された九英霊に哀悼の意を捧げます

しかし島原半島にも昔は陸軍の滑走路があったと聞きました、、、

先日に撮影中 偶然に南串山町の小学校近くに「航空監視所跡」の石碑を発見

この辺だったのかなとも思いました
■>むらっち 先生 殿

解読して、本にしたいと思っています。

が、

・・・・・・・読めないたらーっ(汗)たらーっ(汗)
当て字も多いし、意味も解からない部分多し。泣き顔
■>Ω☆TomCat☆Å 殿

一説では、雲仙ゴルフ場は軍の飛行場だったとか!??(ほんとかな?)ウッシッシ
事故当時の記録簿を是非見せてください。宜しくお願いします。

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