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クトゥルー神話創作小説同盟コミュの長編:『アルバート・デューイ博士の死に関する真相』 3/3

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 もとの歪な球体に戻った姿、表面が絶えず流動する粘着質の楕円球の姿、しかしその正面には明らかな人間の顔があり、デューイ博士の血に塗れた口で荒い呼吸を繰り返していた。そして、何より忌まわしいことに、その顔はジョン・ウィリアムのそれ、そのものだったのだ。
 見れば、生物のそこここから酷い悪臭を放つ粘液が漏れ出していた。先刻の二発の銃弾、それが致命傷こそ与えなかったものの、そのジョンの顔を持つ異形の生命体の身を傷つけたことは確かなのだ。
 そして生物が次の一言を放った瞬間、ジョンは脇目もふらずそいつを飛び越えて父のもとに駆けつけるや、彼が落とした拳銃を拾いあげ、その忌まわしき己の顔を持つそれに向けて何度も、何度も引金を引いていた。
 ジョン・ウィリアムと顔を合わせたその生物は、息も絶え絶えに、にたりと笑ってジョンにこう言ったのだ。
「ようやく逢えた。助けてくれ…………兄弟」

「それが、僕の知っている全てです」
 私には何も言うべき言葉が見つからなかったが、幸いにしてアーミティッジ博士が淡々と話を進めていってくれた。
「ありがとう。では、今度は私が知っている、君の実父――アルバート・デューイ博士についての情報を教えよう」
 そうしてアーミティッジ氏はトランクから、昨夜私がに見せた、デューイの書簡を収めたファイルを取り出した。
「申し訳ないが、君の父上の出したものとはいえ、そちらに渡すわけにはいかないものでね」
 博士はファイルをマイヤーズに向けて開き、解説を交えながら彼の実父が荷担していた恐るべき計画、しいては彼の出生の真実を語ったのだった。
 ノア・ウェイトリーと同じ日、同じ時に《ヨグ=ソトホース》を召還しながら、その種子を違えたせいか、ノアの娘ラヴィニアが邪神の血を継ぐ双子を九ヶ月で出産したのに対し、デューイが培養していたホムンクルスが通常の新生児の体系にまで成長するのには十ヶ月の時を要した。これはウェイトリーから孫の誕生を知らされたデューイにとって、甚だ焦燥と嫉妬の種となったが、丁度その手紙を受け取った直後から、デューイ自身、予想だにしていなかった異次元の因子による僥倖が彼のもとに訪れたのだった。
 ホムンクルス――後のジョン・ウィリアム――の背中、丁度肩胛骨の間に腫瘍のようなものが形成され始めたのだ。それは本体であるホムンクルスの成長を遥かに上回る速度で肥大化し、やがて本体と瓜二つな顔面と極端に小さな四肢を形成するに至った。
 そして、ある時デューイは書簡でこう述べるに至った。
 「本日、素晴らしい事が起こりました。腫瘍が私に語りかけてきたのです」
 それは最初、はっきりと口から出された言葉ではなく、頭の中に直接語りかけてくるようなものだったという。本体のホムンクルスがまだ眼も開けられていないうちから、腫瘍は高等な人語を解し、未来を予見した。未だ人間に知られざる人体の神秘から、果ては種々の暗黒の知識をまでをもデューイに授けてきたという――四五歳という齢にしてデューイが唐突に医学界にその頭角を現わし出した理由はここにあったのだ。
 その腫瘍こそ、邪悪な《ヨグ=ソトホース》の因子の大半を受け継いだ、ジョン・ウィリアムの結合双生児だったのだ。
 ある時、双生児はデューイにある命令を下してきた。それは自分を新生児として成長した本体から切り離すことであった。ウェイトリー翁に宛てたデューイの筆によれば、理由は次のようである。
 《ヨグ=ソトホース》の召還のためには深い暗黒の知識と、健康な精神と肉体が必要である。つまり暗黒の知識を担うのが自分であり、心身を担うのが本体である。だが、このまま本体の方が成長を続けても、いずれ自分のために私生活に支障をきたす上、外を歩けば人目にもつく。そのため強壮な心身を養わせるためには自分と切り離し、本体の方は普通の人間として育たせ、しかるべき日が来た時にまた、自分達をもとの一つの存在へと結合させるのが最良である、と。
 そして暗黒の因子に満たされた腫瘍に命ぜられるまま、デューイが自宅でメスを握り、二人を切り離したその運命の時間こそ、一九一三年の三月一日の夜、二二時だった。分断手術を終え、一個体として独立した腫瘍は次のように言った。
「この兄弟は今でこそ人間そっくりだが、その遺伝子の中には私が埋め込んでおいた《ヨグ=ソトホース》の因子が眠っている。しかるべき時が来ればこれが目覚め、私が再び宿るに相応しい肉体と精神へと――超人の肉体と精神へと――兄弟を進化させる。これは予言だ。その?しかるべき時?というのは、我ら兄弟が切り離された今日この時より、丁度二〇年を閲した時である」
 そしてデューイは我が子のうち、人間の身体を持った片方を、誰にも気付かれぬうちにミールズ・カトリック孤児院の門前へと置き去ったのだ。
 しかし、一九二八年のウェイトリー翁死亡を機にデューイの書簡は断絶した。その後、デューイの心境にいかなる変化が起こって今年一月の事件を引き起こすような心理状態に至ったのかは、推察するしか術がなくなってしまったのだ。
「何故、父はそれほどまでに崇拝していた神を裏切るような真似をしたのでしょう? 僕の知る限りでは、父が回心したようには思えませんでしたが」
 もはやマイヤーズは、アルバート・デューイを?父?と呼ぶことに何の抵抗も感じなくなっているようだった――むしろ、そう呼びたい節すらあった。
「ある意味では回心と言えるかもしれない」アーミティッジ氏はファイルを閉じ、言った。「これは推測だがね。お父上は君に?償い?と言ったそうだが、ひょっとしたらデューイ博士は君の成長を冷徹に観察しているつもりが、いつしか実の子の成長を見守る親心を持ってしまっていたのかもしれない。そして君が自分と同じクインバレー大学に入学し、顔を合わせるようになったことでその感情が高ぶり、君を手元に置きたくなった。やがてその心は暴走し、君の養父母マイヤーズ夫妻を殺害するに至った――恐らくは、君の兄弟から教えられた魔術でもって、トラックの運転手の心を操ったのだろう。しかし、君を養子として家に置き、君の兄弟や、君の身体の秘密のことをひた隠しにしながらも一緒に暮らしていたことによって、自分の子供、人間としての君を愛する気持ちが芽生えてしまったのだろう。それで、君を人間として死なせようとして……」
 そこで言葉を切り、アーミティッジ氏は首を横に振った。
「ああ、だとしたら、父は何という哀れな人でしょう」
 そう言ってマイヤーズ青年は組んだ手に額を叩きつけた。今にも泣き出しそうなその青年に、アーミティッジ氏は痛ましい通告をしなければならなかった――ああ、この時の二人の心痛とは如何ばかりのものであったろうか。
「そして残念だが、君の兄弟と父上が死んだところで、兄弟が予言した運命から君が逃れることは出来ない。はっきり言おう。明日の夜、君は人間でなくなる」
 しかし、アーミティッジ氏の言葉の非常さとは裏腹、マイヤーズはそれほどまでに驚愕の態度を見せはしなかった。
「ああ、やはりそうでしたか。このところ、自分の中で何かの変化が起こっているような、奇妙な感覚を覚えてはいたのです。しかし、どうしましょう。私には自殺する勇気がないのです」
「君はカトリックだ。それでいい。自殺する勇気など持ってはいけない。明日の夜、私が君を殺そう。君が人でなくなった瞬間、私がウィルバーの名も無き弟をそうしたように、君を殺す」
 書記官が困惑した表情で私の方を見た。今ここで行われたのは、明らかな殺人予告ではないか、と彼の眼がそう訴えている。だが私はそれに対して、黙って頷くしかなかった。
 殺す、と断言されたにもかかわらず、マイヤーズ青年の表情は至極安らかなものであった。
「ああ、アーミティッジ博士、ありがとうございます。どうか僕の魂を悪魔達の手に渡さないように、お願いします」
 その日の面会はそれで終わりを告げた。アーミティッジ氏は明日の二一時に、しかるべき装備を携えて来ると言った。また、自分の行いが裁判関係者達に邪魔されぬよう、またマイヤーズは面会室ではなく留置場に入れたままにして欲しいと言ってホテルへと帰っていった。博士を見送った後、私は西から聞こえてくるウィップァーウィルの啼き声の数が昨夜よりも格段に増している事に気付いた。
 翌、三月一日。私は朝から何の仕事にも手をつけられない状態だった。正午過ぎに窃盗が一件、夕刻に交通事故が一件発生したが、現場に向かう気力もなく、全ての指揮を部下の警部補に任せる始末だった。かといって留置場に行ってマイヤーズと話をする勇気なく、ただオフィスに閉じこもって時が過ぎてゆくのに身を任せているだけという有様だった。夜が来るまでが、まるで一年の事のようにも感じられた。二〇時を回った頃から、一昨日の夜に私が足労を願った人々が続々とやって来た。
 最初はエドワーズ神父だった。今年で七〇歳になる神父はその職に違わず、ミールズの住民の中でも特に徳高い人物として多くの人々から敬われている。信仰を持っていない私から見ても彼は素晴らしい人格者だ。カトリック孤児院の院長も務める勤勉家で、ジョンの里親となったマイヤーズ夫妻のこともよく知っており、何より幼子にジョン・ウィリアムの名と洗礼を与えたのが彼である。今回の事件で最も心を痛めている者の一人であった。神父はすぐにでもマイヤーズに会いたいと言ったが、私は他にも彼に会うべき人々が来るので待っていただきたいから待合室で待機していただくように、と説得した。やや遅れてブラウン弁護士、ローズベック判事、コーエン博士、シュマイク検察官と続いてやって来た。私は彼らも待合室へと通した。
「こんなに人が揃うとは聞いていないぞ。秘密裁判でも始める気か?」と言ったのはローズベック判事だった。
 二十一時、やって来たアーミティッジ氏は、やはり昨日と何ら変わることない格好をしていた。ただ、昨日までのよりもさらに大きなトランクを重そうに抱えていた。しかるべき装備というのが何かはよく分からなかったが、噂に聞く?エクソシズム?というカトリックの秘術とはまるで異質な儀式が行われようとしているのは肌で感じ取れた。
 私は待合室にいる全員に博士を紹介した。誰一人としてアーミティッジ氏を見知っていた者はおらず、このミールズの住民ではない老学者に対して、みな訝しげな視線を送っていたが、私が彼のおかげで今夜、事件の真相が明らかになる次第となったと説明すると、渋々ながらも幾分か警戒を解く気配を見せた。
 私達七人が揃って留置場のマイヤーズのもとを訪れると、やはりと言うべきか、最初にマイヤーズが反応したのはエドワーズ神父に対してであった。
「神父様、素晴らしいことです。僕の本当の父親が誰なのか、それが判明したのです。しかし、ああ、何と言うことでしょう。彼は僕のために既に死に、その魂はきっと今、地獄で苦しみを受けているに違いありません」
「落ち着きなさい、ジョン。父親が分かったのですか。しかし、亡くなられたとは残念だ。それで、母親の方は分かったのですか?」
 マイヤーズはさぁっと顔を青ざめさせ、首を横に振った。
「ああ、神父様。それを告げるのは恐ろしいことです。ですが、やがてそれは僕自身と、そちらにおられるアーミティッジ博士で証明することになるでしょう。時が来れば、証明されるのです」
「全くわけが解らん」と口を挟んだのはシュマイク検察官だった。「警部、私はマイヤーズが事件の真相を話すから来て欲しいと言われてやってきたのだぞ。何故、今話せぬのだ?」
 私は答えた
「その理由もじきに解ります。全ては、あの時計が二二時を指した時に。マイヤーズ、まだ時間がある。昨日、私とアーミティッジ博士に話してくれた事件の夜のことを、ここにいる人々にも話して欲しい」
 マイヤーズが頷いたので、私も感謝の意を込めて頷き返した。
「皆さん、これから彼の口から語られることは、信じ難いことながらも全て事実です。どうか話の途中で退出したり、口を挟まぬようお願いします。それが確約出来ないのであれば、今すぐに帰っていただきます、よろしいですね?」
 私の強行な態度に判事などは眉根を顰めたものだが、それでも誰一人として部屋を出てゆく者はいなかった。こうして、昨日と同じことをマイヤーズは、私とアーミティッジ氏を除く五人に語ったのだった。
 マイヤーズが話し終えた時、五人の反応は様々であった。検察官は明らかに狂人を見る眼を、弁護士は精神病者に向けるような哀れみの籠もった眼を、それぞれ青年に向けていた。判事は指で眉間を叩きながら考え込む仕草をし、生物学博士はすぐにでも質問をしたそうな様子だった。エドワーズ神父は十字架を胸元で握り締め、眼を瞑っていた――その唇は「おお、神よ」と動いていた。
 アーミティッジ氏はマイヤーズが話をしている間に準備を整えていた。大きなトランクの中から出されたのは二つ。一つは害虫駆除の際に使われるような噴霧器であり、今一つは使い古したノートだった。表紙が擦り切れ、ページも濡れそぼった跡でぐねぐねと波打っていた。博士は私に、噴霧器の使用を頼んできた。
「私が合図をしたら、中に入っている特殊な粉末を、留置場の中に、満遍なくふり撒いて欲しいのです。そうしなければ彼の姿を捉えることは出来ません」
 その言葉の意味を求める私に、博士は確信を伴った口調で言った。
「二二時が来た瞬間、マイヤーズは人間ではなくなり、その身体を構成する物質も、この次元のものではなくなります――我々の視覚には認識することの出来ない物質に変わるのです。この噴霧器に入っているのは、その物質の不可視性を打ち消し、一定の時間、彼を我々の眼にも見えるようにするものです」
「ばかばかしい。気狂いの戯言に付き合って損をしたわ!」シュマイク検察官が怒りを露わにした。
「ヤング警部……これは本当に科学的に根拠のあることなのかね?」ローズベック判事が問うた。
 私にはこう答えるしかなかった
「これが狂人の戯言であり、なおかつ科学的に根拠のあることであれば、それでいいのです。ですが、我々の常識を覆すことが起こり得る最悪の状況が起こり得るからこそ、私達は貴方がたに今夜、ここに集まっていただいたのです」
 私と彼らの問答はなおも続いたが、そうこうしている間に時計の針は二二時を打とうとしていた。私は検察官や判事たちの事をひとまず捨て置き、博士に託された噴霧器を構えた。
「エドワーズ神父。私は貴方の信仰する神の言葉とは全く別の言葉を唱えさせていただきますが、出来れば貴方は手を出さずに、ただ、この場で何が起こるのかを見ていていただきたい。今から現れるのは貴方がたの知る神や悪魔とは、まるで異なるものですから」
 そうアーミティッジ氏が神父に告げた瞬間、マイヤーズが低い呻き声を上げた。やがてその身体が少しずつ痙攣を始めた。全身の筋肉に強い負荷がかかっているのが見て取れた。眼球がひっくり返り、白目を剥いた状態でマイヤーズは呻き声を上げ続けた。
「いかん! 医者だ。今すぐ医者を!」
 そのブラウン弁護士のその叫びは、同時に起こった二つの音に掻き消された。一つは人間のものとは到底思えぬ、人の心を底から寒からしめすような、そして部屋全体を揺るがすような、マイヤーズの凄まじい咆吼であり、今一つは、留置場の窓という窓の外から一斉に入り込んできた、何千羽はいようかというウィップァーウィルの狂瀾怒涛とも言うべき大合唱であった。
 その瞬間、まるで嵐が産まれたかのように部屋の空気がごうごうと渦を巻き始めた。他の五人が思わず耳を塞ぎ、眼を瞑る中、私とアーミティッジ博士だけが不退転の使命感から、まんじりともせずにマイヤーズの動向を見守っていた。
 長い雄叫びの中、私は見た。マイヤーズの眼が血のような赤みを帯びたかと思うや、彼は身に纏った収監服を凄まじい力で破り去り、真っ裸のまま留置所の鉄格子を拳で叩き出した。そうするうち、彼の肉体に変化が起こり始めた。筋肉の躍動ではない何かが、彼の肉体の内側で蠢動していた。肉と言わず骨と言わず、その身体の一部が蠢動する毎に、その部分の色素が徐々に薄まってゆくのが見て取れた。それはたった数秒のことで、次に彼が鉄格子を殴りつけた瞬間、彼の姿はまさに掻き消えたのだ。
 私達の背後で、誰かが何かを叫んでいるようだったが、もはやその内容すらも耳に入ってこない状態にまで、留置場の中は混乱していた。
 マイヤーズは消えた。しかし彼の叫び声と、鉄格子が激しく叩かれて揺れる音はまだ続いていた。私自身、アーミティッジ氏から説明を受けて覚悟を決めておきながら、恐怖と混乱に身体を固まらせてしまっていた。
「警部! 噴霧器を!」
 その博士の言葉でようやく私は我に返り、噴霧器のレバーを引いて鉄格子の向こうに正体不明の粉末を吹き散らしたのだった。
 その直後に見たものを、私は終生忘れることが出来ないだろう。今でも夢に現れ私を苦しめる、あの恐るべきジョン・ウィリアム・マイヤーズの成れの果て。異次元の因子が覚醒し、人間でなくなった彼の姿は私の想像を遥かに超えていた。私はその時、自分が悲鳴を上げたかどうかは覚えていない。ただ、真横や後ろから断末魔のものとも思える狂気の悲鳴が、外から入り込んでくるウィップァーウィル達の合唱にも負けぬ大音声で部屋中に響き渡ったのは覚えている。
 我々の目の前に姿を現わしたのは、全身がのたうつ縄で出来たような怪物だった。縄は幾千匹もの蛇のように絶えず動き回り、それが時には第三、弾四の腕となり足となって自由自在に肢を形成していた。腕の先々はヒトデのような星型に広がり、その掌は小さな針でびっしりと埋め尽くされ、それが鉄格子をしきりに叩いていた。絶えず恐ろしい咆吼しを続けているのはマイヤーズの口であったが、その場所はもはや肩の上にはなかった。腹とも胸ともつかぬ、その肉体の中央にマイヤーズの顔はあったが、髪は失われ、その肌は死人のようで眼だけが赤や青や緑にと絶えず色を変えながら爛々と光り輝いていた。
 気が付けば、真横にいたアーミティッジ氏がノートとマイヤーズを交互に見やりながら、腕を振り上げ、一心不乱に、聞いたこともない言語で何らかの呪文を唱えていた。その呪文が一区切りする毎に、マイヤーズの成れの果ての怪物は身をよじり、怒り狂ったか藻掻くかするように、ますます勢いよく留置所の中で暴れ狂った。時折、その姿が再び消えそうになると、私は噴霧器のレバーを引き、粉末を吹きかけた。
 全ては一分も経たない間のことだったかもしれない。しかし、私には一時間のようにも一日のようにも思えた。
 アーミティッジ博士がさらなる勢いをもって呪文を詠唱し、遂に怪物はその身体を留置所の床に投げ打って、のたうち回り始めた。全身の蠢動する縄状の物体は分裂と融合を繰り返し、何とか一所に纏まろうと必死に藻掻いているようだった。それは何百匹ものミミズやムカデがそのように群れをなして蠢動しているよりもなお、吐き気を催す光景だった。中央のマイヤーズの顔面は、眼も鼻も口も、限界まで開ききった状態で固定されており、咆吼は悲鳴に変わりつつあった。そして悲鳴はやがて言葉らしきものへと移り変わったが、それもまた私の聞いたことのない、およそ人間には不可能と思える発音を持った言語だった。留置場の嵐はますます勢いを増し、外のウィップァーウィル達の合唱もまた、怪物に加勢するのか、それとも怪物の死を招福するのか、今にも格子窓を砕き割らんばかりの轟音と化していた。一つの部屋の中で、何もかもが荒れ狂っていた。
 そして、その時は訪れた。怪物の悲痛な叫び――或いは必死の嘆願が、最後の最後に我々の知っている言語となって、天井に叩きつけられた。
 だが、それは次なる言葉だった。
「ああ! 父よ! 父よ! 何故だ! 何故、私を見捨てた!?」
 爆薬が炸裂したかのような音と共に、正面から凄まじい、眼には見えない衝撃を受けて私は床に叩きつけられた。文字通り、室内の大気が怪物を中心に爆発したとしか思えなかった。
 咄嗟に身を起こした私の目の前で、怪物の全身を構成する縄状の物体がばらばらに解け散り、もはや何色とも言い難い光を帯びた直後、一斉に消え去った。私は起き上がり粉末を振り撒いた。
「もう、終わりましたよ警部」
 振り向くと、アーミティッジ博士も床に仰向けに倒れて、私を見上げていた。気が付けば留置場は静寂を取り戻していた。室内に渦巻いていた嵐は止み、あれだけ盛んであったはずのウィップァーウィルの啼き声は一匹分たりとて聞こえて来なくなっていた。
 私はアーミティッジ氏が立ち上がるのに手を貸し、改めて留置場内を見舞わした。シュマイク検察官とブラウン弁護士は完全に意識を失っており、ローズベック判事は自力で立ち上がってはいたものの、「私は何を見たのだ……ああ、私は一体、何を見たと言うのだ……」と繰り返すばかりで酷い錯乱状態に陥っていた。コーエン博士は床に座り込み、壁に背を預けたまま、今目の前で起きたことを頭で整理しようとしているのか、それともただ放心しているだけなのか解りづらい表情を浮かべていた。
 私達二人以外では、唯一、エドワーズ神父だけが意識も思考もはっきりしていたが、床に倒された時の打ち所が悪かったのか、立ち上がるのに難儀していた。私と博士とで彼に手を貸し、何とか床に座らせるにまで至って、初めて神父は我々に質問を投げかけてきた。
「彼は、ジョンは死んだのですか?」
 意外にも、アーミティッジ氏は言葉に詰まった。そして、溜息を一つ吐いてから言った。
「正直なところ、解りません。彼らのような生命体にとって、こちらでの死がそのまま、生命の終わりに繋がるのか、それとも、もともといるべき世界に戻るだけのことなのか。私の用いた呪文も、彼らのような異次元の生命体をこの世界から消滅させる以上の効果は、何も解っていないのです」
「ジョンは、何故、あのような姿に……」
「それは、彼の母親があのような存在だったから、としか言いようがありません。彼は二〇歳になる――本当の誕生日を迎える――と同時に、母親の形質が身体や精神の中で目覚めるよう、呪いをかけられていたのです」
「ジョンは、父親はアルバート・デューイ博士だと言いました。しかしアルバート・デューイは人間です。彼の母親は一体誰だったのでしょう。私には、デーモンであったとしか思えません」
 アーミティッジ博士が首を横に振った。
「神父さん。恐ろしいことですが、これは神とも悪魔とも言い難い。我々はしばしば?邪神?という言葉でジョンの母親のような存在を表わしていますが、その実、ただ我々の住む宇宙とは異なる世界の存在、としか言いようがないのです」
「ああ、何と言うことだ。恐ろしい。本当に、恐ろしいことです。特に、ジョンのあの最後の断末魔は…………」
「断末魔? ?父よ、何故私を見捨てたのだ?――あの言葉は、そんなに恐ろしいことですか?」私が質問をした。
「?父よ、父よ、何故、私を見捨てたのです?――これはゴルゴタの丘で磔にされたイエスの最後の御言葉なのです。ジョンは熱心な信徒でしたから、あのような姿になっても、咄嗟に頭に出たのかもしれませんが……」
「私はかつて、同じ方法で一体、彼と同類のものを消滅に追いやったことがあります」アーミティッジ氏が言った。「信じられないでしょうが、その怪物の父親はマイヤーズの母親と同一の存在でした。その怪物の断末魔を今、私は思い出しています。その怪物は今わの際に恐ろしい声でこう叫んだのです?父よ、助けてくれ?と」
「何ということだ」神父が言った「ジョンの母親は、同時にいま一人の父親でもあったということなのですか。私はてっきり、実父のデューイ博士か、或いは最も父親として親しんでいたフランクリンか、もしくは先刻の私の言葉通り、イエスを真似た、父なる主への哀願かと……」
 それっきり、我々三人の間に重苦しい沈黙が垂れ込めた。
 果たして、ジョン・ウィリアム・マイヤーズが最後に言い放った?父?とは、一体、誰を指しての言葉だったというのだろうか………… 

コメント(2)

 約30000文字に及ぶ長編、ご覧頂きありがとうございます。
 前編のコメントでも語ったとおり、この作品を『ダンウィッチの怪』とガジェットさせる予定は、書き出した当初は露ほども有りませんでした。しかし筆を執るうち、何故か突如としてアーミティッジが登場し、気がつけばこのような?『ダンウィッチの怪』を読んでいる事が前提?の完全なマニア向けの作品として仕上がってしまいました。
 一体、何が、そんなに、私を『ダンウィッチ』に駆り立てたのかは、今でも不明です。

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