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クトゥルー神話創作小説同盟コミュの青爪の魔女 上 

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青爪の魔女


1、

 潮を含んだ風が、女の黒い衣の裾をはためかせる。
 女は、石造りの橋の上に佇んでいた。おりしも街が明け方のうす青い闇に染まる頃である。石造りの広い橋には人足たちがせわしなく行き交い、橋の向こう側に広がる波止場にやってきた船から、たくさんの積荷を降ろして市場へと運んでいく。ベラ、イロス、グランドリク――十をくだらぬ港から来た船は、明け方の光の中で黒い塊となって波止場に繋がれていた。外国船によって港にもたらされた積荷は、荷車に山と積まれた野菜や魚籠と一緒になって、新市街の市場へと運ばれていく。
 大都市ティリスは、決して早起きの街ではない。だが、この港と〈青銅門〉の狭間に広がる新市街だけは違っていた。まだ太陽が石灰質の壁を緋色とオレンジに染め上げる前から、水夫や人足たち、商売人たちが街に溢れかえる。彼らはこの街という身体をめぐる血液のようにせわしなく行き交い、取引をし、悪態をついた。
 女は、橋の真中の欄干に身を預けて、行き交う人々を眺めていた。
 黒髪碧眼の女であった。弓型の細い眉の下に輝く眼の青さに、道行く人々は時折驚いて彼女に視線をやる。そして、またあっと驚く。
 橋の欄干で咆哮する獅子の浮き彫りを撫ぜる女の爪は、瑠璃のように鮮やかな青さをしていた。
 女は人々に背を向け、橋の下に流れる運河の、濁った緑の流れを見下ろした。
 橋のたもとで店支度をする住民たちは、ふと不安になった。
 もとより、数多くの橋が存在するティリスでは、身投げもまた多いのである。
 だが不思議と、女の髪のように長い緑の藻の絡んだ水死者が、運河の濁った水から揚がることは少なかった。
 人々はそれを、海水と河の水の交わるこの運河に繁殖した生き物や藻の類が、水漬く屍を喰らい絡め取ってしまうからとも、あるいはこのあたりの海に潜むもっと恐るべきもの、人とも魚ともつかぬ者どもが、水死者を跡形もなく喰らいつくしてしまうからとも噂した。
 だが運河に繁殖した生物にも、海に潜む怪物にも、証拠があるわけではない。
 女はしなやかな身のこなしで、橋の手摺りの上に立った。海から吹きつける風が、女の黒い、粗末な衣装を翼のようにはためかせた。
 ちょうど橋の袂の店で茄子を籠に載せていた八百屋が、危ないと声をかけようとして近づいた。
 女は、跳んだ。
 女の細い身体が、美しい弧を描いて空中に舞った。白い腕や脛があらわになる。その堂々とした振る舞いに、居合わせた者は皆息を呑んだ。街の一角に、不意に静寂が訪れる。
 声を掛ける間もなく、女は無造作に落ちていった。人ひとりが水に落ちる、大きな水音が轟いた。鏡のように静かだった運河の緑の水面に、大きな白い水柱が立った。
 人々は、顔を見合わせた。運河の波紋がようやく落ち着き、濁った緑の上にいくらかの白い水泡が残るばかりになった頃、彼らはようやく女が河に身を投げたのだと認識した。
「身投げだ! 女が身投げしたぞ!」
 誰かの声が静寂を打ち破り、人々の耳に一斉に街の音が甦った。橋にかけよる者、噂しあう者、ぽかんと開けた口を閉じて仕事に向かう者。人々は蜂をつついたような大騒ぎになった。
 八百屋たちは橋の欄干から身を乗り出して、女の落ちた運河の面を眺めた。息が出来なくてもがき苦しむだろうに、気泡ひとつ、女の黒い衣装ひとつ、浮き上がってはこない。
 はて――。
 八百屋は不思議に思った。まるで、さっき身投げしたはずの女は、最初から存在していなかったかようだった。身体も、衣装も、帯のひとつ、息のひとつさえ運河の濁った水の上からは、何も発見できなかった。幻だったとも思えたが、それにしてはあまりに生々しすぎる幻であった。
 あるいは、運河の底に潜む何者かの貪婪な口に、もがき苦しむ間もなく喰われてしまったのか。
 運河の水だけが、何事もなかったかのように静かにたゆたっていた。

2、

「ということが、今朝あったらしいんですが」
 昼下がりであった。大都市ティリスの一角、古本や骨董を商う店が多く営まれる〈古物通り〉も、今は暑さを避けてほとんど人通りがない。その〈古物通り〉で古本屋を営むラバンはひととおり、馴染みの客に聞かされた事件のあらましを語ると、振舞われた冷たい茶を一口啜った。 
 ラバンの正面には、一人の男が座っていた。何色かわからない夏用のローブを着て、のんびりと片肘をテーブルについて幾分だらしなく腰掛けている。暇で暇で仕方がない、とでも言いたげな姿である。この地域では平凡な組み合わせである黒髪と黒い瞳に加えて、その穏やかそうに見える顔立ちは、それほど若くもなければ年老いているわけでもなく、全体的に掴み所のない印象のある男だった。
 唯一彼のこの町の住人の平均から外れている特徴と言えば、ティリスの街角で働いている人々よりも日灼けしていないその肌である。と言っても彼の場合、白い肌というよりも、日ごろから働きもせず家の中にいるばかりであろうというような、日に灼けていないというだけの色であった。
 彼もラバンも、古びた木の椅子に腰掛け、ラバンの営む古本屋の軒先に出した店台をテーブル代わりに、美しい硝子の器を並べて茶を飲んでいた。軒先には日除けの天幕が張られ、午後のすさまじい日差しを避けて涼しく過ごせるようになっていた。
 男は、ふむと頷くとまた茶を啜った。町中で噂になっているこの話を聞いてこの男がどう思ったのか、ラバンには定かではなかった。
 しかし、それも普段通りのことである。それほど表情豊かな男というわけでもない。時折ラバンは、この男が何を考えているのか皆目検討もつかないことがあった。
 男は、ラバンの店の隣の骨董屋であった。名をアルマロスという。ラバンは彼の年齢を尋ねたことはないが、せいぜい自分より十かそこら上の、三十半ばほどであろうと踏んでいた。
 ラバンは、差し込んでくる日光を売り物の書物に当たらせまいと、天幕を引っ張った。外を眺めると、灼けつくような街には人ひとり、どこからともなくティリスの裏路地に集まってくるような痩せこけた野良犬一匹見当たらなかった。商人、水夫、その他ティリスを訪れる外国人もまた数知れなかったが、彼らもまた涼しい商館の中庭で休んでいるか、あるいは影涼しい木陰に座り込んでいるか、波止場に立ち並ぶ水夫相手の店に入り浸っているのか、影も形もない。
 今日のティリスは、うだるような暑さであった。
 生粋のティリス育ちで、暑さには慣れているはずのラバンでさえ、脳が煮えたぎって、身体の穴という穴から流れ落ちそうに感じるくらいの暑さだった。わざわざこんな時間に客が来るはずもあるまいと、店舗の二階にある自室に行って、綿の詰まったクッションを枕に午睡をとってもよいはずだった。
 ラバンがそうすることなく店先の椅子にただつくねんと座り、あるいは売り物の本に陽が当たっていないかと気にするのは、ひとえに彼の生真面目さのためであった。古本屋は若い彼を置いて早くに死んでしまった父親から譲り受けたものだったが、彼の気性には合っていたらしい。
 よいことだ、と彼は思っていた。この店は父が彼に与えてくれた、最大の贈り物だった。
 アルマロスに眼をやると、彼は脇に張り出した店台に置かれた本を勝手に引き抜いては、自分の目の前にその革張りの背を積みあげ、ぱらぱらと中表紙を捲りあげていた。
「暇なんですか、アルマロス」
「それはもう」
 アルマロスは鷹揚に頷いた。彼も一応骨董屋を経営している身であるはずだが、客がいつ来てもいいように店を管理しておこう、などという心がけは微塵も感じないようだった。
「でも店くらいは、開けておいたほうがいいと思いますけどね」
 ラバンはそう言って、アルマロスが背にした方向を指差した。彼らと目と鼻の先にあるアルマロスの骨董屋の扉はがっちりと閉ざされ、普段は役にも立たぬがらくたのおかれた軒先は、きれいに片付けられていた。
 アルマロスは肩をすくめた。
「いいんだ。どうせ、今日は客は来ないだろう」
「そういうことを言っているから、ますます客が来なくなるんですよ」
「それならそれでいいさ。楽でいい」
 余計なお節介になると思いつつも、ラバンはため息をついた。
「だからいつまでも貧乏なんですよ。借金なんて、してないですよね?」
「外聞の悪いことをいうなあ。金がないのは君のところで本を買ってるからだよ。本は高価くてね」
「それが言い訳になると思ってますか?」
「やれやれ」
 アルマロスはそれだけ呟くと、それきりまた手元に視線を戻した。どうやら言い負かしたようだ、とラバンは考えた。背後にある自らの骨董屋には、ちらりとも目をくれない。左手では、ほぼ意識もないままに空になった茶器を長い指でくるくるともてあそんでいた。
 よほど熱心に読書をしているらしいとラバンは思った。
 アルマロスはほぼ毎日のように、自らの骨董屋の隣にある、ラバンの店にやってきては、店台の前に勝手に椅子を持ちこんで本を読んでいた。入り浸っていると言ってもいい。隣の骨董屋から茶器を持ちこんでラバンに香り高い茶を振舞うのは、アルマロスも少しはラバンに悪いと思っているからだろうか。
 売り物の本を読まれているのではあったが、ラバンにはなんとなく、それを咎める気にはなれなかった。アルマロスは無類の本好きであったし、それになにより、ラバンの店の一番の常連でもある。
 だがそれだけではなく、アルマロスは老人だらけの〈古物通り〉の店主の中では、ラバンともっとも年齢が近く、親しみやすい相手でもあった。古本屋という慣れない商売をはじめるにあたって、ラバンはアルマロスに色々世話になっていた。気性の点でも、それなりに合っているのではないか、とラバンは思っていた。
 そのようなわけで、ラバンがこの古本屋を父から受け継いで以来、二人は茶を飲み親しく言葉を交わす仲だったのである。
 ラバンはアルマロスの前に積まれた本を眺めた。『アリマク王宮の食卓と宮廷料理』、『アドン神話小論文集』、『深海の水妖たち』。ラバンの店は古本屋と言いつつ、船に積まれて絹や香料と共に港にやって来た貴重な外国の書籍から、最近出版されたティリスで売れ筋の小冊子、イロス語、アクロ語の本、古びた虫食いだらけの写本まで、雑多な新本古本が入り混じった品揃えだった。
 宮廷料理の本なんて、アルマロスも妙なものを読む男だ。彼は内心そう思った。ラバンはそれよりも、一昨日仕入れたばかりの『公国の歴史と地理』のほうが面白そうだと思っていたが、年上でなおかつ彼には及びもつかぬくらい知識の豊富なアルマロスに、本の読み方の指図をするわけにもいくまい。
「何を読んでいるんです?」
 アルマロスは、臙脂色の革表紙に古風な金文字で、『深海の水妖たち』という題名の付けられた本をひらひらと手で振ってみせた。
「この本によれば、このティリス湾の海深くには、人とも魚ともつかぬ生き物がいるらしい。彼らは高い知性を持ち、海底に都市を築いているとか」
「聞いたことのない話ですね」
 ラバンはあまりの胡散臭さに眉をひそめた。
「本にそう書いてあるというだけの話だ。で、彼らは魔術を扱い、陸に上がって人間と交わりその血を混ぜることも出来る。ティリス湾だけではなく、もっと遠くの大洋にも数多く暮らしているそうだ」
「信じているんですか、そんな話を」
「さて、ね」
 ラバンが魔術と聞いて思わず苦い口調でそう訊くと、アルマロスは肩をすくめて言葉を濁した。だが口許には心なしか薄笑いが浮かんでいる。
 アルマロスの周囲には、さまざまな憶測が飛び交っていた。
 たとえば、彼が骨董ばかりではなく、魔術のために扱われる品々をこっそり商っているだとか、あるいは彼のもとを訪れる客の中には、彼に公には禁止されているはずの魔術の依頼をする者もいるという話が、この〈古物通り〉の裏ではまことしやかに囁かれていた。そうでなければ、あんなに商売気のない経営で、骨董屋がやっていけるはずがないと。

 こんな話がある。
 深夜、ある男が〈古物通り〉を歩いていた。
 文目も分からぬ深い闇の中である。むろん、こんな夜更けに店を開いている本屋もない。
 男は、盛り場でしたたか酒を飲んでから、〈迷宮地区〉の粗末な住居に戻る途中であった。酔って気が大きくなったのか、舗装された大通りではなく、あえてこの細い道を選んで暗闇のなか、灯火一つを手に吊るして大股で歩いていた。
 いつの頃からだろうか。
 ひた、ひた。
 男の背後から小さな足音のようなものが聞こえてきた。
 足音というよりも、むしろもっと湿り気を帯びた音である。何か柔らかいものを、引きずるような音とも思えた。
 男の酔いは、いっぺんに醒めた。
 後ろに何かがいる。
 男は決して後ろを振り向いてはいけない気がして、大股で〈古物通り〉を通り抜けようとした。この通りさえ抜けて大通りに戻れば、無事でいられるのではないか。訳もなくそう考えた男は、心臓を早鐘のように脈打たせながら、灯火が風で消えぬくらいの速さで早足になった。
 音は、変わらず彼の背後にぴったりとくっつくように、纏わりついた。ひた、ひた、という足音の速さは変わらないのに、歩を速めた彼に楽に追いついているようだった。
 男の心臓は、どきんと跳ねて裏返った。男は身も世もなく狂ったように走り出し、灯火が消えるのにも構わず、走って〈古物通り〉の出口までたどり着いた。大通りの、ちらほらと光る旅籠や酒場の灯火に、男はほっと息をついた。一体、自分は何に恐怖していたのだろうか。
 今までの恐怖が莫迦莫迦しく思えてきた男は、ちらりと背後を振り返った。
 背後には、黒々とした〈古物通り〉の路地の闇が広がっている。何の変哲もない、夜の路地のように見えた。男は今まで気付かなかったのだが、〈古物通り〉の店でただ一軒、アルマロスの骨董屋だけは、その扉の奥からかすかに明かりが漏れていた。男はほっとして、首を前に戻そうとした、そのときである。
 闇の中で、何かが動いた。
 今まで闇に紛れていた何かが、ゆるりと姿を変えて男の前に現れた。ねじれた身体。とぐろを巻くような角。半透明のぼんやりとした巨体の上には、小さな人間の顔にわずかに似ている頭が、ちょこんと載っていた。ぼうっとした光を放つ輪郭だけが、そこに明らかに何かがいることを示していた。
 男は今度こそわっと声を上げて、怪物の前から逃げた。
 足が痛くなるまで走り続け、ようよう家に帰ることのできた男は、一週間のあいだ、高熱に悩まされたという。
 人々は、その怪物をアルマロスが、〈錬金術師通り〉の商売敵の魔術師に対して送ったものであると噂した。あるいは、それは彼の使い魔で、彼の留守中その家を守っているのだと。

 ラバンはそのような噂を思い返しつつ、目の前で本を読むアルマロスを眺めた。彼は、アルマロスに関して囁かれるこの手の噂を信じたことはない。アルマロスに対しては、ラバンはときにその知識に畏敬の念を禁じえないということはあった。だが、夜の闇で我が物顔に振舞っているこの男を、想像することは到底出来なかった。
 そんな甲斐性があるわけでもないだろう、というのが、ラバンの年上に対する評価としては少々失礼な、アルマロスへの分析であった。
「魔術といえば、今朝身投げした女も魔女だと言われていたなあ」
「魔女? 身元はもうわかっているのか?」
「いえ、まったくそんな話は出てませんけど、あの青い爪、身投げをしたはずなのに全く遺体も遺品も発見されないところ、何かがおかしいじゃないですか」
「あるいは、それこそ深海の化け物のせいかもしれないな」
「ええっ?」
 アルマロスはにやりと笑った。
「で、なぜ君は深海に化け物がいるという話は信じないのに、魔女という噂は信じるんだね」
「それは……」
 ラバンは考え、たしかにそれは道理に合わないと思った。
「でも、そう噂した人の気持ちも判りますよ。身投げした女性はかなりの美人だったと言われてますから」
「だろうなあ」
 単にラバンをからかっていただけらしいアルマロスは、何かに得心したように顎を撫でた。
「おそらく君の言う女性なら、一度、私の店に訪れたことがある」
 ラバンは驚愕してアルマロスを凝視した。
「それで彼女に貰ったのが、君が今手に持っているその杯だ」
 ラバンはますます驚愕して、自分の左手のうちにある硝子の器を見た。よくよく見れば、素晴らしい造形の器である。かなり高価なものなのではないだろうか? 自分が手にするにはもったいないくらいだ、とラバンは慄いた。
 だがなぜ、それを?
 アルマロスは日差しの強い外の路地を眺めつつ、横目で驚愕しているラバンにちらりと目をやった。
「そう、彼女が私の店にやってきたのは、一昨日の夜だったかな……」

3、

 窓の木枠からは、零れるような月の光が差し込んでいる。
 アルマロスは寝台の上で目を覚ますと、まだ眠気の残る頭で呻いた。ずり落ちそうになっていた毛織のブランケットを肩まであげ、ごろりと転がってきつく身体に巻きつけようとする。
 月ばかりが空に輝く、真夜中であった。
 窓からは、涼しい夜風が吹きこんで青灰色のカーテンをひらひらと舞わせていた。昼の熱気が嘘のような、涼しすぎる風だった。
 ふと、何かを感じて、アルマロスは耳を澄ました。
 とんとん、と何かが堅いものを叩く音がかすかにする。軽やかな音だった。
 とんとん、とんとん。
 音はリズミカルに、一定の間隔を置いて響きつづけた。
 アルマロスは、それがどうやら下から響いていることに気がついた。彼が寝ているのは、店舗の二階の寝室である。その下はむろん、彼が営んでいる骨董屋だった。簡素な木製のカウンターと、床から天井までぎっしりと物の詰まった陳列棚。
 泥棒かと一瞬思ったが、おそらく違うだろう、と彼は踏んだ。音は建物の内ではなく、外から響いている。
 そうか、誰かが扉を叩いているのだ。
 アルマロスはようやくそれに思い至って、寝台のそばに置いた茶色のスリッパを両足にひっかけると、さっと上着を着てぎしぎし軋む階段を降りた。
 音は、天秤や筆、本などごちゃごちゃと物の並んだカウンターの向こう、背の低い戸口の扉から聞こえてきた。
 こんな時間に、誰が来たのだろうかとアルマロスはいぶかしんだ。
「どなたですか」
 彼が声を掛けると、とんとん、という音は已んだ。
「申し訳ありませんが、この時間、店は閉めているんですよ。私も眠らなくてはいけない身の上なので」
 音の主は、何も言わなかった。しんしんとした沈黙が流れる。
「ですが、何か大切な御用がおありのようですから、どうぞ中にお入りください。遠慮はせずに、さ、どうぞ」
 アルマロスがそう言って扉の鍵を開けても、外で何かが動く気配はしなかった。彼はカウンターのランプに火をともし、カウンター奥から椅子を取り出して前に置いた。古びた藍色のクッションの埃をはたくと、もうもうと埃が宙に舞い、ランプのゆらめく光に照らされた。
 そのとき、ようやくがたがたと音をたてて扉が開いた。扉が開くとともに、眩しい銀の月光が店の室内に溢れ出る。
 その月光の下に、一人の女が立っていた。
 年齢のころは、二十四、五ほどだろうか。黒っぽい粗末な衣装を着ていたが、月の淡い光に照らされたその顔は、青褪めた女神のようだった。涼やかな切れ長の目元が、ぞくぞくするほど色っぽい。
 その眼は、はっとするほど深い蒼だった。
 女は、重さを感じさせない歩みで狭い戸口を潜り抜けると、ふわっとアルマロスが用意した椅子に座った。アルマロスもまた、カウンターを挟んだ女の向かい側に椅子を持ってきて座った。
 女の身体からは、濃やかな麝香の甘い香りがする。宮廷の貴婦人が、その宝石に彩られた白い柔肌から漂わせるような、かぐわしい匂いだった。
「このような夜分にお付き合いいただき、申し訳ありません……」
 女は、鈴の転がるようなかすかな声で喋った。
「いえいえ、とんでもございません」
 そう言いつつもアルマロスは、女を注意深く見つめていた。こんな深夜に訪れる女が、何か厄介なことを抱えていないはずがなかった。女が頭を下げると、胸元にさげた銀色の鎖がちかりと光った。
「本来ならば昼間の時間にお伺いできればよかったのですが、事情がそれを許しませんでしたので……」
 アルマロスはおもむろに手を揚げて、女の言葉を制した。
「それよりも、ここにこうしていらっしゃったからには、何か火急の用事がおありのはず。それを教えていただけませんか?  もし出来るのであれば、お力添えをいたしましょう」
「お礼申し上げますわ、アルマロスさん」
 アルマロスはいつ女が何かとんでもないことを仕出かしてもいいようにと身構えつつ、その細面を眺めていた。だが彼女の顔に狂気の兆候はなく、むしろ何の表情も見られなかった。
「私の名はアイシャと申します。アルマロスさんは、雇われ船長のオレステスという男をご存知ですか? こちらによく足を運んでいたと存じておりますが」
「ああ、それなら知っております。私の店の常連ですよ。買う側ではなく、売る側の」
 アルマロスはオレステスの髭面を思い浮かべた。数年前から、この男はアルマロスの店に、様々なこまごまとした物を持ってきては、金に換えていた。商人たちの委託を得て、海の向こうの国々をめぐる船を操る船長であった彼は、寄港先で手に入れたがらくたが金になると知って、味を占めたのだろう。乱暴な男だが、いつもそれなりの物を持ってくる男だった。彼がどこからそんな品物を得ているのか、アルマロスは訊いたことがなかった。
「ええ、そのオレステスです。私は、彼の妻です。いえ、妻であった女でした……」
 アイシャはふと目を伏せ、幽かなため息をついた。
「妻とは申しますが、私は最初から、それを望んでいたわけではないのです」
 彼女はおもむろに、彼の妻となった経緯を話しはじめた。

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