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クトゥルー神話創作小説同盟コミュの闇島奇譚?暗雲・第二回(完結)

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 又、夢の郷(ゆめのさと)だ、と鉄次郎は想った。背後には森があり正面には山がある。見回すと、ゆめもナイアーラトテップも居なかった。鉄次郎は正面の山に向かって足を進めた。山の麓迄は大した距離ではなく、鉄次郎はそのまま山頂に向かって足を進めた。何故、おのれがこの山を登ろうとするのか、鉄次郎には理解出来ていなかった。ただ、登らねば、と言う衝動に突き動かされて足を進めていた。
 どのくらい歩いただろうか。向こうから尖った大きな耳のひょろりとした男が歩いて来るのが眼に入った。何だ?妖怪か?鉄次郎は想わず身構えたが、その男は鉄次郎の事など気にも留めずにすれ違って行ってしまった。
 それにしても、清水や川や泉こそ見られなかったものの、山には空腹を満たす物や喉の渇きを癒す物がふんだんにあった。主に周囲の樹々に生った実の数々で、初めて見る果実が多かったものの、たとえば、緑色の大きな果実は瓜のような食感で甘味は少ないが腹に溜まり、適度な酸味と甘味のある赤い果実は水気を多く含んでいて喉を潤すには充分だった。鉄次郎は喉が渇いたり腹が減ったりする度にこれらの果実を取り、立ち止まる事なく齧りながら先へと進んだ。
 なおも先に進むと道が二つに分かれていた。果たしてどちらに行くべきか思案していると、何かの気配が感じられ、鉄次郎が頭を巡らすと、一頭の大きな鹿が右手の道の先に居た。大鹿は白く、何やら言いたげに鉄次郎の方を見ている。不意に白い大鹿は顎をしゃくるように頭を動かすと、向きを変えて道を先に進み始めた。まるで付いて来いと言っているようだ、と想い鉄次郎は鹿を追う形で右の道を進んで行った。明らかに鹿は鉄次郎を案内する気でいるらしかった。それが証拠に、時々立ち止まっては確認するように鉄次郎の方を振り向くのだ。そして、鉄次郎がついて来るのを確認すると、又、先を進むのだった。
 漸く鉄次郎が雲に覆われた頂上に着いた時には、鹿は何処に行ったのかまるで見えなくなってしまっていた。そこには尖った大きな耳の男女が数人、まるで彼を待っていたかのように並んで立っていた。彼らの後ろに見覚えのある人影を、鉄次郎は見つけていた。「待っていました。ぜひお手伝い頂きたいのです」ゆめと名乗る女はそう言った。口元が美しかったが、眼元は相変わらず陰になっていて確認出来無かった。
 何をしろと言うのか、と鉄次郎が問うと、「こちらへ」と言ってゆめは、とある一角を指差した。そこは丁度雲の切れ間だった。その先に何やら黒いものが見えている。何だ?眼を凝らしていると、突然、何かに打ち払われたように雲が去り視界が開けた。正面に存在しているものが、はっきりと鉄次郎の眼に映る。
 「何だ、これは!」その時、鉄次郎は想わず叫んでいた。怯えを滲ませて。
 正面には黒い山がそびえていた。こちらの山と同じくらいの高さがあるだろうか。しかしその山は異様に黒々としており、しかも、橋をかけられそうな程、近くにあった。その山が黒いのは、山の岩肌の黒さだけでなく、黒い霞のようなものが漂っているせいもあった。山の頂上には黒雲が被さっている。
 「お主はあそこに行くのだ」と声がして振り向くと、いつの間にかナイアーラトテップがそこに居た。「お主が今、現世で陥っている窮状も、全てはあの暗雲のせい」そう言われても、あれが何なのか、どうおのれと関わって来るのか、鉄次郎には判らなかった。それでも選択の余地が無さそうだと言う事だけは理解出来た。どうすれば良いのかと訊ねる鉄次郎にナイアーラトテップは、あの山へ行ってコスに会え、とだけ言った。ナイアーラトテップの後ろから鉄次郎の前へ、尖った大きな耳の連中が出て来た。「こ奴等は大地の神々と呼ばれる取るに足らぬ者共だが、魔術をそこそこ心得ておる。今からお主をあちらの山に飛ばすぞ」ナイアーラトテップの言葉を正しく理解している余裕は無かった。気付いた時には鉄次郎は宙に浮かび、黒々とした山に向かって突進していた。黒雲がぐんぐん大きくなって来る。だが、黒雲の中心が渦を巻き、奇怪な形を形成し始めた。巨大な星に見えた。グレート・サインの円の内部に見られたものと同じ形をしていた。中央に眼のある五芒星だ。その星を見た瞬間、吹き飛ばされるような感覚と共にナイアーラトテップの声が聞こえて来た。「ああっ、畜生っ!これでもエルダー・サインが発動するのか!」
 眼覚めると鉄次郎は布団の中に居た。見回すと、かめの姿は何処にも無かった。ほっ、と鉄次郎は息を吐いた。鉄次郎はかめに想う様、蹂躙された。かめに仕込んだのは死んだ夫だったのだろうか。かめの肉体は男を欲し、鉄次郎を貪欲に求めた。暫く女を買っていなかった鉄次郎の肉体も又、かめの要求に応じきった。
 あの女は化け物だ、と鉄次郎は想った。そして、もしかしたら名前の通り亀の化身なのかも知れぬと想った。亀は底知れぬ精力の持ち主だと言う。
 怖気をふるって鉄次郎は立ち上がった。一刻も早くあの小船でこの島から出ようと想った。外へ出るとかめが居た。鉄次郎が別れを告げると「あたくしは、まだ満足させて頂いておりません」とかめが言う。そう言えば、そう言う約束だったと鉄次郎は臍を噛む想いだった。やむなく鉄次郎は再度かめの相手をする事にした。かめの肉体は前にも増して貪欲だった。化け物だ・・・おのれにまたがり喜悦の声を上げ続けるかめの姿を見上げながら、鉄次郎の意識はいつしか朦朧とした闇に呑み込まれて行った。
 気付くと鉄次郎は深い谷底に居た。手前には黒々とした岩肌が見え、振り向けばすぐにでも歩いて行ける距離に、白い頂を抱いた山が見えている。退く事が叶わぬ事を鉄次郎は理解していた。おそるおそる黒々とした山に向かって歩みを進める。ふと右手を見ると、鉄次郎は、あのグレート・サインを手にしていた。これを使えと言う事なのだろうか。鉄次郎は山を登って行った。岩肌ばかりの山はともすれば割れた地面や転がる岩に足を取られがちだったが、それでも鉄次郎は着実に頂を目指して進んで行った。不思議な事に、山肌の黒さに眼を奪われて見落としがちだが、それでも背後の山で見たような樹々が、こちらの山にも生えていた。黒々とした山肌に赤い実の樹でもあれば目立ちそうな気がするのだが、まるで山肌の黒さが山の上にある全てのものを隠してしまうかのようで、近くに行かないと樹を見つける事は出来無かった。樹の数も背後の山程ではないようだったが、それでも飢えや渇きに苛まれずに済む程度には生えていた。それでも鉄次郎は徐々に疲労を感じていた。斜面の勾配は背後の山とさほど変わらぬのだが、歩きにくさに依るものなのか山肌の黒さがもたらす心理的なものなのか、鉄次郎は遂に道半ばでその場に倒れるようにして眠り込んだ。
 何かが頬に当たる感触に眼を覚ますと、鉄次郎は黒々とした山肌の上に横たわっていた。顔を動かすと途端に白い大鹿の顔を覗き込んでしまい、わっ、と鉄次郎は声を上げた。眼を覚ました訳が判った。大鹿が舌で鉄次郎の頬を舐めたのだ。大鹿は鼻先を、ついと山の頂の方へ向けた。どうやら、さっさと行けと言いたいらしい。鉄次郎は再び歩き出した。幸い眠ったせいか疲れは大分取れていた。既に行程の大半を来ていたので、そこから頂迄は大して時間はかからなかった。
 漸く頂上に辿り着いた時、鉄次郎は何やら拍子抜けした気持ちだった。そこには何も無いのだ。だが、何があると期待していたのかと問われると、確かに鉄次郎は何も想わず頂を目指してはいた。しかし、何がしかの期待感はあったのだ。少なくとも何かが起きると言う漠然とした予感めいたものはあった。そして現実には地が猫の額程の四角く平たい地面があるだけだった。それでも鉄次郎はその場に屈み込むと地面を調べ出した。すると、そこの地面は黒々としていても、これ迄見続けていた山肌とは何処か異なっている事に鉄次郎は気付いた。あまりに平らなのだ。それに硬い。何者かが黒い石を四角く切り出し、表面を磨いたようなそんな感じなのだ。
 いつの間にか、あの白い大鹿もその場に来ていた。大鹿は四角い地面の中央に向かって進むと、或る一点を鼻面でつつき出した。何かがあるのか?鉄次郎もそこへ行ってみた。そこを覗き込んで鉄次郎は、ハッ、とした。前に大地の神々に依ってこの山に向かい宙を移動させられていた鉄次郎を吹き飛ばしたあの印、中央に眼を持つ五つの角の星がそこにはあった。大きさは人が横たわれる程だった。
 ふと気付くと幾人かの大地の神々もその場に来ていた。彼等は大鹿の横に来ると、矢張りそこを覗き込み、次いで、鉄次郎に顔を向けると地に刻まれた星を指で指し示す。ここに至って鉄次郎は理解した。おそらくこの印は彼等の力を打ち消すものなのだ。鉄次郎が吹き飛ばされたのも、彼等の力に頼っていたからなのだ。
 その時だった。不意に雷鳴が轟き、電光が大鹿を撃った。
 「イホウンデー様っ!」一人の大地の神が叫んで駆け寄ろうとするが、二つ目の電光に撃たれて灰になってしまう。いや、かの大地の神だけではない。一斉に天空から電光が迸り、その場に居た全ての大地の神々は一人残らず灰と化した。鉄次郎だけは何とも無かった。電光は全て鉄次郎を避けていた。
 鉄次郎は大鹿が居た辺りに眼を向けた。大鹿は居なくなっていた。代わりにそこには人影があった。「ゆめ?」女は鉄次郎に顔を向けた。鉄次郎は、ハッ、とした。ゆめと言う女の顔はかめにそっくりだったのだ。
 「大丈夫です。ノーデンスは人間を傷付ける事も、ましてや殺す事もありません。そもそも地球に生まれた者を傷付ける力を彼は持ちません」「大地の神々は違うのか?」「ここは地球であって地球で無い所です。ノーデンスが守護するのはあくまでも現世の地球です。只、その為にここで守る必要がある場所を守っているだけなのです」「あんたは何者なんだ?」「あたくしは大鹿の女神。その昔、現世の人間たちから豊饒の女神イホウンデーと呼ばれていた者です」「あんたも大地の神々の一人なのか?」「いいえ、あたくしは現世の出身。グレート・オールド・ワンと呼ばれる者の一員です」
 その時だった。上空から人影が舞い降りて来た。美しい顔立ちをした全裸の乙女だった。だが、手足のあちこちと額に金属製の輪のような物を嵌め、右手に鎗を左手に丸い盾を持っており、背には鳥を想わせる白い翼があった。乙女は地に降り立つとイホウンデー目掛けて鎗を突き出す、だが、豊饒の女神は咄嗟に交わした。鉄次郎は乙女の盾にも中央に眼のある星があるのに気付いた。乙女が鉄次郎に向かって盾を突き出すと、中央に眼のある星が輝き光を放った。何だ?鉄次郎がきょとんとして見ていると、乙女は驚いた表情を見せた。訳が判らぬと言った表情で乙女が鉄次郎に向かって歩き出した瞬間、不意に何かが突進して来た。巨大な獣のようなもので、鉄次郎にすっかり気を取られていた乙女は交わす間も無く、蹄に蹴り飛ばされ、頂の淵から転落して行った。
 鉄次郎は畏怖の念をもって眼前に現れた巨大な物を見つめた。汽車よりも大きそうで、胴体は鹿か馬に似ていた。しかし首から上は人間の女の形だった。首の付け根である筈の箇所にはくびれた腰があり、その上には臍らしきものも見え、更にその上の方には二つの丸く大きく形の良い乳房が見えている。だが、首が、頭が無いのだ。両肩の間からは鹿のように大きく幾つも枝分かれした角が四本生えている。そして両肩からは腕の代わりに左右二本ずつ触手のようなものが、それも先の方で矢張り鹿の角のように幾つも枝分かれした触手が、突き出しているのだ。そして全身の色は真っ白だった。
 不意に鉄次郎の脳裏に声が響いた。眼の前の獣が話しかけているのだと、すぐに鉄次郎は気付いた。「今のはノーデンスの仲間のヌトス・カアンデルです。今のうちに彼女が刻んだエルダー・サインを壊すのです」ゆめ、いや、イホウンデーなのか?そう想った直後、「そうです。あたくしです」と声が響いた。鉄次郎は視線を下に向けた。どうやら、これはエルダー・サインと呼ぶものらしい。「エルダー・サインは戦士の守護女神ヌトス・カアンデルが創り出したものです」だが、地に刻まれた印は一寸やそっとでは壊れそうにない。すると、「何処かを傷付けるだけで良いです。エルダー・サインを傷付けるのは人間にしか出来ません。通常は地球に生を受けた者に対して害は無いのですが、一度(ひとたび)エルダー・サインを傷付けようとすれば、人間以外の存在は忽ちその力の餌食にされてしまいます」しかし鉄次郎は何も所持していない。その時になって、彼は手にしていたグレート・サインの事を想い出した。これが使えるのではないだろうか。その時だった。鉄次郎の脳裏にイホウンデーの警告が響いた。しかし手遅れだった。不意に抱き抱えられる感覚と共に鉄次郎の身体は宙に舞っていた。振り向くとのっぺらぼうの顔に角が眼に入った。夜のゴウントだ。咄嗟に鉄次郎はグレート・サインをそいつの腕に押し付けた。悲鳴のような音が辺りに響き渡り、次の瞬間、鉄次郎の身体は落下していた。
 何か生暖かいものに触れられている気がして鉄次郎は眼を開けた。かめだった。全裸だった。それを言うなら鉄次郎も裸だった。かめの身体からは汗と爛熟した女の臭いが、ぷうんと立ち上っていた。鉄次郎が身じろぎすると、かめも眼を覚ました。おのれのはしたない姿に気付いて「あら、やだ」と言って立ち上がろうとしたが、あ、と声を漏らしてくたくたと鉄次郎の上に倒れ込む。鉄次郎と繋がったまま、眠っていたのだ。そして一眠りした鉄次郎の繋がった部分が、かめを刺激してしまっていたのだ。鉄次郎は観念した。いずれにせよ、かめを満足させぬ事には、この島から出る事が叶わぬのだ。だが、かめはそれ以上、動こうとはしなかった。「ああ、流石にあたくしもこれ以上は保ちませんからね。少し休みましょう」かめも限界らしかった。やつれた顔をしている。体力も気力も消耗し尽くしているようだった。
 「済みませんけどね。暫くこのままで居て貰いますよ。今のままで抜こうとすると感じてしまって堪らなくなってしまうんですよ。そうなったら、あたくしはもう抑えが利かなくなってしまいますからね。どうか落ち着いて下さいな。あなたが自分のモノを鎮めて下さったら、あたくしも抜く事が出来ますので」鉄次郎は赤くなった。早々におのれの欲情を治めぬ限り、この女はやがて悶える事になり、結果として鉄次郎自身が体力を削ぎ取られる事になってしまうのだ。冗談ではない。こうなって来ると命がけと言っても過言では無かった。
 おのれを落ち着かそうと、鉄次郎はかめに話しかけた。これから日本はどうなるのだろうか、などと言った事を。元より鉄次郎は政治の事どころか世の移り変わりなどに疎く興味もまるで無かった。おのれの頭を冷やそうとする一心で口にした言葉だった。だが、意外に成功していた。かめが話しに乗って来たのだ。おそらくは夫の受け売りだろうが、大隈首相が日本は欧州の戦火に巻き込まれてはならぬと常々考えている事などを口にした。夫の遺骨を届けてくれた秘書官の代理も人物も、その事を口にしていたと。そして暫くは、鉄次郎は生徒だった。かめの語る日本の有り様、行く先々を肉体が繋がったまま謹聴する形だった。話の中には、かめ自身の意見も含まれているようで、かめが案外に知的である事に鉄次郎は驚きを覚え、想った。もしかしたら、かめの夫か彼女を見初めたのはかめの容姿や性格だけではなく、頭の良さ、知的さもあったのかも知れぬと。そう想うと本当は魅力的な女性なのかも知れぬと。そこ迄想って、鉄次郎は、しまった、と想った。かめが不意に声を漏らしたのだ。かめに女としての魅力を感じてしまい、つい興奮してしまったのだ。慌てれば慌てる程、鉄次郎のその部分は制御が利かなくなっていた。それでも必死に鉄次郎は稚拙ながらかめと政治談議を始め、少し辛そうにしながらも、かめも懸命に話してくれた。お陰で、鉄次郎はまるで見知らぬ欧州の国々に関する諸事情について俄かに詳しくなった。鉄次郎は決して愚かではなく、それどころか頭の良い方だったらしい。何よりかめの語る内容を理解する事が出来たのだ。判らぬ点については愚直な迄に質問を繰り返し、彼はどんどん知識を吸収して行った。
 だが、やがてかめに限界が訪れた。話の途中で不意に遣る瀬無さそうに身をよじると、かめは、鉄次郎の裸の胸に顔を埋めていた。そして鉄次郎の匂いを深々と嗅ぐと、ハアッ、と大きく息を吐き、切なげに潤む眼で鉄次郎を見つめた。かめが何を求めているのか、鉄次郎には、判り過ぎる程、判っていた。やむなく鉄次郎はかめの要求に応じた。かめの下で、しかも身体が繋がったままの状態では、逃げようと言う気を起こしたところで無駄だった。かめは信じられぬ程の強さを見せ、果てては求め果てては求めを繰り返し、消耗し尽くした鉄次郎は、再び気が遠くなり夢の郷へ落ち込んで行った。
 ハッ、と気付くと鉄次郎はゆめの膝枕の上だった。顔を起こすと、すぐ向こうにあのエルダー・サインが刻まれた黒い地表が見えている。「気付きましたか」と声を優しく声をかけてくれるゆめが、実は女神のイホウンデーだと今は知っている鉄次郎としては恐縮するばかりだった。だが、愚図愚図してはいられぬ、とエルダー・サインの中心に飛び込むや鉄次郎は手にしたグレート・サインを地に押し付けた。途端に閃光が走り何かが爆発した!鉄次郎はそう想った。想った瞬間、吹き飛ばされていた。幾メートルか離れた地表に叩き付けられ、それでも鉄次郎はふらふらと立ち上がった。そして手にしたグレート・サインが割れている事に気付いた。握った手の中からグレート・サインの欠片が、ぼろぼろと毀れ落ちて行く。しまった、これではもう・・・だが地に刻まれたエルダー・サインに眼を転じると、中央の眼の真ん中が消滅していた。眼は眼でなくなっていた。途端に黒雲がすうっ、と空中に拡散消失して行く。同時に山の頂のエルダー・サインが刻み込まれていた部分から天空に向けて一気に黒いものが噴き上がって行った。その黒いものは、山を取り巻いていた黒雲と同じものだと鉄次郎は想った。
 う?改めて周囲を見回して、鉄次郎はぎくりとした。色彩が一変していたのだ。黒々としていた山肌が、ごく当たり前の土の色を見せているのだ。そして遠くからでも樹々の姿がはっきりと見えていた。
 「封印は解かれました」そう、ゆめの姿をした女神は呟いた。封印?何の?そう想う間も無くイホウンデーからの答が心に届く。「コスの封印です。コスの中心はこの真下に封印され、封印されなかった一部の肉体もここから離れられず、ここを取り巻いていました」では、あの黒雲がコス?黒雲はコスそのもの?「そうです。暗き夢の神と呼ばれるコスそのものです」
 その途端、光のようなものが鉄次郎を襲った。だが、鉄次郎には何の変化も無かった。正面にヌトス・カアンデルが立っていた。イホウンデーのものとは異なる思念が鉄次郎の脳裏に響く。「何者だ?何故、エルダー・サインの力に対抗出来る?人間以外の者が傷付けようとすれば、たちどころに聖なる力に撃たれる筈」この女神、馬鹿か?自分で答が判っているくせに。つい、そんな事を鉄次郎は想ってしまい、ヌトス・カアンデルは忽ちその心を読み驚愕の表情を浮かべていた。「馬鹿な馬鹿な馬鹿な・・・何故、人間がこのような事を・・・」女神の驚愕の表情は、見る見る怒りの表情に変わって行った。逆上した女神の手にした鎗が鉄次郎を襲う。だが、横合いから獣の姿で突進して来たイホウンデーの蹄が有翼の女神を蹴り飛ばす。「エルダー・サインさえ無ければ、あたくしの勝ちです」
 不意に天空から雷光が落ち、イホウンデーの身体を撃った。同時に恐ろしげな声が轟く。「人を誑かす性悪な豊穣の魔女よ!ここで封印してくれる!」何だ、これは?魔神でも現れたのか?「婬らな女神に騙されし哀れな人間よ。今、この場で我が下僕(しもべ)となりて罪を償うのだ!」天空に稲光が走る。だが、「ノーデンス、好きにはさせぬぞ!」
 振り向いた鉄次郎の眼にナイアーラトテップの姿が映る。
 「ナイアーラトテップ、うぬ如きが我に叶うと想うてか?」「我が妻もおるでな」ナイアーラトテップの身体が巨大化したかと想うとその全身が真っ黒なのっぺらぼうに変じた。その時だった。エルダー・サインの下から噴出し上空へと姿を消していた黒雲が帰って来たのだ。黒雲は上空で渦を巻き始め、ノーデンスのものと想われる稲妻を包み隠すかのように覆って行く。ノーデンスの絶叫が轟く。
 「コスに取り憑かれたのです。たとえ神であってもコスに憑かれれば夢を見ます」だが、尋常な夢である筈が無い!コスの見せる夢と言うのは悪夢の事なのか?「コスは暗き夢と呼んでいます」暗き夢?「それより今のうちです。ノーデンスが憑かれたのは不意を突かれたからです。二度は利きません。夢から醒める前に去らねばなりません」
 有翼の女神のヌトス・カアンデルは、黒い無貌の巨人ナイアーラトテップと戦いを繰り広げていたが、女神の方がどうも押され気味の様子だった。しかしノーデンスが暗き夢から醒めて加勢すれば、形勢も変わってしまうのかも知れなかった。
 「さあ、あたくしの化身の元へ還るのです!」
 それはどう言う意味なのかと訊ねる暇も無かった。一瞬にして鉄次郎の意識は闇に呑まれ、視界が開けた時には饐えた臭気に包まれた夜具の上に居た。臭気の元はおのれの身体の上で蠢いているかめだった。かめは、鉄次郎との交情の痕を洗い流そうともせず、そのままにしているのだった。流石に日が経って来ると、鉄次郎の放った精やかめ自身が滲ませたものや二人の汗などが入り混じって、饐えた臭いを漂わせているのだ。おのれも臭っているかも知れない。そんな事をぼんやりと想いながら、全身を覆う気怠さに、鉄次郎はされるがままにしていた。そのうちに鉄次郎は饐えた臭いの中に妙に獣臭い臭いが混じり出している事に気付いた。何の臭いだ?いや、それよりも鉄次郎は本気で身の危険を感じていた。このまま交わり続けていては、おのれの命に関わる。そう危機感を募らせた時だった。鉄次郎の眼にかめが二人居るように見えた。いや、かめの後ろに誰かが立っているのだ。その人影に眼を凝らして、アッ、と鉄次郎は声を上げた。かめとそっくりな人物だった。
 「その者は、あたくしの化身の一つです」その人物はそう言った。ゆめ、いやイホウンデーか?
 「その者の母親にあたくしが取り憑いていた時、その者は妊娠しました。そして、あたくしの一部が人としてこの世に生を受けたのです。けれどもノーデンスとヌトス・カアンデルの企みにより、あたくしと切り離されてしまい狂ったのです。豊饒神の化身としての生殖能力を失いながらもその事を知らず、寧ろ失った力を求めるように人の雄をやみくもに求めるようになったのです。あたくしは、狂ったあたくしを、あたくしの中に戻す事にしました」
 次の瞬間、かめの姿はまるで後ろのイホウンデーに吸い込まれるように消えて無くなっていた。そしてイホウンデーの姿も宙に溶け込むように消えて行った。
 消耗し衰弱していた鉄次郎は、それから丸一昼夜眠り続けた。夢も見ずに。
 そして、翌日、小船で昼島へ渡り、そこから吊橋を渡り継いで漸く天明神社へ辿り着いた鉄次郎は、梓が鉄次郎との再会を待ちわびていた事、けれども、つい昨日、縁談が持ち上がって島を後にした事などを知らされたのだった。
 エルダー・サインの封印を解かれ、黒雲の姿でコスは世界各地に散っていた。黒雲の一つ一つがコスの一部であり、コスそのものだった。鉄次郎は知らなかったが、世界の多くの人々が暗き夢を見せられていた。
折りしも欧州では後に世界大戦と呼ばれる戦争が勃発していた。そして、日本は決して参戦してはならぬと主張していた時の首相大隈重信は、期限迄に最後通牒に応えなかったとして、御前会議にも諮らず、逸獨に宣戦布告を発した。何故、いきなり、とは腹心たちの想うところだったが、豹変の理由について、大隈は唯一言「暗き夢を見た」とだけ答えたのだった。

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