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ユング心理学研究会コミュの【講義レポート】ユング心理学概論2009/7/16第一部ユング心理学の7ヶ条

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講師 白田信重先生
日程 2009年7月16日
会場 中野

レポーター 河上裕彦

第二部のユング心理学の成立過程については、別のトピックを立てご報告いたします。


1. 今回の講座の目的
ユング心理学の全体像、あるいはユング心理学の骨格を理解すること。
2年半前に「ユング心理学のあらまし」という講座を行ったが喋りすぎてアンナさんの踊る時間を奪った)、メンバーがかなり入れ替わったし、今回は暑いのでもっと簡略化して講座をすることになった。
入門者があっさりと落としそうなところをしっかりおさえる。
これさえ押さえれば、一気にユング心理学の中級者以上上級者に達するという意欲的な試み。
講座のもう1つの目的については結びに書きます。

2. ユング心理学7ヶ条=ユング心理学の骨格
この7ヶ条を満たさないものはユング心理学ではない。

(1) 心は「ある」
心は私たちが直接体験するすべて、心の実在性、心的現実論
ユング心理学のいちばん大事なところ。ユンギアンとして自らが立脚しているところが分からないので、他の学問分野と会話が成り立たない。
この立場をとることは学問上の大きな選択である。


ユング心理学は私たちの生活実感に基づいてものを語ろうというスタンスで徹している。
ユングは抽象的に宇宙の原理について語ることもあるが、その根っこは心f「ある」という我々が直接感じることのできる生活実感から始める。
その実感を扱うことで人間を変えて行こうとしている。

ユング心理学の心:私たちが体験しているイメージの世界


心は「ない」という立場もある。
仏教
主流の心理学
例)構造主義 人間は構造の束である。心は「ない」。
「こう思ったから、こういう行動をした」という心を基準にした考え方は科学的におかしい。行動と行動のつながりでものを見よう。説明がしやすい。学習理論と結びつけやすい。
認知科学 心は物理過程の随伴現象。すべては物理現象に還元できる。

ただし心は「ない」という立場も、本当に心は「ない」という立場(随伴現象)と、方法論的に心は「ない」という手法をとる場合とがある。
心が「ある」という立場もすべては心の現れだとする唯心論的な考えと、ユングのように私たちは心でしか物事をすることができないけれど、その向こうに何かあるかもしれないよ。

Q.ユング心理学や他の心理学で「心」が意味することが何か?を整理する必要があるのでないか?(アンナさんの質問)
A.その質問には心と「からだ」という対立軸が念頭にあると思う。つまり心身二元論をどう克服するかが念頭にある。
心と「からだ」は別にあって、どこかで接合している。実はもともと一体のもので、それが心と「からだ」に見えるという立場=ユングの立場
心と意識と自我の区別が重要。(2)以降をご参照ください。

ユングは少なくても当初表面上は臨床家としての方法論として、心は「ある」と主張していた(実在しているのと同じ力があるという立場)。
しかし最後の頃は心=イメージは物質と同じレベルで「実在する」と考えていた。だからこそ共時性(シンクロニシティ)が起こると。


(2) 心は複数の要素が集まったもの =心は心的要素の複合体
コンプレックスの集合体としての心
自我コンプレックス;私が同一化しているコンプレックス、意識活動の中心
心全体の調整不全が病、私(意識)こそが調整を行う心の機関。
心の構造と病気とは何かというユングの考え方に関わる。


近代的な主体 私は私であって、合理的な選択をする1個の主体。
しかしユングはそのようには考えなかった。
心的要素には複数の要素がある:
いわゆる「私」はその中の一部分。
複合すると自律性を持つ(オートマティックに動き出す)
ある要素が極端に動いて、他の要素とぶつかる。→病気になる。→衝突を調整する→病気が治る
意識の活動のみが心のバランスを調整することができる。
根拠)医学的な経験上そうだから。

ユング心理学=分析心理学。その前はユング自身がコンプレックス心理学と呼んだ。


(3) 無意識は常に意識されている
無意識とは、私にコントロールできない私の部分
無意識は深層にあるものではない、それは常に現われているからこそ無意識
無意識を「改めて」意識することが「意識化」
形容矛盾ではない。

無意識は常に意識されている
ユング心理学における無意識の2つの意味
ア) 意識されないもの
イ) 私に起きていて、私がコントロールできないもの
イ)の方が重要な意味。

Q.なぜ意識されているがコントロールできないものをイ)を無意識と呼ぶか?
A. ユングは実験研究(言語連想実験)から始めた。
100の刺激を相手に与える。単語から連想させるものを答える。
ある人間にある言葉を与えると、ふつうならばすぐに連想する言葉を答えるのに、連想が突然出なくなる。突然笑う。落ち着かなくなる。考え込む、通常考えられない言葉を言う。などの通常でない反応が現れる。
本人が意識的に抑えることができない。どうしてもその反応が現れることをユングは観察した。
そういうものをひっくるめてコンプレックスと呼んだ。
コンプレックスは科学的な用語。科学の実験操作によって確認された現象についてつけた言葉。

具体例)金貨→目を輝かせて「美しい」と答えた。
外国での女性とのロマンスを思い出した。=本人にとって大きな体験
=他の連想できなくなる=コンプレックス

具体例)感情を顧みない思考型の人間の例
感情を顧みない思考型の人間があることを怒る。本人は不正に対する正当な怒りであり(怒りの感情を意識しており)、怒りを正当なものとの位置づけている。
しかし、周囲は「そんなに怒ることかな?」「もう少し抑制して怒ってもよいのではないか」と思う(周囲からは反応が過剰であるように見える)。本人は反応の過剰性を意識していなし。

この怒りの感情に関して、本人には脳科学上のアウェアネス(気づき)がない。つまりこの怒りの感情こそが無意識である(コントロールされていない)。
ユングはコンシャスという言葉を用いるが、今日脳科学で使われている用語ではコンシャスは覚醒している、眠っていないという意味で、集中してなにかを気づいている状態という意味のアウェアネスの方が意味的に近い。

怒りの感情はコンシャスされているが、怒りの感情にアウェアネスがない(意識のレベルの違い)。

無意識とは心をボーリングして現れるものではなく、常に現われている。むしろ現れすぎているからこそ気づきがない(『タイプ論』の中で述べている)。
現れてしまったもの、かつコントロールできないものを無意識と呼ぶ。
逆に深層にあって現われていないものは、まったく重要ではない。


(4) 私(自我)こそが最大の無意識である→私(自我)こそが最も気づかれにくい無意識である
白田さんご自身がお講座の中で言葉を変更されました。
私とは決して個性的なものではない…これに気づくことが個性化過程の始まり

私こそがもっとも自分自身が気づきにくい。
林道義先生だけが正面から扱う。河合隼雄先生も危うい。

私=自我は個性的なものではない
ユングは人間には個性がないというところか話を始める。
具体例)中学生の突飛な髪形:よくいる「個性的な」人。「俺は人とは違うんだよ」と強調する人。単にそういうアッピールをしているだけ。

元型論も少し絡むが、本当に個性的であるとは、万人に理解できる何か。万人が魅力的に感じる何か。かつ普遍的でどの人間にも通じる。しかもその人にしか出せない。その2つを同時に表現している。
具体例)作家村上春樹氏のイスラエルでの講演

ユング曰く、私たちは普通にしていたら個性的ではない。
私たちには自我がある。
しかし私=自我は、親の影響・教育の影響・ある職業(サラリーマン・自営業etc.)に就いてから社会から期待されるもの・立場などの条件付けによって、構成される。たまたまあった条件で構成されたオートマティックなもの。勝手に動く自分。
それはペルソナ=仮面である。
つまりまったく個性がない。
コンプレックスは自律性を持ち勝手に動くが、実は私たち自身も勝手に動く。私自身が無意識。

中年期にさしかかり(40歳くらいになって)、今までそうしてきたけれど、これでよいのかなあ。あるいは辛い(私にそぐわない)。息切れを起こして、「もう厭だ」
=本当は自分に合っていない。
そうなったとき、今までのやり方を意識して変える必要がある(→ユング心理学の役割)。
そういう自分でよいのかという問いかけが行われたときに、個性化過程が始まる。


思考型の人の無意識は感情。
逆のこと言える。思考ばかりを自分の手元に置き感情を省みない。感情が沈んで、感情が勝手に動き出す。
なぜそのようなことが起こるか?
氏高の方が大事だという自分の選択が無意識の原因そのものである。
無意識を意識する=自分自身の自我のあり方を変える。


単なる自己省察は自己認識にあらず、私を知るには「鏡」を見よ
私の全体像を見るには私全体を映す鏡を見ればよい。
ユングはなぜ夢分析をするのかという方向性とかかわること。
ユングは夢や自発的に出てきたイメージを追っていく。
Q.なぜそんなことをするのか? 私について知るのに、なぜ私の中から勝手に出てきた私でないものを見るのか?
A.出がけに自分自身の服装を見ようとしても、自分の視点からは自分の背中は見えない。福総の上と下のバランス見えない。私自身の視点に固定されるから。
私全体を見るには鏡を見る。=私を映している他のものを見る。
夢や自発的に出てきたイメージを見れば、私の本当の姿を見ることができる。

具体例)上昇志向の強い人の夢のケース
夢の中で駅にいたら汽車が猛スピードで突っ走り、カーブを突っ込む。倒れる。大惨事になる→驚いて目を覚ます。→その人は別の都市に出掛けて事業を拡大しようとしていた
→ユング忠告。この汽車はあなただ。ブレーキをかけた方がよい。そして自分の様子を見た方がよい。別の都市に行くのを止める。
→クライアントは忠告を聞かず。その後破滅

具体例)英雄元型を背後に持った人:常にハイテンションで英雄的に人生を切り開く。そういうことができない人はだめという価値観。
夢の中で病気の人に助けられる。→夢が自分のそういう部分が大事なんだよと夢が教えている。
常にハイテンションで物事に立ち向かう→疲れる
少し立ち止まって、英雄的でなくても重要なことがある。それに気づかないと危ないよという警告。

自分自身の客観的な情報を夢がくれる。
この原理がないとユング心理学ではないのだが、わざわざユングはあまり言わない。
勘違いも多い。

自分語りをするのはユング心理学ではない。
自分語りは大きな防衛になりうる。
AC(アダルトチルドレン)はユング心理学の方向と違うのではないか。。
「私は虐待にあって、その結果こんな性格になって、その結果今困難を抱えている」
=私の視点から私を見る。
しかし私のものの見方が歪んでいるから病態がある。歪んだものの見方で見ても、私自身の正確な姿を知ることはできなし。
症状を固定して動けなくする懸念があるとユングなら言うと思う。

ユング心理学では今自分がどういう夢を見るのか、今自分がどういうことを思ったかに注目しないと、その状況を突破できない
今起きていること、今思いつくことから解決の糸口を探す。そういう意味で実は解決指向アプローチの方がユング心理学に近い。すでに解決はそこに存在している。今起きている変化、良い方向への変化を拡大すると治る。原因は関わらない。

個性化過程:だれでもできる訳ではなく、だれでもやってよいのか分からない。
したがって、ユング心理学は万人向けの心理学ではなく、ある種の特殊な体験がベースになっている。臨床的にだれにでも適用してよいものではない。
分析と解体の後は一生をかけてやること。
ユング曰く、人生の意味を失って、自分自身の意味を見つけ出す心理学である。
合理的な治療を必要をする人にはフロイト派やアドラー派を紹介すると言っている。
実際にジョイスの娘を断っている。

報告者コメント:個人的には年齢は40歳近くにならないと個性化過程が始まらないとは思わない。


(5) 意識化によって個性化過程が始まる
心が、自ら持つ可能性を充分に実現させていくエネルギー過程が「個性化過程」
意識化が個性化過程を可能にする、意識化なくして個性化なし

ユングはだれもが個性的ではないが、すべての人が個性的になれる可能性があると言っている。
樹木の種子に喩える。雨・土・日光などの条件が整うと育つ。可能性をすべて階下できる。

ユングは、どんなスタートであっても、心には自然に落ち着く過程があることから、比喩的にエントロピー増大則を持ち出している(生命の本質はリモデリングを繰り返すことでエントロピーの増大を防ぐことなので、本当の意味でのエントロピー増大則ではない)。
原因・結果は重要ではなく、ただ最終的にどうなるかが重要である。
ただ最終的にどうなるかは予め分かっていない。
すべてのプロセスが終わった後であれば分かるが、最初からそういう目的に向かうものではない。しかしどういう方向に向かうかを1個1個探っていくのが個性化過程。
目的論的な過程だが、ある目標があってそこにむかうのではなく、自分の中の開花したいものは何であるかを探りながら歩む過程が個性化過程。
目の前のものを1つ1つ開いて行く。

それに必須なのが意識化。いろいろな要素を調整して行かないとその過程は始まらない。
エネルギー過程とも言う。

意識化:意識することがそれを引き起こす力になっているらしい。

ユングの弟子曰く中心過程:自己という心の中心部分にあるものは出先機関=人間の意識。心の中の大いなるプロセスがあってそれを実現する役割を持って人間は生まれた。神をまねて人間を作ったという聖書の記述もそのイメージの反映。
人間が意識して要素を調整することによって、心は発達して行ける。
そもそも意識は心の発達の役割を背負って作られた。
これはユングの人間論・ユングの神学論でもある。
前回の「あの世」の復習になるが、なぜ神は人間を使ったのか?
人間が生まれたのは神を癒すためである。


「あちら」から来るものにしっかり意識的・能動的に向かい合うこと
私たちの意識はちっぽけだが、われわれの心全体を発達させていく役割を背負わされている。だから我々は意識化しなければならないし、意識化が心の発展の過程に必要になる。
私たちが意識しなければならないことは、向こうからちゃんとやってくる(深層にあって活性化しているものは現れている。)
だからちゃんと意識しよう。


(6) 個性化過程はイメージが決め手
イメージはエネルギーの変換装置=エネルギーの変換がイメージ化する
意識化による葛藤の中から「シンボル」が現れ、意識と無意識とが統合する
まず葛藤に気づく→変化と同時にあるイメージ(シンボル)が現れる。

エネルギーの流れの変化・イメージの変化は不可分。
→秘教的シンボルと関わる
 様々な神秘主義にユングの心理学を持ちこめた。

具体例)ある時期に子供は異性を意識する=男性は女性像を、女性は男性像を持つ。
→ある発展段階に達すると、女性像・男性像がエネルギーを持って現れる。
エネルギーを持ってその人間の行動をコントロールしようとする。
男性を例にとると、それまでとは異なった関心。「女性にモテよう」と思って新しいことを始める。
→心の中のイメージが変わることで実際の行動が変わる(アニマ像に導かれてその人の心が突き動かされる)。
=エネルギーの流れの変化をイメージが表現している
=心のイメージとエネルギーは不可分。

具体例)親鸞の六角堂の夢
若い時の親鸞。
宗教的なものに惹かれつつ、女性に対する関心がなくならないという葛藤。
夢の中でお告げ(イメージ):観音様「お前が女犯の罪を犯すなら、私が女になって犯されよう」
→新宗教浄土真宗を始める(女性との交わりOK)。
Q.何が解決したか?
A.論理的には何も解決していない。
しかし親鸞本人にとっては、両方あってもおかしくないのだということを強く印象づけるなにかであった。感情とあらゆる体系を持って、一緒にやってもよいのだということを気づかせるし、それを実践していくことを気づかせるなにかであった。
      ||
    シンボル
      ||
感情的にも言葉で言い表せない何かであって、それによってその人間が停滞したところから新しい1歩を選択できるもの。そういうイメージがわいてくる。

シンボルをいかに見つけ出すことが重要。
自分の中の葛藤を意識化して自覚することが重要。
ぼうっとしていたら、なにを葛藤しているか分からない。
意識化すると葛藤していることが分かる→ずうっと解決しない→その両方を超えたイメージが現れる→それでよいじゃないかと新しい人生を歩める。
その人間を信じて、その人のプロセスを助けて上げるのがユングの臨床のあり方。ユング自身が何かを操作しようとしているのではない。そういうプロセスは人間が生きていたら起こる。


Q.瞑想などでイメージが出てくるとそれをただ気つぶす手法もあるが、それとこの話との関係は?(岩田さん?)
A.ある強烈なイメージにとらわれると抜け出せなくなる危険性。
例えば統合失調症。
そういうイメージと自分とは区別する必要がある。イメージのもの個人的な要素と集合的な要素を認識してきっちりと分ける必要がある。それができないと捕われて、抜け出せなくなる。
それがイメージの危険なところ
基本的にはポジティブなイメージ。




(7) 問題は新しい生き方によって乗り越えられる
問題とは人生そのもの、決して解消しない、ただ成長によって乗り越えられるのみ
「問題」:誰もが抱える重要なもの。
成長して乗り越える
原因を解決しないと先に行けないのは間違い。
その問題が本当に重要で誰もが抱えるものであれば、解決することはできない。
しかし成長することで、新しい生き方をすることで問題を乗り越える。
新しい生き方をして乗り越えようよ! =「気にならなくなる」

ACのように原因を解決して・・・はユング心理学的ではない。



報告者コメント:交流会のときにカバラの秘儀を学びにドイツに留学されたのに、その大学のユダヤ人であり、かつ男性であり、かつ35歳以上であるという条件を満たさないためにカバラを学ぶことを断念せざるを得なかった岩田さんがいかに乗り越えて行かれたかというお話を伺いました。非常に心が動かされました。


この7つを満たせば、多少やり方(手法)が異なっていても、たとえばプロセス指向心理学のようにからだを使った技法ワークをしていても、ユング心理学といえる。
手法はいくらかわってもよい。ユングに影響を受けた臨床家はこの7原則を保持している。
わたなべいっく?という家族療法家は、もともとユング派の分析家であった。そこから解決 指向アプローチの流れも生まれた。それらも見方によってはユング心理学そのもの。

3. 結び
元型論抜きでユング心理学成立。
中期に『タイプ論』でユング心理学成立した。しかしタイプ論の初版には元型という言葉は出てこない。
元型はユング心理学の成立の後に発展。そしてユング思想になる。
もちろんユング心理学はユング思想のある一部である。しかし、ユング思想の一部であるが、意図的に思想を隠しているところもある。また後期になると、ユング心理学を壊していく過程がある。
実はその壊し行く過程を見ていくために、今回ユング心理学概論のお講座を行った(今回の講座の真の目的)。
元型論抜きでユング心理学はどう成り立っているか理解することがユング心理学を理解するための必要。そのための7ヶ条




報告者コメント:言語連想実験ではありませんが、ある言葉に引っ張られて無意識に白田さんがおっしゃっていない言葉が出てくることと格闘しながら、講義録を作成しました。
かわかみ語は排除するよう努めましたが、不備があるかもしれません。それはコメントくださいませ。

コメント(35)

おおお。。。これはすごい。。。
ひろひこさんありがとうございます。

白田さんてほんと凄いですね!
なにより分かりやすいexclamation

とりあえず心の「実在」に関する議論が
興味深いです。あと個人的に親鸞のところ!!笑

この夢はcontroversialですね。。
でも女犯okというスタンスは
世俗化と同時に何かが深化した印象もあります

男性原理と女性原理のコンタクトというか、
「マリアの被昇天」の経緯とも通じそうですね


勉強になりますね〜
ありがとうございました
 ひろひこさん、素晴らしい講義録、ありがとうございますお願い


> 竹ットランチャーさん。

 …ところで、“マリア被昇天”が往相回向なら、観音菩薩が女人に生まれ変わり親鸞に抱かれるというのは還相回向っぽいっすね。

 男尊女卑が支配的な時代にあって、現実の女性の深層で働く生ける観音菩薩を観、体験することは、地上を去り天界に行ってしまったため長らく上から眺めるマリア様より、もっと身近で、リアルで凄いかも。しかし、ナンシー・クォールズ=コルベットの“聖娼”にも“マリア元型”が分有されてるとすると、微妙ではある…。

 まぁ、十牛なら観音における、ニッテンスイシュ。

 それらは、案外、あらゆるどんなフェミニズムよりも最強である気もする。

 浄土真宗の信者であった戦国武将の雑賀孫市はナンパ野郎だったそうですが、彼もまた親鸞上人のように女性に観音菩薩のヒエロファニーを観る、“宗教人(←コリン・ウィルソン流の意味で、…あるいは、ホモ・レリギオースス?)”だったのかも、…。
誤字を発見するも、もう直せず・・・
>ひろひこ@(^-^)ノさん
すばらしい議事録ありがとうございます。
しっかり読んで復習したいと思います。

あと、編集ですが・・・
修正箇所をメッセージで教えてもらえれば、
編集しますよ(^^)
> ひろひこ@(^-^)ノさん

 むふむふっ、元型が原型にあっかんべー。まぁ、でも、ユングをインスパイアしたゲーテの元ネタは“原型”かも、…。
とてもとても勉強になりました

とても有意義な黙読体験でした

その意味は、ユング心理学をよりよく知ることができたという意味ではなく、

自分の人生の生き方にとってとても大切なことを教えていただいた、という意味です

本当に簡略で、しかも深い価値に満ちた報告を読ませていただいてありがとうございます

すごくすごく価値に満ちた文章だと思います


m(_ _)m
ひろひこさん

凄い凄い。

メモ書き漏れていた内容も、くっきりすっきりで、思いだしましたよ。

ありがとう。
>けろりんさん

なるほど、往くのと還るのがあるんですね
聖娼の話はよーく分かります!笑


私も女性には毎日ヒエロファニーを観ています
けろりんさんもそうでしょexclamation & question

実生活の身近な女性のうちに
持続的に!聖なる示現を観ずるのは
それなりの修養が要りますね笑

でもそれが
修行でもあり男の悦びでもあるのでしょうけど!
> 竹ットランチャーさん


 うむ。しかし、資本主義と(ニーチェの言う→)奴隷道徳が支配する、このパルメニデスの世界(?)では、職業としてのプロの聖娼は、とっくに絶滅して、いなさそうです泣き顔人差し指

 しかし、賢く美しい貞淑な妻なんかは、“パーソナルなアングラ聖娼”かな、…。←それは類い稀なる男の、運命のプレイシャスなサプライズとして、もしも可能ならば、意外と贅沢かも。エンマ・ラウシェンバッハは、そんな“カール専用聖娼”???ひょっとしてして、あげまんと呼ばれるものにもヒエロファニーしているかも!
>ひろひこ@(^-^)ノさん

詳細な議事録を有難うございます。
残念ながら、白田さんの講義を生で聴けなかったのですが、議事録を読んでユング心理学とユング思想の違いが朧気ながら分かったような気がします。

私はユング心理学の根幹に原型論も含まれているのかなと思っていましたけど、大きな勘違いをしたことに気付かされました。
数年前に、白田さんにユング心理学の概論を聴いたのですが、まだまだ勉強不足です。
ひろひこ@(^-^)ノ さん

力作のご講義録(しかも2部構成exclamation ×2っていうのがスゴイexclamation)、本当にありがとうございました。

ユング心理学7ヶ条、“そうだったのかぁ〜”と一つ一つ確認しながら何度も読まさせていただいています。

改めて発見することも多いご講義録でしたが、目下のところは、

>無意識とは、私にコントロールできない私の部分
無意識は深層にあるものではない、それは常に現われているからこそ無意識
無意識を「改めて」意識することが「意識化」


という文章が印象に残っていますペン
> ミネルヴァの戦士さん


> 無意識とは、私にコントロールできない私の部分

 ↑ジャック・ラカンは「無意識は他者のディスクール(言説)」と言うので、これまた、深層にあるわけじゃないのですが、まるきら“私の一部”ではないわけですね。

 フロイト派とユング派では“精神分析”という同じ地盤にありながらも、そこも、だいぶ違うわけですね人差し指

 あと超心理学に対するスタンスもフロイトとユングでは違いますね。

 ユングでは、超心理学への接近は、裡に秘めたる心霊主義への“ターニング・ポイントの里程標”みたいな意味合いがあるというわけでしたが、…フロイトにおける“無意識を介してのテレパシーの可能性への考察(←『続精神分析入門』)”も、J・B・ラインの実験も、唯物論的パラダイムの延長線上にしかない。

 ユングは、ラインと往復書簡(←『ユング超心理学書簡』白亜書房)を交わしているのですが、心霊主義的パラダイムと唯物論的パラダイムの間ですれ違いがあるような冷や汗
無意識に関しましては、白田さんが私の日記にコメントをくださいました。

引用します。

**************************************************************

そもそも意識・無意識という区分は本当に有効か?という疑問に結びつきます。
実は私も、もしかしたらあまり必要ないかもしれない、という気がしてます。

コンプレックスのことを説明するのに「癖」という表現を使ったのは林道義先生ですが、
これはかなり上手な説明の仕方だと思います。
それこそ、意識・無意識という概念がなくとも意味が通じますよね。
いつも常にやっているけど気づけない「癖」、それに気づくと変化が起きうる。

**************************************************************

以上下記日記のコメント欄より。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1227797282&owner_id=1086727
 …しかし、フロイトもユングも“無意識”というものを人口に膾炙させるためにかなり骨を折ったので、意識と無意識を相対化してしまうことには、多少の抵抗があります冷や汗

 フロイトやユング以前、人類は、無意識を意識してはいなかったが、フロイトやユング以降、人類は、無意識というものを意識し始めたわけで、これはかなり重要なことだとは思う、…。


 …ところで、コンプレックスの意識への現れは“こだわり”や“拘泥”でもありますね。言うなれば、“癖”は、“コンプレックスの無意識”かな、…。
のぶさん

上手く意識できていない、私(自我コンプレックス)の部分が無意識だという定義だとすると、シャドーと無意識はどういう関係だろうという疑問がわきました。

シャドーは、自我コンプレックスの部分なのかな?それとも、自我コンプレックスと別のコンプレックスなのかな?

でも、シャドー化する以前は、自我コンプレックスの一部の上手く自分であると意識化できなかった部分が、強化されて、シャドーとなるのではないかと思うのです。

シャドーは、自我コンプレックスが、分離してしまうということなのかな?

のぶさん

自我コンプレックス以外のコンプレックスが、自我コンプレックスに吸収される、または統合されるというのは、あるのでしょうか。

> 清志朗さん

 横レス失礼します顔(願)

 自我コンプレックスに他のコンプレックスが統合されることはあると思いますが、…それは、ユング思想のパートである、“ユング心理学の前期の理論”に属する話になるのだと思います冷や汗
> 清志朗さん

 また横レスになりますが冷や汗

 たぶん、自我コンプレックスが形成される際に、切り捨てられた心理的フラグメントが、無意識という坩堝の中で、“元型・シャドウ”の影響のもとリビドーを獲得して結合し、シャドウとリンクを形成した自律的コンプレックスとなるのだと思います。
けろりんさん

お返事が遅くなって、申し訳ありません。ラカンの言っている意味が今ひとつよくわからなくて、コメントできずにいました(実は今でもそうなんですけど・・・)。さて、ラカンの言葉・・・

>無意識は、他者のディスクール(言説)

と言うことでしたけれど、これはもちろん、

自分じゃ自分の癖はわからないけれど、他人はその癖をよく知って(見て)いて、その癖の話をしている・・・

という意味じゃありませんよね。

癖の話に限らず、どんな話でも他人がしているお話が私の無意識である・・・というのがその意味なら、この考え方は、私という“個”がどこかで“他者”と繋がっている、と仮定しないかぎり成立しないと思うんですが、ラカンの言葉の意味はそういう捉え方で良いのでしょうか?

ラカンを読んだことがなく、PCで検索した限りの文章だけでは、いまいち彼女(?)の言っている意味がわからず戸惑っている私ですあせあせ(で、何でフロイトに帰れ! なのかもわからない・・・涙


さて、もう一つのお題、超心理学の見解の違いについてですが、

ユングの個性化は、どちらかというと、この現象界にあって向こうからやってくるもの(自分から意図していない事柄)を“受けとめ”、それを内的に消化していきながら、自分なりの“意味づけ”を行っていく過程の繰り返しだと私は思っています。

ですから、“無意識を意識化すること”や“個性化の道を歩むこと”は、ご講義録にもあるように
>問題とは人生そのもの、(この世的にはその問題は)決して解消しない
ことも多く、実は(ひろひこ@(^-^)ノ さんの日記に、のぶさんがコメントされていたように)
>問題は解く必要がない。それはただ取り組み格闘されればよい
ものであったりする・・・ということでした。

そして、こういう考え方は、“神の意思”とか“誕生前の人生の計画”とかいうものを考えた方が理解しやすい考え方であり、そうしたものを信じてこそ生きられる生き方でもあるのかもしれない・・・と思いました。(だから、けろりんさんは“心霊主義”という言葉を使われたのじゃないか・・・と、私は推測しています)

でも、サイキック(テレパシーや念力などの超能力)を意識的に使って生きようとする場合は、生きる姿勢が、ユングの言う個性化や意識化とは正反対になってくるように私なんかは思います。

つまり、“受身”じゃなくて、“能動的”な姿勢です。

“運命”とか“神の意思”とか“誕生前の人生計画”とかにはお構いなく、そういうものに逆らってでも今のこの人生を“自分の思うように”何としてでも運びたい・・・!という思いが、その根底にあるように感じられます。そういう意味では唯物的”(この世がすべて・・・・という考え方)と言っても良いかも知れませんね。


共時性や他心通みたいなことは、ユング心理学を学んでいると時々出くわす事柄かもしれませんけれど、サイキックとは確かにちょっと違うような気がします。

あらあら、ジャック・ラカンは男性のようですね、失礼しましたあせあせ(飛び散る汗)

>「無意識は他者のディスクール(言説)」

それは、言語はその国や制度、時代の影響を無意識に受けている・・・ということ?

それとも、自分が魅力を感じ思い入れが強くなる他者の言説は、自分の無意識・・・という意味?

う〜ん、やっぱり意味がよくわかりません(機会があったら、また説明してくださいね)。

でも、私にとっては、魅力を感じるユング心理学が私の無意識とはあんまり思えないです。どちらかというと、魅力を感じないフロイトやアドラーの方が私の無意識のような気がします。(そういえば、ミッシェル・フーコーの文章も文字をおっただけでは全く意味がわからなかったですね涙 同じ判らないでも、文字をおっていって最後には何となく“こういう意味かなぁ・・・”とうっすらイメージできる言説(シュタイナーとか聖書とか)もあるんですけど、フーコーは駄目でしたあせあせ 彼の言説も、どちらかというと、意識化が難しい“私の無意識”っていう感じがします)
> ミネルヴァの戦士さん

 ラカンは神を“大文字の他者”と見なしているようなんですが、ユングの神は突き詰めると結局は“自己元型”のような気がするわけです。

 まぁ、疎外された“自己元型”が“大文字の他者”なのかも知れません。

 無意識が他者のディスクールだというのは、私の知らないうちに私と私の幼な馴染みのK子ちゃんが恋仲だと噂になっていて、あることないこと尾鰭がついて伝説が形勢されたあげく、知らないうちに私も本当にK子ちゃんを好きになってしまったときに、ないことづくめだった噂の全内容は他者のディスクールでありつつ、私の無意識なのだった、…みたいな不条理のような気がします。←???ポーの失われた手紙に関わるミステリーに絡めたラカンによる“他者のディスクール”の説明が、なんか、↑そんな感じだったような。

 あと、カントとサドの親近性を研究したジジェクの弟子の才媛(←名前忘れてた顔(願))がいたはずで、ミネルヴァさんは、その人とラカンを勘違いしたのかも知れませんねウインク←鋭い勘違いかも!

 ところで、絶対的他者はシャドウかも知れませんね。たぶん自分のシャドウを知る簡単なアプローチ(←簡単なのはアプローチだけ冷や汗)は、自分のもっとも嫌いで唾棄すべき、かつ、軽蔑していもいる憎むべき敵を観察すればいいのですが、…しかし、無意識なので、人間として彼等を理解不能だったりします。

 たとえば、詐欺師にシャドウが転移されちゃってたら、そのシャドウを自我に統合する個性化に於いては、まずは自ら詐欺師に身を堕とす他ないのかも、…。
けろりんさん、どうもありがとう芽

ラカンの言葉、よくイメージできました。

でも、その感想は、“それは間違いじゃないけど、人間、そればっかじゃないよ”という考えでしたあっかんべー(ゴメンナサイ。でも、フロイトの言説を聞いたり読んだりするときも、やっぱり同じような感想を抱いちゃうんですよね、私。←単に勉強不足なだけ?)

でも、シャドウを抑圧することは怖いことだなぁ・・・とは、改めて思いましたね。
けろりんさん

どうもありがとう

コンプレクスは、分離したり、融合したりするんでしょうね。
コンプレクスは、心的エネルギーの渦みたいなものだと思っています。
そして「私」があるのが、自我コンプレクス

ちなみに、「無意識」という用語は、扱いが難しいですね。

白田さんの講義では、
  無意識=無意識とは、私にコントロールできない私の部分
とあり、この「私の部分」が自我コンプレクスで、この中にある私がコントロールできない部分ということでした。

 でも無意識は、広くは他のコンプレクスや、元型やセルフも含めて全体を言っている場合もあったりしてややこしいのだと思います。


>自我コンプレックスが形成される際に、切り捨てられた心理的フラグメントが
つまり、以前自我コンプレクスの一部にあったコントロールできてなかった部分が、分離して強化されたということですね。

そしてそれは、自我コンプレクスとなんらか繋がりを持つ。
だから、一度も自我コンプレクスと関わったことがないコンプレクスとはまったく別物であるということだと思いました。

リビドーとの関係がまだ分かりませんでした。


> 清志朗さん

 一応、コンプレックスはプログラムで、リビドーはそれを起動させるエネルギーだと思います。

 プログラムとしての自我もコンプレックスですが、独我はプログラム以前の実在で“自我コンプレックス-自我プログラム”をまとい自我になりすました自己元型ののフロントラインなので、実は、こっちはコンプレックスではないかも知れません。

 自我になりすました自己元型と、自我コンプレックスは、ともに安易に“自我”と呼ばれ、混同されるのかも知れません冷や汗
> ミネルヴァの戦士さん

 ミッシェル・フーコーの思想は、“学校・病院・監獄”が、パノプティコンへの恐怖症とともに、洗脳装置として機能している、…なんてところが、私的にはウケました(“パノプティコンへの恐怖症”は、現実の犯罪検挙率の驚くべき低さを隠蔽します。…実は、真に有能で凶悪な確信犯は、ほとんど、警察にも捕まらない、…)。あと『言葉と物』における中国の百科事典』のエピソードが印象的でした。確か、あの出所は、ボルヘスかな。“中国の百科事典”のメタファーを的確に捉えると、ユングの“拡充”の意義がわかる気がしますウインク人差し指

 フーコー自身、ヘーゲルを一生懸命に勉強して結局さっぱりわからなかったと吉本隆明に語っていたのが印象的でした(『世界認識の方法』中公文庫←あれは、しかし、サルトルの弁証法的理性への皮肉と、マルキストである吉本隆明へのアイロニーを込めてたのかな、…フーコーがヘーゲルをわからないとはどういうことだろう?)。

 ショーペンハウアーのシンパであるユングも、実は、アンチ・ヘーゲルですね。ただ錬金術的な論理はヘーゲル的ですね(いや、たぶん、たまたまヘーゲルの論理が錬金術的だったわけですね)。そこに無理矢理、元型派のヒルマンやギーゲリッヒは、ユングに対するヘーゲルの影響力を認めたりするんでしょうけど、…私から見ると、ちょっと疑問です。
ひろひこさん、詳細なレポートありがとうございます。
ほとんど逐語みたいな感じですね。

これ、いちばん勉強になるのは私自身です。
改めて自分が言ったことを読み直すことで、いろいろ反省するところが出てきます。
(背中に冷汗が出てくる箇所もあり…)
遅ればせながらのお礼です。


ひとつだけ訂正すると、

>例)構造主義 人間は構造の束である。心は「ない」。

の部分は、「構造」→「行動」ですね。
心理学における、ワトソンから始まる行動主義を念頭に置いた話です。
まあ、ここを「構造」としてみてもさほど間違いではないんですが。


この7ヶ条は、つまるところ、
「人間はいかにして問題を乗り越え成長するか」について
ユングが考えたことの要点になると私は考えています。
ただ、自分ではあまり上手にまとめられたとは思っていません。
改良というか、まとめ直しが必要だと感じてます。


以下、ヘルマン・ヘッセのメモ帳より引用。
1921年6月29日、ユングのところでの最後の治療の時に
ヘッセがユングから聞いた話とされています。


…『デーミアン』は多くの人々に分析の新しい局面を、まさに「おかしな」局面を示した。
人は「本当に望む」ことを欲しなければならない。
よく患者たちは、いったいどうやってあれやこれやの問題を「解」いたらいいか尋ねる。
ユングは言う、あなたがたは全然解かなくてよい。
ただ試み、取り掛かり、それと格闘するだけでよい。
問題は「解く」ためにあるのではない。
それらは、その間に人生という名の緊張が生み出される一対の対立である。

『ヘルマン・ヘッセ エッセイ全集2』
日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会訳、臨川書店、2009.4、p.45
>12・hiroeさん

先日はお会いできずに残念でした。

>私はユング心理学の根幹に原型論も含まれているのかなと思っていましたけど、大きな勘違いをしたことに気付かされました。

誤解があるといけないので補足しますが、
現代におけるユング心理学では、元型論は重要な意味を持っていて、
その意味では、元型論がユング心理学の重要な中核概念であることは間違いないです。


ただ、一方で、
「ユング心理学の成立時に元型論はいまだ成長過程で、ひとつの論としては確立していなかった」
というのもまた歴史的な事実です。

ユング心理学が一通り成立する年代については、
1921年の『タイプ論』出版時とするのが一般的です。
一方、「元型」という言葉が最初に使われるのは1919年で、
要するに、この両者は1920年をはさみ、ほぼ同時期になっています。


元型概念のアイデアそのものは早い頃からあって、
すでにユングの学生時代にその萌芽を見る見方もあります。
またユングは、「元型」という言葉が使われる前からこれに該当するいろいろな用語を使っていて、
それが次第に「元型」という言葉に集約していく過程があります。
しかしながら、元型論が論として形をなしてくるのは、やはり1920年代であり、
内容的に成熟してくるのは1930年代になります。


要するに、私の理解の仕方は、1920年頃の状況にひとつの区切りをおいてみる考え方です。
ですから、視点が違えばまた違った理解もあるでしょう。

たとえば、ユング心理学の成立時期を
ユング心理学の基本的概念が揃ってくる1920〜30年代とみなすならば、
元型論はユング心理学成立のための最後の要石になった、とも理解できるでしょう。
ちなみに、ユングが易経に関心を持ち、そのなかから共時性の概念を導き出すのも1920年代です。
(「共時性」という言葉が最初に使われたのは1929年です)

このへんの議論を本格的に始めてしまうと、
煩雑な伝記的ないし文献的研究に足を踏み入れることになります。
「あなたがたは全然解かなくてよい。
ただ試み、取り掛かり、それと格闘するだけでよい。
問題は「解く」ためにあるのではない。
それらは、その間に人生という名の緊張が生み出される一対の対立である。」


『デミアン』コミュでも、ヘッセの真意と人生の諸問題が検討されていますが

ヘッセのメモにあるというユングのこの視点を齟齣することも、とても重要ですね

個人的には、ヘッセの『荒野の狼』も心理学的、哲学的、あるいは思想的に研究するととても面白いものだと思います

そしてもちろん、ヘッセ自身の人生がすごく面白い!
一つの有益な研究分野だと思います
>17-18・25 清志朗さん

自我と「影」との関係については、20・けろりんさんのコメントで説明されていると思います。

自我の偏った・一面的な立場に対し、その個人的側面における反対の要素を帯びたコンプレックスが
「影」として機能する、と考えると分かりやすいと思います。
私が「意識されにくい自我の無意識領域」という言い方で指したのは、
「影」ではなくて自我の偏り・一面性そのもののことです。

自我コンプレックスにおける意識されていない個人的な偏り・一面性を、
その反対のものを提示することで映し出すのが「影」です。
「影」は元型ではありますが、同時に、まだ当人の個人的要素に強く関わっていて、
本来的な意味で集合的領域と関わりを持つのはアニマ-アニムスからだ、
とユングは言っています。


>自我コンプレックス以外のコンプレックスが、自我コンプレックスに吸収される、または統合されるというのは、あるのでしょうか。

これはあります。というか、これについて考えることこそ
臨床心理学としてのユング心理学だと言っていいのではないでしょうか。


ここで問題になるのは、その吸収・統合のあり方のほうで、
それによって人格の成長に結びつくか、病的な状態に陥るかが違ってきます。

たとえば、いわゆる「憑依」の状態は、
無意識コンプレックスの侵入によって自我コンプレックスが乗っ取られた状態です。
あまりうまく吸収・統合がされていません。

一方、無意識コンプレックスの内容を自我が適切に意識して受け入れた場合、
ユングの表現を借りれば、それは「自我の機能の一部」になります。
今までコントロールされていなかった無意識内容に対し、意志による統制が利くようになる、
それによって人格の成長が起きる、ということです。


臨床的観点から言うと、
無意識コンプレックスのうち、個人的な要素については、
それを意識して受け入れることが人格の成長に繋がります。
逆に、それと分離することが人格の分裂、「魂の喪失」を招きます。

他方、無意識コンプレックスのうち、非個人的すなわち元型的な要素については、
それを自分と切り離して、適切に距離を取ることが重要になります。
元型的要素と自我とが同一化してしまうと、自我は自分を実際以上に誇大に捉えてしまい、
自我の適切なコントロールを欠いて、病的で破滅的な事態に陥ります。
(ユングはこの状態に「自我インフレーション」という言葉を当てています)

要するに、自我コンプレックスにとって受け入れるべき要素は受け入れ、
受け入れが危険ないし不可能な要素については、それとつかず離れずの適切な関係を築く。
この区別が重要になります。


>リビドーとの関係がまだ分かりませんでした。

コンプレックスの間で何らかの変化や再構成、活性化があるとき、
その変動を心的エネルギー(リビドー)の移動・転換・変化として記述するのが、ユング心理学です。

心的エネルギーは、理論的には、
コンプレックスの動きを説明するための仮説的概念です。
ユングはこれを実体として捉えることには慎重でした。
>21・ミネルヴァの戦士さん

ユングの場合、
“運命”とか“神の意思”とか“誕生前の人生計画”とかがあるとしても、
それは人間の能動的な働きかけの要素がなければ実は達成されない、
という考え方をしているでしょうね。

神は、ひとつの問いとして人間を造りだす。
人間はその問いと格闘することで、神が持てなかったような高い認識を持つ。
人間がその認識をこの世界に還元することで、神ですら予想できなかった新たな「この世界の有りよう」が達成される。
そのことで神自身が自らの閉塞をうち破って成長し、神自身が救われる。

これがユングの世界観になります。
>30・78910さん

『デミアン』コミュってあるんですか!
面白そうですね。探してみます。
のぶさん

32番のコメントを読んで、十牛図を思い浮かべました。

“運命”や“神の意思”や“誕生前の人生計画”と格闘して悟りを得、その悟りをもって、この世の中にかかわっていく・・・

そんな世界観を連想しました。
のぶさん

>ユングの場合、
“運命”とか“神の意思”とか“誕生前の人生計画”とかがあるとしても、
それは人間の能動的な働きかけの要素がなければ実は達成されない、
という考え方をしているでしょうね。

と言うことでしたが、浅学な私の考え方では、この“人間の能動的な働きかけ”というのは、“運命との内的な格闘”ということを意味していると思っています。
つまり、“運命”とか“神の意思”とか“誕生前の人生計画”は、こちらが能動的に行動しなくても自ずと現れて来るもの・・・と、とらえているわけです。

(歴史(世界精神?)は理念の自己展開、と言ったのは、カントだったと思いますが、個人の人生についても同じようなことが言えるのではないか・・・と私は思っています。
ご講義録の中にもあった、“職業を選択する中に個性化の萌芽が潜んでいる”という意味は、そうした深い無意識から来る“セルフ(個人の理念=無意識領域にある)の自己展開”によるもの・・・という見方もできるのではないでしょうか)

個人のこの世的生活における“能動性”は、その“理念の自己展開(運命)にまつわる「深さ」と「幅」を広げてくれる要素”とはなっても、運命の実現・不実現にはあまり関係がないようにも思うのです・・・


ただ、通常、人は、自分の人生の中で、“運命”とか“神の意思”とか“誕生前の人生計画”とかに出くわしたとき、それを拒否(あるいは見て見ぬフリをしたり、他人や環境のせいに)したりして、自分のものとして受け入れることがしにくい・・・という面を持っていると私は思っています。

なので、私の感覚から言うと、“運命”や“神の意思”や“誕生前の人生計画”に“能動的”に関わっていくには、まずそれらを“受け入れる”という姿勢が必要なんじゃないか・・・と思ったしだいです。



それから・・・・サイキックと超心理学については、ヨガ行者の言葉を思い浮かべていました。曰く・・・


超能力を目的に修行しているわけではないが、修行していく(悟りを得ていく過程の)中で、超能力の一つも身につかないというのは、たいした修行をしているわけではない(だったかなあせあせ

(それは、悟りを得ていく修行の中で、超能力はその“副産物”として自然と身についていくる・・・という意味だと、私は解釈しています)

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