この間、わが学園の教務会議で面白い話があった。自動車系カリキュラムリーダーから、来期は〈制御〉をテーマにして自動車系カリキュラムを構築したいという提案があった。しかしその提案者の〈制御〉の話を聞いていると私が勉強した制御理論と食い違いが多い。"装置"の話しか出てこない。面白くもない。先のTCP/IPの説明と同じくらいに生気のない"説明"が続いた。我慢ならずに、人間も社会もひまわりも化粧品も〈制御〉システムだ、と私が言うとそれは哲学的だ(この程度で哲学的だと言われたくはないが)と言って笑われてしまった。そんなことはない。ウイナー自身がそう言っているし、それが〈制御〉という概念が画期的な所以だ(もちろんサイバネティクス自体は、〈目的〉という概念が最後まで外在的なままにとどまり破綻したが、最近はそのあだ花のオートポイエーシス理論に継承されている)。ところが、ウイナーさえも誰も読んでいない(岩波の『サイバネティクス』、みすず書房の『人間機械論(原題はThe Human Use of Human Beings)の代表的二著が翻訳で出ているが、どちらもサイテーの翻訳だ)。文学部の私でさえも、この二著に加えて、ベルタランフィの『一般システム理論』(みすず書房)くらいは独力で(大学1年の夏休みに)読んでいる。この三著を読めば、制御理論の革命性(と限界)は誰にでもわかる。