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漫画大会[SF大会とコミケの接点]コミュの霜月たかなか著「コミックマーケット創世記」

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刊行されて誰もトピ建ててないので、建てました。
霜月たかなか著「コミックマーケット創世記」に関するトピですが関連すればトピずれ結構手(チョキ)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022732504/


感想・異論・思い出したこと なんでも思いつくままに…
このコミュ・テーマの漫画大会について初めて詳しく触れられた一般書籍と思います。
−コミケ20年史・30年史を除く−

mixi日記などで上げられているコミュメンバーも多いようですが、日記のコピペ歓迎!

コメント(47)

わぁ〜いexclamationres:5で挙げた購入予定候補者のお一人が参戦o(^^ )oo( ^^)o
》いつか書かれるべき「関西版」
楽しみにしています。

このコミュにも関係者が多い「えりぷりるはうす」を取り上げてもナゾが多く(笑)原田氏が書いたように「11月のギムナジウム」ダイナビジョン上映会にあわせて結成されたのか、その後75年の「少女まんがカーニバル」の開催後に結成されたかも不明です。
76年に開かれた第3回コミック=マーケットに「えいぷりるはうす」が「少女まんがカーニバル」の宣伝に登場したという記述は1年の差異があり、なんらかの誤認だと思われます。わかぎゑふ氏のエッセイを読み返してみたのですがどうも違う様子ですが確証は得られませんでした(^^)ただ、個人史的にはフッコ(わかぎゑふ氏)と板橋で逢った記憶があるのですねぇあせあせ(飛び散る汗)

あと、高宮成河氏がどちらも開設に一枚噛んでいたことと、「俺達は読みたいまんがが読める環境を作るんだ」という「コミックマーケット創世記」に巻末にある「マニア運動体論」のコアな部分を考えると「漫金超」もコミケの補完的な役割を高宮氏の中ではあった可能性も見えてきました。

関西版【「MAKING OF COMIC MARKET」記録集会】を開いても面白いですね。
APRIL HOUSEですが、正月に設立メンバーのひとりモコさんに会って聞いてきました。詳しくは資料を読み返さないといけませんが、豊中市民会館集会室でひらかれた「11月のギムナジウム」時点では、この名前ではなかったようだ、との事です。ただし中川州さん執筆の記念誌にはエイプリルハウス名義になっています。APRILがコミケに参加したのは少なくとも私が目撃したのは第5回(太田区)で、写真も残っています。フッコちゃんは設立時からのメンバーではないので、設立時のエピソードは知らないはずです。「少女まんがカーニバル」時点ではすでにAPRIL HOUSEでした。なおAPRILの母体になったのは工芸高校演劇部で、中川州、モコ、ピートと石田君ほかだったようです。APRILの名前は、「4月バカのお茶会」だったそうで、稲葉・井上のMARCH HOUSEとは直接の関係はないようです。

もうみんな記憶があやふやですね。

ちなみに久しぶりに「貸本の友」を読み直してみたら、GOMIさんの名前がありますね。

ところで、res6で紹介されてるレビュアーのTAKAさんって霜月たかなかさん本人じゃないですかねえ。いまふと思ったのですが。

素人にしては文章が上手すぎる。
うはー、ここにも歴史の証言者がいた(笑)

どうも我々は時空の果てで繋がっているようです。

私もその吹田市民会館におりました。稲葉先生はそのとき音響スタッフをやっていたはずです。APRILで知り合ったのが現在の私の嫁です。(笑)
吹田市民会館の「小鳥の巣」は「漫画大会の思い出」トピ
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=11236324&comm_id=1417034
の最初アタリでやってましたね。

上げたプログラムブックを目を凝らして見ると(ムリだったので原本を見直して…あせあせ(飛び散る汗))
エドガー 折原未知
テオ   若木芙子
|
生徒F  Calci夫人
となってますね。Calci夫人やわかぎゑふ氏も既に参加していた様子です。

併演がMJM製作の「11月のギムナジウム」となってます。効果に井上幸一郎氏の名もあり、マーチハウスの協力はあったようですが「えいぷりるはうす」の名はプログラムブックにはありませんでした。
私もそのときは一般客でした。なんで参加したかというと、片桐さんに連れていかれたような気がします。片桐さんは、エイプリルには一貫して照明スタッフとして参加されておられました。たしかまだこの頃には嫁さんとは個人的な面識はなかったはず。そうか、フッコちゃんももう参加してたのか。

私がエイプリルに関わるようになったのは西宮市立会館で開催された「まんがはうすのクリスマス」からです。青木さんに出演交渉してこい、と言われてのこのこ出かけていったのが運の尽きでした。(笑)

以後しばらく音響スタッフをやっていました。
上げていただいたプログラムブックを読んでみましたが、吹田市民会館というとメイシアターのイメージが強いのですが、あれは建て替えた後なんですね。たしかに稲葉先生の名前もありました。稲葉先生が運営に関わるようになったのは、稲葉夫人からの依頼でご自宅の近くにあった豊中市立婦人会館の予約を取るために名前を借りたのが初めだったとのことです。もうなくなりましたが、ここでは良くエイプリルの稽古や公演をやっていました。小さな、ステージもないピアノだけ置いてあるジュウタン敷きの集会室でした。あと集会には森之宮の青少年会館も良く使っていました。なんせお金がないので、安く借りられる場所を探して彷徨っていたのです。

以前のトピックに出ていた淡路のATCですが、あれは青木さんのポケットマネーで借りておられたようです。早くにお父上を亡くされた青木氏は高校卒業後一時仕事をされておられたのですが、一念発起して関西大学に入学され、関大SF研に入っておられました。当時からATCのメンバーはみんな青木さんを「さん」付けで呼ぶので、当時大先輩か何かと思っていたのですが、一度仕事をして大学に入りなおされたので、同学年でも年上なので、みんな「さん」付けで読んでいたのを、こないだのマダムロボさん主宰のシンポで知りました。ATCは当時の関西のSF
/まんがファンの溜まり場になっており、GARAMONさんやGomiさんも出入りされておられたのはご存知の通りです。ちょうどアニメ化された「げんしけん」の部室のようで、あのマンガは非常に個人的にぐっと来るものがありました。
「まんがはうす」は青木さんと石井拓さんが共同で起こされたようです。石井さんは自分で予言されてた通り40代で胃がんでお亡くなりになりました。独立して自宅にハンバーガー屋を構えられてしばらくしてからのことです。ご自宅にも何度か訪問させていただいたことがあります。

>》いつか書かれるべき「関西版」
>楽しみにしています。

いや、言っとくけどぼくは書きませんよ(笑)。
端っこの端っこにしか関わってないもの。書けるわけがない。
誰かが書くなら資料提供できるよう、記憶の整理だけはしておこう、ということです。
ちょうどチャンゼロのみねぜっととも、似たような話をしてたので。

なお、石井托くんは中学の1年後輩。教会(笑)がいっしょだった。
高校は別だったので、その後はあまり会わなかったが、ずっと親交はありました。
さらに、井上幸一郎氏は大学での1年後輩。
ぼくが発行していた『週刊月光仮面』にインスパイアされて発刊したのが、
『きみどりの星』であったというのが、本人の弁です。
ちょっと脇道でした。すみません。

エイプリルハウスは、だいぶあと(80年ごろ?)に(株)チャンネルゼロで取材して、
内田勝さんが編集長だった『ホットドッグプレス』のコラムで紹介しました。
観たのは千里のほうでやった「青色廃園」かなにか、だった気がする。
初期のことは、そのときに中川州さんに取材したような記憶もあるのですが、
もちろん内容は全く覚えておらず、メモもたぶんないと思います(笑)。
記事の切り抜きはあると思うので、探しておきます。
GYAさんが石井さんと知り合いとは知らなかった。ここにきて衝撃の事実が色々明らかになるなあ。GYAさんには、関西のファンダムの雄、チャンネルゼロ工房について語っていただきたいと思います。で、うちの嫁さんはチャンゼロにも出入りしてたんだよなあ。まあ狭い世界ですから。高宮成河氏とはチャンゼロでお会いしたような記憶があるのですが、チャンゼロには関わっておられたのですか?

チャンゼロ人脈というと社長さん、みねさん、いしいひさいちさん、やまだ紫さん、しりあがり寿さん、川崎ゆきおさん、あと誰でしたっけ?

関西版はぜひ実現したいですね。

>Calciさん
高宮氏とチャンゼロのそもそもの関わりについては、Gomiさんのほうが詳しいでしょう。
ぼくがチャンゼロに出入りしだした頃には、ふたりともすでによく顔を出していたようで、チャンゼロ・メンバーからは「漫ゴロ」と呼ばれてました(笑)。
チャンネルゼロ工房とは別に、80年に「社長」をかついで(株)チャンネルゼロを作ったときの設立メンバーが、みね、高宮、ぼくの3人です。つまり、ぼくと高宮氏は、同人誌チャンネルゼロ工房ではなく、『漫金超』発行のために作った「株式会社チャンネルゼロ」のみのメンバーということです。ややこしいですね。
奥さんは、高宮氏がふっこちゃんを連れてきたあたりから、出入りするようになったんじゃなかったかと思います。

>チャンゼロ人脈というと社長さん、みねさん、いしいひさいちさん、やまだ紫さん、しりあがり寿さん、川崎ゆきおさん、あと誰でしたっけ?

同人誌時代からの執筆者では、『COM』の雑賀陽平さん、やまだ紫さん、『ガロ』の川崎ゆきおさん、ひさうちみちおさん、『楽書館』などのさべあのまさん、あたりかな。しりあがり寿さんとは、交流はありません(というか、当時まだ学生だったはず)。
》高宮氏とチャンゼロのそもそもの関わりについては、Gomiさんのほうが詳しいでしょう。
いや僕も大学卒業後、高宮と梅田で飲んでた時に一晩中ワイワイとできる場所と言うコトで高宮に誘われ繁和荘にお邪魔したのがチャンゼロに行くようになったキッカケでしたから高宮とチャンゼロとの契機は知りませんあせあせ(飛び散る汗)たぶん霜月氏の記載していた早川との縁なのでしょう…あせあせ(飛び散る汗)
でも亜庭と高宮の3人で豊津の駅からバカ話しをしながら歩いていた記憶があるから73年頃に3バカトリオでチャンゼロへ行ったことがあったのかもしれません。



》チャンネルゼロ工房とは別に、80年に「社長」をかついで(株)チャンネルゼロを作ったときの設立メンバー
一応末席にいましたが…わーい(嬉しい顔)
>》チャンネルゼロ工房とは別に、80年に「社長」をかついで(株)チャンネルゼロを作
>ったときの設立メンバー
>一応末席にいましたが…

すみません。編集以外の、発起人、役員、株主等は、大勢になるので省略させていただきました。
コミケ創世記は僕の体験と重なる部分も多く、何度も読み直しているのですが、気になった個所があったので一言

「第1回日本漫画大会」(2)
》合宿所ではほかにもこの時、持ちこまれた個人所有の本のオークションが始まってバカ騒ぎになったというのだが《P62

たぶん僕が第1回の公式レポートに寄せた以下の文がソースと思われるのですが MAKING OF COMIC MARKET集会に参加の諸氏では誰もこの部屋には居られなかったと思われます。

【かっこ】内は原文には無い注釈です
--------------------------------------------------------------------
合宿はシラけたまま12時になってしまった。そのとき大阪のファン【ばばよしあき氏か?記憶不鮮明】が持ってきた【即売用の】本の値をつけようと、てことになり1室でそれが始まった。始めはかなり安く値をつけていたのだけど、安すぎるとの声が高く少々値上げをしてしまった(来年こそは値上粉砕を叫ぼう!)そのせいで鈴木出版の手塚選集が250円なんてバカみたいに高く【当時コーヒー80円・タバコ100円】なってしまった。(貸本屋にたのめば30円ぐらいで手に入るのだ。)

それが終わって雑談がはじまってびっくりした。僕が崎原さん【漫大スタッフの1員・第2回漫大では彼と僕の2人でスライド紹介で72年を振り返るなんてプログラムもあった】にもっていった西谷作品の切抜きを彼が読み始めたことから火がついた。それが「ファイヤー」の切抜き残りだったため「あれ俺のもっているのと全く同じじゃねぇか」なんていいだす奴がでてきた。
それから少女マンガの話になったのだがその部屋にいた野郎ばかり十数人、それが全員少女マンガキチってのには【73年のレポート原文のまま】恐れ入った。
(中略)
しかし好みが一致していると話題はつきなく、2時間程ワイワイガヤガヤとやらかしていた。そのとき、あるファンから即売オークション用に出品された本が、山となってとどけられた。
【以下、古本の即売用値付けとオークション本などの話題がつづく】
--------------------------------------------------------------------
即売用とオークションの本の整理でバカ騒ぎをしていたのです。裏オークションは開かれていませんでした。また原田氏・松田氏のいた部屋とこの部屋の男性用2室で少女マンガが話題で花が咲いたことが判ります。

この部屋にいた桜修氏が主となって翌年の第2回漫画大会合宿で「男だけで少女マンガを語る会」が開かれたのですが原田氏もその「男だけで少女マンガを語る会」にいた事をコミケ創世記p68で知りましたが、どうも彼がいたかどうか記憶にないです(^^)ゞ
今、京都マンガミュージアムで開催中の「コミックマーケットの源流」展は必見!

霜月氏の資料を展示しているので「創世記」で言及していたファンジン‐あえて同人誌とは呼びたくない‐やプログラムなどが展示されています。霜月氏の本では語られていなかったSFファンダムへの言及もあり、博物館学芸員の独自視点も窺えます。

8月半ばまでの開催とか…
とりあえず駆け足訪問の報告。
京都MMの「コミックマーケットの源流」展

よくよく見ると面白い資料が盛り沢山手(チョキ)
特に大福帳「迷宮閻魔帳」とヨコに展示されているT宝の社内便箋に書き込まれた「漫画新批評大系」の創刊準備号作成メモは個人的には一番興味深く、読み耽ったわーい(嬉しい顔)

T宝という某氏の勤務先の社内便箋を使っていたこともさることながら、その2年前に僕と某氏とが京都で語っていたパロギャグが何点か織り込まれていた(笑)それをボツとして「萩尾望都の作り方」と「ぶ〜ん業」にマトメテいった経緯が知りたくなってきた…おっと!「ポルの一族」を忘れるところだった(^_^;
京都国際マンガミュージアムで開催される座談会に参加するつもりです。

関係者の証言でふりかえる、現代マンガの青春期!
「伝説のマンガ月刊誌『COM』を語る−休刊38年目の座談会」

http://www.kyotomm.jp/HP/2009/07/COM.html

どなたか参加されますか?
>関係者の証言でふりかえる、現代マンガの青春期!
>「伝説のマンガ月刊誌『COM』を語る−休刊38年目の座談会」

井上幸一郎に教えてやろうと思ったのだが、メルアドがわからない。
今年になって2度も会ったのに(笑)。
どなたか、連絡つきますか?
井上氏のメアドがわかったら当方にもメッセを、お願いします。

8/2は、午前中はミュージアムに居る予定です。午後から仕事なので、昼前には地下鉄で移動予定冷や汗 コミケ源流展会場でウロウロしていますので声掛けて下さい。
inaba さんは書きました:
>
>
>この日曜の京都マンガミュージアムでの座談会、井上幸一郎も行きますから、そこで
>本人に聞くのが早いと思います。
>
>とお伝えください。
>
>Masamaru Inaba, Osaka, Japan
>稲葉 昌丸
>

とのことです。井上さんも来られるようです。
「COM」コミュとのマルチポストになるかも知れませんが…

http://tezukaosamu.net/jp/news/n_410.html
より転載
------------------------------------------------------
5月4日(火・祝) COMITIA92内スペシャル企画 『伝説のマンガ雑誌「COM」を語る 〜休刊39年目の座談会〜』
自主制作漫画誌展示即売会・ COMITIA92拡大Special会場内企画
伝説のマンガ雑誌「COM」を語る 〜休刊39年目の座談会〜

日時:2010年5月4日(火・祝) 午後1時30分〜4時
会場:東京ビッグサイト東 2ホール・ COMITIA92会場出口脇会議室
出席者:(まんが家)真崎守、矢代まさこ、みやわき心太郎、他
(COM編集部)石井文男、大塚豊、飯田耕一郎、他
(ぐら・こん代表)元関西支部長、元山形支部長
(司会)霜月たかなか(『コミックマーケット 創世記』著者)

*聴衆希望者はCOMITIA会場入り口にて「ティアズマガジン」(1000)を購入のうえ入場し、座談会開催時間前に会議室前に集合してください。
聴衆は無料。なお聴衆希望者が会議室収容人数を超えた場合は、入場不可となる場合がありますので御了承ください。
座談会の様子は会議室前のモニターで、COMITIA会場から視聴できます。
また、座談会終了後は出席者を囲んでの懇親会をビッグサイト近辺で行いますので、参加希望者は入店可能な人数に限り、会費の本人負担で当日に受け付けさせていただきます。
----------------
転載ここまで

昨年の京都より編集サイドの方が増えているとのことです。
京都へ行った方でも必見かも。

と書き込み準備をしていたら「おしゃべり広場」
http://www.webspace.ne.jp/rental/icon_tree_bbs/bbs.php?pid=6166&mode=pr&parent_id=2474&mode2=topic
で、司会者の方−本人が告知されています。

コミティアのCOM座談会で中島隆氏が配布したレジュメというかメモ
『「ぐら・こん」がなくなった日』が夏目房之介氏のブログで全文公開されています。
http://blogs.itmedia.co.jp/natsume/2010/05/post-1c52.html

「あっぷるこあ」とコミケが疎遠だった理由の1つが窺えます。
<A>氏こと明石良信氏−コミケの創設メンバーにして現役のコミケ準備会の最長老(^^;

僕のマイミクさんなのですが、霜月氏の「コミケ創世記」の刊行より3年程前にmixi日記に書いた「コミケ昔話」を日記システムの変更でマイミク以外には読みづらくなったので再掲しています。

頭書きのコピペ
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 何か、MIXIのシステムが変わって友人以外は昔の日記を見られないとか聞き、また昔の話を聞きたいと言う人も居らっしゃったので、外出禁止の暇に任せて昔話を再掲することにしました。

 「コミケット創世記」が出版されたのであまり必要のない文ですが、一人の漫画ミーハーの思い出として笑って読んでください、既に当時読んでいる人は笑ってスルーしてください。

 思い込みの間違いも修正せず、書いた当時のままにしています。
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昔話1 始まり編
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1515863591&owner_id=5068308

昔話2 ダイナビジョン「11月のギムナジュウム」編
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1515867027&owner_id=5068308

昔話3 迷宮編
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1515869380&owner_id=5068308

昔話4 漫画新批評大系 編
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1515871777&owner_id=5068308

昔話5 岩田氏召喚編 その1
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1515873487&owner_id=5068308

昔話5 岩田氏召喚編
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1515875545&owner_id=5068308

昔話5 岩田氏召喚編 その3
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1515879486&owner_id=5068308

閑話1 コミケットについて
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1515880887&owner_id=5068308

閑話2 コミケの経済学を読んで
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1515882646&owner_id=5068308

閑話3  ありがたい話 −「おたく」について
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1515884125&owner_id=5068308

閑話4 原点
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1515885313&owner_id=5068308

昔話6 会場編その1
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1515887314&owner_id=5068308



「全体に公開」の日記で、このコミュでリンクを貼る事も承諾いただきましたので紹介します。『コミックマーケット創世記』と併せて読むと一層と興味深くなると思われます。
マイミク凸凹さんの日記より転載
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「ウルトラジャンプエッグ」(ウルジャンのWEB増刊)にて10月に行われたトークイベント「コミケ誕生打ち明け話」が紹介されはじめました。興味のある方はぜひぜひご覧ください。できる範囲で拡散もよろしくー。

 他のページと比べるとわかるんですが、1人がいっぺんにしゃべる分量が長いです(笑)。そして第1回の高宮さんはなんもしゃべっていませんー。亜庭さんと原田さんで終わりという。1回目がこれだけとは物足りないですが、分量は回によって融通がきくようなのでなんとか最後まで行くでしょう。

  http://ultrajumpegg.com/#/column/0006/

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やっと亜庭がウェブに登場した。(jpegが無いのも幸いしているあせあせ(飛び散る汗))
状況を引っ張れるだけの理論が構築できる存在だけに待望していました。

今のところは内容は「コミケ創世記」から殆ど出ていないが今後に期待大。
ウルジャンはフラッシュなのでテキストとして扱いずらいのでOCRを掛けてみました。言葉遣いが変なところはOCRによる変換ミスですあせあせ(飛び散る汗)

#1「マンガ同人誌即売会」開催を思い立った理由とは?
世界最大級のマンガ同人誌即売会「コミックマーケット」(以下「コミケ』と略す)は、いまや3万5千にも及ぶサークル、55万人前後の一般参加者か集まる、国内有数のビックイベントとなりました。そんなコミケも、1975年に開催された第一回は一般参加者が700人という、ささやかなものだったそうです。当時の様子をうかがうと、電子出版・電子書籍の登場で大きな転換期を迎えつつある、現代のマンガ界に通じる話も飛ひ出してきたり…!? 今回のウルトラバックステージでは、去る10月に行われたコミケの創立メンバー、霜月たかなか氏、亜庭じゅん氏、高宮成河氏の三氏によるトークイベント「コミケ誕生打ち明け話」(主催:米澤嘉博記念図書館)の模様をお伝えます!
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《マンガファン同士が出会う“ぼくらの場"を作りたかった》
霜月
僕が高校〜大学に通った1970年前後は、マンガか子供だけでなく青年層をも読者に取り込んでいく変革期でした。「週刊少年マガジン」か先を切って青年向けの“劇画"誌に変貌していくいっぽうで、萩尾望都、大島弓子、竹宮恵子、山岸涼子といった昭和24年生まれの女性作家たち、いわゆる“24年組"を中心に、SF、ファンタジーなど新たなジャンルを開拓する少女マンガ登場したりして、新たな潮流が生まれつつあったんです。
なかでも、1967年に手塚治虫によって創刊され、前衛的な新人作品の掲載などでマンガマニアを虜にした月刊誌『COM』(*1)は、僕にとってもマンガにのめり込む大きなきっかけになりました。『COM』にはマンガ作品のほか、マンガの関連情報やマンガ家座談会などの記事も多く掲載されていて、とりわけ新人発掘のための投稿コーナーや、マンガ同人誌の紹介コーナーなどを集めた「ぐら・こん」という企画ページか、マンガ家志望者やマニアを強く引き付けていたんです。当時のほかのマンガ誌には、そういう企画はほとんどありませんでしたから(*2)。
亜庭
当時のマンガ同人誌はそれ自体を楽しむというより、プロ作家志望者同士かお互いに切磋琢磨するための修行の場という意味合いのほうか強かったんです。しかし、『COM』の「ぐら・こん」などを通じて、マンガファン同士の交流が以前よりずっと盛んになり、マンガを批評したり感想を述べ合ったりする機会も増えた。そういう状況を背景にして、プロ志望者とそうでない人も含めて、アマチュア作家の中から自分や仲間か楽しむためにマンガを描く、同人誌を作るという発想が生まれてきた。
−つづく−
−承前−
霜月
実際『COM』に掲載される作品の中には、いわゆる娯楽作品の枠を超えた実験的なものも多かったですから。また『COM』は「ぐら・こん」を通して、全国のマンガサークルを組織化しようとしたりしましたから(*3)、そういう試みを通してマンガのいうんな可能性か花開いていくのでは?と期待か膨らんだんです。ところか『COM』は、部数低迷の末に1972年に休刊。全国のマンガファンの交流の場か失われてしまったわけですから、この喪失感かそれ以後ほかのマンガファンと関わっていく中で、「自分たちで何かをやるしかない」という気持ちに結びついていきました。コミックマーケットは、そんなまだ見ぬ何かを具体化する試みだったわけです。

その当時はマンガ同人誌即売会というものはまだなかったわけですけど、コミケ問催にこぎつけるまでのハードルは高くなかった。なぜかというとそれより前に、学生運動を頂点とする若者たちの反乱が1960年代に巻き起こって、「大人に頼るな。なんでも自分たちでやるんだ」みたいな風潮かまだ世の中に蔓延していましたから。
そういう時代の中で、「無いものは自分たちで作ろう」となって、仲間同士で前例のないものを作る時にも躊躇なくできたんですよ。まあ自分自身の、お祭好きの性格というのもあるんですけど(笑)。一方で若者文化か認知されるまでは、そういう風潮に対する大人社会の反発もありましたから、「マンガ同人誌ってなんなんだ?」みたいなリアクションもありましたけどね。とにかく政治闘争か一段落して、若者の関心が文化や娯楽に向かう中で、大学生までもが普通に「マンガは面白い!」って言える時代かやってきた。僕だちかその神輿の一端を担いだんだなっていう気持ちは、今にして思うと少しだけあるんですけど。

具体的には『COM』の休刊後、アメリカのコミックコンベンションや日本SF大会をモデルにした「日本漫画大会」か開催(第1回・1972年)され、これが出版社主導でなく、マンガファンか自ら催した初のイベントだったと思います。僕も入会していた大学の漫研の仲間と参加して、当時注目を集め始めていた萩尾望都の作品について、同好の士がこんなにもいるのかと驚きました。
ただ主催者かプロ作家のファンクラブだったこともあって、どうしてもプロ作家>主催者>参加者のマンガファンという形で、管理する側とされる側のヒエラルキーかできてしまうんですね。だから参加を断られたりしたファンもいたりして、僕たちはそれに反発した(*4)。
それでマンガファンとして、主催者も参加者もすべて平等のイベントがあれはいいというのと、「日本漫画大会」の片隅で売られていたマンガ同人誌をもっと読みたいというので、同人誌を売る側と買う側とか対等な立場で交流する、即売会のイメージか固まっていった。それはマンガの読み手と描き手か直接交流できる“ぼくらの場"にもなるわけですから、自分たちが理想とするそんなイベントを作りたいという気持ちが、コミケの誕生へとつなかっていったわけです。もっとも最初は、「どう転ぶかわからないけど、とにかくやってみよう」と、勢いだけで始めた面もあったんですけど。
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転載ここまで
#2コミケの名前に込められた思いとは?

世界晨大の同人註即売会「コミックマーケット」(以下コミケ)。公式発表によれは2010年夏の「コミケ78」は、3日間で56万人もの入場者かあったといいます。いまでこそなじみ深いものとなったコミケですが、この「コミックマーケット」という名前には、コミケの創立メンバーであり、名付け親である霜月たかなか、亜庭じゅん、高宮成河、米沢嘉博ら各氏の“ある思い”が込められていました。
今回は、霜月氏、亜庭氏、高宮氏によるトークイベント「コミケ誕生打ち明け話」(主催:米澤嘉博記念図書館)より、コミケという名称の誕生秘話などについてご紹介していきます!

《マンガに関するものならなんでもありの自由な場にしたい》
亜庭
マンガ同人誌即売会の開催を決めた暁、「マンガを売買するからコミックマーケット、略称はコミケ」と、名称は一発決めに近いものがありました。それもテパートでやる着物展示即売会のようなものではなくて、お祭りに並ぶ夜店や中近東諸国のバサールのような猥雑な雰囲気のマーケット、蚤の市のようなごちゃごちゃしたイベント、そういうものになればいいなという考えが漠然とあったんです。ただこのネーミングには、コミケのあり方を逆に規定していったところもありましたね。
“マンガ”とうたわずにあえて“コミック”としたことで、イメージかゆるやかになった。つまり“マンガにまつわるものなら何を販売してもいい”という感じになって、参加者か幅広く集まることになったんです。そして、それ以上に大きかったのは“マーケット”という言葉が持つ意味合いでした。それまではマンガ同人誌なんて、学園祭とかで細々と売られるくらいでしたから、そんなもので金銭のやり取りをするっていうのは若干の後ろめたさかあったんです。
ところがマーケット、即ち“市場”と名付けたことで、金銭のやり取りかおおっぴらに肯定され、むしろ売り買いすることを推進するという新しい道が開かれた。

でもそれだけではなくて、マーケットという言葉には、単なる市場という以上の意味を込めたつもりです。市場という流通の場を作れば、そこで売りたい人は売り、買いたい人は買うという、描き手にとっても読み手にとっても“開かれた自由な場”を提供できるのではないかと考えた。こうした考えは1970年代当時に、“アゴラ"(※1)という思想か市民権を持ち始めたことも影響しています。アゴラかできることで様々な人か出会い、新たな交流か生まれる。
そうした雰囲気の中から、新しいマンガも生まれてくるのではないか、と期待したわけです。

また、同人活動というのは、同人同士という狭い世界に閉じこもってしまう雰囲気も少なからずありましたから、そういう一種の閉塞感のようなものを振り払いたいという思いもありました。実際にコミケの第1回目は、マンガの創作同人誌だけでなく、参加者がSFでもなんでも好きな同人誌を並べていいよという、自由なアプローチのもとに開催されましたし。主催者側でもティールームのスペースを設けたり、マンガ本の叩き売りやメンコ大会をやったりして、会議室ひと部屋分の会場の中でいういうなことをやりましたね。
第2回の2ページ目

高宮
当時、コミケを主催した「迷宮」は、亜庭氏や霜月氏、米澤氏らと共に作ったマンガ評論のためのグループです。それで「漫画新批評大系」という青焼きコピー誌を発行してコミケー回目開催の直前、1975年の夏に開かれた「日本漫画大会」に創刊準備号を持ち込こみました。
手書きの粗い作りの本だったのにそれがどんどん売れて、ついには完売。それでも買いたいという人か来るので予約を受け付けたりしたんですが、それは自分たちで作った同人誌が評値されたということ以上に、マンガに対する言葉のようなものまで含めて、マンガの情報やマンガを通しての交流をファンが求めているということを実感したわけです。そういう体験をしたことが、マンガファン同士か対等につながったりまとまったりできる、アゴラのような場所を作りたいという考えにつながっていきました。
霜月
ただそういうことを生真面目に考えてばかりということでもなくて、僕たち自身、みんなで集まってマンガについて話すことか楽しかったわけですから。あのころは毎週末に新宿や渋谷の喫茶店に集まっては、ひがな一日そこでしゃぺくりまくるというような生活を繰り返していて。喫茶店の人にしてみれば、迷惑なんてもんじゃなかったでしょうね(笑)。だけどそういうマンガの楽しみ方があるのだから、ほかのマンガファンともそれを共有できればと思ったし、共有してもらえればとも思っていた。それもしゃぺるだけで終わらせるのでなくて、何かを形として残せればもっといいと。だからそういう思いかかたちを変えて「漫画新批評大系」になり、コミケになったと、そういうこともできますね。
高宮
僕は大阪在住だったので、そういう場の空気にいつも触れていたわけではないんですが、はたから見ていてそんな喫茶店とかでの集まりが、コミケットの雛形だったような気はしています。コーヒー一杯で10時間もわいわいしゃぺったり(笑)、「こんなものを描いたから見てよ」とか、いろんな人か出入りするとても自由な空間だったなと。
霜月
ただ、「迷宮」が批評やそういう活動をしていたといっても、当時はそんなマンガサークルは全国にいくらもあると思っていましたから、実はほとんどほかに存在していなかったというのは誤算でしたね(苦笑)。おかけでいつの間にかマンガサークル活動の最前列に出てしまって、コミックマーケットを始めたことでマンガ同人誌即売会開催の□火を切ることになってしまった。それからは参加者かどんどん集まってきて、コミケの規模もどんどん大きくなりましたから、「今後もこのまま運営していけるだろうか」と、不安になったりもしたんですけど。

それでも、僕らだけじゃなくて、親しくしている参加サークルの中から、開催に協力してくれる人だちか次々に出てきてくれたのは心強かったですね。だから自分たちだけでコミケを作ったなんていう気持ちはありませんし、初期のコミケはそういう身近な人間関係の輪が広がって成立したものだと思っています。僕自身はその後、1979年にコミケの代表を辞したんですが、二代目代表の米澤氏の早すぎる他界(2006年)をきっかけに、30年ぶりくらいにまたコミケに参加させてもらいました。そうしたらかつての1000倍くらいの規模になっているのに、今もポランティアの人だちが一般参加者の誘導なんかをやってくれているんですよ。「みんなで手伝ってみんなでさわごう、僕らのイベントをやろう」的なノリは、今もそのまま残っているんだなと感じましたね。やりたいと思う者がイベントを始めて、それに賛同する人だちか自然に集まってくるというのが、今でもコミケの一つの立脚点なんだと思います。
ポランティアによって成立するという意味では、マンガを仕事として成立させている出版社とは対極の位置にあるといってもいいかもしれませんね。「マンガか好きだ」「マンガを描きたい」というファンの気持ちを、純粋にかたちにしたものかコミケなんじゃないでしょうか。
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対談開始前、登壇者は3人なのに椅子は4つ用意され、1つ余っていた椅子について、「創立メンバーの米澤(嘉博)かおりますが、訳あって姿が見えません(笑)」と説明した霜月氏。続けて「ほかにもここに(創設に開わった人か)たくさんいます」と、話されていました。人と人のつながりによって、コミケか誕生したのだなと、改めて感じさせてくれるエピソードではないでしょうか。最終回となる次回第3回では、コミケかマンガ界にもたらした変化などについて、ご紹介していきます!
#3コミケがマンガ界にもたらした変化とは?
これまで2回にわたりお届けした世界最大の同人誌即売会「コミックマーケット」(以下コミケ)創立メンバーである霜月たかなか氏、亜庭じゅん氏、高宮成河氏によるトークイベント「コミケ誕生打ち明け話」(主催:米澤嘉博記念図書館)のダイジェストレポート最終回となる今回はコミケがマンガ界にもたらした変化について、ご紹介していきます!

《大人になってもマンガと付き合っていけるメソッドを作った》
霜月
コミックマーケットかできる以前は、プロ作家となる以外にマンガの創作活動を続けていくというのは困難なことでした。マンガを掻くこと自体かまず大変な作菓ですし、大人になって就職したりすると、仕事の片手間にマンガを描いていくことは難しい。なにしろプロ作家を目指すにしても、1970年代ころまではマンガ雑誌の数も今より少なく、新人作家募集の枠もずっと狭かったですから。またアマチュアとして描き続けたとしても、マンガファン同士が関わることかそうそうできない状況の中で、誰かに読んでもらうことを意識してマンガを描くということも難しかったんです。そのため次第に創作意欲が薄れていき、大人になると描かなくなってしまうというのが創作同人というか、アマチュア作家の通例だったといっていいと思います。

そこにコミケという同人誌の流通媒体かできたことで、描いた作品を直接読者に届け、また作家同士でも見せあい、評価しあえるという、マンガとの新しい関わり方か生まれました。それまでは同じ同人サークルの中でだけしかできなかったことか、不特定多数のマンガファンとできるようになったんです。それはファンクラブを作ったりして、積極的にマンガに関わろうとする読者、つまり受け手の側にとっても同様でした。たまたま同じ嗜好を特ったクラスメイトを見つけて…というのではなく、コミケを通じて全国レベルで多くの同好の士と情報を交換したり、サークル同士で交流することかできたりと、大きく輪を広けることかできるようになったんです。そしてそういう作家やファンの出会いの場となることで、コミケ自体の規模もどんどん拡大していった。つまりコミケによってマンガ同人誌を取り巻く状況か大きく変わり、大人になってもマンガと付き合っていけるメソッドか確立されたといえるでしょう。そのことによってコミックマーケットは結果的に、マンガ文化全体の構造を変えてしまったのだと思います。
それからこれは副次的なことですか、年2回(初期は3回)開催のコミケかスタートしたことで、マンガ同人活動かそれまでとは比べものにならないくらい活発になりました。つまりコミケ開催までに同人誌を作らなけれはならなくなることで、マイペースで作られていた同人誌の世界に「締め切り」か生まれてしまった。これは同人誌という狭い世界の中でのマンガ界にもたらした影響ですが、そのことによって同人誌の数が倍々ゲームで増えていき、同人活動か活性化し、広がっていきました。もっとも僕たち「迷宮」も、コミケ開催に合わせて同人誌を作らなければならなくなりましたから、そういう意味では自分で自分の首を締めてしまったわけですけど(笑)。「迷宮」といってもみんな怠惰な連中ですから、勢いに任せて「漫画新批評大系」を作り始めたようなところもあるんですが、自分たちでコミケを始めた以上は、そこで出さないわけにはいきませんから(笑)。僕がコミケから離れた後も「漫画新批評大系」は13号まで発行され、現在は休刊状態になっていますが、そこまで続けられたのもコミケがあったからだと思いますし。
だからそういう「同人誌製作支摺システム」としてのコミケを考えると、コミックマーケットを作って同人の創作活動を活性化させることかできたことは、僕自身としてはよかったのではないかと思っています。
《マンガ同人誌の創作活動を支えたいという思いは一つだった》
高宮
しかし、現在では参加サークル総数約3万5千、参加申し込みの数でなら5万サークルと、規模が大きくなるにつれて、初期のコミケが持っていた「スタッフ、サークル参加者、一般参加者が区別なく一体となったコミケ」という意識は薄れていっているように感じています。これは仕方のないことなのかもしれません。ただ、今でもコミケが最終日に終わるとき、会場にいる全員が拍手をして終わるようですが、スタッフも、サークル参加者も、一般参加者も、拍手をしているその一瞬「自分はコミケの一部なのだ」という意識を持つのだろうと思います。
このときコミケケは全員の拍手の音の中に、ほんのつかのま単なる市場でない「ぼくらの場所」という顔を見せるのかもしれません。コミケという一瞬の幻を見るためにみんなコミケに来ている。そんな気がします。もしそうだとしたら、そこにかううじてコミケを陪めた頃のDNAは残っているんだろうと、そう思います。

霜月
僕がコミックマーケットの代表をしていた初期のころ(1970年代後半)は、当日の開会前に各サークルに順番に挨拶に行き、お亙いの顔と顔が見える中で開催していました。当時は参加サークルの数も100とか200とか、今よりぜんぜん少なかったからです。コミケか終わった後で、参加サークルが提出してくれた見本誌をじっくりと読むことが、そのころの僕の密かな楽しみでもありました。いや個人的には、それこそがコミケを始めた最高の目的だったといってもいいかもしれません。
ところがサークル参加者や一般参加者の数が増え続けていくうちに、そういうことも思うようにできなくなり、準備がしんどぐなって気が重くなったりしていったこともまた事実です。コミケはコミュニーケーションの場でもあったはずなのに、拡大していく中でそれがしにくくなっていったという意味で、変質していったといってもいいかもしれません。すべての人に場を解放するという理念の元で、拡大路線は受け入れざるを得ない選択肢でもあったわけですが、その結果としての現在の参加者50万大規模のコミケというのは、そういう意味では初期のコミケとは別物になっていうところもあると思います。

亜庭
参加サークルの数が200とかを超えてくると、主催者としてはそれを全部に目端を利かせるということか難しくなる。数か増えていく中で、個々に丁寧な対応をしていくと、どうしてもこちらのマンパワーか不足せさるを得ないんですね。そのため機械的な対応にならさるを得ない部分があるんですけど、それはやはり望ましくないということで、ジレンマになりますね。

霜月
マンガ同人誌の創作活動を支えたいということで始めたコミケですが、蓋を開けてみるとファンクラブの会誌とか、パロティ作品の同人誌ばかりか増えていった。その中で創作同人誌かむしろ少数派になっていったことに対して、個人的には一抹の侘しさを感じていました。
だからといって代表か、自分の意志に沿わないからといってコミケを中止させるわけにもいきませんし、そもそもコミケは参加者全員のものであるわけですから。そのため代表辞退というかたちで僕かコミケを離れたのが、もう30年も前のことになります。それから二代目代表(米漂嘉博氏)の他界をきっかけに、今度はサークル参加するようになったわけですが、かつてのコミケとは別物のように思える一方、今のコミケは今のコミケとしてそれを否定しようとは思いません。ただやはり、僕にとっては初期のコミケのほうか印象深いですし、そこでは亜庭じゅんや高宮成河らの思い描いたような意味でのアゴラ(※1)が、一部であっても成立していたのではないかと思うんです。
某BBSに書き込んだ僕のウルジャンエッグ「コミケ誕生打ち明け話」への感想再掲

やや異論あり(笑)

この中で高宮氏は大阪にいて傍から見ていて日長にマンガ論を交わしてなかったようなコトを言ってますが、当時、高宮氏もいた江坂のチャンネルゼロもワイワイと週末になると騒いでいた拠点でした。

米澤氏の出てきた「アズ」や東京での「まんがのむし」や大阪ATCなどなど「群雄割拠」が時代認識としては正鵠な気がします。SFファンダムとマンガファン活動もまだ未分化の状態でしたし…SFファングループは、それこそ雲霞のように全国各地で熱いSF論やマンガ談義を交わしてました。

霜月氏の言うような「他とは突出していたグループ」では無いように思えます。
では、なぜ「迷宮」が活動の最前列に出てしまったのかというと…
漫大との論争(?)に勝ったこと、
コミケを始めたこと、
『マニア運動体論』で理論武装ができてブレが少なかったこと、
…あたりじゃないかなと睨んでます。

特に『マニ体論』への評価は、不当に低い気がします。
−まぁチトばかし70年代学生運動っぽい香りがして嫌悪感を感じる方もおられるかもしれませんが(笑)−
拙つぶやきからの転載
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コミックマーケット30周年史『コミックマーケット30’sファイル』PDFの公開
http://www.comiket.co.jp/archives/30th/
初期マンガファンダムに興味のある方は必見!
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このコミュ的には川崎までの推移はお勧めの記事で、トピに即して言えば霜月たかなか氏の「コミックマーケット創世記」のネタ本の1つです。

個人史的には80年中ごろに開催した「京都コミックコンベンション」の準備資料として大田区産業会館時代のコミケットレポートを渡したままになっていたので、久々に再読できました手(チョキ)

ともあれ、PDFで無料公開して頂いた準備会の皆様に感謝を。

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