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南京への道・史実を守る会コミュの東中野修道側準備書面(第4)

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平成18年(ワ)第9972号 損害賠償請求事件
原告 夏 淑琴
被告 株式会社展転社 外1名

準備書面(第4)

平成19年1月12日
東京地方裁判所 民事第10部 御中

第一 本件書籍(「南京虐殺」の徹底検証)の発刊

1.本件書籍の日本語版は平成10年8月に第一刷が発行され、その後、第五刷まで発行された。平成18年末までの総発行部数は約1万2900部である。頒布地域は日本国内である。
2.本件書籍は日本軍が昭和12年12月の南京占領前後に行ったとされる虐殺なるものの存否を実証的に検証しようとするものである。その中で被告東中野は、憶測を排し、史料に基づく実証的検討を行った。その集大成である本件書籍は広く江湖の迎えるところとなった。埼玉大学教授長谷川三千子氏は書評の中で、「諸説さまざまあるなかで、本当の意味での決定版と言えるのが本書です。」として、強く推奨されたのであった(『諸君!』平成13年7月号の「アンケート特集・近現代史を知る500の良書」)。
3.本件書籍が広く江湖に受け入れられたことが契機となって、いわゆる南京事件」についての実証的研究の気運が高まり、平成12年10月、日本「南京」学会が発足した。同学会には「南京事件」の研究をしている多くの研究者が参加することになり、被告東中野が同学会の会長に選ばれた。同学会の年報の編集委員には現在、被告東中野(亜細亜大学教授)のほかに、北村良和氏(愛知教育大学)、杉原誠四郎氏(武蔵野大学教授)、富澤繁信氏(同学会事務局長)、中垣秀夫氏(前防衛大学校教授)、原剛氏(元防衛研究所主任研究官)、藤岡信勝(拓植大学教授)らがいる。
4.同学会は定期的に学会誌『南京「事件」研究の最前線』(平成14年版〜平成19年版)を発行するほか、会員が多くの研究書や論文を世に問うている。そのような研究成果の一つが、平成15年7月発行の『南京事件の核心』(乙第6号証)である。これは、南京で発生したとされるすべての個別事件をデータベース化することによって、南京事件を具体的かつ正確に把握しようとする研究である。
 また、研究成果の一つとして、平成16年9月発行の『「南京安全地帯の記録」−完訳と研究』(乙第5号証)がある。これは、「南京安全地帯の記録」(これは徐淑希が南京安全地帯国際委員会の抗議文書をまとめて出版したものである。乙第1号証はその一部である。)の完全な翻訳である。個別事件に関する同時代の史料を正確な形で示そうとするものである。
 また、被告東中野らは、平成17年2月、南京事件の「証拠写真」と言われている写真143枚を取り上げ、総括的な検証を加えて、『南京事件「証拠写真」を検証する』(乙第7号証)を著した。この中では、いわゆるマギーフィルムについても検証している(同書の186〜196ページ)。
5.本件書籍の中国語版は平成13年、台湾の前衛出版社から発行された。発行部数は2000部、頒布地域は台湾である。
 本件書籍の英語版は、平成17年、日本の株式会社世界出版から発行された。発行部数はハードカバー版3000部、ソフトカバー版1250部である。頒布は国内の直接販売である。

第二「南京事件」の基本的事実に関する研究の到達点

1.いわゆる「南京大虐殺」とは、もともと中国国民党政府の言論報道統制の総本山であった「国民党中央宣伝部」が、昭和12年から13年にかけて南京の欧米人に書いてもらった戦争プロパガンダであり、当初民間人の死者1万2000人程度の宣伝を目標としていた。今日の中国政府が主張している「南京大虐殺」は、上記を源流として、昭和21年以降の東京裁判の過程で大きく誇張して創作されたものである。
 昭和12年当時、国民党の「中央宣伝部国際宣伝処」は、対外宣伝工作の要綱として、中国人は決して表に出ず外国人の協力者である「国際友人」を通じて宣伝を行うことに決めていた。当時マンチェスター・ガーディアン紙中国特派員であったH.A.ティンパーリ記者は、実は「国民党国際宣伝処」の顧問であり、首都南京の陥落に際し、情報戦の一環として反日プロパガンダ工作の一端を担っていた。さらに、当時、難民保護の名目で南京城内に結成されていた「南京安全地帯国際委員会」(以下「南京国際委員会」という。)の主要メンバーのうち、少なくともM.S.ベイツ教授、G.フィッチ師ら数人がティンパーリ記者と密接な関係を有し、意識するしないにかかわらず国民党の対日プロパガンダ戦に協力していた。
2.これらの欧米人エージェント達は、「国民党国際宣伝処」の資金により『戦争とは何か』(甲第4号証はその一部である。)及び『南京地区における戦争被害』という2冊の宣伝本を作成した。前者はティンパーリ記者がマンチェスター・ガーディアン紙特派員の肩書きで、後者は「南京救済国際委員会」の公式記録の名目で刊行した。
 その宣伝本のうち、『戦争とは何か』は、M.S.ベイツ教授及びG.フィッチ師ら(「南京国際委員会」メンバー)が上海にいたティンパーリ記者と連絡を取り合いながら、匿名で執筆を分担したことが判明している。また『南京地区における戦争被害』については、序文をM.Sベイツ教授が執筆し、本文を「南京国際委員会」書記であったL.スマイス教授が執筆している。
 前者はその内容において現実からかけ離れていた。それが戦争プロパガンダであったことは、この本が出版されたころ「国民党中央宣伝部」は毎日のように外国人記者との会見を開催しながら、その会見の際に、自ら「編印」したこの本の中の「南京大虐殺」をプレスリリースしなかったという事実、外国人記者も「南京大虐殺」を一度も問題にしなかったという事実によって裏づけられる。
 後者の実態は「国民党国際宣伝処」の資金で作成された宣伝用文書であったにもかかわらず、同書は表向き「南京救済国際委員会」が作成主体となって、復興支援活動を行うための基礎資料として戦争被害調査を行った旨を明記し、さらに序文でその中立性や学術性をことさらに強調するカムフラージュを行っている。同書には、1万2000人が城内及び城壁付近で殺されたというプロパガンダも記載されていたが、このプロパガンダの部分は後に、蒋介石政府の軍事委員会に直属する「特殊機関」ないしは「謀略機関」としての「国際問題研究所」が公式資料を基礎として作成した宣伝本において、4度も削除されている。
 上記のほか、前記の「国民党中央宣伝部」の「国際友人」たちは、外国人の新聞記者や「南京国際委員会」の他のメンバー、各国の大使館員といった一見中立的な第三者に対し、虚偽の情報や出所の怪しい情報を提供していた疑いを否定できない。なお、「南京国際委員会」が「日本軍の不法行為」を記録し告発したとされる「市民重大被害報告」は、そのほとんどがL.スマイス教授の編集とタイプによるものであり、そこには不法殺人の目撃は一件も記録されていなかった。それが南京のすべてであった。
3.「国民党国際宣伝処」は、上記の手段により、対日情報戦の一環として、戦場に溢れる流言蜚語や怪情報を、善意の第三者の口を借りてきれいにして流布するという、「情報洗浄」とも言うべき工作を展開していた。
 今日、南京事件について、「中立的な外国人からの告発」として紹介されるものは、そのほとんどが上述の指摘と無関係ではない。

第三 被告東中野の研究

 被告東中野は平成18年5月、長年月にわたる南京事件研究の到達点として、『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』(乙第4号証)を著した。
 被告東中野が研究者として南京事件に取組んで来た姿勢が、同書の冒頭に記されている。以下、同書7ページ以下の引用である。

《 灯台下暗しとはまさにこのことだった。南京事件を論ずるにあたって、もはや史料はほとんど出尽くしていると思っていたのであるが、肝心要の史料が抜けていた。私が見落としていたのは、日中戦争(昭和12年〜20年)の相手国だった中国でプロパガンダ戦を担っていた国民党中央宣伝部(以下中央宣伝部と略す。)の史料であった。
 蒋介石の国民党は当初から軍事的に劣勢であったため、昭和12年12月13日の南京陥落の直前から宣伝戦に総力を挙げていた。「現代の戦争は武力を用いることを除けば宣伝もまた勝敗を決する一つの要因である」と考えていた中央宣伝部は、「宣伝は作戦に優先す」を合言葉に、宣伝戦で日本を貶め、国際的に日本を孤立させるため、日本軍を非難する材料はないかと、手を尽くして探していた。
 昭和12年7月7日に盧溝橋事件が勃発し、8月13日に第二次上海事変が引き起こされ、12月13日に首都南京が陥落したあとの南京の日本軍を彼らが見逃すはずはなかったであろう。もしも南京の日本軍に瑕疵があったのであれば、それはどのようなものだったのか、陥落後の南京に最も関心を寄せ、最も正確な状況把握に努めようとしていたはずである。
 その記録を台湾の史料館で探さなければならないと思い立ったのは、今から3年前、平成15年(2003)のことである。今日、南京大虐殺の重要な根拠と言われている単行本『戦争とは何か』が、中央宣伝部の宣伝本ではないかと感じ始めていたころであった。
 陥落後の南京で日本軍による大虐殺があり、その数は「数万」「十万以上」「二十万以上」とも断定した東京裁判によれば、南京大虐殺はナチスのホロコーストにも匹敵するはずであった。ところが、多数の被害者がいるはずの中国においても、多数の関係者がいるはずの日本においても、有罪の判決を下した連合国においても、ナチスのホロコーストとは違って、長いあいだ、大部分の人々のあいだで南京大虐殺が話題にのぼることはなかった。教科書に記載されることもなかった。あたかも南京大虐殺は有名無実であるかのごとくであった。
 昭和50年(1975)3月に発行された『詳説日本史』(山川出版社)を開いてみても、そこには次のように記述されているだけだ。
「こうしたなかで1937(昭和12)年7月7日、近衛文麿内閣の成立直後に、北京郊外の盧溝橋で日中両国軍の衝突事件が発生した(盧溝橋事件)。
近衛内閣は不拡大方針を声明したが、現地軍は軍事行動を拡大した。いっぽう中国では、9月末に国民党が共産党と合作して抗日民族統一戦線を結成した。こうした抵抗に直面し、日本は大軍を投入して戦線を拡大したが、収拾の機会をつかむことができず、近衛首相は1938(昭和13)年1月には〈蒋介石の国民政府を相手にせず〉との声明を発した」
 このように南京大虐殺の記述はない。ところが、今ではわが国すべての教科書に掲載されている。その経緯を述べれば次のようになる。
 その嚆矢は、東京裁判から四半世紀あまりのちの昭和47年(1972)、日中国交回復の年に、本多勝一『中国の旅』が出版されたことである。これは朝日新聞記者の本多氏が前年に中国に行って取材し、「中国の旅」と題して同紙に連載した記事をまとめたもので、ベストセラーとなって大きな反響を呼んだ。
 本多氏は、「私の訪中目的は、すでに入国申請のときから中国側に知らせてあったように、戦争中の中国における日本軍の行動を、中国側の視点から明らかにすることだった………とくに日本軍による残虐行為に重点をおき、虐殺事件のあった現場を直接たずね歩いて、生き残った被害者たちの声を直接聞きたいと考えた」(傍点原文)と語っている。中国側の視点から、日中戦争で日本軍がいかに残虐な行為を行ったか、被害者の証言を集めたものであった。
 高度経済成長のもとで戦後の復興を成し遂げ、平和を享受していた日本人にとって、中国側の視点から書かれた「日本軍による残虐行為」は、始めて読む者には大きな衝撃であった。
 しかし、そのころは南京陥落から35年しか経っていなかった。私たちの身近なところに南京戦の参戦者が大勢いた。何も知らない大方の人たちは「まさか」という半信半疑の思いであった。しかも中国人証言者の話には、それを裏付ける確証が乏しかった。それでも中国人の悲痛な証言によって「日本軍による残虐行為」が日本人の心に刻まれたことだけは確かである。
 それから1年後の昭和48年(1973)に、大虐殺はあったのだと主張する人々によって英語版の『戦争とは何か−中国における日本軍の暴虐』が発掘され、大虐殺の根拠として提示される。
 この本は、上海にいた英国の『マンチェスター・ガーディアン』紙中国特派員ハロルド・ティンパーリ記者が南京在住の欧米人(匿名)の原稿を編集して、昭和13年(1938)7月にニューヨークやロンドンで出版したものであった。戦争の悲惨さを訴えるろいう趣旨のもと、日中戦争、とりわけ南京の日本軍の暴行を取り上げたという構成になっていた。まさに第三者的立場の欧米人が独自に出版した本と読者の目には映った。
 執筆者は匿名であったが、陥落前後の南京にいて一部始終を見たというアメリカ人の「手紙」と「メモランダム」が、主として南京の日本軍の殺人・強姦・略奪・放火を告発していた。
 この『戦争とは何か』の評価が一躍高まったのは、その後になって、匿名の執筆者がマイナー・ベイツ教授と宣教師のジョージ・フィッチ師であると判明したことからであった。特に、ベイツ教授は東京裁判に出廷し、日本軍の虐殺を主張していた人物であった。その彼が南京陥落から7ヶ月後に出た『戦争とは何か』のなかで、東京裁判における証言と同じことを主張していたことが明らかになったのである。これによって東京裁判の判決を裏打ちする、新たな証拠が提出される形となった。
 ベイツ教授は有名な宣教師にして社会的地位のある南京大学教授であった。
その彼が嘘の証言をするはずもなければ、嘘をつく理由もない、と思われた。したがって『戦争とは何か』の内容が検証されることはなかった。
 この『戦争とは何か』を典拠として、それから次々と南京大虐殺を主張する本が出た。たとえば南京大虐殺を体験したという被害者の証言を集めた本多勝一『南京への道』(昭和61年)や、兵士の手紙や日記などを中心にした下里正樹ほか編『南京事件京都師団関係資料集』(平成元年)、日本軍関係者の証言や陣中日記を中心とする南京戦史編集委員会編『南京戦史』ならびに『南京戦史資料集』(平成元年)などである。
 また平成4年(1992)には『戦争とは何か』の内容をさらに裏付ける南京事件調査研究会編『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』が出版される。この本には南京陥落3日後に南京大虐殺を報じたアメリカの新聞記事や『戦争とは何か』の出版をめぐる、上海のティンパーリ記者と南京のベイツ教授の往復書簡も収められていた。
 このころになると、『戦争とは何か』の内容は疑うことのできない不動の真実となっていく。第三者的立場の欧米人の現地報告が、日本人に、知られざる真実を突きつけることとなった。こうして、南京大虐殺は南京陥落当時から世界に知らされていたのだと主張されていく。
 平成8年(1996)に放映され、平成15年(2003)に再放送されたあとCD−ROM化された「NHKスペシャル『映像の世紀』JAPAN?」は、南京事件の項目を作って、「アメリカのニュース映画」と称する「パラマウント・ニュース映画」を放映し、「日本国民がいわゆる南京大虐殺を知るのは戦後の東京裁判で問題とされてからのことでした」という解説で締めくくっている。
 日本人はこれまで本当のことを知らされていなかったのであって、南京大虐殺はやはりあったのだという社会風潮が大きく広がっていく。有名無実の感のあった東京裁判の判決が、日本人にはあたかも真実の判決であったかのように刻印されていく。敗戦から37年後の教科書誤報事件まで記述されていなかった南京大虐殺が、こうしてそれ以後はほとんどの歴史教科書に記述されるようになった。
 たとえば平成13年(2001)発行の日本の中学校歴史教科書(日本書籍)は「1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍との衝突がおこり、宣戦布告もないまま、日本軍は中国との全面戦争をはじめた(日中戦争)。年末には日本軍は首都南京を占領したが、そのさい、20万人ともいわれる捕虜や民間人を殺害し、暴行や略奪もあとをたたなかったため、きびしい国際的非難をあびた(南京事件)」と記述し、その脚注として「日本人の多くは、この事件のことを戦争が終わるまでまったく知らされなかった」と記している。
 中国の教科書には「日本軍は南京を占領すると、南京の人民にたいして血腥い大屠殺を行い、天をも覆う罪行を犯た………日本軍は南京占領後6週間で、寸鉄も帯びない中国住民と武器を放棄した兵士30万人以上を屠殺した」(『中国歴史』第4冊、1997年)と書かれた。そして今や、昭和60年(1985)に建設された南京大虐殺記念館が、世界遺産として登録を申請されるまでになっている。
 以上が、敗戦から60年後の今日にいたるまでの南京大虐殺論の流れである。『戦争とは何か』が核となって、あるいは芯となって、南京大虐殺は大きくなったようだ。『戦争とは何か』がなかったならば、南京大虐殺が教科書に載っただろうか。それほどこの本は大きな影響力を発揮したのである。
 右に見たように経緯から、南京大虐殺を主張する人は必ずと行ってよいほど、「南京大虐殺は陥落当時から世界に知らされていた」と述べる。しかし、ちょっと待っていただきたい。たしかに、陥落直後にアメリカの新聞が「南京大虐殺物語」を報じていた。陥落から7ヶ月後に出版された『戦争とは何か』は南京の日本軍の暴行を目撃したという欧米人の記録を載せていた。したがって「南京大虐殺は当時から世界に知らされていた」という主張も間違いではない。
 しかし、或ることが「知らされていた」ということと、その「知らされていた」内容が事実であったか否かという問題は、別問題なのである。実は私もまた「南京大虐殺は陥落当時から世界に知らされていた」という不思議な言葉の力に引きずり込まれて、その区別がはっきりと付けられずにいた。研究者たちはこの峻別に立って、発掘された史料を学問的に検証しておくべきであった。
 近年の研究により、南京大虐殺が歴史的事実と決めつけられないことは誰の目にも明らかになっている。たとえば『戦争とは何か』の描く出来事を他の史料と付き合わせて検証してみると、本書第6章で論じるように、疑問や矛盾が続出する。また附録として『戦争とは何か』に収録されている「市民重大被害報告」を一つ一つ丁寧に読み進んでいくと、本書第5章で論じるように、そこに書かれた記録は伝聞としか言いようがなく、そのほとんどは確証がなかったのである。
 しかも『戦争とは何か』に深く関わっていた人たちが、まったくの第三者的ではなかったことが判明する。編者のティンパーリ記者は『近代来華外国人名辞典』によれば中央宣伝部の「顧問」であったことが、鈴木明『新「南京大虐殺」のまぼろし』(平成11年)や、北村稔『「南京事件」の探求』(平成13年)によって突き止められた。しかも、この『戦争とは何か』については、鈴木氏は、首都漢口の国民党中央宣伝部が「全力を挙げて………完成させた」と推定し、北村教授は『曽虚白自伝』や王凌■『中国国民党新聞政策之研究』を典拠に「宣伝刊行物」であったと論じた。
 戦後出版された『曽虚白自伝』には、中央宣伝部がティンパーリ記者に「お金を使って頼んで、本を書いてもらい、それを印刷して出版」したという曽虚白[南京大学教授、のちに中央宣伝部国際宣伝処処長]の証言が記されている。さらに次のことも判明した。『戦争とは何か』に執筆し、東京裁判でも証言していたベイツ教授は、実は中華民国政府の「顧問」であった
(本書118頁)。もう一人の執筆者ジョージ・フィッチ師も、『チャイナ・マンスリー』1940年1月号の「編集者ノート」によれば、彼の妻が蒋介石夫人の宋美齢と「親友」の間柄であった。彼らはいずれも国民党政府と何らかの関係にあり、『戦争とは何か』は第三者的立場の人たちが独自に出版した本ではなかった。
 ここでいよいよ、『戦争とは何か』は中央宣伝部の「宣伝本」ではなかったのかという疑惑が浮上してきたのである。
 常識的に考えると、ある事柄に疑問や矛盾があるかぎり、それが事実と判定されることはない。まして子供たちが学ぶ教科書への記載は許されることではない。しかし日本国政府が検定する全教科書に記述され、人々の心に刻印されてしまった言葉は、一朝一夕には消しがたい。たとえ疑問が指摘されても、それは推測に過ぎないではないかと一蹴されてしまう。事実を明らかにするには、南京大虐殺の核や芯となっている『戦争とは何か』がどのような性格の本なのか、実は国民党の「宣伝本」だったのではないかという推測の証明が、どうしても必要であった。
 ともあれ私は、「灯台下暗し」を反省して、遅まきながら当の中央宣伝部の史料を何としてでも探さなければならなかった。
 探し求めていた中央宣伝部の史料は、台北の国民党党史料館に眠っていた。
中央宣伝部には、程其恆編『戦時中国報業』(1944年)によれば、普通宣伝処、国際宣伝処、芸術宣伝処、出版事業処、新聞事業処、総務処があり、さらに専員室、指導員室、編審室、人事室があった。また付属機関としては、中央通信社や中央電影撮影場など9つの機関があった。そのなかの国際宣伝
処の資料の一つが、『戦争とは何か』に関係がある『中央宣伝部国際宣伝処工作概要 1938年〜1941年4月[民国27〜30年4月]』であった。冒頭に「枢機密」の印が押されている極秘文書は、見るのも手にするのも初めてであった。
(中略)
 先にも述べたように、私が中央宣伝部の史料を探し求めたのは、『戦争とは何か』が国民党の「宣伝本」ではないのかという推測の可否を確定するためであった。
 それは極秘文書中の「対敵課工作概況」のなかの「(一)対敵宣伝本の編集製作」(傍点筆者)の「1、単行本」によってついに判明した。
1、単行本
本書[国際宣伝処]が編集印刷した対敵宣伝書籍は次の二種類である。
A『外人目賭中之日軍暴行[外人目撃中の日軍暴行]』
 この本は英国の名記者田白烈が著した。内容は、敵軍が1937年12月13日に南京に侵入したあとの姦淫、放火、掠奪、要するに極悪非道の行為に触れ、軍紀の退廃および人間性の堕落した状況についても等しく詳細に記載している。
 「田白烈」は「ティンパーリ」の漢字表記であり、『外人目撃中の日軍暴行』は英語版『戦争とは何か』の漢訳版であった。ティンパーリ編『戦争とは何か』は、「本処[中央宣伝部国際宣伝処]が編集印刷した対敵宣伝書籍」とあるように、中央宣伝部が編集製作した2冊の宣伝本のうちの一つであった。ちなみにBとして挙げられたもう1冊は、イタリア人が書いたという『神の子孫は中国に在り』(本書61頁)である。
 しかし「本処が編集印刷した」とは、ただ単に国際宣伝処が英語版を翻訳したということを意味するのではないか、そのような異論も考えられよう。
そこで念のために付言しておくが、英語版の『戦争とは何か』も、漢訳版の『外人目撃中の日軍暴行』も、ともに1938年(昭和13)7月の出版であった。同時出版の事実と、先にも引用したように中央宣伝部がティンパーリ記者に「お金を使って頼んで、本を書いてもらい、それを印刷して出版した」という曽虚白処長の回想を考慮に入れると、その異論は成り立たないであろう。
 以上のことから、『戦争とは何か』は中央宣伝部の製作した「宣伝本」だったことが確認された。長いあいだ南京大虐殺の根拠となっていた『戦争とは何か』とその巻末に収録された資料は、戦争プロパガンダの視点から見直さねばならなくなったのである。
 こうして極秘文書発掘の目的が達せられた。誤解のないように言っておくが、『戦争とは何か』が中央宣伝部の製作した宣伝本だからと言って、それがただちに南京大虐殺はなかったということを意味するものではない。したがって、私はそこで極秘文書から離れ、あとは戦争プロパガンダの視点をも加えながら他の史料を分析していくつもりであった。
 ところが、平成15年(2003)1月の第一回の訪台で入手した極秘文書を見直しているうちに、ふと不思議なことに気づかされた。『戦争とは何か』には「度重なる殺人」といった描写が頻出するにもかかわらず、前述の「対敵課工作概況」を読んでも、『戦争とは何か』を要約した記述のなかに「虐殺」はおろか「殺人」という言葉すら見当たらないではないか。誰が『戦争とは何か』を要約しようが、この本には「虐殺」「殺人」が描写されていると要約されて当然であったのではないか。
 また、第一回目の訪台時に複写できた『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』のB4サイズ43枚のコピーのすべてを丁寧に見ても、どこにも南京の「虐殺」「殺人」が出てこない。南京で大虐殺があったのであれば、中央宣伝部のどの課もこれを大いに宣伝したと極秘文書に記していて当然であったのに、それがなかった。何とも不思議であった。これはいったい何を意味するのか。
私は新たな疑問と矛盾にとらわれてしまったのである。
 そこで以上の疑問を解くために、私は再び台湾に赴いた。第一回目の史料収集は国民党党史料館の好意で、たまたま43枚をコピーできたが、第二回目以降は、公開文書であるにもかかわらず、コピーはできなかった。そのため私は手書きで筆写した。手書きによる筆写は時間がかかるため、第三回目の訪台時に台湾の知人に頼み、パソコンに入力してもらった。こうして中央宣伝部国際宣伝処の極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』はすべて揃った。
 貴重な史料を入手した私は、極秘文書を読み解きながら、従来の史料をもう一度新たな視点から解釈し直すという、これまで試みられたことのない作業に取りかかったのである。本書はその研究と分析の成果である。》

第4 本件書籍の記述が名誉毀損にあたらないこと

1.被告東中野は、何らかの形での新路口事件の存在および被害者「8歳の少女」の存在を前提としながら、「マギー師が昭和13年2月10日ころフィルム解説文を書くにあたり認識していた『8歳の少女』は原告と同一人物である」か否かについての判断をした。
 被告東中野は上記の点について否定の判断をし、本件書籍中で「8歳の少女」と夏淑琴とは別人と判断されると述べた。
 本件書籍の以上の記述は、フィルム解説文の文意の解釈について被告東中野の見解ないし評価を述べたものであり、このような評価行為は定型的に名誉毀損行為の概念に該当しない。被告準備書面(第2)の6ページにいう定型レベルの1にあたるにすぎないものである。
2.本件書籍の以上の記述は被告東中野の見解ないし評価を述べたものではあるが、読みようによっては、「8歳の少女は原告と別人である」との事実を摘示したと受け取られることがあるかもしれない。
 そうであるとしても、本件書籍の記述はその摘示事実そのものが原告の名誉を毀損する内容を有しておらず、このような事実摘示行為は定型的に名誉毀損行為の概念に該当しない。被告準備書面(第2)の6ページにいう定型レベルの2にあたるにすぎない。
3.原告の主張(原告準備書面(1)の3〜4ページ)によれば、本件書籍の記述は一般読者の判断基準で判断すれば、原告に対する名誉毀損行為に該当するという。原告はその要件事実として次のとおり指摘している。
 すなわち、?原告は南京事件で祖父母、両親、2人の姉と妹を殺害され、自らも3箇所銃剣で刺され、ようやく生き長らえた。?原告はその後の生活も孤児同然の苦しい生活を強いられて来た。?原告は二度と戦争を繰り返してはならないとの思いから自らの体験を話すようになった。?被告らは、原告とフィルム解説文中の人物とは別の人物であると記述した。?その記述は、上記?の事実について原告が真実を語らず、更に来日してまで虚偽の話をしていると言っているのと同じことである。ーーというのである。
 原告の以上の主張に対する被告らの認否は次のとおりである。
 ?は知らない。何らかの形での新路口事件はあったと言えるかもしれないが、「日本軍の第114師団兵らが新路口の夏家と哈家の人々に対し違法に殺人及び強姦に及んだ」との点については厳格な証明が困難であると考えられる。
 ?及び?は知らない
 ?は認める。 
 ?は否認する。本件書籍の記述は新路口事件の核心的部分について疑問を呈するものであるが、原告がその新路口事件の関係者であったかどうかについては何も記述していない。原告が虚偽の話をしていると書いたのではない。
被告東中野は「原告は事実を語るべきである」とは書いたが、虚偽の証言を行っていると誹謗したのではない。
 新路口事件の内容は、いまだ証明されてはいない。その内容について一般的な共通認識が世間にあるわけでもない。前提として新路口事件の内容が定まってもいないのに、原告の供述が正しいとか虚偽だとかの批評ができるわけでもあるまい。本件書籍の読者は?の事実が真実かどうかを知らないのが普通であるから、本件書籍の?の記述を読んでも原告供述に対する誹謗であると受け取ることはない。

第5 違法性不存在の抗弁

1.被告東中野は亜細亜大学教授として社会思想史を講ずる研究者である。また同人は平成12年に設立された日本「南京」学会の会長でもある。被告らが著わした本件書籍は、現在も論争が続いている歴史上の南京事件についてその真相究明のために書かれた研究書である。学問研究者にはその研究成果を発表する自由について特別の保障が与えられなければならない。
 前記第3の「被告東中野の研究」において述べたとおり、被告東中野は真摯に学問研究に取り組んで来た。
 仮に本件書籍の記述によって原告のなにがしかの社会的評価が低下するということがあり、その点において微弱ながらも違法性が認められることがあるとしても、学問の自由の保障の下では、本件のような訴訟手続によって損害賠償責任を課することは、明らかに相当ではない。
 意見ないし論評については、その内容の正当性や合理性を特に問うことなく、人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものでない限り、名誉毀損の不法行為が成立しないものとされている。意見ないし論評を表明する自由は民主主義社会に不可欠な表現の自由の根幹を構成するものである(最高裁平成16年7月15日判決)。
2.本件書籍中の原告に関する記述は次のとおりである。
《(1)「8歳の少女」と夏淑琴とは別人と判断される。(247〜248ページ)
(2)「8歳の少女(夏淑琴)」は事実を語るべきであり、事実をありのままに語っているのであれば、証言に、食い違いの起こるはずもなかった。(248ページ)》
 このような表現は、人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものではない。
 これに対し、原告代理人の被告東中野に対する言い方は次のとおりである。
《(1)被告東中野は、あえて原告夏淑琴をニセモノに仕立て上げて誹謗中傷するために、故意に誤訳をした。(原告準備書面(1)19ページ)
(2)被告東中野は、確信犯的に誤訳をして原告をニセモノにでっち上げた。(同21ページ)
(3)被告東中野は、南京大虐殺の事実を何としても否定しようとの卑しい心根から、意図的に誤訳を行ってまで原告をニセモノ被害者に仕立て上げた。(同24ページ)》
 このような人身攻撃に及ぶような言い方は名誉毀損にならないのであろうか。原告代理人のこのような言い方であっても名誉毀損に該当しない、すなわち違法性がないというのが原告主張の趣旨なのであろう。そのような判断基準に従うとすれば、論ずるまでもなく上記本件書籍の記述は名誉毀損に該当せず違法性がない。

第6 真実性の抗弁

1.本件書籍の記述は、日中戦争の歴史的経緯という公共の利害に関する事実について、その真実を学問的に究明するという専ら公益を図る目的を持つものである。また、その記述は、もっぱら客観的実在としてのフィルム解説文の記述を意見ないし論評の前提としている。ジョン・マギー師による「フィルム解説文」は昭和13年2月10日付で南京ドイツ大使館公文書綴「日支紛争」の一部分として収録されているものであり、その存在自体は真実である。そして本件書籍の記述においては、人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱してはいない。よって本件記述は違法性を欠く。
2.本件書籍の記述が意見ないし論評でなく、「8歳の少女は原告と別人である」との事実の摘示であるとしても、その摘示事実は次記のとおり真実であり、本件記述は違法性を欠く。
 上記の摘示事実が真実である理由はすでに被告準備書面(第2及び第3)において述べたところであるが、まとめると次のとおりである。
 第1に、本件書籍の246〜247ページに述べた第9の疑問点の記述のとおり、フィルム解説文中の「7ー8歳の妹」は刺殺されたと考えられる。
そのように解釈するのが相当である。フィルム解説文中の生存した「8歳の少女」は、シア夫婦の子である刺殺された「7−8歳の妹」とは別人であると解される。したがって「8歳の少女」の姓はシア(夏)ではなかった。
 第2に、原告が昭和5年(西暦1930年)ではなく昭和4年(西暦1929年)の5月5日生まれであるとすれば、新路口事件当時(昭和12年12月)は中国式の年齢(数え年)で9歳であった。当時の中国では数え年で年齢を言うのが一般的であって、満年齢の8歳を用いることはなかった。その原告が仮にマギー師と面談した少女であったとすると、面談時(フォースター師の手紙の記載によると昭和13年1月26日)すでに数え年で9歳であった(当時中国の旧暦では昭和13年1月31日が旧正月でありその日からは10歳であるが、その5日前はまだ9歳と称していたと考えられる。)
原告が、自分の歳を「7−8歳」(数え年)と説明することは、あり得ない。
フィルム解説文中に記録された人物10名の年齢はいずれも数え年による表示のはずである(数え年を満年齢表示に換算するのは不可能に近い。マギー師は聞き取ったままの数え年の年齢を書いたと考えられる。)。フィルム解説文中の「7−8歳の妹」(数え年)が原告である可能性は全くない。「数え年9歳の原告」=「数え年7−8歳の妹」=「数え年8歳の少女」という等式は成り立たない。原告代理人は、「原告は自己の正確な誕生日(5月5日)を知らない。」というが、仮にそうであっても、それは数え年による年齢表示において正確な誕生日はあまり意味がないというだけのことである。
原告が自分の年齢を言えなかったということはあるまい。
 第3に、マギー師が「8歳の少女」との面談後まず最初に書いた日記(昭和13年1月30日付)では、次のように記録されていた。「家主ハ−の8歳になる娘は重傷を負いましたが、両親の死体に隠れて助かりました。さらに4歳になる妹も隠れていて助かり、二人はその後14日間も11人の遺体と、中国人がゴーバ(■巴)と呼ぶ鍋の底の焦げ付いた飯だけで生き延びていました。」(滝谷二郎『目撃者の南京事件−−−発見されたマギー師の日記』85〜86ページ。家主の名前については原文の英文タイプの文字がHa(ハー)なのかMa(マー)なのか判読がむつかしいが、現在ではHa(ハー)と読むのが正しいと解釈されているので、上記引用においてはハーと訂正して引用している)。すなわち、2人の姉妹が生き残ったとされ、その姉の方は家主哈の8歳になる娘であったとされている。

第7 相当性の抗弁
1.本件書籍の記述は、「8歳の少女と原告とは別人と判断される。」との評価を述べたにとどまるものであり、そもそも名誉毀損の要件に該当せず、かつ違法性もないものであるから、帰責事由としての有責性の有無を検討する必要はない。しかし原告は名誉毀損に該当し違法性もあると強弁しているので、以下において念のため、判例のいう免責要件(相当性の抗弁)について検討する。
2.前記のとおり、マギー師が昭和13年2月10日ころフィルム解説文を書くにあたり認識していた「8歳の少女」は原告ではない。その理由は前述第6に記載したとおりであって、被告東中野は最も早い時期の最も詳細な原史料をその意見ないし論評の基礎としている。その史料解釈の論理的思考は極めて妥当である。被告東中野が8歳の少女は原告と別人であると判断し、そのように信じたことには相当の理由がある。
 また、被告準備書面(第3)の16ページにおいて指摘したことであるが、本件書籍が発行された平成10年当時、本件書籍以外の刊行物においても、フィルム解説文にいう「8歳の少女」は原告ではないと解釈されていた。
 すなわち、本多勝一氏は、「7−8歳の妹」は「8歳の少女」とは別人であって銃剣で刺殺されており、「8歳の少女」は家主哈(マー)の娘であると解釈していた(平成3年9月、朝日新聞社刊「貧困なる精神G集」110ページ、同書掲載の「ナチ=ドイツをも驚愕せしめた南京大暴虐事件」記事、
乙第8号証)。該当部分の記載は次のとおりである。

《同じ部屋にもう一人の7、8歳の妹がいたが、これも刺殺された。家主「マー」の子供も犠牲になった。2歳の子は刀で頭を斬りさかれ、8歳の娘は重傷を負ったが、母親のある隣室まではっていった。》
 また、笠原十九司氏も、平成7年及び平成8年発行の著書『南京難民区の百日』(甲第16号証)において、本多勝一氏の説に賛同しつつ、本多勝一氏の前記著書(「貧困なる精神G集」朝日新聞社)を引用している。関連部分を摘示すれば次のとおりである。

《?日本兵は、八歳と三歳あるいは四歳の二人の子どもだけを残してその家にいた者全員、一三名を殺害した。これは、八歳の少女(夏淑琴)が話したことを彼女の叔父と私を案内した近所の老女に確認してチェックした事実である。(甲第16号証254ページ)
(略)
?殺害されたのは、さらに夏淑琴の父と馬という姓の家主とその妻と彼らの七、八歳の女の子である。(甲第16号証255ページ)》

 本多氏も笠原氏も、「8歳の少女」と「7−8歳の少女」をはっきりと区別しており、「7−8歳の少女」は殺害された(つまり刺殺された)と明言しているのである。このことは、被告東中野が本件書籍で記述した内容と同一の見解が平成10年当時に一般的に存在したということであり、被告東中野が同様に考え信じたことには相当の理由がある。
 付言すれば、笠原氏は平成17年8月19日に発行された『南京難民区の百日』の岩波現代文庫版(甲第17号証)では、上記?の部分を書き変えており?の部分はない(295ページ以下)。「さらに兵士たちは、部屋にいたもう一人の7、8歳になる妹を刺した。」とし、その後、この「7、8歳になる妹」は登場せず、「傷を負った8歳の少女」となり、これは夏淑琴さんのことであるとして記述されていくのである。同名の前の著作で刺殺されたと記述したのに、文庫版では単に刺されて傷を負っただけと変えた理由は何も書かれていない。ただ、文庫版の巻末に、「本書は1995年6月、岩波書店より刊行された。現代文庫版では、南京事件研究の新成果を活かして全章に加筆し、補論は書きおろした。」と書かれているだけである。

3.被告東中野は本件書籍において、新路口事件の核心としての「日本軍の第114師団兵らが新路口の夏家と哈家の人々に対し違法に殺人及び強姦に及んだ」事実は厳格な証明が困難であるとの判断に立って、新路口事件の存在に種々の疑問を投げかけた。原告はこのことまでも名誉毀損だと主張するのだろうか。原告の主張がその点までをも含むのであれば、原告はまず原告自身において新路口事件の存在を立証しなければならないはずである。原告はこの点について、本多勝一氏(甲第18号証)、笠原十九司氏(甲第16号証、甲第17号証、甲第20号証)、星徹氏(甲第14号証)、及び原告本人(甲第21号証)の供述をもって立証ができていると強弁するのだろうか。
 そうであるとすれば、被告らとしてはその点についても相当性の抗弁を提出しなければならないであろう。
 新路口事件に対して被告東中野が持つ疑問は被告準備書面(第3)の6〜7ページに述べたとおりである。被告東中野がそこで指摘したことがらは論理上当然の指摘ばかりであり、内容も正当である。南京事件研究者として当然の指摘である。この点においても被告東中野が指摘の内容を真実と信じた
ことには相当の理由がある。

コメント(1)

正しい方に投稿し直し(^^;

「第6 真実性の抗弁」部分にコメントしておきましたので、ご笑覧ください。

http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=4017;id=sikousakugo#4017

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