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SGIコミュの秋期彼岸勤行法要での名誉会長のスピーチ  〜海外でがんばる同志のために〜

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秋期彼岸勤行法要での名誉会長のスピーチ


◆◆◆ 坊主や儀式のためでなく「人間のため」に仏法はある
    宗教革命の太陽よ 輝け

◆◆◆ 真の「彼岸」は現実に勝つ〔仏道修行〕の中に
    妙法の信仰が最高の追善

◆◆◆ 大聖人は御断言「題目の光」は全宇宙を照らす


【名誉会長のスピーチ】

 一、実りの秋を迎えた。
 「健康第一」で、生き生きと、黄金の一年の総仕上げを飾り、栄光の人生の年輪を刻んでまいりたい。
 きょう(23日)は、「彼岸」の中日にあたる。
 私も、代表の同志と、東京牧口記念会館で、全同志の先祖代々の諸精霊、また、亡くなられた全ての会員の方々の追善回向を、懇(ねんご)ろに行わせていただいた。
 秋谷会長が出席した東京上野平和講堂をはじめ、全国の会館で秋季彼岸勤行法要が行われ、また各地の墓園(ぼえん)にも多くの方々が墓参(ぼさん)に見えておられる。
 この「彼岸」の意味について、真剣な求道の息吹に燃える、新入会の青年たちから、質問が寄せられている。
 「彼岸」という言葉は知っていても、その意義については、知っているようで知らないことも多い。これまでも何度か紹介してきたが、この機会にあらためて少々、論じさせていただきたい。

◆ 妙法の大船(たいせん)で幸福の岸へ

 一、「彼岸」とは、梵語(ぼんご)の“パーリマン・ティーラン”の漢訳で、文字通り、「彼方の岸」「向こうの岸」という意味である。
 仏法では、迷いに満ちた現実の世界を「此岸」(しがん=こちらの岸)に譬える。それに対して、悟りの世界、仏道修行の完成を、「彼岸」という言葉で表すのである。
 すなわち、真の「彼岸」、成仏の完成に至るためには、現実の迷いや悩みに打ち勝つ「修行」が不可欠なのである。この点を忘れてはならない。
 ゆえに、“坊主に拝んでもらわなければ、お彼岸にならない。供養にならない“などという考えは、完全な“迷信”に過ぎないのである。
 <大乗仏教における菩薩の修行法に「六波羅蜜(ろくはらみつ)」がある。この「波羅蜜」は梵語の“パーラミター”の書写で、「到彼岸」(とうひがん=彼岸にいたる、の意)と漢訳される>
 日蓮大聖人は、「生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず」
(御書1448ページ)と仰せである。
 妙法を持(たも)ち、広宣流布に生き抜く創価学会員こそ、「生死の大海」に満ちる苦悩の荒波を乗り越えて、「幸福の彼岸」「勝利の彼岸」へ到達することができるのである。
 一、また、「回向(えこう)」の本義について、大聖人は御義口伝で次のように述べておられる。
 「今日蓮等の類い聖霊(しょうりょう)を訪(とぶら)う時法華経を読誦し南無妙法蓮華経と唱え奉る時・題目の光無間(むけん)に至りて即身成仏せしむ、廻向の文此れより事起るなり」(同712ページ)
 妙法の題目は、全宇宙を照らしゆく力を持っている。その慈悲の大光(たいこう)は、無間地獄(むけんじごく)にまで至るとの、大聖人の大確信である。
 いかなる権力でも、いかなる財宝でも、いかなる科学でも、成し得ないことがある。
 それが一生成仏であり、故人への追善回向である。
 回向の根本は、自分自身が御本尊を信じ、広布に励むことである。自身が仏道修行で得た功徳を「廻(めぐら)し向ける」ことが、「回向」の本義であり、真の追善となるのである。
 ともあれ「彼岸」にせよ、「回向」にせよ、「自分自身の仏道修行」という一点を忘れてしまえば、本来の意義から外れてしまう。
 私たちは最高無上の生命の軌道を、久遠からの同志とともに、歓喜に燃えて歩んでまいりたい。

◆ 彼岸、は日本独特の風習から

 一、さらに「彼岸」の意義について考えたい。
 日本には、「春分の日」と「秋分の日」を中心に、先祖の供養や墓参などを行う「彼岸会(ひがんえ)」がある。
 実はこの行事は、インドや中国から伝来したものではなく、日本独特の風習である。
 聖徳太子の時代から始まったとも言われ、『源氏物語』にも「彼岸」の言葉が見られる。
 「春分の日」「秋分の日」は、大きく見れば、昼と夜の長さが等しくなる、地球の運行の“リズムの節目(ふしめ)”にあたる。
 また、日本人にとっては、「暑さ寒さも彼岸まで」などと言われるように“季節の節目”である。
 この日には、古代、農耕儀礼が行われていたようであり、それが仏教と結びついて、祖先を供養する「彼岸会」になったのではないかという説がある。
 また、太陽に豊作を願った「日願(ひがん)」が由来ではないかとも言われる。
 ともあれ、御書には、悟りの世界を表す「彼岸」は使われているが、いわゆる年中行事としての彼岸会については触れられていない。
 私どもが行う彼岸法要については、「随方毘尼」(ずいほうびに=仏法の本義に違わないかぎり、各地域や時代の風習に随うべきである)の考えのうえから、意義づけるべきであろう。
 そして、春分・秋分の日という地球のリズムに則(のっと)って、会館等に清々(すがすが)しく集い合い、異体同心の広布の友と行う勤行・唱題こそ、大聖人の御心に最も適(かな)った彼岸の法要であることを確認しておきたい。


◆◆◆ どこか遠くではない
    「今いるその場で」必ず幸福に!!


◆ 広布へ戦えば故人をも仏に

 一、大聖人は、在家の門下である曾谷教信(そやきょうしん)が、毎朝、亡き父のために自我偈を読誦(どくじゅ)し、追善回向していることについて、「是こそ実の孝養にては候なれ」(同1051ページ)と讃えられた。
 この曾谷教信のことを、「法蓮(ほうれん)上人」(同1047ページ)という尊称で呼ばれている。
 また、南条時光に、大聖人は仰せである。
 「(自分にとって大事な人々から信仰を反対されたり、大きな難が来るであろう。その時こそ、諸天の加護が必ずあると信じて)いよいよ強盛に信心していきなさい。
 そうすれば(父上の)聖霊(しょうりょう)は仏になられるであろう。(父上が仏に)なられたならば、来られて、(あなたを必ず)守られるであろう」(同1512ページ、通解)
 難と戦い、難を打ち破る。その勇気ある信心に、計り知れない功徳がそなわっていく。
 その人は、亡くなった家族をも、皆、成仏させることができる。
 そして、すべての縁する人を救い、皆から守られていく。
 目指すべき真の「彼岸」は、どこか遠くにあるのではない。私たちが日々、勤行・唱題し、広宣流布に励みゆく実践こそ、真の彼岸の供養となる。大聖人の仏法においては、「常彼岸(じょうひがん)」なのである。
 一、大聖人の仏法の真髄は、「今いるこの場所で、必ず幸福になる」信心である。
 「法華経を持ち奉る処を当詣道場(とうけいどうじょう)と云うなり此(ここ)を去って彼(かしこ)に行くには非(あら)ざるなり」(同781ページ)である。
 現実を離れて、遠い理想郷を求めるのではない。
 この世界で妙法を広宣流布して、立正安国を進める。そしてわが国土、光り輝く寂光土(じゃっこうど)としていくのである。
 要するに彼岸」といっても、特別な日を決めて坊主に拝んでもらう必要など、まったくない。
 私たちの前進は、旧来の、坊主のため、儀式のための宗教を根本的に転換し、「人間のための宗教」「民衆のための仏法」を確立する戦いである。
 いわゆる“葬式仏教”の暗雲を晴らして、闇を裂いて、「宗教革命」の赫々(かっかく)たる太陽を昇らせるのである。
 民衆自身が最高の生命哲学に目覚め、生死の迷いと苦悩を悠々と乗り越えていく――その確かな軌道こそ、大聖人の仏法であることを、晴れ晴れと確信していただきたい。

◆ 悪坊主を糾弾(きゅうだん)!

 一、ご存じの通り、戸田先生の時代の聖教新聞「寸鉄」でも、容赦なく坊主を弾呵(だんか)している。
 たとえば、お盆などで坊主が経を唱える真意はどこにあるのか。
 それは「檀家の先祖を供養する事かねそれとも(自分が)供養されることかね」と一刀両断である。
 また先生は、高らかに宣言された。
 「我々は大聖人を信じ、大聖人の教えを行じているのだ。この原点を忘れたら大変なことになる。“途中“の僧侶などを盲信したら、すべてが狂ってしまう」
 赤誠(せきせい)の供養を尽くし抜いた学会の大恩を裏切り、大聖人に違背したのが、悪逆非道の日顕宗という邪宗門であった。
 法華経や御書の英訳をしてくださった、不世出の大翻訳家ワトソン博士は、私との語らいの折におっしゃっていた。
 「仏教では、個人が自分で経を唱え、仏に直結することができます。
 更に、個人の中に『仏性』があると説かれていることから考えても、そこに僧侶が介在すること自体、おかしいと思います」
 オランダの人文主義者エラスムスは、痛烈に綴っている。
 「外面的な儀礼をやたらと信用し、これによりかかって、ほんとうの信仰心をいい加減にしている連中が、わんさと目につくぜ」(二宮敬訳「対話集」、『世界の名著22エラスムストマス・モア』所収、中央公論社)
 イギリスの女性作家シャーロット・ブロンテの小説では、寄付の増額を無理強(むりじ)いする聖職者に対して、主人公の女性が言い放つ。
 「まるで思いやりがないわ。施しのお返しに非難するなんて、場違いもいいところよ」(都留信夫訳「シャーリー」、『ブロンテ全集』所収、みすず書房)
 さらに、傲慢(ごうまん)な聖職者を庶民が批判する場面がある。
 「おらは高慢なのは大嫌いだ」
 「おらたちは自分を目上だと思いこんでる奴から無礼な言葉を聞くのは耐えられねえよ」(同)
 洋の東西を問わず、どれだけ多くの真面目な庶民が、恩知らずで傲慢な坊主にいじめられ、苦しめられてきたことか。
 ドイツの文豪ゲーテは謳った。
 「ぼくの行手をふさぐ僧侶の一味は/どうしてみたって救いようがない」(高安国世訳「西東詩集箴言の巻から」、『ゲーテ全集第1巻』所収、人文書院)
 「真の功績もあの手合にかかると攻撃の種になるのか/いかさまが神聖な手段としてまかりとおる」(飛鷹節訳「穏和なクセーニエ」、『ゲーテ全集1』所収、潮出版社)
 どの時代にも、心ある人々は皆、宗教の改革を希求してやまなかった。
 イギリスの哲学者ラッセルは、「宗教的生活は職業的僧侶階層という夢魔(むま)から解放されないかぎり、活きたものとはなりえないし、精神を真に支えるものともなりえない」と訴えている(市井三郎訳「社会改造の諸原理」、『世界の大思想26ラッセル』所収、河出書房新社)。
 なぜ、日顕宗が堕落してしまったのか。それは、広宣流布という大目的に生きることを忘れたからである。
 戸田先生はおっしゃった。
 「金がたまれば、必ず威張り、贅沢をする。それどころか、広宣流布を断行しゆく正義の団体である学会を、切り捨てていくだろう。残酷にも、愚劣にも、卑劣にも!」
 そして、学会を見下す坊主に対して、命の底から激怒された。
 「悪とは妥協せず、徹底的に戦うのだ!学会員を馬鹿にする者は誰であろうと、私は許さない!」
 その通りに、時を逃さず、弟子である私たちは立ち上がった。
 そして新たな「宗教革命」の歴史を堂々と残し、世界の良心から信頼を勝ち得てきたのである。

◆ 人生を飾るには精神的な成長を

 一、先ごろ、車で八王子市内を回った。南浅川(みなみあさかわ)の岸辺で、鳥たちがきれいに隊列を組みながら、幾度となく旋回を続ける光景に心をひかれ、カメラを向けた。
 雲が垂れ込め、近づく台風に備えているようにも見えた。
 ふと、アメリカの哲人エマソンの詩が、胸に浮かんだ。
 「小鳥が、強風に羽毛を整えるように、
  私も、時の嵐に身支度を整える」
 これは、私が対談を進めているソロー協会のボスコ博士が紹介してくださった。「終焉(しゅうえん)」と題された詩である。
 「慎(つつ)ましい信仰心よ、恐怖を追い払え、
  真っ直ぐ進め、怪我はしないぞ。
  巡航に価する港は近い。
  それに一波一波が喜んでいる」
 偉大な知性は、例外なく、「生死」という根本の課題を真摯(しんし)に見つめるものだ。
 私が対談の連載を重ねた、平和研究の母エリース・ボールディング博士は、80代にしてなお意気軒高である。その心境をこう語っておられる。
 「人生の最終の歳月は精神の旅となりますから、人間は精神的な成長を自覚し、それに留意することが大切であると思います」
 「私には、死への恐れはまったくありません。死に対しては精神的に備えることが重要であると思います。死は精神の旅路です」
 まったく同感である。
 だからこそ、確固たる信仰が重要なのである。
 大文豪トルストイは日記に綴った。
 「死は新しい、未だ知られざる、全然新しい、他の大きな歓喜への転換である」(ビリューコフ著、原久一郎訳『大トルストイ II』頸草書房)
 私とともに対談集『社会と宗教』を発刊した宗教社会学者ブライアン・ウィルソン博士は、しみじみと述懐しておられた。
 「明らかに、死に対して人間を強くするには、自己訓練の姿勢、まじめな精神と目的観、自らの生命に対する責任感等を培(つちか)わせることが必要です。こうした資質を涵養(かんよう)することは、それ自体が、一生涯かかる仕事なのです」
 高潔な碩学(せきがく)がたどり着かれた、探究の一つの帰結であった。
 そして博士ご自身が、この言葉通りの崇高な人生を飾られたのである。
 このウィルソン博士が最大に評価してくださっていたのが、創価の充実した信仰生活であり、宗教運動であった。
 毎日の学会活動の中にこそ、人生を完成させゆく究極の道がある。
 大聖人が、「我れ等は仏に疑いなしとをぼせば・なに(何)のなげ(歎)きか有るべき」(御書976ページ)と断言されている通りである。
 この確信に燃えて、諸天善神を揺り動かしていくことだ。
 そして、油断なく、絶対に無事故で、価値ある一日また一日を積み重ねていただきたい。

◆ 極悪(ごくあく)を責め抜け

 一、一生成仏のために、大聖人が繰り返し、厳しく仰せになったことがある。
 それは、広布の敵を責め抜く重要性である。
 「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀(しだん=師弟)ともに無間地獄は疑いなかるべし」(同1056ページ)
 「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし」(同ページ)こうした御聖訓は、枚挙にいとまがない。
 仏法は、永遠に勝負である。ひとたび広宣流布の大闘争を開始した以上、断じて負けるわけにはいかない。
 すべては変化、変化の連続である。魔を見破り、完壁に打ち破っていかなければ、その毒が回ってしまう。
 大聖人ご自身が、「今に至るまで軍(いくさ)やむ事なし」(同502ページ)、「日蓮一度もしりぞく心なし」(同1224ページ)、「いまだこりず候」(同1056ページ)等々と仰せである。
 そして、「いよいよ・はりあげてせむべし」(同1090ページ)と、戦って戦い抜く精神、攻めて攻め抜く精神を教えておられる。この執念こそ、日蓮仏法の魂であり、学会精神である。
 これからの50年も、「追撃の手をゆるめるな」との戸田先生の遺言のままに、強く、また強く進んでまいりたい。


――〔若い人を励ませ〕〔青年を育てよ〕――

◆◆ 若い人には力がある《統一ドイツ初代大統領》


◆ 未来のために今、何をすべきか

 一、私が統一ドイツの初代大統領ヴァイツゼッカー氏とお会いしたのは1991年の6月、ボンの大統領府であった。
 氏は、ビンゲン市のライン河畔(かはん)に立つ、SGIのドイツ総合文化センターにも足を運んでくださった。それは、ちょうど10年前のきょう、9月23日のことだった。
 「将来の発展に責任をもって寄与するために、われわれが何をすべきか、何をしょうとするのか、何をなし得るかを、自らに問わなければならない」(加藤常昭訳『良心は立ち上がる』日本基督教団出版局)
 これが氏の信条である。
 また、来日された折には、次のように語っておられた。
 「繁栄の中で漫然とそれを享受(きょうじゅ)するだけではなくて、責任をまっとうしていくという生き方をすれば、その人の生き方はさらに生きがいのあるもの、意味のあるものになる」(琉球新報1999年4月17日付)
 広宣流布の戦いにあっても、自身の責任を一つ一つ、明確に自覚して、祈り抜いていく。
 そして、「私は悔いなく戦い切った。見事に勝った!」と言える歴史を残していくことだ。
 また、青年を愛するヴァイツゼッカー氏は「若い人は何でも積極的に取り組み、解決していく力がある」と訴えた(毎日新聞1999年5月7日付)。
 「未来への責任」を果たすために、人材を見つけ、人材を育てていくことが、リーダーにとって最重要の責務である。
 青年部を皆で励まし、若い力が思う存分に活躍できるよう、全力を挙げていきたい。
 さらなる広宣流布の躍進を決意しあって、私のスピーチとしたい。ありがとう!(大拍手)


(2005・9・23)

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