幕末志士コミュの吉田松蔭先生『講孟剳記』私感解説その１

はじめに

二十一世紀に残したい名著一〇〇選の中に、この『講孟箚記』を見つけた時、やはり、この本は時代を超越している本なのだと実感したものであった。
　この『講孟箚記』は、幕末の思想家であり教育家であった吉田松陰先生によって書かれた本である。
　吉田松陰先生は天保元年（一八三〇年）八月四日、長州・萩の松本村に生まれた。当時、徳川幕府においては十一代家斉が将軍職に就いている時代であった。彼は長州藩下士・杉百合之助の次男として生まれ、藩の山鹿流兵学指南であった吉田家の養子となり、波乱に満ちた生涯を送った人である。その一生を
貫いていた考え方は「まごころを極める」ということであった。この本にはそれが溢れている。先生が安政の大獄で長州から江戸に送られる直前に書いた詩にはこの心がよく現れている。
「至誠にして動かざるものは、未だにこれ非ざるなり。
　吾れ学問すること二十年、齢もまた而立（三十歳）なり。
　然れども未だ斯の一語を解すること能はず。
　今茲、關左の行、願はくば身を以て験せん。
　乃ち死生の大の若きは、姑くこれを置く」
　松陰先生にとっては真心を尽くしきるということは死よりも重いものであったといえるのである。
　そして、先生が最も大切にしていたものは日本という國であった。安政六年に先生の創った歌に
「皇神の誓おきたる國なれば　正しき道のいかで絶ゆべき」
「七たびも生きかへりつつ夷をぞ　攘はんこころ吾れ忘れめや」
というのがある。先生のまごころは日本という國に尽くし切られたのである。それがよくうかがえる手紙がある。
この手紙は妹の千代にこの講孟箚記を書いていた頃に送った手紙であるが次のような一節に先生の日本の國に対する考え方があらわれている。
「神明を崇め、尊ぶべし。大日本と申す國は神國と申し奉りて、神々様の開きたまえる御國なり。然ればこの尊き御國に生れたるものは、貴きとなく賤しきとなく、神々様をおろそかにしてはすまぬことなり。しかし、世俗にも神信心といふ事をする人あれど、大抵心得違ふなり。神前に詣で柏手を打ち、立身出世を祈りたり、長命富貴を祈りたりするはみな大間違いなり。神と申すものは正直なる事を好み、叉清浄なる事を好み給ふ。それ故、神を拝むには、まずおのれが心を正直にし、叉おのれが身体を清浄にして、ほかに何の心もなくたゞ謹み拝むべし。これを誠の神信心と申すなり。その信心が積もりゆけば二六時中、おのれが心が正直にて、身体が清浄になる、これを徳と申すなり」
　このように松陰先生は、日本に対して熱誠と強烈な神國であるという自信があったのである。この強烈な神國の自信と熱誠が先生とともに英才の誉れ高かった、橋本左内をもって「君が胆、毛を生ず」と言わしめたのである。
　私事であるが、私は若い頃自分に大きな影響を与えた本をあげると司馬遼太郎の書いた『竜馬がゆく』がある。この本は私たち団塊の世代といわれる年代には大きな影響を与えた一冊といえる。例えば俳優の武田鉄矢はこの本によって自分の生き方を変えられ、竜馬のスタイルまで真似をしたと聞く。かくいう私なども生き方は別としてもスタイルには憧れていた。たゞ、今考えてみると私が遠回りしてしまった原因の一つにこの本を挙げざるを得ない。　勿論、これは私論であるがこの『竜馬がゆく』は、欧米思想こそ人間が採らなければならぬ最高の思想であるという司馬遼太郎の考え方で書かれているからである。司馬遼太郎の中では長州人（勿論松陰先生も含む）は過激な自国（藩）のことのみが大事な国粋全体主義者であるという定義で描かれており、竜馬のみ世界的な視野に立った維新の最大の功労者であったというようにしているのである。これにより私などは見事に魔法にかかってしまい、この吉田松陰先生に辿り着くのに大きな遠回りをしてしまったような気がする。私たちは戦後、米国により戦前を帝国主義＝全体主義＝暗黒の時代という定義を押し付けられ、過去の歴史のすべてを否定されてしまった。その定義は、戦後の学校教育の中で徹底的に実施されると同時に社会教育に於ても繰り返し行われた。すなわち強烈な催眠をかけられたのである。それにより、私などはこの『講孟箚記』に出会うまでは吉田松陰先生や長州の志士達を狂信的な全体主義者として考えていたのであった。しかし、この『講孟箚記』を読み進めば進むほど、自らの持っていた狂信的な全体主義というイメージが氷解してしまったのである。明治維新の時代背景を考えた時そこには、欧米諸国による植民地政策こそが日本という國に大きくのしかかっていたのである。イギリスの歴史学者アーノルド・トゥインビーはそれを次のようにいっている。
「十九世紀の西欧においては、白人民族同士の戦乱状態が常習的に行われており、・・・東を臨めば、瓦解した諸帝国がトルコから中国に至るまで、アジアの全大陸にその残骸を並べていて・・・・至るところの原住民らは、羊の如く従順にその毛を刈りとらせ、、たゞ黙々たるのみ。敢えて彼等に立ち向かって反抗しようとしなかったのである。ただ一つの珍しい除外例は日本であった」
　そうなのである、欧米諸国こそ傲慢な白人至上主義を振りかざし、その持っている力によって、世界中に侵略を繰り返してきたのであった。しかも、その縮図はあの大東亜戦争まで続いていたのであった。彼等に日本を裁く事など本当は出来ないにも拘らず、彼等は東京裁判に於て、日本を侵略国と決めつけて、自分たちの事を棚に上げていたのである。それらの事は、學校の歴史の教育の中では一切触れる事はない。元日本歴史学会会長であり文化勲章を受章した坂本太郎博士は「日本の義務教育で教える日本歴史は、独善や虚偽であってはならぬが、日本人の立場で自主的に史實を選択し解釈を加える用意は当然あるべきであろう。どこの國の教科書も、自国の立場を正当化し、過去を美化していないものはない。ひとり日本だけ自国の立場を冷淡に批判するというのは常識を外れている」（『日本歴史の特性』より）と言っているように、吾が国の学校教育での歴史教育は、あまりにも冷淡な批判の立場に立った教科書で教えられている。自国に批判的な教科書をもって、教えられた人間が自国を愛する事はできないと言える。坂本太郎博士はそれについては次のようにいう。
「愛情に裏付けられない歴史は、索然とした砂漠の旅に似たものである。青少年の心に訴え、明日の活躍の希望を培うものは、愛情に根ざした歴史でなければならぬ。二千年以上もの長い間、一つの民族を持って一つの國家を造り、輝かしい平和と歴史を、世界に希有な存在だと知る時、國家愛、民族愛、伝統愛は油然として涌き起こらねばならぬと思うのである」
　今の日本の歴史教育こそ、この坂本博士の言う「愛情に裏付けられない歴史」と言える。その事を踏まえて、
正しい歴史教育を私たちは考えなければならぬのである。
　吉田松陰先生が生きた二十九年の生涯は、その時代背景で言ったならば現代にも似た所が多々あるといえる。明治維新は、世界の革命の奇蹟とまで言われていることは私たちが誇りに思うべきことである。当時の世界の情勢においては欧米諸国がその力の牙を世界中に行使し、トゥインビーの言うように、侵略と略奪を繰り返し、亜細亜・アフリカ・南米において植民地化されていたのであった。残るは最早日本のみという状況に心ある
若者は、危機感をつのらせていた。そんな中で日本の国内の政治は腐敗し、その機能は世の中の動きについてゆけなくなり、人心は三百年も続く泰平に満足を知らぬ心が蔓延し不満が渦巻く状況に陥り、更に自然災害はその人心に呼応するように人々を困窮させていた。そんな社会情勢の中で天は幕末の志士達を斯の世に生じせしめたのである。まずは、学問において若者の魂に訴える人達が最初であった。賀茂真淵・本居宣長、平田篤胤によって国学の振興が始まり、「日本は神國である」という尤も大切な基礎を築いた。そして、高山彦九郎・
蒲生君平・林子平という寛政の三奇人が先陣を切り、日本の國體を訴えたのである。次に、藤田東湖を始めとする水戸藩が尊皇思想を掲げ、幕末志士達の精神的支柱となり多くの志士達を揺り動かす。そして、幕末の回天の中心になったのが長州藩であった。長州の志士達は殆どが松陰先生の松下村塾の弟子達であったと言える。すなわち、その精神エネルギーの源こそ吉田松陰先生なのである。
　松陰先生の生まれた年は天保元年八月四日、庚寅の年であった。幼名、虎之助。そして、その杉家の家庭環境は貧の極とも言える状況でありながら、誰も彼もが真剣に生き、そして真剣に子供を教育していた。今の世のように、玩具によって教育の煩わしさを回避しようという事などはあり得ない家風に育ったのだ。現代はこの事については全く逆と言えるのである。自らの子供の教育は、學校任せ塾任せという風潮で世に出た子供達は、
自らの人生をどう生きるべきかをその時から探さねばならぬ。人間の生きるべき道を見つけた時から人は眞の人生を歩き始めるといえるのであるが、学校や家庭ではそれを教えることができぬといえる。人生の目的は何か、これがこの本には書かれているのである。その意味でこの講孟箚記を読み込めば読み込むほど眞の人生を見つけることに近付くことができるのである
　この講孟剳記は彼が二十五歳の時に書かれた本である。そして、この本は先生が野山獄という牢屋（今でいう刑務所）においてその殆ど書かれた本なのである。そして、先生はそれらの境遇などは関係なく、いやその境遇に居たからこそ素晴らしい内容の本を書いたのである。
　先生が二十五歳の時、米国のペリルによって黒船の到来があった。当然、先生はこの時から大きな歴史の渦に巻き込まれてゆくことになる。現代の歴史において、幕末を佐幕派と討幕派という単純な図式で描くことが総てであるが、当時においてはそうではなかった。そんな単純なものではなく、ただ、一つ言えることはあの幕末維新は『尊皇』の一文字だけがその原動力であったのだ。この事を抜きにしてあの幕末という時代を語ることはないと言い切れる。当時の幕府の重臣達に於てもこの心は持っていたのである。例えば、老中の堀田正睦は次のように言う。
「辱くも神州は、天地剖判（開闢）以来、国祖天神皇統綿々、古往今來に亙り君臣の名前正しく云々」と書いている。この事は、幕府の重臣と雖も『尊皇』に関しては一致していたことを証明しているのである。
　もし、この心が一致していなくば、あの明治維新は成功しなかったといえる。あの幕末は、幕府と薩長の權力争いなどでは絶対になかったのである。あの幕末は『攘夷派』と『開国派』の対立によって進んでゆくのである。しかし、何れの派も尤も畏れたものは、白人諸国の脅威に他ならない。当時の世界情勢を、いち早く掴みこのままでは外国によって日本は植民地化されてしまうことを懼れたのである。当時の日本の情報収集レベルからいえばこれは驚異に値する。鎖国をやっていた関係上世界の情勢など日本には僅かなものしか入っては来なかったはずである。しかし、日本人はその危機を察知した。日本が大きな脅威に晒されているということを直感したのである。何故そのようなことが可能であったか。それこそが日本人が日本人たる大切なところなのである。
　それと引き換えて今の日本はどうであろうか。今の世の人々を見た時あまりにも自分という存在を過小評価し過ぎていると思えるのは何故なのか。いま私は、この世に人間として生まれてきたということについて、その意義を見出すことが出来ずに日々を送っている人の多さを強く感じている。そんな、人の多さはこの国の未来に暗い影を落としていると強く思えるのだ。しかし、中にはその人生を充実したものとして日々を送っている人も少なくない。では、どうして其の生き方に於て或る人は喜びに満ち溢れ、充実し、或る人は暗く、淋しい日々を送ることになるのか。もし、先程言ったように全ての人が平等であるということであればそんなことは無い筈ではないか。
　私達は大切なナニかを忘れてしまっているのではないか。ここに新聞のコラムがある。それは奥会津で「伝統」について真摯な姿勢で出版活動に取り組んでいる遠藤由美子さんという方が読売新聞に書いたコラムである。この文章を読んだ時なんと素晴らしいものの考え方をする人であろうと感動し、今も心に強く残っている。その文の中で最も私の心を打ったのが次の一節である。「見えざるものへの敬虔な気持ちや、足るを知る豊かさを失ったとき、人間は其の道を失う。」この文章の中の「見えざるもの」とは何なのか。彼女はその前文において「山を懼れ、木に祈り、石に額ずく日々の習俗も、自然を畏怖することで自らを調える深い精神性を宿している」と書いている。このことから云えることは、自然や総ての物や事象に対して人間はその生命の存在を認め、「見えないもの」に謙虚に、そして敬いの心で接しなければならないと言うことではないではなかろうか。そう考えて今の世の人々を観たならば、眼に見えるモノに対しては尊ぶことは知っていても、見えないモノに対しては、自ら遠ざかっているように思えてならない。私には、そこにこそ混迷する日本の現状の原因があると思っている。
　この混迷から脱け出す爲にこそこの『講孟箚記』があるのである。この本は「人間の心の本源が散りばめられている」人間の心の本源を自らのものとした時に人生が輝いてくる。
　この書の構成は『孟子』という戦前に於ては論語と並ぶ道徳倫理の本に関して、吉田松蔭先生の解釈を書き記してある本である。私達にはこの書に出てくる言葉のほとんどが、まるで外国語を読むよりも難しく感じるのは一体どういうことであろう。いや、かえって英語の方が理解しやすいかも知れない。まるで外国語の本を読んでいるような気がする。
　例えば「仁」である。戦後の教育を受けてきた私にとってこの仁という字は名前でしか見たことのないといっても過言ではない言葉であった。ましてや「尊爵」「安宅」などはこの書で初めて見た言葉と言える。これは私が学校の古文の授業をちゃんとやってこなかったことにもよるが、今の学校教育を受けてきた九割以上の人達は同じレベルではないかと思える。このような私程度のレベルでこの難しい書を解説をしようとすることは裸でヒマラヤの山に登ろうとする行為に等しいと思うが、何回も読み返していく内、これだという直感が働くようになってきた。それが愚見なるやも知れぬが、私はこの書に書かれていることを理解するようになり、そのお陰で生きることが凄く楽になってきたのである。
今の日本は、幕末の日本よりも更に危機的状況と言える。特に、自らの国に対する誇りを持って生きている人らの少なさは未来に暗い影を落としている。日本人の誇りを取り戻すためにもこの『講孟箚記』は読まなければならぬ本なのである。