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日常感情劇場 on mixiコミュの食休み(10)

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 本家の者たちは、私たちがせっかく来てやるのだからちゃんともてなせ、という事をウチの親に言っているらしかった。いわく、折り詰めはちゃんと立派な3000円ぐらいのを注文しろ、それは持って帰るものだから食事は別にちゃんと出せ、という事を言っているようだった。

 今は真夏である。
 初七日は8月7日、四十九日は9月18日。九州はまだまだ真夏である。
 本家までは車で2時間強かかる。その間、持ち帰る折り詰めは炎天下の車の中である。

 3000円の腐敗物をわざわざ人数分用意しろとこの人たちは言っているのだろうか。

 母親は、もう不毛な話はどうでもいいと思ったのか、はいはいはいはい、と流していた。自分たちの言いたいことを言い終わった本家の盆暗たちは、ちゃんとした挨拶もせずにさっさと帰ってしまった。

 エキシビジョンマッチとして、母方の親類たちのみでの大バトルトーク大会が始まった。
 何が3000円の折り詰めだ、あの家で葬式があったときそんなもの持たせたことが一度でもあったか、3000円もの金がどこから沸いて出てくるのか、仮に金があったとしてもあいつらには一銭も使う価値がない、味のわからない馬鹿舌たちにはコンビニの廃棄弁当でも持ち帰らせろ、どうせ全部腐らすんだから価値は同じだ。

 しかし何も持たせなければ後から何を言い出すかわからないので、一応は、800円ぐらいの折り詰めは持たせようということで決着した。体積が大きければ勘違いして満足するだろう。


 そのバトルトークの中で初めて知ったのだが、さっき私が外に出ている間に、実はとんでもない話があったらしい。
 亡くなった当日、病室であいたーあいたー言っている本家たちに対して私は、飯を食ってきてくれと言った。
 どうやらそれが、本家たちにとっては非常識なことだったらしいのだ。
 何が非常識なのか。わざわざやって来た私たちにはご馳走をするのが当たり前だということらしかったのだ。
 母親の手によってこんな非常識な子に育てられてしまった子が正弘(父)の子だというのが正弘にとって不憫で不憫でならない、と言ったらしいのだ。あのときのあいつらの驚いた表情はそういうことだったのだ。


 こいつら、どうしてくれようか。


 そうかそうか、故人はこういう環境で育っているから常識のないバカ親として私を育てたのか。私もあちこちで相当常識のないやつだとあきれられてきたのだが、そういうバックヤードがあったのか。

 専門学校に通っている頃、これではいけないと、本当に普通の常識を身につけるように努力した。まず間違った常識しかないこの家から出て一人暮らしを始めることにした。家からは通えない場所を実習先に選ぶという、それなりに周到な綱渡り計画だったがそっけないほどうまく行って簡単に一人暮らしが始まった。

 既に学内では常識のないやつだということになっていたので、常識は学外に求めた。アルバイトを掛け持ち、必要な人付き合いのための金は惜しまなかった。ときどき故人から「学問とは何か」とか「エチケットとは何か」のような手紙が届いたのだが、金目のものが入っていなければ(たまに商品券とかが入っていたのだ)一切読まずに焼却処分した。とにかく父親と、その父親が持っている間違った常識との接触を断ちたかったのだ。

 どうにもならない理由でその学校を退学せざるを得なくなり、とたんに就職ができなくなってしまった私に父親は今の仕事を斡旋した。こればかりは退学してしまった立場上拒否するわけには行かなかった。父親は大変満足そうだった。もし、あんな親であっても親孝行はしなければならない、というのであれば、今の仕事に就いただけでもう充分満足だろ、これ以上何を望むのか、と言い切るつもりである。言い切っていいだろうと思っている。


 エキシビジョンマッチは延々と続いていた。その間、セールスマンが何人も何人も家を訪れ、私はその対応をした。何のセールスか。仕出しの折り詰めと、仏壇と、墓石である。

 新聞の死亡記事を見て、一軒一軒訪問しているようであった。そのため、こちらもばたばたしていることをよく知っているので、必要最小限の話だけしてさっと帰って行くのはありがたかった。

 お土産を置いていく業者も多い。

 折り詰めの業者は、実物の折り詰めを1つ置いて行く事が多い。お召し上がりいただいてお口に合うようでしたらぜひご注文くださいませ、というスタンスらしかった。ウチは昔から付き合いのあるおいしい折り詰めの業者さんからしか取り寄せないことにしていた(だからこそあのバカ舌たちには食わせたくないのだ)のだが、サンプルで置いていってくれる折り詰めはそれはそれでありがたかった。1食浮くし。

 仏壇や墓石の業者は、線香や蝋燭や社名の入ったチャッカマンなどを置いていってくれることが多い。これもこれでありがたかった。

 しかし一番ありがたくないのは、セールスマンたちの真の目的であるはずの、一緒に置かれるカタログである。
 なぜなのかよくわからないのだが、仏壇や墓石のカタログは、異様に重いのだ。
 母親は割と重いものでも持てるのだが、それにしても重い。oggiかというぐらい重いのだ。
 1社2社ならともかく、毎日何社もの業者がやってきて、そのつどカタログを置いてゆく。資源ごみの日に出そうにも、全部まとめてしまうと私でも持てなくなる位ずっしりと重いのだ。

 年寄りが一人だけで家を守るような状況になった場合、重いものは持ち運べない。
 仏壇や墓石の業者の方々は、軽いカタログになるように真剣に検討した方がいいのではないかと思うのだがいかがだろうか。

 それに、ウチはもう既に、葬儀屋さんを通じて信頼できる仏具屋さんと話を進めており、既に仏壇と墓石は発注済みなのだ。線香や蝋燭などをいただけるのはありがたいが、ぱらりともめくられない重いカタログという負の遺産ばかりを残していくセールスマンとカタログ製作業者たちには少々の反省を促したく思う。


 時間無制限エキシビジョンマッチもある程度の時期で終わり、言いたいことを全部吐き出してすっきりしたらしい母方の親類たちも、全員帰っていった。

 家には、私と私の相方と母親の3人だけになった。

 夕食を作ったり買いに行ったり食べに行ったりする元気はない。精進落としの時に余って持ち帰った料理と、セールスマンたちがサンプルで持ってきた折り詰めをみんなで分けていただくことにする。

 よく考えてみたら、命日以降、ちゃんとゆっくりと食事を取るのは初めてかもしれない。
 人の食事の、しかもああいう、メシやカネに意地汚い人たちの食事の世話ばかりをした3日間だった。
 しみじみと、忙しかったね、大変だったね、でもこれで一段落だね、と言いながらの、自分たちだけのためのサンプルの食事であった。サンプルは意外に美味かった。


 親が死んでも食休み、とよく言う。

 さっきまで、食事の後にはたとえどんな状況であろうともちゃんと食べ物が消化されるようにゆっくりして、体に負担をかけないようにしなさいね、というような意味だと思っていた。

 実際に親が死んで、どうも本来の意味はそうではないのではと思うようになった。

 とにかく行事が多い。大半の行事は業者さんが代わってやってくれるが、喪主サイドの人たちは弔問に訪れる人たちへの対応で自分たちのことを後手後手にしてしまいがちである。

 実際、この3日間、ちゃんとした食事をほとんど取れなかった。

 親が死んでも食休み、というのは、親が死んだ時のようなばたばたと動き回るときでも、自分の身を省みる余裕をもちなさいよ、という教えなのではないだろうか。

 こちら側が倒れてしまっては何にもならないのだ。


 ゆっくりと味わって食事をし、精進落しの余り物のビールを飲んで軽く酔っ払い、そのままばたんと寝てしまった。

 NHKリスニングテストの締切日は、そういうことを一切思い出す余裕もなく終わってしまった。


(続く)

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