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日常感情劇場 on mixiコミュの食休み(8)

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 明けて8月3日。告別式。

 車で来ている親類が早く起きて朝食の買出しに出てくれたらしい。目が覚めると目の前に豊富な食料が並んでいる。コンビニおにぎりやコンビニサンドイッチだってかまうものか。正直昨日の昼以降何も食べていないに等しい。人の飯ばかり気にしていないでまず自分の飯を食わないと。起き抜けだというのにがつがつと食事を取る。

 朝早くから葬儀社の人たちも集まってきている。司会を担当する女性との打ち合わせ。ここで私はほぼ白紙のままの自由記入欄を司会の女性に渡さなければならない。しかし、白紙のままというのは意外にあるらしい。私は父が亡くなるまでに時間があり、亡くなった所で急な話でもなかったのであまり感慨も何もなかったのであるが、普通は泣き崩れたり放心状態になったりあまりにも急なことだと意味もなく狼狽したりということが多く、そういうときにこういうものを書いてもらうのは司会の側もしんどいということらしかった。そのために基本的なところは、空欄を埋めて丸で囲むだけで一応ちゃんとした形の紹介文はできるようになっているということらしい。そうか、じゃあ自由記入欄は堂々と白紙で出しても問題はないのだな。理由は何であれ。

 ここ2日気になっていたことがあっさりとすっきりと解決して少しだけほっとする。

 届いている弔電の紹介順を選ぶのも重要な作業。しかし大体どのような順番でというのは葬儀社が基準を持っており、その基準にのっとってほぼ機械的に並べ替えれば弔電紹介が出来上がるという仕組みができていた。この中で重要なのは名前の読み方。読み間違いがあっては失礼なので、どうしても読み方がわからないものは読み上げるべき順番であっても「その他多くの弔電を頂戴しております」の中に入ってしまうこともあるという。しかし電報を作成するときには読み仮名はつけられないし、どうしたらいいのだろう。

 そうしている間にも続々と弔問客が訪れ、香典を一時的に保存する袋(そういう専用のものがあるのだ)が2袋目になる。香典袋を入れるボール紙の専用の箱があり、その箱がいっぱいになったら袋の中に箱ごと移し、3箱になったら袋がいっぱいになるという仕組み。箱に入っているので形が一定で、取り回しがしやすく、一時保管するにも積み上げやすい。よく考えられている。

 11時からの告別式は白紙の自由回答欄のままでもつつがなく終わったのだが、いきなり振られて困ったのが、出棺の際の家族からの挨拶。何も考えていなかったのだが告別式の直前に「出棺の際にご挨拶をお願いしますので・・・」と言われてあわてて考える。

「昨日まで雨やったですけど、よぉ晴れました。父は昔から晴れ男やったけんで、今日もその力で晴れさせたっでしょう。
 亡くなってからしばらくは目ば閉じさせとったとですが、どがんしたって目の開いてしまいました。しょんなかけんで、あんまいなからしかですけど、目の開いたままでのご挨拶になってしまいました。父も最期に多分皆様の顔ばよーっと見ときたかったとでしょうけんで、笑って許してやってもらえればて思います。
 ほんなごてどーもありがとうございました。これからも私たち家族にどうぞご指導ご鞭撻ばよろしく頼みます」

 このぐらいで充分だろう。8月の炎天下である。相手は年寄りばかりだ。挨拶は短いのがよかろう。

 別にご指導ご鞭撻してもらうことなどこれっぽっちもないし、本当にご指導ご鞭撻を頂戴してもはっきり言って迷惑なのだが、ここは一応そういう風に言うものらしい。

 実家のある町には火葬場が無いため、隣町の火葬場に運ぶ。初めて霊柩車に乗ったのだが意外と乗り心地がよかった。しかし隣町までの移動の間、派手な車でぶっちぎって突っ走っているようで(そのとおりなのだが)、どうも周囲の注目を浴びている心地で落ち着かなかった。

 火葬場に書類を提出し、一応最後のお別れをして、焼却場に電動カートごと入れてもらい、点火。

 焼けるまでには2時間強かかるらしく、その間に火葬場の中の控え室で精進落としになる。2日前に発注しておいたおにぎりと魚盛り料理が届けられており、私たちはビールを配りながら食事の準備。

 この3日間、喪主の私たちは、ずっと人の飯の世話ばかりしてきた。
 葬式とはそういうものなのだろうか。

 ビールを飲んで盛り上がっている控え室を出ると、待合所のベンチでいとこたち同士の話が始まっていた。どうやら私以外のいとこたちも何年ぶりかで会ったらしく、携帯の番号とメールアドレスの交換をして、互いの近況報告をしていた。控え室から持ち出したおにぎりとビールで地味に盛り上がる若い集団。

 子供の頃は、盆や正月に親類同士が集まっていとこたちだけになっても、単純に何して遊ぼうかとかそういう話しかしなかった。しかしあれからもう30年近く経つ。話の内容は、仕事のこと、給料のこと、貯蓄のこと、子供の教育のこと、次は誰だというブラックなこと。

 もうみんないい感じのおっちゃんとおばちゃんになってしまっている。

 私たちが子供だった頃に親たちが話していたような内容を、30年経って私たちが話す番になったようだった。


 2時間経ち、焼きあがったとの連絡が入る。

 電動カートに載せられていた棺もきれいに燃え、故人は、本当に骨格標本のような骨だけの姿になってわれわれの前に現れた。

 癌の病巣とか、そういうのは焼けたときにどうしても残ってしまうものらしいのだが、おそらくは解剖のときにその手のものは取り除かれてしまったのだろう。きれいに骨だけだった。

 骨壷には全ての骨が入るわけではない。ある程度大きな骨を選んで入れる。入らなかった分は産業廃棄物として処理されるらしい。どちらかというと頭蓋骨近辺の骨を優先して入れるのらしい。

 骨を拾う作業をしていると、私の作業を邪魔するように、本家の親類の一人が割り込んで入ってくる。あまりにも唐突なその動作で、私は拾った骨を一つ落としてしまった。落とした骨はもう拾わないのらしい。

 その一人は、9人兄弟の一番上である。父は3番目、で、9人兄弟は、一番上「だけ」を残して全員逝去してしまった。

 一番上だけが残っているというのはどう考えても自然ではない。なにか霊的な不都合があるのかもしれないという話が一時期真剣に話し合われ祈祷師が雇われたりしたらしいのだが、それでも結局一番上だけが生き残ってしまった。その一番上の落胆はいかばかりか。弟が8人全員死んでしまったというのはどういう感じなのだろう。

 口の悪い母方の親類は、あの程度の一族だからその程度の事にしかならないのだ、というようなことを吐き捨てて清々していたようだったが、流石に骨を拾っているところでそういう話をする人はおらず、もうまっすぐ歩く事もままならない一番上が、見ようによっては徘徊しているように骨にすがる姿を無表情に追っているだけだった。

 みんなで交代に骨を拾い、骨壷に納めていく。よそ様の骨壷に比べるとかなりたくさん納めたのらしいが、全体の骨の多分1割以下だろう。よくドラマなどで骨壷を見て「こんなに小さくなっちゃって・・・」などというシーンがあったりするが、全部の骨が収まっていないのだから小さくなってしまうのは当たり前なのだという事をこの場で知った。

(続く)

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