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瞑想コミュの正しい教えの重要性

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この間の温泉さんのトピックや書き込みを読んでいても改めて痛感したのですが、正しい教えが正しく伝わることは非常に重要なわけです。

一旦中途半端な教えや間違った教えが広がってしまうと、後から訂正するのはかなり難しくなります。

歴史を詳しく調べていくと、人類の歴史とはそういうものか、と考えさせられることもあります。

さて、瞑想に関連する教えに関して、以前から気になっていたことについて、この場をお借りして少し個人的な見解を述べたいと思います。


☆瞑想と集中とは別なのか?

集中のトピック中のコメントでも触れましたが、瞑想と集中とは別物であるという「教え」が一般に広まっていています。

しかし、問題なのは瞑想への導入としての集中の重要性を否定してしまう傾向が、そうした「教え」とセットになっていることが多々見受けられることです。

日本の過去の精神的な伝統では、精神集中と精神統一ということが、連続的なプロセスとして重視される傾向が一般的でした。

この精神統一が瞑想にあたるわけですが、そうした日本的伝統の影響もあり、現在でも瞑想という言葉の代わりに「統一」という用語を用いている宗教的なグループなどもあります。

精神集中には時として大きな努力を伴うこともありますが、基本的に重要視されているのは自然な集中です。

そもそも瞑想と集中を別物とする教えを強調している人々の多くが、どこか精神集中を不自然なもの、無用な努力を伴うことであると見做している傾向がありますが、それは単純な勘違いでしかないことも多いわけです。

ここで問題になるのは、一般的に瞑想と集中とが別かどうか、といった抽象的なことではなくて、より高度な瞑想には高度な集中の段階が役に立つのかどうか、といった極めて実践的なテーマです。

瞑想と集中が別物であることを強調する人たちの発想の背景には、既に別なトピックで指摘したようにインドの一部のマスターの教えなどが色濃くあることがわかります。

とりわけOSHO(ラジニーシ・オショー)の講話で語られていることなどが、集中と瞑想を完全に区分してしまう考え方の背景になっているようです。

もちろん本質的に瞑想が集中でないことは当たり前の話なのですが、しかし同時により高度な集中がより高度な瞑想に繋がるという連続的プロセスが強調されることは、実践的な観点からは極めて重要なのです。

現実には、そこが曖昧になっているのみならず、むしろ集中の否定という状況が生み出されていて、それが大きな問題を生んでいるわけです。

これはヒーリングの世界でも、レイキの教えなどに大きな影を落としています。

海外には集中を重視するレイキもありますが、日本のレイキスクールは、どこも無心の強調といった形で集中の必要性を排除しているのが現状です。

真の意味で無心(英語ではノーマインドなど)に至るのは容易ではないので、実際にはレイキの教えなどで無心といわれても、無心という意図によって、ちょっと一時的には無心に近づく程度ですが、逆に無心の前段階としての集中を否定してしまうことが、レイキをはじめとするヒーリングの世界全般で、いろいろマイナスを生み出しているのが実情なわけです。

こんな感じで、瞑想の世界でもヒーリングの世界でも、瞑想と集中を切り離してしまったことが、非常に一面的な状況をもたらしています。

したがって、日本の昔から精神的伝統で言われていたように、精神集中を通しての瞑想(精神統一)ということが強調されないとならないわけです。


☆中空の竹になる?

瞑想と集中とを切り離してしまう教えとセットになっている考え方として、聖なるエネルギーの導管になる
ということが、しばしば瞑想の世界で強調されています。

それを「中空の竹になる」という比喩で表現されることもあるのですが、これまた残念ながら非常に大きな誤解を生み出している考え方になっています。

聖なるエネルギーの導管になる、という考え方自体は素晴らしいのですが、瞑想の道は非常に多面的であり、「中空の竹になる」という発想は、その一側面を強調した考え方に過ぎないのは明らかです。

より瞑想の本質に迫った教えではあるのですが、瞑想を実践する人への具体的なガイダンスとしては一面的であり、しかもとても抽象的に感じられてしまう教えであるため、こうした教えは適切な状況に応じて、適切な相手に対して語られるのでないと、一種のマインドコントロールにもなりかねないわけです。

実際に、いろいろな状況でこうした教えが語られているのを見ていると、折角の優れた教えが、かなりマイナスに作用しているのを痛感することが少なからずあります。

しかも、こうした教えを積極的に語っている人たちの多くが、ほぼ何も分かっていません!

深い洞察の欠落した人たちが、あたかも深い洞察があるかのように「中空の竹」「エネルギーの導管」といった教えを一面的に説くのは、正直何とも危険な状況だと思えてしまいます。

これがエゴについての一面的で抽象的な教えとセットになることで、多くの被害者を生み出している現状があります。

これはヒーリングの仕事をしていて、多くの傷ついたクライアントを眼にしてきた経験から、ほとんど断言してもいい実に困った状況なんですね。

優れた高度な教えは、それに相応しい相手に対して、相応しい人が語らないと、まったく無意味になるか、却って危険性を生むことになるという、非常に典型的な実例がここにあります。

他人を傷つけている人たちは能天気だから分からないのでしょうけれど、問題はだいぶ深刻です。


他にもたくさん指摘できる問題点があります。
しかも、それらの一面的ないし間違った教えが、全体としてスピリチュアルな世界に大きなマイナスを生み出しているのです。


最後に余談ですがヒーリングの世界に係わっていて最悪だと思うのは、日本で最も広まっているヒーリングであるレイキの教えが、かなり一面的であることです。

上記のエネルギーの導管という発想との関連で、ひとつレイキの世界で最大の危険だと思えることを指摘しておきます。

「エネルギーの導管」という発想と「無心」という教えがセットになることで、何よりも危険だなと思うのは、一般に行われているレイキの伝授が、伝授に伴う危険性に対する認識をまったく欠落した形で行われていることです。

レイキヒーリング自体にも危険な側面があるのですが、伝授の場合には頭頂部に手を触れるか、頭の上に手をかざすのが、ほぼ何処でも行われている伝授スタイルなわけですが、これが危険性と隣り合わせだということです。

レイキの伝授の際には、もっとも波動の高い領域とダイレクトに繋がる第7(サハスラーラ)チャクラに向けて、エネルギーを通す行為を行うわけなのですが、これは手から出ているエネルギーの波動が高い人が行う場合にはいいのですが、そうでない人が行うと一転して極めて危険な行為になってしまうのです。

ところが、ヒーラーやレイキマスターは、ただエネルギーの導管になるだけだから危険は無いという話になってしまっているのですが、これはとんでもない勘違いなんですね。

嘘だと思うなら、いろいろ試してみれば分かります。

無心になってヒーリングするから自分が混ざらない、伝授の際にはマスターが純粋にエネルギーの導管になるだけだから危険性は無いと、ほとんど誰もが考えてきたわけですが、これは単なる思い込みでしかなくて実際には違うんです。

なぜ、レイキの世界でこうした事実に気付く人が皆無に近いのかというと、瞑想と集中とは別物という発想に始まって、無心だったらOKという教えが一般化してしまい、それがエネルギーの導管になるだけだから、純粋なエネルギーがどのまま純粋な状態で伝わるはずである、という何とも安易な思い込みが常識になってしまっているからです。

レイキ伝授のほかにも、頭頂部に直接手を触れる伝授やヒーリングなどがありますが、ほぼ危険性に対する認識が欠落しているので、実際に危険な目に遭う人たちがたくさんいるのに、それは本人の問題に過ぎない、好転反応に違いない、で済まされてしまうわけです。

そんな訳で、何とも無責任な行為がスピリチュアルな世界で横行する結果にもなっています。

正しい教えを正しく伝えることの重要性を強調する必要があるのは、こうした極めてアクチュアルな状況があることを背景としているのです・。


コメント(11)

たとえばOSHOの教えを例に挙げると、悟ったマスターの立場からの究極の教えというスタイルになっています。

実は、そこに大きな問題があって、英語で語られたことで教えが大幅に単純化されたこともあると思うのですが、分かりやすい言葉で語られると、自分が深い究極の教えに対して、それ相応の深い洞察を得た気分になってしまうわけです。

たとえばエゴについての教えなど、これは現在活躍している西洋人のスピリチュアルマスターの教えなども多くは同様なのですが、実際にはスピリチュアルな深い洞察が無いと、本当のところはよく分からない筈なのに、実に分かりやすい内容に見えてしまうために、簡単に分かった気になるわけです。

そこで問題のなのは、こうした教えを一知半解のままに具体的な状況に沿って、誰か特定の相手に向けて語りだす人々が、非常にたくさん発生してしまうという現状があることです。

しかも、こうした人たちは、本当の洞察がないことも相俟って、ますます相手に対する配慮に欠ける指摘に走りがちになります。

マスターの語るエゴについての教えは、確かに深い洞察が背景にあるのですが、大多数のマスターに西洋で発展したような心理学的洞察が欠落していることも、問題を複雑にしているひとつの要因になっています。

多くのマスターたちは、自分たちは心理学の代用になる、より深い教えを語っていると主張するようですが、実際にはマスターのそうした教えが、心理学的洞察の代用にはなっていないのです。

その結果、たとえばクリシュナムルティとかOSHOの信奉者にはよく見られるのですが、自らの心理的な葛藤をエゴを超えることで解消できるという観念に基づいて、そうしたあまり適切とは言い難い試みをすることになります。

しかし、一時的にエゴが消えたと感じる体験をして、心理的な葛藤が解消したかに思えたとしても、実際には、完全に問題が解消するどころか、ますます問題を複雑にしてしまうケースもあるのです。

そもそも瞑想に対して、精神分析などの西洋で発展した心理学の代用品を期待するのには無理があり、おそらく大多数のケースでは、瞑想によって心の深い葛藤を克服するのはまず無理です。

さまざまな人生経験を積む中で、自己観察を経ることによって、歪んだエゴが徐々に解消されることは確かですが、そもそもそこに瞑想の本義があるわけでもありません。

テーラワーダのヴィパッサナーは、そうした意味では有効なのだと思うのですが、精神分析で語られているような自我の防衛機制についての心理学的洞察などを踏まえないと、こうした内観には一定の限界があるのが一般的です。

ええと、瞑想と集中を分けると言うのは、わかるには判るんです。

瞑想には集中が重要なのですが、これの集中と言うのが、たとえば勉強したりの集中とは全く違うもので、それでも集中が大事と言うと、勉強風の集中をしちゃうわけですw

それと比べたら、まだ分けたほうがマシなのかもしれない?と思うんです。

だいたい瞑想が辛いのは、この勉強用集中と瞑想用集中の違いが最初はわからないので、勉強用の集中で頑張り抜く為です。

そんな事だから、1時間もやったら、それこそ、がまん大会にしかならないわけですw

けど、これが瞑想用の集中だぞ!って簡単に教えれますか?

これが出来ない以上は、まぁ導管とか言うのが関の山になるんじゃないでしょうか?

OSHO教えに話を戻すと、たとえばエゴが落ちる(消滅する)とかいったことは、究極の観点からの教えなわけです。

それが悟りと単純に結び付けられているために、エゴが消えれば悟れる、だからエゴを克服して悟りを目指すみたいな暗黙のスタイルが生まれるのですが、エゴの中身としては自我の防衛機制がもたらしている心理学的な対象である歪んだエゴもあれば、より自然な自己防衛の機能としてのエゴもあるわけです。

さらに言えば、エゴという言葉の定義にもよりますが、瞑想の深まりによって一般的に強化されるエゴもあります。

OSHOが語っていたのは、そもそも究極の悟りに係わることでしたが、そうした観点からエゴの超克について語っているのに、多くのOSHOの信奉者たちの間でも、エゴの無い状態というのを過度に理想化することで、より一般的な文脈でエゴの否定というニュアンスを含んだ形で、エゴの克服が語られるようになったという状況がありました。

これは詳しく例を挙げればきりがないのですが、たとえばレイキの教えなどにも多分に反映されたのだと思います。

愛情を込めてレイキをするのがエゴだから駄目みたいな、何ともステレオタイプの中途半端で不適切な教えなど、元々は究極の教えであった筈のものを、日常レベルに引き下ろして教条化するといったスタイルでレイキの教えに導入してしまうとか、そうしたトンデモない事態が現出してしまっているわけです。

なぜ、こうしたレイキの教えが不適切なのか、本格的には長文になるので詳しい説明はしませんが、そもそも愛情を込めてという場合に、実際にどのような想いでレイキをするかは、人によって違うわけです。

それを一律に愛情を込めるのはエゴだというのは、まったく説明にはなっていなくて、それでは、そのエゴとは何を指すのか、なぜ愛情を込めるとエゴになるのか、についての適切な説明は、ほとんど誰にもできないわけです。

愛情を込める・・・という場合に、その中身が問題なのであって、何か問題が生じるケースでも、「このような場合にはマイナスになるから気をつけたほうがいいよ!」といった程度の問題なのですね。

それを一律にエゴだから駄目・・・というのは、まったく根拠の無い暴論であって、それがレイキの一般的な常識として通用してしまっているのが問題なのです。

たくさんのレイキヒーラーと、この件について話をしたことがありますが、誰一人として納得のいく説明ができる人はおろか、納得のいく説明を聞いたという人もいないのです。

そもそも不適切な教えなので、当たり前といえば当たり前の話なのですが・・・。
どうやって瞑想用の集中を覚えたかって、結局みんな、しこたま瞑想して痛い目にあって覚えたんだと思います。

と言うか、気がつくと最近は、あまり痛い目に合わないかなぁ?みたいな感じになって、やっと集中って何の事か判ると言う順ではありませんかね?

で、こうなるまでに500Hで行くか?と言われれば、よほど才能があれば行くかも知れないと言うか500Hで瞑想の集中が付けば、才能の偏差値が70以上あると思います。

うちにくれば、すぐだぜ!みたいなのを信用してはいけないのは、すぐに瞑想用の集中力を付ける方法が無いからです。

>それを一律にエゴだから駄目・・・というのは、まったく根拠の無い暴論であって、それがレイキの一般的な常識として通用してしまっているのが問題なのです。

まぁレイキだけじゃなく、宗教全般に渡って、そんな感じですよねw

この続きは、小乗のスレッドに書きますね。
[3] 温泉さん

>けど、これが瞑想用の集中だぞ!って簡単に教えれますか?

非常に微細なレベルのエネルギーに注意を向けるとか、そうした説明が関の山です。
その注意が瞑想に必要な自然な集中なんです・・・といった感じでしょうか。

>これが出来ない以上は、まぁ導管とか言うのが関の山になるんじゃないでしょうか?

上記の説明で分からないと、それしかないかもしれませんね。

それで、エネルギーの導管というのはいいのですが、導管になるだけのつもりでも自分のエネルギーが混在するわけです。

心理的に深い葛藤を抱えた人で、それがエネルギー的に強烈な形で露呈しているケースでは、ヒーリングのエネルギーに本人の歪んだ自我が濃厚に反映される場合があります。

これが大きな危険になるので、伝授など安易に考えてはいけないんですね。
[7] 温泉さん

宗教全般ですか・・・!!
確かにそうかもしれませんね。

☆ エソテリックサイエンス

日本語にすれば秘教の科学といった意味ですが、いわゆるエネルギーの伝授とかイニシエーション、ディクシャといったスタイルのものの基礎には、エソテリックサイエンスが係わっています。(言葉が異なるだけで、そもそも伝授もイニシエーションも、ディクシャも同じことを意味しています)

これは全て脳の中枢部に存在する霊的中枢に高い波動のエネルギーを用いて働きかける行為になるのですが、DNAアクティベーションとかライトボディの覚醒とかなど、特にそうした自覚がなくても、自然に脳の中枢部に働きかけることを可能にするテクニックなどもあります。

エソテリックサイエンスの基本的洞察として重要なことのひとつは、意図的に光のイメージを用いて伝授を行う場合に、イメージする光の種類によって波動が異なってくることです。

こうした波動の違いには普遍性があり、波動の高さという点では純白の光がもっとも波動が高く、自己実現的なパワーの質と強さならゴールドが適しているなど、いろいろ一般的なことが指摘できるわけです。

上記のような伝授を行う際に、本当に純粋にエネルギーの導管になることができれば、元々のエネルギーーのソースさえ非常に高い波動であるなら、どのような伝授にも危険性は無いことになるのですが、残念ながら上記でも述べたように純粋にエネルギーの導管になることは、たとえば掌を用いて行う限りでは、まず原理的に有り得ないわけです。

そのため、危険性を最小限にするためには、伝授者が自分を媒体としないように工夫を凝らすことが必要になりますが、相手に手を触れたり手をかざしたりしないで、純粋に意識だけで伝授ができれば、それがもっとも安全な方法です。

それから安全策としてjは、もっとも波動の高いエネルギーを媒介する純白の光のイメージを用いるのが、一番安全ということになります。

レイキの伝授の場合には、一般的にこうしたイメージングは行いませんが、適切なイメージングを行う方がより高い波動のエネルギーによる伝授になるのが一般的です。

インド系のエネルギーヒーリングや伝授(ディクシャ)などは、全部ではありませんが、概してゴールドの光のイメージを積極的に活用しています。

これにはメリットとデメリットがあり、簡単に言ってしまえば強いパワーになる、願望成就などの後押しになるといったメリットがある反面、誰がディクシャを行うかで、波動の低下を招く可能性が高い、というデメリットがあります。

一番危ないのは、既に述べたように、心理的に深い葛藤を抱えた人で、それがエネルギー的に強烈な形で露呈している伝授者が、ディクシャを行う場合です。

もともとディクシャというのは、インドではグルだけが行うことを許可された行為であり、それ以外の人々がディクシャを行うというのは有り得ないわけです。

ところが、カルキ・バガヴァンの広めたディクシャなどでは、簡単に伝授ができる立場になれて、他人にディクシャを授けることが可能になってしまいました。

しかも聞くところによると、基本的にゴールドをイメージして頭頂部に掌を触れながら伝授を行うのが、ディクシャの基本スタイルのようです。

そうなると、誰が伝授を行うかで危険性が伴うことがあるわけです。

それを純粋にエネルギーの導管になるだけだから大丈夫、というのは明らかに違うんですね。

実際には、純粋にエネルギーの導管になるというのは、そんなに容易なことではないわけで、安易に深い洞察なしにこうした教えが広まったのは、本当は決定的にまずいのです。
インド系のエネルギーで問題だと思ったのは、たとえばデヴァイン・ヒーリングというインド発祥のヒーリングがあるのですが、そのヒーリングをしているヒーラーと話をしていたら、何とゴールドが最高の波動だと本気で考えていたのです。

それは違うでしょう、実際に試してみますか?

ということで、純白とゴールドの違いを体感してもらったら、疑いが無いほど歴然と効果に違いが出たのですが、それでもなかなか納得しない。

一旦、これが最高だと権威ある人に教えられると、それが正しいと思い込むんですね。

本来は精密な検証作業が必要なのに、安易に権威に盲従してしまうのは危険だな〜〜と感じたものでした。

何度か会う機会があって、最後にはわかってもらえたのですが、ことスピリチュアルな世界の事になると、客観性が失われやすいんですね。

これでは、お互いに切磋琢磨し合って、より良いものを築き上げていくのが非常に難しいですね。

インドのグルがこう教えていた、というのが基準になっていて、それが教えとして普遍性があり正しくて、その教えを聞いた人たちが、正しく教えを継承していれば良いのですが、残念ながら違うことも非常に多くて、それが大きな問題になる可能性もあるわけです。

ちなみにディクシャに関しては、いろいろ被害者の人たちがいて、ディクシャを広めるのに貢献していた伝授者(ギバー)の知人の中にも、チャクラがボロボロになり心身に深刻なダメージを被っていたケースも複数ありました。

ディクシャの仲間からヒーリングを受けたり、いろいろ試みたけれども、何をしても良くならずに絶望していた人もいて、問題の深刻さを痛感したものです。

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