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瞑想コミュのエゴの6つのゲーム

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エゴが自分を存続させるために行う6つのゲームがあります。

1.自分が正しいと示そうとする
2.相手が間違っていると示そうとする
3.相手をコントロールしようとする
4.相手のコントロールを拒否しようとする
5.相手に罪悪感を抱かせようとする
6.間違いをごまかそうとする

コメント(83)

見ようによっては洗脳プロトコルみたいだけど
エゴというより、これは自己中心性ですね。
[26] taoさん

ここで語られているエゴやマインドという言葉は、インドのマスターたちの教えの中で使われている用語ですが、元々の英語のニュアンスと比較した場合に、どうやらズレがあると思えます。

エゴの6つのゲームというのも、自己中心性のことであり、英語のエゴの意味からすると、ズレがある感じです。

なぜ、こうした一見些細なことを問題にするかというと、実際には些細な問題ではないように思えるからです。

そもそもインドのマスターたちは、エゴという言葉をし使用する際に、それに相当するヒンディー語の概念を想定していると思いますが、英語で講話をすると本来の意味が正確には伝わらない、しかし外国人相手に英語で話をするしかない、と考えながら講話をしているのではないでしょうか?

OSHOなどは、そんな風に受け取れる発言をしています。
確か若いときの講話でしたが、ヒンディー語ではなくて英語で講話をすることで、それだけでも教えの重要なエッセンスの9割が失われると語っています。

英語のエゴは曖昧な言葉で、それを日本人が使うと、さらに曖昧になります。
スピリチュアルな深い教えは、非常に繊細なテーマを扱うので、そうした曖昧さは大きなマイナスになる可能性があります。

他者を批判するのに、「それはあなたのエゴだ!」といったな言い方は、単純に自分の否定的なイメージを相手に投影したジャッジメントでしかないことが非常に多いものですが、そうした形でしばしばエゴという言葉がスピリチュアルな教えを背景として安易に語られてしまうので、そもそもエゴとは何なのかを、少し詳しく考え直してみる必要があると思うのです。

taoさんの説明は、なるほどと思いましたが、さらに詳しい解説が欲しいところです。
OSHOなどは、悟りに至るプロセスの中でエゴが消え去ると語っていますが、多くの場合に瞑想が深化することにより、最初はエゴが強化され結晶化するとも語っていました。

これはエゴという概念を英語の本来の意味に近い意味合いで捉えた場合には、確かに瞑想が深まるとエゴが強化されるという経験則からも納得できるわけですが、しかし上記のような自己中心性の意味でエゴという言葉を用いると、まったく話は違ってきてしまうわけです。

上記で指摘されているような自己中心的な傾向性は、そもそも瞑想の深まりによって強化されたり結晶化されることはあり得ません。

概念の曖昧さが、エゴが消える前にはエゴが結晶化されるのだから、といった形で自己中心性を正当化することに繋がる恐れがあり、実際にそうしたケースを少なからず眼にしたことはありました。

また、エゴとは日本語に置き換えれば、おおよそ自我を意味するわけですが、概念の混乱は健全な自我と歪んだ自我の区別も曖昧にしてしまいます。

一般的にスピリチュアルな教えのなかでエゴという言葉がどう使われているかを考えると、さらに混乱した状況なのが分かります。

エゴを単純に否定するような教えが広まっていますが、これはスピリチュアルな探求において一般的にマイナスだと思えます。

まして誰か他者を「それはあなたのエゴだ!」といったように批判をするのは、ほぼ意味の無い行為でしかないのに、そうした批判が少なくないのが現状です。

そうした抽象的で曖昧な批判は、およそマインドコントロールにしかならないからです。
批判された側は、自分が悪いように思わされてしまうことが多く、指摘されたエゴという言葉が具体的に何を指しているのかハッキリしないことも多いものです。

そうしたマインドコントロールは、グルイズムと結びつくと最悪の状況を招きます。

こうした繊細な問題が考慮される必要があると思います。

エゴという言葉に対するイメージや理解を考える際に、ひとつにはフロイト心理学の影響が無視できません。

フロイト心理学のキー概念としては、自我、超自我、エスの3つが有名で、フロイトはある段階で、この3つのキー概念を用いて、その相互関係から人間の深層心理の説明をしています。

フロイト心理学が英語圏に紹介されるときに、フロイトのドイツ語が英語に翻訳されて、この3つの概念が、エゴ、スーパーエゴ、イドという言葉に置き換えられました。

元々のドイツ語では、エゴに該当する言葉が純粋に行為の主体である「私」の意味で、イドというどろどろとした情念をイメージさせる英語も日本語の「それ」を意味するエスというドイツ語でした。

単純な翻訳上の問題に見えても、実はこうした英語の言葉に変換されたフロイト心理学の概念が、元の意味合いとは違ってしまったために、英語圏においてはフロイト心理学が無視できない誤解を蒙ることになりました。
フロイト心理学は直接ドイツ語の原典からも日本に紹介されていますが、英語圏を経由した形でも導入されました。

そのため、フロイト心理学のキー概念を、エゴ、スーパーエゴ、イドの3つとして紹介されている本も少なくなかったわけです。

エゴを意味する元のドイツ語には、全く否定的な意味合いがないのに、英語圏を経由することで、日本でもフロイトのエゴが否定的なイメージとして捉えられるようになりました。

そこにスピリチュアルな教えが加わり、スピリチュアルなマスターたちに心理学的な洞察が十分にないことが多いので、概念の混乱と曖昧さが増長されることになりました。

ぼくの理解では、エゴという言葉を巡って上記のような問題が複雑に絡んでいます。

そうした背景から、元々の意味である行為の主体としての「私」という意味に立ち返らないと、エゴとは何かが正しくは理解できないと思うのです。

悟りによって個としての「私」が消える訳ではないので、エゴの本来的な意味からすると、悟りとエゴは無関係という結論になると思われます。

この問題は、もっと複雑ですが、とりあえず重要なポイントを指摘したいと思いコメント追加しした。
日本人がエゴという言葉をスピリチュアルな場面で使うときに、気をつけなければならないのは、元々の英語のエゴという言葉と、日本人がエゴという言葉を使うときでは、微妙に意味内容が違ってしまうことです。

元々の英語のエゴにはエゴイズムという意味は含まれていますが、おそらく基本的に自己中心的という意味は含まれていません。

それに対して、日本人がエゴという言葉を使うときにには、自己中心的という意味合いが強く反映される傾向があります。

こうしたエゴイメージの違いは、文化的な差違を反映していると考えられます。

自己中心的であることと、利己主義的であることとは、全く異なる事柄であり、一般的には相反する傾向性です。

自己中心的な人は、まだ社会性が十分に発達していないのに対して、利己主義的な人は、社会性を身に付ける過程で自分に有利なように物事を進めようとする傾向性を発展させた人を指します。

こうした洞察は、フロイト心理学によって深化した人間の深層心理への理解を基盤にしていて、一般的には十分に認知されていません。

上記で英語のエゴは曖昧な概念だけれども、日本人がエゴという言葉を使うときには、さらに曖昧になることを指摘したのは、そうした事情があるからです。

それに加えて、インドのマスターなどがエゴという言葉を用いる時には、自己中心性と利己主義との区別が曖昧な状態のままに、それをエゴという概念に反映させるために、そうしたインドのマスターなどの教えに接する日本人にとっては、さらに混乱が増してしまう状況が生まれがちになります。

そうした曖昧さを避けて、人間心理に対する洞察を深めるためには、精神分析などの西洋で発展した心理学の知識を、ある程度知っておくのが得策なのですが、しばしばインドのマスターなどが、そうした西洋の心理学に対して否定的だったりするのがマイナスに作用してしまう結果になっています。

日本人の民族的な特性として、聖なる存在に対する独特なタブー視という傾向があります。

具体的には天皇制に対するタブーが、その典型的なケースですが、聖なる存在へのタブー視は、差別の問題を論じることへのタブー視とも表裏一体の関係にあります。

これは、日本人が自己をタブー視する傾向があることともセットになっています。

自己中心的な傾向は、フロイト心理学の理論ではナルシストの心理として展開されて行きますが、ナルチシズムとは本当の自己愛とは反比例する傾向性です。

これはフロイト以後の新フロイト派の心理学などで詳しく論じられたことですが、自己をタブー視しがちな日本人に特徴的に顕れる心理的傾向は、健全な自己愛の成長を著しく阻害してしまいます。

日本人が太平洋戦争の時代に一億総玉砕といった狂気の発想に陥っていたのは、個人の自己中心性が自己をタブー視することを通して、集団的な自己中心性に転化したことに起因しているわけです。

そうした日本的なメンタリティは、現代のスピリチュアルな教えの中でも、エゴの安易な否定といった形で継承されている
のです。

エゴの否定がグルイズムと結び付くと最悪の結果をもたらすことがあるのは、エゴの否定が自己中心的な傾向性の克服ではなく、集団的な自己中心性へと収斂していくからです。

インドのマスターの教えなどに接する際に、どうしても注意が必要なのは、上記のような事情があるからです。

ここでtaoさんは、行為の動機を問題にしていますが、しかし問題なのは、誰がその動機を推察するかということです。

結局、ぞれは自分自身でしかしかないことが多いわけですが、ぼくが問題にしているのは、エゴという言葉がスピリチュアルな場面で使われる際に、特定の相手ではないにしても他者批判のニュアンスで語られることが非常に多いことです。

上記の文章は分かりにくかったと思いますが、結局簡潔に主張の要旨をまとめると、他者に対して疑問点を指摘する際には、エゴという曖昧な言葉はほぼマイナスにしか作用しないということです。

概してエゴイストや自己中心的な人ほど、他者のエゴを問題視する傾向にあり、エゴに対する批判は、エゴイズムの表現でしかないか、自己中心的な行為でしかないのが一般的です。

不安定な心の葛藤を抱えた人たちにとって、エゴを批判されることはマインドコントロールになります。
相手のエゴを指摘する側も、概して不安定な心の葛藤を抱えているものですが、そうなるとエゴのパワーゲームになるわけです。

エゴのパワーゲームには、日本的な様式と西洋的な様式がありますが、スピリチュアルな場面でエゴを問題にすることが、とりわけ日本の社会では心理的なトラウマの強化に繋がりやすい傾向があります。

その辺は、西洋やインドのスピリチュアルマスターの教えを日本語に翻訳する際にも、留意する必要がある重要な問題点なのです。

自分の動機を問題にするのはいいですが、相手の動機を問題する場合や、一般的にエゴについて語る場面では、より細心の注意と洞察が必要だということです。
そうした意味合いからも、日本の社会では何よりも創造的な対話が重要です。

様々な場面で対話不在が一般的な現状では、心の葛藤を抱えた人々によるネガティブな心の投影が生じやすい社会的背景が濃厚にありますが、とりわけ他者のエゴを指摘するような行為の背景には、本人が自覚していないレベルでの心の問題が潜んでいるのが一般的です。

taoさんのように、スピリチュアルな価値観を背景としてエゴの問題を語る人々は多いですが、スピリチュアルな世界に係わる人々の多くに、そうしたエゴの教えは濃厚に影響しています。

その影響が、プラスに作用する方向の影響であれば良いのですが、残念ながらマイナスの作用が非常に多いのを眼にします。

せめて創造的な対話を可能にするような指摘であれば良いのですが、どうやらそれは少ないのです。

これは日本人が歴史的に抱えてきた問題の一端でもあり、それを自覚的に乗り越えていく方向性を指し示すスピリチュアルな教えでならないと考えます。

以上の点を踏まえて、何かコメントを頂けるとありがたいですね。

英語の本の翻訳上の問題を指摘するならば、エゴやマインドという言葉は、そのまま日本語にしたのが間違いではないかとすら思います。


他者のエゴを指摘することは、相手が納得するような具体性のある指摘でなければ無意味なのは、すでに述べた通りですが、一般的なエゴの考察も、悟りを得たマスターなどの語るエゴに係わる教えは一応別として、概してあまり意味がないものです。

では、自分自身のエゴについての洞察はどうなのかについて考えてみたいと思います。

taoさんが、動機の重要性について指摘していますが、もしろんそれは当然のことだとしても、何よりも問題なのは、果たして正確な自己認識がどこまで可能かです。

これは自分のエゴだという認識が、果たしていつも正しいのかどうか、という大きな疑問があります。

結論から言って、エゴに係わる心の傾向性や癖に関しては、大多数の人々にとって正確な自己認識が難しいのが普通です。
正しく自己認識しているつもりでも、実はバイアスの掛かった自己認識になっていることなど日常茶飯事であり、自分のエゴを的確に捉えることは、それほど容易ではありません。

自分が、誰かや何かをを否定したい気分に捕らわれている時に、それは表面的な認識としてはエゴだと感じられると思うのですが、しかし、その気分や感情自体が、実は自分ではないこともありますし、関係性に由来する一時的な気分や感情に過ぎず、その奥に隠されたエゴがあるとは限らないことも多いものです。

スピリチュアルマスターなどが語るエゴとは、より深いルーツに由来する、マインドの機能の根幹に係わる幻想的自己の在り方を指していますが、そうした意味からも、一時的な心の状態に捕らわれてエゴについて語っても、あまり意味がないわけです。

無意識の領域を扱う教えは、たとえば仏教の唯識の教えなどにもありますが、これが西洋で発展した無意識を扱う心理学の代用になるかというと、これも大いに疑問があります。

しかし、スピリチュアルな教えのなかでエゴについて語るのであれば、無意識というテーマは避けて通れません。

その際に、無意識の中身を洞察することが、より深いエゴの教えの前提になるハズです。

しかし、インドのマスターなどが、エゴの教えの前提となる無意識の領域については、概して西洋の心理療法家のような理解が欠落しているために、エゴに係わる教えが平板になってしまったのです。

そして、それだけならまだしも、インドのマスターの教えなどが、エゴについての安易な図式化された考え方を招くことになり、それがしばしば他者批判の口実にされている点に、大きな問題があると言わざるを得ないのです。
そもそも何がエゴか?って事になると、普段の我々の認識は、すべてエゴだと言うことなのだと思います。

小乗の根本的なメカニズムは、無常ー>無我ー>苦と言うのがベースシステムです。
要するに無常なのに、そうじゃないと思ったり、無我なのに、それも違うと思うので、結局は一切が苦になると言う仕組み。

親が死ねば悲しいのは無常が判ってないからだし、この人だけは違うと思って恋愛して痛い目に合うのは無我が判っていないから。

けど、そんな事を言われたって、日頃の我々は、これ意外の認識では暮らして行くことは出来ないわけです。

無常を無常として、無我を無我とする事が出来ない以上は、エゴは良くないと言われても、まぁホント程度が酷いのはあるにはあるにしても、結局は、どうにもならないわけです。

無常ー>無我ー>苦の逆回しが、スパイラル構造をもった漸悟な図なわけですが、これでエゴが無くなるか?と言うことだと、やっぱり普段の生活がある以上は無理です。
[057] 温泉さん

全く同感です。

知識として知ってはいても、言葉では上手く説明できないところを解説していただいて助かりました。

エゴについての洞察の基礎には、まさに無常、無我の教えが横たわっていて、そこを踏まえないと正しい理解にはなりませんね。

一般的にインド哲学と仏教とでは、この辺の認識に微妙な違いがあると思いますが、私たちがエゴの問題を考察する際には、まさにこうした仏教の教義に係わる基本的な洞察が、前提として不可避という感じですね。
すみません。
ずっとこのスレッドから遠ざかっていました。
みなさんが活発に話し合っていただいていたことに感謝します。
ありがとうございます。
Gyanさん、詳細なエゴについての議論を興味深く読みました。
おっしゃる通り、他人のエゴをエゴが悪いものだという前提で指摘することはまさにエゴのパワーゲームになるし、それによってマインドコントロールさえ起きかねない危険性もありますね。カルトにさえなりかねないですね。

私がここにあげた6つのゲームは、自分のエゴがどんな風に活動しているのかを知る手がかりとして自分にとって役に立ってきたので、みなさんに紹介しました。
平源太さんのおっしゃていることに関連してくると思いますが、自分がエゴの6つのゲームに夢中になっている時に、私の中には愛が不在であることに気づきます。
エゴのゲームに自分のエネルギーが流れていない時に私の中に愛があります。

Gyamさんの言う通り、創造的対話が大切だと思います。
感謝。
>一般的にインド哲学と仏教とでは、この辺の認識に微妙な違いがあると思いますが、

小乗が、大きくインド哲学を進化させたのは、まぁ事実でしょう。

ただし、キャッチアップされちゃって、型遅れになってしまったわけですw

けどまぁ、そのぶん幼稚なので、解りやすいと言う所はメリットだと思います。

>私たちがエゴの問題を考察する際には、まさにこうした仏教の教義に係わる基本的な洞察が、前提として不可避という感じですね。

結局、瞑想なんかしていると、日頃は全部エゴしかないってのが、判るわけです。

で、小乗は、こういう言わば結界みたいな世界に住めって事になるわけだけど、それも無理よねぇ?と思うわけですw

>エゴのゲームに自分のエネルギーが流れていない時に私の中に愛があります。

これも、その通りなのですが、お持ち帰り出来ないんですよねw

何にもならない悟らない(無所得無所悟)なわけです。

と、言うことで、ひたすら瞑想することになってしまうわけですw
[061] taoさん

コメントありがとうございます。

改めて幾つか質問などしたいと思います。

[062] 温泉さん

温泉さんの考えが非常によくわかりました。

なるほど、かなり納得できます。

>結局、瞑想なんかしていると、日頃は全部エゴしかないってのが、判るわけです。

ある意味では確かにそうですね。

空ないしサマーディの状態ではマインドやエゴは消えますが、日常のなかではマインドやエゴがあり、それが普通の状態ですね。

>>エゴのゲームに自分のエネルギーが流れていない時に私の中に愛があります。

>これも、その通りなのですが、お持ち帰り出来ないんですよねw

確かに持ち帰れませんね。

しかし、ワンネスとか空についての認識の違いがあり、完全な誤解も広まっていますね。
>しかし、ワンネスとか空についての認識の違いがあり、完全な誤解も広まっていますね。

結局、持ち帰れると誤解したり、させたりしてるのが問題なのだろうと思っています。

持ち帰れないから、何にもならない。

持ち帰れないから、悟らない。

わけです。

更に酷いと思うのは、禅で言う廓然無聖と言うのが何の事かハッキリ判るような人らでも、誤解させて回る人らも実際に結構居る事です。

やっぱ真理なんか判った所で、生活があるので、曲げてしまうんだろうか?と思います。
と言うか、持ち帰れませんから、何にもならないし、悟りもしませんよ?じゃ、お客こないでしょう?

そんな都合良く、あんたは人間が一合なので、一合用真理をお持ち帰り出来ます!とか、ある筈も無いんですw
言われてるように、エゴ、マインド、暴力性、自己中など、かなり実際は混乱した使われ方をしていますよね?

けどインド系は、やっぱ苦がベース部分にあるんです。けどそんなもんは西洋にも日本にも無いです。

つまり無常と無我が、苦つまりエゴを生んでいるし、一切は苦と言うくらいで、一切はエゴなわけです。

けど、そんなこたーなくて、楽もあるじゃん?って平気で思うくらい我々の認識はボケているわけです。

エゴと言うより、仏教で言ってる苦の事よ?と言ったほうが、まだ正解に近いと思います。

もう少し言うと、無常とか無我を他のインド系が正確にキャッチアップした事が、小乗がインドで滅びる直接的な理由なんです。

そうこうしてると、空までキャッチアップされ、大乗もアウトになりましたw

金剛乗は、もうキャッチアップされちゃって下火になったので、仏教側が逆にキャッチアップに行ったもの。

けど人気挽回までは行かず、逆に奴隷王朝の時に仏教(金剛乗)は、弾圧され禁止された経緯。

と言うわけで、苦とか空とか、かなり当たり前にベースシステムではあるんです。

で、インド人から見た我々を含めた外人には、ここの部分が無いんですw
温泉さんの表現は専門用語が多く行間に情報が詰め込まれているので、きちんと温泉さんが語ろうとしていることを正確に理解しているのかどうかわからないのですが、自分なりに分かって来たような気がするので、自分の考えを述べます。

「やっぱ真理なんか判った所で、生活があるので、曲げてしまうんだろうか?と思います。
と言うか、持ち帰れませんから、何にもならないし、悟りもしませんよ?じゃ、お客こないでしょう?」

真理と日常生活、悟りと日常生活のことを語っていると理解したのですが、確かにこのギャップに、真理体験や瞑想体験が深ければ深いほど、その後の日常生活をどのように過ごせばいいのかは大きな課題になると思います。
私自身、最初の小悟の体験、それに続いてOSHOの元で起きた悟り体験の後、会社員生活が極めて苦痛になり、バランスを崩しました。周囲に対して今にしてみれば非常に恥ずかしいのですが、傲慢不遜な態度で自分勝手な行動を取り、それを、さらに恥ずかしい限りですが、自由ないきかたと勘違いして、随分、人を傷つけたり、迷惑をかけました。
その痛恨の数限りない失敗と失態からまなんだことは、本当の真理や悟りは日常の平々凡々とした当たり前の生活の中でこそ深まり続けていくということです。
日常生活の一コマ一コマを感謝と喜びと学びとともに普通に暮らしていくことが最高の修行だと思います。
ワンネスの教えに戻ると、日々の生活の中で苦しみから逃げて苦しんでいる自分の無意識のパターンに気づきの光を当て、一つ一つ解放されていくことが私たちの祝福された人生そのものだと思っています。
おひさしぶりです。お元気でしょうか?

>真理と日常生活、悟りと日常生活のことを語っていると理解したのですが、確かにこのギャップに、真理体験や瞑想体験が深ければ深いほど、その後の日常生活をどのように過ごせばいいのかは大きな課題になると思います。

ひとつには、それです。

ところが相手は無限の深さがあるので、到達することはあっても極まると言う事は無いわけです。
従って、もう終わりにしようか?とは成らないわけで、最初ほど酷くは無いにしても、追及を止めない以上はギャップは埋まり切らないわけです。

>周囲に対して今にしてみれば非常に恥ずかしいのですが、傲慢不遜な態度で自分勝手な行動を取り、それを、さらに恥ずかしい限りですが、自由ないきかたと勘違いして、随分、人を傷つけたり、迷惑をかけました。

誰でも最初に到達したときは、ひどくバランスを崩すようですね。

特に一気に到達した場合が、ひどいようです。

ものごとが、えらくハッキリする反面、何をどうしたら良いか判らなくなるわけですよね。

無住処涅槃、無所得無所悟と言うのですけど、色々な解釈が成り立つにしても、到達してもそこには住めないし得る事も悟る事も無いと言うような意味です。

けどここからが問題で、どこかで価値観そのものが全体的に変わってしまって、言ってしまえば別人として生きていく事になるわけです。

>日常生活の一コマ一コマを感謝と喜びと学びとともに普通に暮らしていくことが最高の修行だと思います。

おっしゃる通りで、その後は徹底的に今にあるような生き方に、変わってくるわけですよね?

いわゆる覚りを消すような生き方になるわけですが、やっぱり修行も続くわけでして。

[069] 温泉さん

>ところが相手は無限の深さがあるので、到達することはあっても極まると言う事は無いわけです。

なるほど、やはりそこの処は同じなのですね。

純粋意識の覚醒が深まると、ほとんど底無し沼みたいなもので、まさに無限の深さがある感じです。

アジズは、ステート・オブ・プレゼンスと絶対状態とを段階的に区別していますが、ぼくの体験では連続的なプロセスでしたから、自分の体験の意味が知的に把握できるまでに非常に15年以上もかかったものです。

>自分の体験の意味が知的に把握できるまでに非常に15年以上もかかったものです。

はい、結局その時は何だったのかが、ろくに判らないわけですよね?

私は、ある時瞑想していると、自分の代わりに別人が座っていましたw
それまでの私は追い出されてしまって、帰る所が無くなりましたw

なんじゃこりゃ?なわけですけど、こっちの人はさも当然のようにどこまでも深い所に行くのですよ。

普通に言えば、心が無くなるとでも言えば良いんだろうけど、早い話が別人に乗っ取られたみたいなものです。
徐々に変わっていくとか、おだやかなものでは無かったので、数日は身動きすら取れませんでした。

こんなのが自分なりでも説明できるようになるとは思っていなかったし、したいとも思いませんでしたが
やっぱり気になるので、結局はあれこれ探したわけです。

無限の深さがあるから、有限の我々には入りきらないし、また極める事を悟りと言うのなら、極まらないです。

まぁ、そんな感じの結論になりました。
温泉さん

はい。ご無沙汰しています。
また金曜日の瞑想会に来てください。

探求は続きますね。

ただある地点までは到達したいという切迫した想いとともに探求、修行は続きますが、ある地点から、それはどこまでも深まっていく喜びの修行、探求、自己発見、成長の旅に変わりますね。

[071] 温泉さん

全く同じではないですが、ぼくも似たような状態になりましたから、その感覚は分かります。

ぼくの場合には、最初に純粋意識に覚醒した時から、それに近い感覚がありました。

完全にそれまでとは異なったスペースにいきなり入った感じでしたね。

それから厳密には純粋意識に覚醒した状態に入ってもマインドは微妙に残りますね。
インドのグルなどは、マインドが消えると語っていますが、アジズが語っているように厳密にはマインドが微妙に残るので、それは違うわけです。

その後、何年も経ってから、ヨガの修行を本格的にやり始めた時に、ヨガで言われるサマーディと、仏教の三昧(サマーディ)とは種類が異なるのではないか、という疑問に突き当たりました。

それに対して、一応の回答が得られたのは、ようやく最近になってからでした。

このところ、ぼくの知人、友人には悟ったと主張している人たちが増えているのですが、ぼくの印象では、どうも皆さんサマーディの体験はしているけれども、本来の仏教的な空の体験はしていないように思えます。

厳密には、もともと空というのは純粋意識に覚醒した状態を指していたように思えるのです。

それとは別な悟りも確かにあるのは、アジズの語るハートの覚醒ということで納得できましたが、やはり純粋意識に覚醒するのが入口としても無難というか、良いように思うんですね。

>完全にそれまでとは異なったスペースにいきなり入った感じでしたね。

別室に入った感じと言う所でしょうかね?

けど、この別室は、普段の自分は入れないんです。

別室に、別の人が入ると言う感じが近いかもしれません。

どこかで普段の自分は置いて行かれるわけです。

>ぼくの印象では、どうも皆さんサマーディの体験はしているけれども、本来の仏教的な空の体験はしていないように思えます。

ようするに無と空の違いの事だと思います。

サマデイと言うのは階梯的な表現で、結局は無も空も一緒に扱うわけですよ。

大乗は慈悲が大事だとか、救済が大事だとか言うわけだけど、これの元も、この違いで、大乗だから慈悲とか救済が大事なのではなく、空が無とは違うと言うだけの事です。

ようするに、サマデイに達したとき、軸足がどこにあったのかがポイントで、元々の軸足でサマデイに達したのなら、空では無くて無なわけです。

小乗は、この軸足を崩さないので、無が限度なわけですが、軸足を無のほうに移さないと空にはならないわけです。

けど、まぁ何を悟りと呼ぶかは、それぞれなので、そういう表現もあるんかな?とは思いますけどねw
[074] 温泉さん

確かに、この自分では別室に入れないです。

自分が座っているのではなく、完全に仏陀が座っているという感じです。

その時には、肉体感覚は無くなり、何も思考は浮かばず、普通の意味での感情も一切湧いてきません。

微妙にマインドがあるというのは、歴然とした光は感じるし、意識自体を意識していることが分かり、何とも名状しがたい至福の感覚があるからです。

そして無限の深みを感じます。

時間の感覚が消えるので、後から振り返って「いまここ」というのは、これなんだな、と分かりましたね。

>確かに、この自分では別室に入れないです。
>自分が座っているのではなく、完全に仏陀が座っているという感じです。

はい、ここがポイントなわけですよね。

早い話が瞑想なんて自分でやってるわけではなくて、やって貰っているわけですw

最初にセットアップだけしたら、後はお任せだから、一日に10時間でも出来るけど、
これを1時間でも普段の自分がやった事には、もう大変な話なわけです。

この、お任せが出来るには、やっぱそれなりに座らないと無理なわけです。

>その時には、肉体感覚は無くなり、何も思考は浮かばず、普通の意味での感情も一切湧いてきません。

感覚が無いと言うか、体ごと消えるんですよね?

最初の頃は全部は消えないで、部分的に消えるものだから、これもなんじゃこりゃ?でした。

また、瞑想中は考え事をするな!ではなくて、結局は勝手に止まるんですよね。考え事に体が反応すると
感情になるわけだけど、考え事が止まると、感情も止まりますよね。

>そして無限の深みを感じます。

ここで一発、振り返ると無から空になるわけです。

>時間の感覚が消えるので、後から振り返って「いまここ」というのは、これなんだな、と分かりましたね。

その通り。けど、こういう事が感覚的に判らないのに「いまここ」ってのが氾濫するから困りなわけですw

お任せして、振り返れるか?と言うのが結局は空なんですw
>エゴの6つのゲームというのも、自己中心性のことであり、英語のエゴの意味からすると、ズレがある感じです。

ずいぶん前の所ですが、ここは重要な所ですね。

では、瞑想が旨く行くと現実的に自己中心性が治るのか?と言うと、これは全く何の足しにもなりませんw

あら、こいつ悟ってるだ?って人で、能書きは良いんだけど、実際はダメってケースは山ほどみて来ました。

ハッキリ言って、見えようが、気づこうが、効果はありません。

瞑想のような存在論的な方法では無く、選択論的な手技が必要で、早い話が世間なれするしか、これは治りませんね。

瞑想してる人がエゴが少なく見えたら、その人は元々エゴが少ない人です。

これは、本気で断言できる事です。

076] 温泉さん

全くもって同感です。

グルとか以外で、同じ体験をしている人に、たった1人しか会ったことがなかったのですが、温泉さんが2人目だったのですね。

「いまここ」という教えは、本来は「空」の体験があって始めて理解可能な筈なのですが、真に「空」の体験をしている訳ではないのに、分かった気になって空の教えを語り、「いまここ」について論じている瞑想指導者たちがいて、これは本当に困ったものだと痛感しています。

ぼくの場合には、いきなり身体の感覚が無くなりました。

別な次元の世界に連れていかれた感じです。

ラーマクリシュナが突然サマーディに入り、そのまま数日間も戻って来なかったとか、そんな話を読むと、それも良く分かるんです。

そのうち脚が痛いとか、そんな感じで肉体感覚が戻って来なければ、こちらの世界に戻りたいとは絶対に思わなくなりますね。

それから、こうしたサマーディの場合には、自動的に瞑想状態に連れていかれるので、自分では何もできません。

あとは、どんどん際限もなく深みに連れていかれます。

「いまここ」とは、こうした時間感覚の消失した状態なので、アジズが語っていますが、過去・現在・未来という時間の流れを前提とした、いまこの瞬間の教えではないのです。

ここを根本的に取り違えているので、「いまここ」の教えが、「いまここ主義」になっています。

これが、いろいろな意味でマイナスに作用しているんです。
[077] 温泉さん

>では、瞑想が旨く行くと現実的に自己中心性が治るのか?と言うと、これは全く何の足しにもなりませんw

はい、これも全く同感です。

ヨガのサマーディを成就した人で、人格が破綻しているケースを目の当たりにしたときなど、サマーディによって却って人格に歪みを増したとしか思えないこともありましたね。

>瞑想してる人がエゴが少なく見えたら、その人は元々エゴが少ない人です。

基本的にそうだと思います。

自己中心性については、社会性を身に付けるしか手がないのかもしれません。

エゴイズムについては、内観やセラピーなどで変化するケースも少なくないでしょうけれど、いずれにしても困難な道のりですね。
>「いまここ」とは、こうした時間感覚の消失した状態なので、アジズが語っていますが、過去・現在・未来という時間の流れを前提とした、いまこの瞬間の教えではないのです。

正確に言葉で言えば、無い時なんですw

「いまここが在る!」では無いわけです。

つまり時間から離れると、そこには全てがあるよと言うのが、その教えなのですが、それは時間から離れて始めて何の事だか判ること。

そうなって始めて、「無住処涅槃、無所得無所悟」と言うのが、如何に必然的な話なのか判りますよねw

まぁ興道禅師の「なんにもならない、悟らない」は、さすがにキツいですが、結局そういう事なんですw
[080] 温泉さん

>正確に言葉で言えば、無い時なんですw

>「いまここが在る!」では無いわけです。

>つまり時間から離れると、そこには全てがあるよと言うのが、その教えなのですが、それは時間から離れて始めて何の事だか判ること。

はい、そこが決定的に重要なポイントですね!! そこには全てがありますね。

それにしても、考えてみたらば、日本の仏教研究者の人々の本を読んでいて、そこのポイントを分かりやすく説明している本を読んだことがありません。

誰か語っているのでしょうか?

この肝心なポイントが明確でないと、「空」の教えが曖昧になるのではないか、という疑問があります。

いまここ主義に走るのは、いろいろ弊害も多いのですが、仏教研究者が「空」について正確に論じていないことも、多分に影響しているのかも知れないと思ってしまいます。

ひとつには、元々そうした疑問があったので、温泉さんの語る現代の日本仏教批判が、かなり納得できたわけです。

ぼくには例えば、サティを入れるというテーラワーダの発想が画期的だとか、大乗仏教の坊さんが説いているのが、何とも陳腐にしか見えないわけですが、お陰さまでいろいろ納得できました。
>いまここ主義に走るのは、いろいろ弊害も多いのですが、仏教研究者が「空」について正確に論じていないことも、多分に影響しているのかも知れないと思ってしまいます。

まぁ、体験ベースな部分が無いと、言葉でそれを語っても、共感には至らないと思います。

そもそも仏教は、答えのありかを示す事はあっても、答えを示さないのは、良い意味で言えば、それだと思います。

しかし実際には体験がある人が極端に少ないから、語りようも無いと言うのが実際だとは思いますけどね。

>ぼくには例えば、サティを入れるというテーラワーダの発想が画期的だとか、大乗仏教の坊さんが説いているのが、何とも陳腐にしか見えないわけですが

まぁ、そもそも葬式以外の事が話題になる坊さんは、こんなレベルでも平均点以上なんです。

実際には、瞑想する類の宗門でさえ、言語でサティを入れるのが、何故ダメなのか言える人のほうが少ないと思います。

主体と客体が分離しないのが瞑想で、言葉と言うのはそれを分離させる最も代表的なものです。

瞑想中に言語化は、そもそも出来ないし、言語的に気づくことが、瞑想の気づきでは無いわけです。

そんなものが瞑想なら、道路で赤信号に気がついても、十分立派な気づきの瞑想と言うことになるわけですw

お話したように、そもそも小乗のくせに清浄道論に従えない人らの典型的な瞑想がこれなのでして、更に、それを大乗が見て、良いかどうかも判らないってのが現実なのだから、ボケとツッコミではなく、ボケとボケなわけですw

なんとか漫才師レベルにまで上がって来て欲しい所ですw
最初のエゴの定義があまりにも恣意的だ。政治家など知的な人にありがちな欠点を列挙したに過ぎない。

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