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日本古代史の謎コミュの機内王朝の起源(+邪馬台国との関連)

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どういうトピ名にしようか迷ったんですが「機内王朝の起源」と言うことにしました。奈良時代に東北以北を除き日本を支配することになる畿内王朝の起源はどこなのか?ここでは日本古代史における根源的なテーマについて気楽に話をしていけたらと思っています。

 畿内王朝が誕生したのがいつごろなのかと言うことに対しても諸説あると思いますが4世紀〜5世紀と言うのが常識的な線でしょうか?
いつも思うのですが古代エジプトにしても中国の王朝にしても紀元前3千年ぐらいのことまでいろいろ判明しています。それに比べてわが日本に付いては
せいぜい1700年ぐらい前のことですらほとんどわかっていない。邪馬台国に関して言えば所在地すらわかっていないわけです。それは長い間日本が無文字社会であったということ、史書が編纂されたのは既に畿内王朝が律令制で日本を支配するようになってからのことです。すなわち畿内王朝に都合のいいように書かれた可能性が非常に高いわけです。このトピでは記紀や風土記、あるいは史跡・遺跡
等から機内王朝の起源はどこなのか、そして邪馬台国との関係はどうなのかと言うことについて話題にしたいと思っています。

コメント(9)

では僕から・・・

邪馬台国は吉備にあった。そしてその邪馬台国は四国・吉備・出雲・播磨の各王朝の連合国であった。そして邪馬台国の王族の一部が新たに畿内に進出して作ったのが畿内王朝、後に畿内王朝は勢力を伸ばし出雲を懐柔、出自地である吉備を征服した。(それが出雲国譲り伝説であり吉備の反乱記事)

 と言うのが僕の今の基本的な考え方です。

こんにちは。
遅ればせながら書かせていただきます。

実は邪馬台国というのは倭国の首都で国ではありません。
これが混乱の元でもあるのです。
つまり倭国の首都としての邪馬台国なのか、卑弥呼が居た場所が邪馬台国なのか? で混乱しているのです。
江戸時代の国学者だった本居宣長の推察によると、本来倭国の首都として畿内大和にあったのが邪馬台国で、卑弥呼の居た北九州勢力の制圧に乗り出した結果、身を守ろうとした卑弥呼が倭国王を名乗り魏に使者を送ったのだろうというのです。
卑弥呼は嘘をついて親魏倭王の称号を得ることで魏の後ろ盾を得て、北九州勢力を守ろうとしたのですが叶わず滅んでしまったのです。
その結果、魏では卑弥呼の居た邪馬台国を倭国の首都と認識してしまったのです。
倭国の内戦の都合で虚偽の報告があったため、後に邪馬台国を検索したときに一方では北九州までの道のり、一方では本来の邪馬台国である畿内までの道のりが存在していたのです。
魏志倭人伝のよく分からない邪馬台国までの道のりができあがったのはそのような理由からだと考えられます。

卑弥呼が居た魏志倭人伝に登場する邪馬台国は北九州のことで、纒向遺跡や箸墓古墳などの遺跡は倭国の首都であった本来の邪馬台国だろうと思われます。
邪馬台国は岩手県八幡平と言う説を読みましたが それもありかなと思っています
邪馬台国大和説は考古学者が、三角縁神獣鏡や前方後円墳の分布から推論しているだけです。たしかに魏との交流は畿内ともあったでしょうし、前方後円墳は畿内の方が多かったかもしれませんが、三世紀中頃までに筑紫倭国、出雲倭国、大和倭国が統合されていた根拠はありません。三倭国とも倭人の国なので、高天原(任那・加羅)や海原(壱岐・対馬)との交流が深く、文化的に統一性があったので、考古学的には一つの国に見えたかもしれません。でも記紀説話では景行天皇の筑紫遠征までは、三倭国統合の動きは全く伺えません。
 それに女王卑弥呼の墓を箸墓古墳に比定してしまいますと、百襲媛伝承ともろに矛盾します。百襲媛ハ四世紀初めでしょうし、女王ではなく、三輪山大物主神の御杖代、神の花嫁です。女王と祟り神の花嫁が兼任というのはおかしいわけで、どうしてそういう誤解が生じたのかということに何の説明もできない以上、説得力はないでしょう。
 むしろ筑紫倭国は熊襲に滅ぼされてしまって、史料もなく、語り部も皆殺されたと考えますと、筑紫倭国の女王卑弥呼の伝承が記紀に名残がないのは当然ということになります。
>>[5] 魏では使われていない鏡ですからね。倭国用につくったということになっています。中国での製造の遺跡などがはっきりしないといえませんが。国産とすると呉の工人が作ったのではと言われています。私の親友だった藤田友治さんはこの問題にかなり深く関わっておられましたね。

 百襲媛は孝霊天皇の娘だとしたら、卑弥呼と没年が近いかもしれないのですが、応神天皇の十年の記事にて出来まして、そこで大物主神と御杖代になってご神体の小さな白蛇を見て驚いて、箸で女陰を突いて亡くなった箸墓伝説があり、没年が離れます。応神天皇が祟り神で苦労されたので、祟り神系の話をここに集めたのかもしれません。元々は孝霊天皇の娘でいいのかも。いずれにしても大王ではなく、祟り神に捧げられた御杖代・神の花嫁なのです。呪術に長けていたからといって祟り神の花嫁が大王を兼ねる事はありえないでしょう。どうしてそういう誤解が生じたかなんらかの説明がないとなっとくできませんね。
ホツマ読みましょう。
すべて解決しますよ^^
http://gejirin.com/

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