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日本古代史の謎コミュの『壬申の乱と古代の皇位継承』

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(日記の続きです)

刀が反り始めるのは平安時代、壬申の乱のころはまっすぐだった。このカタチでは「斬る」ことはできず「叩く」か「突き通す」。しかも位の高い貴人しか刀はもっていなかった。

多くの兵士は、農民で、土地の豪族にある日突然召集され、どこかに連れていかれ、戦う理由も相手も告げられずに「突撃」させられただろうという。理由や相手を知ることは「考える」ことにつながるからだ。

彼らに与えられた武器のほとんどは、両端を削って尖らせた「棒」だった。これで相手を突くわけだ。

義理も恩もなく、突然召集されて訳もわからず戦うことになった彼らが現場でなにを考えたと想像しよう。どちらも「無事に逃げる」ことしか思い浮かばなかったに違いない。

いわれたのでやむなく突撃する。多少の小競り合いがすめば、どちらかが優勢になる。劣勢とみるやいなや、全員が一目散に逃げ出したことだろう。

追いかける側も、下っ端の農民を殺してしまっては、せっかく領土にしても民がいなくなるわけだから、深追いはしないはず。敵の大将さえ命をとれば、民はなるべくたくさん生かしておきたいという心理が働く。

結果的に、一週間にわたる戦闘で出た死者はあまり多くはないことが予測できる。記録に残されれた派手な戦闘はじつはなかったのではないか、というの主張は面白かった。

ほかにも、なぜ吉野を立った大海人の行く先々にまとまった兵士が「あらかじめ」集まっていたのか?という疑問。これにも説得力ある仮説を開示。

天智は当時、唐の圧力により新羅への派兵を計画したが、白村江の惨敗で関西以西にはもはや戦闘可能な成年男子はほとんど残っていなかった。新羅出兵のため、東国を中心に兵を集めていた可能性が高い。大海人はここをたどりながら兵を集めていったという。

真偽はともかく、半世紀ぶりに刊行されたまともな研究本。この日はお金がなくて購入できず。惜しい。

コメント(12)

吉野族、というのは初めてききました。あったとしたら渡来系の血脈でしょうか?

出家後に隠棲する場所として、古来から皇室の厚い崇敬を集める吉野は一番妥当だったのではないでしょうか。ヤタガラスの伝承もあるとおりもともと皇室とたいへん深い関係のあるエリアだと思います。

また個人的には、いったん南に南下したのち、東側から大津に攻め入る「かたち」が必要だったんだと思います。
方位をたがえるための霊的な作戦。神武が大和を征圧したときも、いったん伊勢方面にまわり東から太陽を背にして、でした。

そして前述したように、吉野から名古屋方面に抜ける途上には、新羅攻めのために動員された兵士があらかじめ、集団で待機していました。おそらく彼らは厭戦ムードが強かったでしょうから、新羅に戦争にいくくらいなら大友を倒しちゃえ、という話は、他の人間ならともかく人間的にも強い魅力を備えた前帝の弟・天武の言葉であれば、強い説得力をもったことと思います。

霊的にも、戦略的にも周到に練られた作戦行動だったのだと思います。

ちなみに天智、天武、持統あたりから、それまでの古代的太陽信仰にもとづく「東西軸」の文化から、中国渡来の陰陽五行に裏打ちされた「南北軸」の文化が猛烈な勢いで混入してきます。左右に加え、上下の動きが活発になります。吉野南下のみならず、何度も都を南北軸で移動し始めるのもこれ以降です。

壬申の乱は日本にとって、そんな新しい折衷文化の時代の幕開けでもあったわけです。
はじめまして!
大学で壬申の乱の研究をしています。よろしくお願いします!
そもそも大海人王子って本当は何者なんでしょうか?
天智の弟ってのはどうも信じがたいんですよね。
>ほーてんさん

そ!!そーなんですよ。そもそも何モノ?何人??

中丸薫という人の本では、外見もあきらかな西アジア系の血を引く外国人説がいわれているし、関裕二さんも原田常治説から展開して実像を書き直そうとしてます。

あれだけの人物なのに前半生がまったく記録がないなんて。。
絶対におかしいし、なにか隠されているはず、です。
seraphim(彰穏)さん

外国人ってのはともかくとして、私は九州王朝のながれをくむ人
なのでは?と思っています。
やはり挙兵の折にあれほどの支持を得るためには、なにがしらの
権威が必要だと思われるので。

九州王朝自体の存在を認めない人には寝言に聞こえるでしょうけど。
これまで読んだ本を総合的に考えて、自分としては当時の中国・半島情勢を背景にしたパワーバランスの枠組みで考えるのが正しいと思っています。

そしてひとつひとつの点ではなく、最低「乙支の変」から「近江遷都」「白村江敗戦」「壬申の乱」までは大きな因果関係で把握しないとわからないと思っています。

同じ舒明天皇と斎明天皇のこどもといっても、この兄弟の政治的・民族的背景はまったく違ったもののようです。中大兄は、百済復興を目標とする亡命王族である中臣鎌足とタッグを組む「親百済派」で九州・日向王朝の利権代表者、対する大海人は
出雲王朝系豪族の利権を代表し、徹底して反唐・自主独立路線を貫く「反唐派」であったという見方に賛成です。

中大兄が鎌足と共謀し、親新羅(唐)に舵をとろうとする出雲系の蘇我入鹿を暗殺し、百済救援と称して白村江に派兵するも敗戦(このとき弟の大海人は戦にはまったくノータッチです)、帰国後も出雲系の皇太子・大海人が治める飛鳥にはもどれず、やむなく近江京を作るも程なく病を得て。。。

ここから先はよく知られる壬申の乱の顛末です。

注目したいのは、大海人を支える大きな勢力があったのはもちろんですが、その構成をみると蘇我氏をはじめとする出雲系といわれる豪族がとても多いのです。
乱のクライマックス、ここ一番で近江軍の総大将を、仲間割れで殺してしまったのも、近江朝側の蘇我一族でした。
もともとその気だったとしか思えませんです。

つまり、蘇我一族は乙支の変以降、大きな恨みと再興の夢をもちながら近江朝に属しつつ、出雲系の正当な大王たる大海人の決起を一族あげて陰に陽に支援したというわけです。

一連の流れのなかで、やはり「大海人」がぼくにはもっとも興味深い人物です。そしてその母「斎明」。。。
舒明の嫁ぐ以前に「高向王」なる人物と結婚しており、こどもももうけていたこの女帝が、古代史最大の謎をとく鍵を握っていると感じています。高向王との間の子供の名前をめぐっては諸説ありますが、はて真実のところ、一体それは誰だったんでしょうか???
興味はつきませんです。
天智と天武が兄弟ではなかった説は昔からあります。
最近知ったのですが、京都東山にある皇室唯一の菩提寺「御寺(みてら)泉湧寺」には、

「天智天皇とその子孫しか、弔われておらず、天武系列は、完全に外されて」いて、天武以下8代の分の位牌が「ない」そうです。この期間だけは「万世一系」から除外されているようですね。

天武=新羅王族の方、というのがぼくが知っている説です。
(真偽のほどはもちろんわかりません。。。)
>天智と天武が兄弟ではなかった説は昔からあります。
その点についてはきっとその通りなんでしょうね。
いくら古代のこととはいえ娘を四人も嫁がせるのはやはり異常ですしね。
しかしそれだけ重要な人物だったことは間違いないですが。
ですが天武=新羅王族ならば、あえてそのことを唐や半島の史書
が記載していないのは腑に落ちません。
また史書に書き漏らしていても伝承が半島に残っているのではないでしょうか?
>天武=新羅王族ならば、あえてそのことを唐や半島の史書が記載していないのは腑に落ちません。

「日本はかつて朝鮮人が建国した国だ」などと書けば日本軍が激怒して押し寄せてくるだけで、朝鮮には何のメリットもないからでしょう。
まして朝鮮の最初の史書である『三国史記』が成立したのは12世紀で、日本ではぼちぼち鎌倉時代が始まろうかという時代。
お互い、6〜7世紀のゴタゴタをぶり返してるような場合ではなかったはずです。

中国も同様で、周辺諸国の反逆によっていくつもの王朝がつぶされている歴史があるだけに、いたずらに周辺諸国を刺激するような内容のことは書かなかったでしょう。

自国の歴史に関して国民にウソをついてるのはどこの国も似たようなものですから、お互いに外から火の手を上げるようなことは避け、対外交渉史に関してはそれぞれ当たり障りのないことしか書かないという、国際的な暗黙の了解があったのだと私は思います。

ちなみに、私は天武は新羅王族ではなく、高句麗系日本人だったと見ています。
天智は完全に百済王家だったと思いますけどね。

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