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日本史 異説!逆説!こぼれ話?コミュの本能寺の変!!

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先日、信長の棺というドラマをやっていたそうで、まだビデオに録ってみてないんですけど、そろそろこのお題を話してみてもいいかなと思い作ってみました。

ご存知本能寺の変、以前僕がなにかでみたのは、本当は信長の指示で明智軍を呼び寄せていて、天皇?朝廷?へ信長が攻め込もうとしていたというもの。
だから信長自身は兵を連れておらず、何万もの軍勢が近付いて来ているのに逃げなかったというのだ。
当時の鎧はいくら静かに歩こうとしてもかなり音が鳴ってしまいいくら兵の数を減らしても全く気付かないのはおかしい!という話でした。
しかし、明智は土壇場で信長を恐れ、裏切ってしまった。
ゆえに本当の本能寺の変は信長自身だった!!・・・?らしい。

そんな話だったような気がします。

本能寺の変については、犯人や消えた信長、いろんなお話があると思います。
いろんな諸説ございましたら、ぜひお聞かせくださいませ^^

コメント(147)

本能寺はフロイスの「日本史」の記述通りでいいと思います。

本能寺の下に火薬庫があったというのは本当の話なんすかねー?
>>110
征夷大将軍は、源氏以外でもなった人が多いので、あくまで頼朝以降の慣例、ですね。これは、源平交代説にも利用されたりしてちょっと混乱しやすいところなんですが。

家康は将軍宣下の時に氏の長者になってますね。これも、徳川改姓の時に「藤原氏としてなら認めるが源氏ではない」と朝廷にきっぱりと言われ、その後権力を得るにしたがって「系図買い」がはっきりしてしまった、というゴチャゴチャした事情があります。
ちなみに宣下の時には他にも「呼称」をもらっており、家康の強大さがよくわかりますネ。

火薬庫、というのは最初は矢切さんでしたかね、言い出したの。
その後「信長の棺」というかなり売れた小説で広まったようですか。
本能寺はあの種子島とも若干のつながりがあるのでは、というのを井沢がなにかで書いてましたが、これもネタとして楽しむならなかなか面白いところでしょうか。

イエズス会が黒幕、というのは京子ちゃんが主張したもので、安倍とか小説家さんたちがたまに使用したりしてますネ。
かなり無理してるようなのがなんとも・・
> 常駐3号さん
発掘調査が進んでいるのであればあるでわかりそうなもんですよね。
>>112
私有地が多くてあまり進んでないようなんですが、「このあたりだ」と見当をつけて掘って「瓦」が出たのにはびっくりしましたね。
>114
レスの内容には全く関係ない話で申し訳ないのですが、改行と句読点を活用された方が宜しいかと。
最近この人が本を出版しました。

明智 憲三郎(あけち けんざぶろう)さんと言うそうです。

プロフィール
明智残党狩りの手を逃れた光秀の子、於寉丸(おづるまる)の血筋。

3月9日出版。
『本能寺の変 427年目の真実』

今までに社会の明るみに出るだろうと信じたが…結局その真実が出なかったらしく…

未だに謀反人としての汚名が消えていない現実…

とうとう語られる本能寺の変の真実がここに出る事になったそうです。

プレジデント社です。


自分この本買って読みましたが、結構納得させられました。
皆さんも是非読んで見るといいですよ。

沢山の人が絡んできます。
>ノブヤカ 2さん

ノブヤカ 2さんの書き込みを見て、興味が湧いて

明智 憲三郎さんの『本能寺の変 427年目の真実』を

購入して読みました。

本当に納得できる内容にビックリしました。

この本に書かれてる事が真実かも!?って思ってます。。。


> シャコタン☆武技さん

俺は歴史の改ざんって本当にあったと実感しました。
太平洋戦争時にも改ざんはありましたからねぇ〜。

今の時代と違い、テレビ、ラジオ、ビデオ、DVDなどのメディアや記録が残り誰しもが手に入りやすい物がない時代ですからねぇ〜バッド(下向き矢印)

納得してくれる人がいて嬉しい限りです。

明智光秀好きな人は是非とも読んで頂きたい本ではあります。

俺は地道にこの本能寺の変の真実を工夫しながら伝え、どうにか再調査してもらえるように努力するつもりです。
>ノブヤカ 2さん

歴史の真実を追究すると言うのは、とても難しい事だと思います。。。

それが、歴史のターニングポイントとなるような、本能寺の変のような大事件だとなおさらですよねあせあせ(飛び散る汗)

正直、自分は秀吉好きなので、書かれてる内容はショックでしたが・・・たらーっ(汗)

でも歴史の真実は真実として受け止めて、この本能寺の変の真実が歴史の真実として定着してくれればと思います。。。
そんな書籍があるとは知らなかった。読んで見るかな。
私は秀吉が好きではないので楽しめるかもしれませんね。
本能寺の変 427…に興味があるのですがうちの近辺では在庫なし状態です(泣)いつも使うネット販売でもすぐには入らないようで…都内に足を伸ばそうかと思案中です(^-^)
この本、読ませていただきました
今までいろんな本能寺の変の仮説をみてきましたけど
自分の中で、それらが全て1本に繋がった感がありました
本当の真実に近いのかなぁと
でも、やっぱり光秀寄りで少し美化し過ぎてる部分もあるような気がします

やはり本能寺の変の真の真実は時の権力者達により改竄されて封印されてしまったのですね
これぞ真実!という史料が出てきたら本当の真実を知れるのに…
すみません、
『本能寺の変 427年目の真実』
とはどのような内容なのでしょうか?

いわゆる共謀説(秀吉・光秀・家康ら関係者の共謀)ですか?

ネタバレでもいいから教えていただければと思います
(貧乏なので現物が買えない…)
初めて、玄徳さんのその説あるかと思います。信長が京都に行く際には、必ず本能寺に泊まっていたそうです。武器弾薬も西日本征伐の為に貯蔵庫として、活用していたそうですよ。げんに今回の大河ドラマの天地人の本能寺のラストシーンは、爆発炎上しましたよ。
はじめまして。
私は明智光秀の末裔の書かれた、「本能的の変 427年目の真実」なる書籍を購読していませんので、その内容については知りませんが、かなり事件の核心を突く内容が書かれているのでしょうね。
しかし、それが真実かどうかは、今となっては解らない事と思います。

当時の人の書いた書物には、「信長公記」やフロイスの「日本史」があるわけですし、それらで本能寺の変が明智の謀反と記されていることから、当時の日本人にとっても明智の主殺しであると言う認識はあったでしょう。
僕はこのトピの中で何方かが言われていたかも知れませんが、光秀は中国への援軍に向かう途中で、信長が本能寺に少数の供回りで滞在しているのを知っており、配下には徳川家康を討伐する命令を信長から受けたことを名目に、夜間京都本能寺へ夜襲を掛けるべく、軍勢を進めたのでは無いかと思います。
光秀も明智家の当主として、千載一遇の好機を捉えて武門最高の地位、即ち征夷大将軍を狙ったのだと思います。
その動機は、天皇家を脅かす織田の勢力をそぐことであったと思います。
はじめまして。
「本能寺の変」とはちょっと関係ないのですが。。。

春に「本能寺会館」というところに泊まったら
その後いろいろDMが来るようになって。。

現在の本能寺と歴史上の「本能寺の変」の場所が違うことは
ご存知だと思いますが、現在の地に落ち着くまで
本能寺は転々としていたのですね。

少し長いけど、引用文を載せておきます。
写メの写りが悪いのですが、本能寺のあった場所を表しています。

〉No.1意外と知られていない本能寺の歴史
〉本能寺七度の建立

〉?1415(応永22年)、日隆聖人が京都油小路高辻と五条坊門の間に
〉地塔を建立し、それを本応寺と称したのが本能寺創建の起源です。
〉1418年には妙本寺に破脚されてしまいましたが
〉?1429年には小袖屋宗句の援助により内野(西陣)に
〉本応寺を建立しています。
〉?1433年には如意王丸を願主に六角大宮に本能寺を建立しましたが、1563年に
〉「天文の法乱(延暦寺の焼き打ち)」にて焼失し、
〉?その後日承聖人が四条西洞院に新たに建立。しかし1582年世に言う
〉「本能寺の変」で焼失し、1592年に豊臣秀吉の命にて
〉?移転されました。1788年には天明大火で焼失し1840年に同場所に
〉日恩聖人による再建が行われるが、1864年「蛤御門の変」にてまたも
〉焼失してしまいました。
〉1928年現在の本堂再建の際、住職が本能寺の「能」の漢字に
〉ヒヒと付いていることから今度こそ本能寺が火災に遭うことが無いようにと
〉「能」の字を(「ヒヒ」が「去」の字)に変えました。←変換できず。。ふらふら
〉それまでの本能寺は平均すると70年に一度火災に遭っている計算になりますが
〉幸いにして70年を過ぎた現在も焼けることなく続いています。字を変えた
〉効果なのかもしれません。

長々と失礼いたしましたm(_ _)m
お初です。
どうぞよろしく

信長が本能寺に少ない兵力で滞在したのは、信長が阿片常用者だったからでは…寺社の裏手には阿片の栽培がされていて、香炉に焼べていたようです。精神的に安定させたり、高揚を高めたりしたおり、使用していたのではないか?
信長の歯痛持ちは有名だし、森蘭丸との事、あまり知られたくない…
そして明智の軍勢を待ち京に上る。

しかし

だったのではないかと思うのですが??

兵の配置にしても(信忠のいる二条御所には兵を向かわせていなかった)根回しの悪さにしても衝動的な行動としか思えないですね。

衝動の元となった動機としてはやはり怨恨でしょう。
長宗我部との件で顔に泥塗られてますし。

結構穴だらけなこと書いてると思うのでツッコミは大歓迎です。

> 翁仁さん
男色は現在のホモセクシャルとは違いますから、別に人に知られたくない秘密じゃないですよ。
> 王 蕊蕊さん
本能寺の変が光秀の個人的な怨恨ではなく、織田家の権力闘争が表面化した事件だという考え方には同意します。

信雄を担ぎ上げようとしたかどうかはともかく。

信長の天下統一後の自分達の処遇について不安に思っていた諸公も多かっただろうから、それらの目に見えない雰囲気のあと押しがあったのではないかなと思います。

秀吉、家康共に諸公を糾合して政権を確立する際、寛大さと身分の保全をアピールしてますし。(政権確立後は酷薄になるわけですが)

結果的に最初に行動を起こした光秀は謀反人として歴史に名を残す事になりましたが、あるいは秀吉や勝家がその立場になる可能性だってあったんじゃないかと思いますね。
う〜ん・・・・

天皇?朝廷?へ信長が攻め込む・・・・・

のに1万3,000人前後の兵士はいらないと思いますけどね。(兵の数はあいまいですが・・・)

天皇?朝廷?等を守る兵士の装備も軽装だと思うし・・・・・・・

どうなのかな。。。
〉133 夢さま

DMの抜粋です。お恥ずかしい限りです(^^;)
考えてみればWikiを拝見した方がよほど詳しいのでは、と思いましたが
ずぼらな私には、このくらい端的な方が分かりやすいので。。

「本能寺の変 427年目の真実」は拝読していないのですが
○十年前の出版で『信長殺しは秀吉か』という本があります。

細かいことは、もう全く覚えてないのですが
中国路から、あんなに早く秀吉が帰って来られる筈がない。。という
視点から書かれた本だと記憶しています。

さきほど密林覗いてみましたら、信長の弟・織田有楽を探偵役にした
八切止夫著『信長殺しは秀吉か』という本もあるのですね。

史実を検証していく専門家の方々と違って、そこから色んなことを想像して、
それぞれの人物像に迫っていくのは、拝見してとても楽しいですね。

みなさま、色んな説をありがとうございます(^_^)

今、テレビ東京で、本能寺の変の謎をしていますね。
光秀が、生きている!?。
信長の遺体が見つかっていない!?。
パラレルワールドの話でしょうが
どっちでも、面白いですね。
俺は427がより真実に近いと思っています。一応、辻褄は合ってますから。ただ、はっきりした証拠がないのは残念ですね。もっとも、秀吉や家康がそんなものを残しておくはずがありませんが。

信長の遺体が見つからなかったのは、近くの(懇意だった?)お寺の方が救出に向かい、でも間に合わず(すでに自害していた)、火が回る前に遺体を引き取って埋葬したからです。で、のちに秀吉が葬儀を行おうとしたときに、遺体の引き渡しを要請したが拒否されたため、やむなく木像で代用したとか。←なにかの番組でやってました。

火薬庫というか、寺というより城郭に近かったらしいですね。
 明智光秀の正体は斎藤義龍
斎藤義龍→明智光秀→千利休→表:南光坊智楽院(南朝内落胤)、裏:柳生石舟斎
斎藤竜興→古田重勝→古田織部→表:柳生宗矩、裏:服部半蔵
 美濃8代守護・土岐成頼は丹後から逃れた一色兵部少輔義遠の子である。義遠
は八社神社に鐘を奉納したが、元は垂井町清水寺の鐘である。これは天皇家血
筋の成頼を貰った美濃側の返礼で、彼は後醍醐天皇の子孫、長屋親王の血筋で
ある。秀吉、家康が光秀を殺す事が出来ないのは天皇家の崇りを恐れたからだ。
 成頼の孫が頼芸で、道三は彼の愛妾・三芳野を貰った。そのお腹にいたのが
義龍である。だから、一色左京大夫義龍と名乗った。義龍は親殺しと言われて
浄土宗と争って、その混乱の責任をとって、跡を竜興に譲って隠居した。名を
明智光秀と変え、放浪に出た。彼が義昭の幕臣になれたのは一色家の血筋の為。
信長が光秀を家来にしたのは、彼の才能に惚れたからであり、彼に従属する美
濃衆を利用する為である。
 谷汲の頼芸の墓の家紋は二引き両で一色家の家紋である。天海の喜多院の家
紋も同じ。光秀が義龍である証拠は隣の三芳野神社で、母を偲んで名付けた。
 秀吉が利休を切腹させた・嘘のは正体が光秀だとばれたから。家康が織部を
切腹させたのは正体が竜興だとばれたから。
 重勝と織部は本巣市山口で生まれ、同時期に同じ官位を得ている。両者は同
一人物。生れも辰年。
 柳生家の家紋は二階笠で、謂れが坂崎政道から譲られたと言う。しかし、家
紋は血筋を表す大切な物で貰う訳がない。秀吉は重勝に朝鮮役の軍功で唐人笠
三の家紋を与えた。二階笠はその変形である。
 信長は本能寺ではなく二条城で秀吉に殺され、信忠は安土城で家康に殺された。
父子の遺骸を光秀天下防止の為隠した。明智軍記はその秘密隠蔽の為に書かれた。
明智城跡の六親眷属幽魂塔の下から江戸時代の煙管が出た。偽装である。


 豊臣秀吉の出自はサンカである
 ずいずいずっころばし ごまみそずい
お〇んこちん宝はめまくり、ごまのはいの秀吉淀はめっこ
 茶壷に追われて トッピンシャン
茶壷=千利休(光秀)が自分の正体をばらして、秀吉を追及する 
 抜けたらドンドコショ 俵のねずみが
利休切腹で危機を脱して、腹鼓を打って笑う 俵藤太の子孫のはげねずみ(秀吉)が
 米くってチュー チューチューチュー
天下を盗んで(万石取りとなって)チューと鳴いて喜ぶ 
 おっとさんが呼んでもおっかさんが呼んでも
殺された信長の怨霊(おっ父さん)と濃姫が幽界から秀吉を呼んでいるが 
 行きっこなしよ  井戸の周りでお茶碗欠いたのだーれ
なかなか死なない 茶室で茶碗=利休を切腹(芝居)させたのはだれだ
 本能寺の真犯人(鬼)は誰だ               天海(光秀)作
 秀吉の先祖は俵藤太(藤原秀郷)で、木下藤吉郎と名乗ったのも藤の生命力を
崇拝するサンカの末裔だからである。
 秀吉は晩年、信長の怨霊に苦しめられた。方広寺の大仏は信長の慰霊の為に
作られた。自分の嫡子・ひろに出した手紙に、御ひろ様と敬称を使っている。
これは信長の怨霊を恐れていたからである。ひろは信長の血筋である。


 信長殺しの犯人は秀吉と家康
 信長の首塚が静岡県芝川町の西山本門寺の境内にある。寺伝によると、信長
と一緒に本能寺にいた原志摩守宗安が首を介錯した後、本因坊日海の指示によ
って駿河まで運んで塚を築きて柊を植えたと言う。
 しかし、信長を討った光秀は首を確保する為に本能寺にいた者を皆殺しにす
る筈であり、その厳戒態勢を破って脱出する事は不可能である。なぜ傷みやす
い生首を駿河まで運ぶ必要があったのか腑に落ちない。
 魔除けの柊の樹齢が500年である事から、首塚を築いた時期は本能寺の変の
直後である。後水尾天皇の位牌を祀った
尊霊殿を建立して首塚を隠した。尊霊殿の後へ周る事は失礼に当たるので誰も
立ち入れない。首塚を築いた者が信長殺しの犯人であり、自分の領地で信長の
怨霊封じを行っていたのである。

タイムリーにこれが文庫入り。

原田実『トンデモ日本史の真相 史跡お宝編』文芸社文庫
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4286103021/

最初にとりあげられているのが、信長謀殺に関する異説とそれへの反論です。
阿弥陀寺の信長の墓を見に行ったことがあるけど、墓のすぐ裏の家の住民が布団をバンバン叩いていて笑った。
遺骨を持ち帰ったお坊さんのは他には静岡の人もいた気がする。
>タカシ様
>遺骨を持ち帰ったお坊さんのは他には静岡の人もいた気がする。


その坊さんは富士宮の西山本門寺というところに信長首を埋葬したらしいですね。 まあ、ちょっと眉唾ものですが…。やはり信長の葬儀を執り行う際の秀吉の行動から推測しても、信長の遺骨は阿弥陀寺にあるのだと思いますね。

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