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戊辰役戦史コミュの徳川慶喜と江戸幕府

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幕府が倒れた原因は、慶喜の弱気にあったという人がいます。
慶喜一人に責任をかぶせてしまって良いのか?私は疑問に感じ続けています。
 幕府本体内部に問題は無かったのか?
 幕府が弱くなった原因が別にあるのではないか?
 本当に慶喜が弱気だった為に幕府は滅んでしまったのか?
 評価が割れている徳川慶喜と、江戸幕府内部の権力闘争を語り合ってみましょう。

コメント(7)

 個人的には当時の人達の思想と、現代人の思想の違いが慶喜の評価が割れているのに繋がっていると思うのですよ。
 結局新政府軍に錦の御旗が上がった時に、慶喜は自分が後世朝敵と呼ばれる事を恐れて恭順しましたが、実際に後世(戦後)になると玉の権威は薄れた為、現代人からすれば慶喜の真意が理解しづらいのが、慶喜の評価を難しくしていると思います。実際現代では足利尊氏を逆賊と呼ぶ人間など居なくなってしまったのですから、慶喜の心配は杞憂になってしまいましたしね。

 幕末の政治史の研究は進んでいますが、思想史の研究は未だ進んでいない現状では、まだまだ慶喜の評価は定まらないと思います。
はじめまして。

幕府をなくしたのは慶喜自身であるので、それに対する評価がさまざまあるわけで、それが慶喜の評価にもつながっているのでしょう。

最近の研究では大政奉還を慶喜がおこなったことで、慶喜を支持し始めした勢力が多くなったとしています。

公議政体派はもちろん薩摩倒幕派、公家倒幕派のなかにもいたようです。(離れていったのは徳川保守派くらいでしょう。)
そして王政復古政府では、鳥羽伏見の戦いが起こるまでは慶喜を議定に任命することでほぼ合意されていました。

そう考えると、当時、中央政局にいた勢力としては幕府をなくしたこと、そしてそれを行った慶喜への評価はかなり高かったようです。

大政奉還の時点で幕府はないわけですから鳥羽伏見の戦いでの敗戦以降の慶喜の行動は幕府がなくなったことの評価の根拠・理由にはなりませんね。
 一年半も過ぎてからの超遅レスごめんなさい。
 幕府はなくなったと考えていない勢力があるわけです。その人たちが主張したのが幕権回復論です。
 のちに新政府をたてる倒幕派を朝廷にとりいった君側の奸と位置づけ、幕府の権威を回復させることで朝廷の周辺から倒幕派を閉め出し、それによって結果的に朝廷の権威も最低限は保証されるというものです。
 ただ、その論は坂本龍馬が「新政府綱領八策」で示した改革案によれば、大政奉還を否定する勢力は"断然討伐す"とあり、武力討幕派のみならず公議政体派にも戦争を決意させるほどの危険な内容です。
 この幕権回復論を押さえ込めなかったことが慶喜にとっては命取りになったと考えます。

 ちなみに、この幕権回復論と新政府綱領八策は、コチラで御覧いただけます。
http://nihonsi.web.fc2.com/

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