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史上初の外国人力士(注:史上初の外国籍力士は昭和19年5月場所入幕の豊錦。大正9年2月3日生まれ、アメリカ合衆国コロラド州グリーリー出身の日系人。幕内在位1場所で6勝4敗、その後日本軍に応召され、戦死)で、大関貴ノ花(現二子山親方)と共に昭和40年代中頃〜50年代中頃の人気低迷した大相撲を支えた。
ジェシーは11人兄弟の末っ子として生まれた。父は彼が生まれてすぐに他界し、貧しい家庭で育った。
6歳の時に事故でトラックに6mも跳ね飛ばされて足に大怪我を負って以来、まともに運動が出来ない身体になったため、警察官を目指して勉学に励んでいたが、ハイスクール入学の時に彼を見かけたアメリカンフットボール部の監督がその巨体を見初めて入部を勧めた。最初は「走れないから」と断っていたが、「アメフトは走れない人でも出来るスポーツなんだよ」と言われたのでとりあえずやってみることに。そしてやってみると自分の巨体には他の人にないパワーが宿っていることに気付き、アメフトの魅力にとりつかれる。
アメフトをやっているうちに、事故で弱った下半身も次第に強化され、少しずつ走れるようになると共にプレーヤーとしての能力も次第に開花、遂にはハワイオールスター選手に選ばれるまでになった。そんな折、かねてから日系人が多く相撲の盛んなマウイ島に日本の明治大学の相撲部が遠征してきた。マウイ島のある相撲クラブの監督をしていた小笠原という人がジェシーがいるアメフト部の監督と知り合いで、その伝で巨体を買って大学生と交流試合をすることになったのが相撲との出会いだった。
日本は裸に廻しだが、それがジェシーには恥ずかしくてしようがなく、廻し着用を渋っていたが、大学生に取り押さえられて強引に廻しをつけさせられ(パンツの上だが)、相撲を取ってみた。最初は動きが硬く、あっさりと負けたが、緊張が解けてみるとこれが意外にも強い。大学生と互角にとるジェシーを見た明大相撲部の監督、滝沢寿夫は知り合いの当時の高砂親方(元横綱前田山)に「ハワイにいい若者がいますよ」と報告した。
高砂は昭和24年(1949年)10月場所に引退をした後、協会を強引に説き伏せて海外に入門勧誘の幅を広げ、相撲を世界に知らしめようと昭和26年(1951年)7月からに2ヶ月の予定で現役力士の大ノ海(二所ノ関部屋、後の先々代花籠親方)、八方山(出羽海部屋)、藤田山(高砂部屋)を連れてハワイ−アメリカ本土へ渡り、大々的に公演、あまりの盛況振りに5ヶ月間もアメリカに滞在、その公演の中で彼らは国賓並みに扱われ、大成功のうちに12月に帰国、協会には大目玉を食らった(9月に本場所があったが、公演のおかげで力士3人は出場できなかったため)ものの、これによってハワイとの強いパイプを作り上げた。
そして昭和37年(1962年)初頭、滝沢からハワイ巡業の話を持ち込まれた高砂は喜んで了承、5月場所後には現役力士24人と当時引退したばかりの横綱若乃花(初代)など、総勢33人の巡業を敢行した。そこでかねてから聞いていたジェシー少年を見初めて入門を勧めた。最初は母の元を離れて異国にいくのが心配で断っていたが、5年分の衣食住を保証すると言って彼の心を動かし、昭和39年(1964年)1月に再度ハワイ巡業を行った(今度は幕内全力士51人をはじめとした大規模な巡業だった)時に入門を申し入れたジェシーを日本に連れて帰り、相撲界デビューと相成った。
同年3月に初土俵を踏んだジェシー改め高見山は相撲界の慣れない慣習や気候、食事、文化などの違い、そして下半身の弱い彼には地獄の辛さだった股割り(座り込んで足を横に開く稽古。体を柔らかくする最も効果的なもの)などに耐えながら「これは涙じゃない、汗だヨ」と辛抱と努力を重ねて精進し、4年で幕内に昇進するというスピード出世を果たした。
その巨体から繰り出される突き、押し、寄りは威力十分で、勝つ時は圧倒的な強さで相手を吹っ飛ばし、負ける時は生来の下半身の弱さからあっさりとかわされて派手に負けた。が、その絵になる役者振りと存在感の大きさから高見山の人気は不動のものとなった。
下半身が弱いために安定した成績は残せず、優勝はないだろうと思われていたが、昭和47年(1972年)7月場所、上位陣の不調を尻目に安定した相撲ぶりで快進撃の高見山は千秋楽、旭國(元大関、現大島親方)を寄り切りで破って初優勝、当時のリチャード・ニクソン・アメリカ合衆国大統領からも祝電を送られ、相撲ファン、そして地元のハワイの人々はその感動に酔いしれた。
昭和55年(1980年)6月に日本に帰化し、その後も人気力士としての地位は変わらず、歳を追うごとに自分の歳に合わせた相撲を取るなどの研究熱心さで長く幕内の地位を保った。
そして昭和56年(1981年)9月場所初日に肘を痛めて休場するまで初土俵から連続出場1425回(歴代3位)、幕内連続出場1231回(歴代1位)、昭和59年(1984年)5月場所限り39歳11ヶ月で引退するまでに幕内在位97場所(歴代1位)、幕内通算出場1430回(歴代1位)、初土俵からの通算出場1654回(歴代2位)、金星獲得12回(歴代2位)、横綱対戦人数11人(歴代1位)など、数々の大記録を打ち立てた。
引退後は年寄「東関」を襲名、昭和61年(1986年)2月には独立を果たし、自らの経験や、ハワイとのパイプを活かした独特の弟子集め、指導で部屋を盛り立て、その中から現在の横綱曙が育った。
彼は「辛抱」「努力」という言葉が好きで、サインにも必ずその言葉を書き入れていたという。時代背景が現在よりも合理的ではない部分が多くあった昭和30年代、母子家庭でいつも貧しい日々だった彼は母に楽をさせたくて常夏の国から裸一貫で言葉も分からない、気候も習慣も全てが違う国へやってきた。その彼が言う「辛抱」「努力」とは、我々が考えるそれ、広辞苑に載っているそれとは全く違う次元の重みを持つ言葉なのではないか。

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