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Martin Heideggerコミュのハイデガーと心身問題

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科学は、世界観としては唯物論である。

唯物論とは、まず物と心を二つに分割して、ついで一方である物によってもう一方である心を説明しようとする、という意味で、物を優位項として心を劣位項とする、二項対立図式だ。

中性的一元が再び一つになることを目指して努力する物と心という二元に常に既に分裂しているとする、ハイデガーの考え方は、一元論であると同時に二元論であるわけだけど、物と心という二極は対極にあるために、性質の違いがある。

物の領域は数式によって記述されるのに対して、心の領域は日常言語で語られる、というふうに、適している言葉が違う。

数式が定義が一義に定まっている明瞭な言葉であるのに対して、日常言語は曖昧で多義的である。

物の領域を記述するのに適している数式においては白か黒かどちらか一方しかないのだけど、心の領域は、白であると同時に黒であるような一義的でないグレーゾーンという曖昧なものだから、数式による科学的思考は心を捉え損ねる。

科学は、心の存在を認めることができないために、世界観としては唯物論になるのだ。

しかし、もしも、心は物という根源的存在から派生してきた付帯現象にすぎないとする唯物論が正しければ、心の動きは物の動きに付き従いこそすれ、心の動きが物の動きを付き従わせることはできないから、心は物で出来た世界の事態の推移に何の影響力も行使できないことになる。

ちょうど、本体の動きが影を動かすという連動関係はありえても影が本体を動かすことはありえない、ということと、同じことである。

ところが、実際は、学校に遅刻しないように足を動かして走ったり、授業中に手を動かして挙手したり、心という意志が身体という物体を動かしている、という反唯物論的心身連動順がある。

脳が心を生み出したとする脳科学の大前提に反して、脳にしか心はないのでなく、脳以前である最初からすべての物に心はあって、心がすべての物を動かしている原動力である、というふうに唯心論的に解釈すれば初めて、このような、自由意志の問題は、解決できる。

そして、自由意志で動いているままが科学の法則的必然に従っていることになる、というふうに、自由と必然の二項対立は両立する。

このように、意志を根源的存在とする、ドイツ形而上学の伝統は、カントから発足して、ライプニッツやフィヒテ・シェリング・ヘーゲルやショーペンハウアー・ニーチェに受け継がれて、この系譜にはハイデガーも連なっているのだけど、ハイデガー自身も形而下学と形而上学という二項対立図式を克服できたとは言ってなくて、存在者と存在者を存在者たらしめている存在との存在論的差異というのは、一方である存在によってもう一方である存在者を説明しようとする、という意味で、存在を優位項として存在者を劣位項とする、二項対立図式のことである。

つまり、ハイデガーの存在論は、心を存在と言い換えて、物を存在者と言い換えて、デカルトが心と物を切り離したことによって創始された心身問題に対する答えを導き出そうとしたものだとも言える。

であるとすれば、ハイデガーが主著『存在と時間』で「存在は時間である」と述べたのは、物で出来た空間を動かしている時間が心であるということの言い換えだ。

コメント(4)

>であるとすれば、ハイデガーが主著『存在と時間』で「存在は時間である」と述べたのは、物で出来た空間を動かしている時間が心であるということの言い換えだ。


それは空間と時間がまったく別々に存在しうるものだということになるのでしょうか。
空間よりも時間のほうがより根源的だということになるのでしょうか。
もしそういうことを言っているのだとしたら、ちょっと疑問です。
僕には空間と時間の成立は同時的であるように思えるのですが、教えていただけたら幸いです。

>>[1]
アインシュタインの相対性理論は、時空は不可分な一体を成すものと考えるもので、時空を等価として、時空を等根源的とします。
ところが、他方で、物理学の一分野である解析力学のネーターの定理によれば、時間はエネルギーという根源的な存在と密接不離な関係にある、とされていて、空間は運動量という根源的でない存在と密接不離な関係にある、とされています。
物理学ではエネルギー保存の法則と言って、エネルギーは運動量と違って根源的な存在だから、より根源的な存在から現れて来たり、より根源的な存在へと消え去ったり、しないために、エネルギーは運動量と違って、総量としては一定量に保たれる、とされています。
だから、ネーターの定理を、空間よりも時間のほうが根源的である、と解釈することもできるわけです。
綜合すれば、時間は空間と等根源的であると同時に空間よりもいっそう根源的である、ということになります。
ハイデガーの考え方は、一元論であると同時に二元論である、と書きましたけど、このことは、ハイデガーの考え方を精神医学に応用した木村敏の言葉を借りれば、同じ一つの「間」が再び一つになることを目指して努力するような「時間」と「空間」という二つに常に既に分裂している、と言い換えられるわけです。
木村敏によれば、根源的な「間」が自己を成立させる「時間」である、ということになります。
>>[2]

>木村敏によれば、根源的な「間」が自己を成立させる「時間」である、ということになります。


自己が成立するということは自己のみでなく、自己を自己たらしめる他者、他のものも同時に成立するということでしょうか。そしてそれゆえに、この時、自己および他者、他のものが並び立つ空間も生まれる、ということでしょうか。
>>[3]

そういうことだと思います。

時間という次元は、言葉の獲得と共に、開かれる、とハイデガーは考えます。
言葉は、変化を貫いて不変であり続けるような物の名前であることによって、過去現在未来を統合するものとして、あるわけです。
フロイトの言う、自我によるエスの統合は、過去現在未来の統合として、言葉によって実現される、ということで、統合できないことを統合失調症と言うわけですけど、統合失調症患者が自己が自己であるという自己同一性を失っているのは、時間の流れが寸断されていることによって自己が自己であり続けることができない、ということです。
現在から過去や未来へ向かって地続きになっているような自己が地盤として形成されていないことによって、自己の存立が他者に依存しているような言語獲得以前の自他未分状態に退行しているために、被影響体験やつつぬけ体験という形で、外部の他者が自己の内部へ侵入する体験をするのだ、と考えられます。
このように、言葉によって可能ならしめられる時間の連続性が自己を自己と他者への分化として成立させるのだとすれば、時間から空間が自己と他者との間として開かれる、ということになると思います。

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