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アダルトチルドレンとして生きるコミュの忘れられないあの日の思い出。家族編。

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フラッシュバックして忘れられない思い出ってあると思います。それを教えてくれませんか。悲しい思い出だけでなくてもいいと思います。楽しいことの方が大切かも。とりあえず家族ということで。

 ちなみに僕は、運動オンチの母親とのキャッチボール。どうしてやりだしたかわからないんだけど、楽しかった。やけにそれだけ覚えている。
  
 あとは近くのスナックで酔いつぶれていた親父を担いで家まで運んだこと。これは悲しかったなあ。

 でも、赤ん坊の時の写真は、父親が嬉しそうに肩車してくれていた。ダメダメ親父で、縁を切っていたけど大切な存在だったんだと思う。

 

コメント(75)

楽しかった記憶。おばあちゃんの三味線のお稽古に付いて行った事やおばあちゃんと買い物に言った事。母親が夏休み映画とか連れて行ってくれる時は喜んでる振りだけ。
母親との記憶には、暴力男(父親ではないのに外では「お父さん」と呼ばされていた)と、男の言っている事、やっている事がすべて正しいと思い込んでいた痛い人としての母親(すでに私の中では死んだ事にしているけれど)くらいしか思い当たる節がない。
父親(これまた死んだ事にしてる)に関しては信用のできない人って記憶くらいしかない。
おばあちゃんが亡くなって以降あまりいい記憶がない。
今子育てしながら思う事は「まともな親が欲しかったな〜」くらい。
本当にロクな記憶がない。
そう言えば小学校高学年の頃、遺書ばかり書いてた。

記憶があまりないのですが、
私が帰りおそくなったか
わからないのですが、玄関で
抱きつかれて泣いちゃったのは
覚えてます。愛情のよーな?

泣いても心配してくれなかった
おばあちゃんちいった時
家族がいじめるから泣いてて
おばあちゃんがどうしたの?
きいたら母が、いつものことだから。
また、親戚の家にあそびに
いっても家族で私をいじめるので
泣いてて、おばさんにどうしたの?
って聞かれた。また母はきにしないで
いつものことだから。

泣いてる理由もきかない
子供を心配しない。
泣いてたらいつものこと。で終了

もちろんいつもないてませんよ。
偽ってましたし我慢してましたから。
今日、ACの型の「ピエロ」のような分類で
「プリンセスプリンセス」というのに出会いました。
まさに私は祖母にとっては「プリンセス」で、
何でも言うことを聞くいい子で「お人形」じゃないといけなかった。
でも、うまくいかなくて、
母に「今日、有羽が私にこう言ったんだよ」と言っている祖母を
物陰からおびえながら見ていた記憶があります。
基本的に過去の記憶は、あまりありません。
学校では、いじめに遭い、
唯一の息抜きの塾では経営者(妻子持ち)に
3年にわたってレイプ寸前までされ、
(いれる以外は全部された/させられた)
当時は感情が狂ってたので平気でしたが、
今になって、ぞっとしてます。
母親に旅行や食事に連れて行ってもらった時は必ずと言っていいほど、男の人が一緒でした。


母親はもう離婚していましたので、恋愛は自由なのですが、ご馳走してくれるなら誰でも良いのか、毎回違う男性だった気がします。

少しでも不機嫌な顔をすれば叱られ、男にすがるしか出来ない母を不潔に思っていたものです。


母と過ごすよりも兄弟だけで過ごす時間の方が笑顔が多かった気がします。

母のせいにはしたくないけど、人を心から愛せてない気がします。
昨夜、下の弟から電話がありました。11才離れた弟です。

今度、再婚する事になった。
彼女の家は、裕福な家庭で、お父さんは立派な肩書きも持っている。
彼女の実家のそばに、マンションが立つ。
1千万とか、1千5百万とかを頭金として貸してくれると言う。
今、実家のそばに住んでいるが、そこを引き払う。
あとは、よろしく。

両親は、70代後半です。
年金は、国民年金をかけていたのに、生活していけず、来月から生活保護になります。
とりあえず、元気ではいますが、そろそろ危なっかしくなってきました。

実家まで、電車を乗り継ぎ1時間半。
片道1010円です。

うちの親は、戦前そのままの家族制度の考えで、私達兄弟を育ててきました。
私は長女で、人間扱いされないと言うか、女は家を出て行くから、と、小さい頃から習い事もたいしてさせてもらえず、明らかに差別されて育ちました。

すぐ下の弟は、長男で、小さい頃から大事にされ、高いおもちゃも買ってもらっていました。同じスポーツ少年団に、私は入れてもらえず、弟二人は親の送り迎えつきだったりして、野球をやっていました。
学歴も、私は、大学に進学希望だったので、県立高校に入ったら大学に行かせてやるということだったので、ワンランク下げて県立に入りました。いざ、進路の話になったとき、コネで市役所勤めをするように言われました。担任は、進学を勧めてくれました。成績は、かなりいいほうだったのです。社会科系は常にトップでした。でも、親は、私の成績なんかには、興味を示しませんでした。

弟たちは、好きな事をやって大学に行きました。当たり前の用にです。

勤めに出ても、門限は5時半とかで、本屋による事もできません。

そこで、20で駆け落ちしました。
結婚して、2人の娘を授かりました。2人とも、結婚して家を出ました。
私は、事業を全くまじめにやらない夫のせいで600万の私名義の借金をしていました。自分でも、銀行、サラ金、高利貸しにまで手を出して、せっかく23年住んだ家を手放さなければいけなくなりました。車もなにもなくして、自己破産して、何とか離婚してもらいました。いまだにしつこく電話とかきて、完全無視していますが、正直、死んで欲しいほどむかついています。

今、やっと独りになって、生活保護を受けながらうつの治療をしています。

いまさら、親の面倒をみる気にはなれません。

あれだけ期待して、事業を継がせようとしていた長男は、途中で仕事が嫌になり、サラリーマンになって、今は精神病で夫婦で生活保護を受けています。
長男のためにと、事業を無理やり拡大して、残ったのは借金だけでした。
そんな親の面倒、いまさら、「独りになったんだから、帰って来い」と、言われても無理ですよね。
良い思い出…うーん…

いつもの様に母親から暴力振るわれていたら、おばあちゃんが「あんた自分で産んだ娘になんてことするの!!」って母親に怒鳴って、私を守ってくれたこと。

見て笑ってる人しかいなかったのに、初めてまともな人間を見た気しました。

おばあちゃんは私の唯一の味方でしたが、12月に亡くなってしまいました。

私の唯一の味方がいなくなり、いよいよ独りぼっちになりました。

両親や姉妹は生きていますが、私の味方はいませんから…。


ツラい思い出なら沢山あるんですがね…。
んー思い出……
私は長女なので、「お姉ちゃんなんだから」と言われて育ち、弟は跡取りだからと、母は可愛がっていました。
年が離れていても、姉弟喧嘩は、よくしていたな。

大学も、私は親が反対でいけず
弟は、専門学校まで行きましたが、中退。
母は 全然子離れが出来ない支配親。

そんな母がある日
「ばあちゃん(母の母)は、兄貴(母の兄)ばかり可愛がって、私はいらない子で育てられた。ひいばあ(母の祖母)が、私を可愛がってくれたんさ」と言ったので
「自分が経験したいやな所を、実の娘にしているんだね」と言い返したら
キョトンとしていた。
あと食べ物ね!
スーパーに買い物に行ったら「何がいい?」と母が訊くから「鰻食べたい」と返答。母が「母ちゃんはキライなんだよ」と買わなかったのに、数日後「○○(弟の名)と鰻食べに行ったんだ」
「私の時は キライだと言って買わなかったのに?!」
すると マズイコトを言ってしまったとゆー顔。
弟 アルバイトもしていなかったしね。
弟が出すわけないしね〜

だから、父と二人きりで、鰻や寿司、焼肉グッド(上向き矢印)とかよく行きました(笑)

ま 弟は、介護も出来ず、行方不明に。

母の介護も葬式も、私がやりました。

優しくない介護だけどさ。
父は 自ら施設に入り、元気に 認知症で 楽しく生きています。
やっぱり、父との関係ですかね。

父は、アルコール依存症、母は共依存でした右斜め下


父は、仕事から帰って来ると、

毎日、お酒を酔い潰れるまで飲んでいました。

毎回、買いに行くのは僕。


喜怒哀楽もバラバラ。

笑ったかと思うと怒り狂い、急に泣き出す。

毎日、母と喧嘩。

僕と弟は、早く寝てくれと願いながら、二階で震えていました泣き顔

うちの家族には、

しつけとか一定のルールとか、無かった気がします。


ひどい暴力は無かったものの、父は酔ってふざけ半分で、僕をよく、お風呂の浴槽に沈めました。


息出来ないし、本当に怖かった。

弟は、燃えさかるバーベキューの金網に、顔を突っ込まれそうになった事もあった。


本当に、父が何を考えてるか分からなかった。

母は、父の介抱で手一杯。

僕らは本当に淋しかったです。

妻子を持った今でも、正直、愛って何なのか分からない。

息子には、そんな思いはさせたくないですが、

時々、接し方、しつけの仕方が、わかりません。

今でも、父と同年代の方々、特に博多弁のなまりの強い方は、苦手です。

無条件に怖い。



そして僕も、あんなに嫌だった、アルコール依存症になってしまった。



父はというと、仕事を転々とし、煙草とお酒で体はボロボロになり、

アルコール性の認知症になりかけました。

アルバイトにも行けなくなり、僕が17歳の時、

お酒をやめる事なく、自ら命を絶ちました。


就職への異常な恐怖は、父の影響です。

父は、毎日酔っ払っては、会社の上司と喧嘩し、

出社拒否をし、

会社の愚痴ばかり言っていました。

営業だけはするなよと、父に散々言われるうち、

自分の中では、就職だけはするなよに、解釈が変わってました。

就職=地獄、死 だからです。

まさに今、働きたくても働けない状況に、四苦八苦してます冷や汗冷や汗冷や汗
保育園児か、小学低学年の頃。勇気を出して買ったカーネーション一輪。
母に渡したらありがとうの言葉よりも、こんなことしなくていいのに、の一言。
子供だったから深く傷ついてそれきり母には何も贈らないと心に決めた。

実家は中華料理屋で、お客さんのいる前でお前なんか産まなきゃ良かったと平気で言う母。
私がそんなこと言うなら産まなきゃ良かったじゃない!と言い返すと何故か私だけお客さんに怒られた。子供がそんな事言うもんじゃない!
母は私に言って良くて、私は言い返したらいけないの?私だってそんな事言われたら悲しいのに…

私が結婚して、義母は孫を楽しみにしてくれた。母は結婚してもいいけど子供だけは産むなと言った。
そんな母が癌で入院しても、見舞いに行くのは面倒以外の何物でもなかった。

命日も知らないし、墓参りも行ってない。
私に親がいたことなんて思い出そうとしなきゃ思い出せない。
父にも興味ない。二人に生かされはしたけれど、育てられた記憶はない。

あー、楽しい思い出ってないなー。
動物が死ぬとすごく悲しいけど、人間が死んでも何も感じない。

こんな私が妊婦だなんて、そりゃあ不安にもなるわ。
未だに覚えているのが、自分が幼稚園の時に父にみぞおちにおもいっきり蹴りをいれられた事。足に熱湯をかけられた事。その時の火傷の痕のせいで虐められた事。
父の仕事をしている姿を思い出せない。毎日、パチンコ屋に行っていた。自分もしょっちゅう連れていかれ、その時だけは優しかった。でも自分は中2からずっと働き、家に生活費と母の病院代を28歳まで入れ続けた。
小さい時から何かすれば怒鳴られ、殴られた。いつもびくびくしていた。その時から偽りの自分を演じ続け、感情もおかしくなった。
兄はいたが、小学生の時に実の兄でないことを知らされた。父の姉の子供を引き取って、養子にしたらしい。しかも兄はハーフだった。

仕事中にパニック発作を起こし、会社を辞めた。
働けなくなった自分に、あいつは…そんなのは気持ちが弱いだけだ。怠け者だからだ。早く働け。

そして、数日後家を出た。貯金なんてなくてあちこちからお金を借り、日雇い派遣で働きながら通院していた。でもとうとう働けなくなり、無一文になった。その時は公園で寝ていた。雨の日はトイレで寝た事もあった。

今はようやく理解してくれる主治医にめぐりあい、何とか頑張っている。
何人か彼女と付き合ったが、結婚となると怖くなる。もし子供が出来たら、自分も父みたいになるんじゃないかと思うとそれ以上進めなくなる。だから別れる。そんな事を繰り返し、いっそずっと独りでいいかと最近は思っている。
うわべだけの友達もいらない。
母が亡くなった時は泣いたけど…父がしんだら泣く事は絶対にない。
小学校4年ぐらいだったか…

母に勉強を教わっていて、問題がわからなくて泣きべそをかいた時、

「頭から真剣が落ちてくるんだ!」とビール瓶で頭を叩かれた。

それから、「真剣」という言葉が出てくるたびに思い出す。もう40すぎなのに。
幼い頃から、毎日のようにお金の問題で争う両親だった。
父親は、ヒステリックに怒鳴る母親に耐え兼ねて、家を出てはほとぼりが冷めた頃戻ってくるの繰り返し。

母親から父親の悪口を吹き込まれ続けていた幼い私。




家の窓から見える、パチンコ店の明かりを見ながら、悲しげに泣く母親を、私が守らなければと、思っていた小学生の私。

それが一番古い記憶。


家族を守らなければと、小さいながらも思っていた。

私だって、頼りになる両親に守られたかった。
安心して、いられる場所が欲しかった。




大人になるにつれ、学習せずヒステリックに怒鳴る母親に嫌悪を覚えるようになった。


財布からカードを抜かれ、お金を使われる事は日常茶飯事。
何度そうされてもショックで、過呼吸になった時、「あんたはそんな風になれて良いね。私だって辛いのに」
と言われて更に苦しくなった。
サラ金に契約に行かされた事もあった。


その度に、泣いて謝る母親を汚く感じた。
その舌が乾ききらない内に、同じ事を繰り返す。

両親の言葉は、存在は、あたしにとって何の意味も持たない物になった。

貴方達の言う愛なんて物、私は信じられない。

近くに感じるだけで、暗い毎日を思い出す…
子供の頃から父親のニコチン中毒に暴力的な性格は変わらず

祖母とぶつかる事なんて日常茶飯事

子供の頃は食器だったのが今はプラスチックのタッパーに変わっただけで

怒ると物を投げる父親

おまけに母は仕事を理由に子供とまともに話す事なく不平等に育った私達兄弟

子供の頃から母の八つ当たりはいつも私

学生時代最悪だったのが双子と言う境遇から姉が出来たテストで私が姉と同じ点数を取らないだけで

どうして出来ないの?とうちわで叩かれ

泣けば外に出される

私はそれ以来母に成績を見せる事もやめ、

家族とも極力会話を減らして来ました。

それでも今も両親の八つ当たりや暴力的行為に終わりはありません。
「頼むからこれ(この服)着とくれよ! あんたじゃなくてお母さんが笑われるんだから!」

そういう母は、通学路で人に丸聞こえの家で夫婦喧嘩でどなり散らす。

俺が笑われるんだよ!

自分が笑われるのは嫌だ。子供が笑われるのはお構いなし。

都合のいい人種だなあと子供心に思ったもんだ。
小学生のころいつも家でひとりぼっちでした。ほしいものも我慢で兄からのおさがりのふくを着せられて自分で長かった髪をバッサリ切りました。その服に似合うように。 、寂しいのにそばにいてくれるひともいなくて心がいつも締め付けられるような思いでした。周りの女の子はかわいい服をきて、お出掛けしてきたということを楽しそうに話していましたが強がって楽しくないもん。と思い込んでいました。夜は誰も家にいないので誰かを探して深夜はいかいをよくしました。
今は大人になったのに自分が何者かもわかりません。

あのころの私に声をかけてあげられたら人生変わってたのになぁ
アルコール依存と、暴力的傾向の父。
小さい頃はとても父が怖かった。
今でも覚えてる。
夜遅く、家の外遠くから聞き慣れた車のエンジン音が聞こえてくる。 仕事から帰った父の車だとすぐに解る。
それが聞こえた時の、母の張り詰めた顔、3つ上の兄のこわばった顔。
自分は5歳だったかな、きっと兄と同じようにこわばった顔をしていたと思う。これは小さい頃の遠い記憶。
父よ。
家の中で大きな音を立てられるのが怖かった、威嚇するような目つきも覚えてる。ゴミを見るような目で見ないで欲しかった、父の大きな手でぶたれるのが本当に嫌だった、わけが解らず泣くしかなかった。

毎日、いつか殺されるんじゃないか、そう思っていた。もう家から抜け出したかった。どこか綺麗な場所、遠くへ行きたいと思っていた。
>>[60]

はじめまして。
辛かった思い出ばかりですよね。子どもは無力ですよね。守ってくれる大人がほしかったですよね。

あの頃の小さかった自分を抱きしめてあげたい。よく耐えて頑張ったと。
いいさACこの言葉を知りようやくわかったけど、誰のせいにもしない。                笑って歩いてこう。生きてる証だから。
私が依存病とわかり、自立支援の申請をしたんだよね。
そんな私に世間体を気にするあなたは
なんでそんな所に行かなきゃ行けないのって
言ったよね。
貴方があたしのメンタルスイッチを
押し続けた結果じゃない。
怪我したわけ時ないから、傷の大きさや
深さがわからないかもしれないけどね。
機能不全家族で育った私に用意されたゴールが
依存病でそこを乗り越えるのが
私の人生の課題なのかな。
神様は乗り越えない試練を与えないらしいし。
今眠剤飲んでも寝れなくて。
寝付きがわるくて。
最近一晩寝ずに夜勤明けみたいな状態で
仕事に行ったんだよね。
メンタルがしんどくて療養したくても
あなたに怠け者扱いされるから
私にガンが分かった時はすごい扱いされたね
掃除しなさい。料理しなさい。買い物行きなさい。貴方の食べたい物はあなたが買いに行きなさい。
私の心も体もボロボロでね
主治医に言われた一番嫌いな言葉の
あんたの癌はがんじゃない。
切れば治る。
事実たけど、オペしなきゃいけない
状況で言われても。
いっそのこと癌の方が良いのかなと
考えてました。
術後、聞いてないリンパ浮腫になり
術後初梅雨には
胸は要らないから、腕をかえしてと
毎日考えてました。
左の腫瘍がいつオペになるかわからない
経過観察中です。
>>[44]
負の連鎖、断たないとね…  突き放しも致し方なさそう(^。^;)

自分も大切にしなくてはね、
>>[67] さん
こんばんは♪ 七夕の夜ですよ (*⌒▽⌒*)
生きてることって 感謝だね ヾ(^v^)k
あなたは立派な肺がん患者で。
私は出来損ないの乳がん患者なんでしょ。
右胸全摘して、リンパ浮腫になってるじゃん。
左胸もいつ切るかわからないじゃん。
貴方はいつも一番じゃないときにいらなくて。
私を家族の中で一人悪者にすることで。
成立する家族って機能不全家族でしょう。
気がついたら貴方の設定した悪者を
演じている時、私は私じゃないかわいそうな人が居てその人がひどいことされてると思って
我慢していたんだけどさ。
病院行って薬をもらっても。
心に空いた穴はなかなか埋まらない。
人に物に依存するようになり、
友達が減った。
よく私宛の手紙が開封され。
日記が読まれ。物の位置が変わっていた。
あなたは境界線がうまく引けない。
私は他人と境界線がうまくひけない。
仕事をしてると依存で悩んでるのは
私だけなような気がして。
孤独感が増していく。

これまで、父が酒乱 という人は何人かいた。

しかし、父が酒乱&母が父の酒乱を子供の責任にして怒鳴る&子供部屋作らずいつも目の前に親=つまりいつも目の前に酒乱人間 という家庭で育った人と出会ったことがない。

酒乱の時は二階の子供部屋にこもってた、母が抱きしめて酒乱に応戦してくれた、
母が子供に酒乱の被害が及ばないように食い止めてた、結果早くして亡くなった、

そんな話を聞くたびに・・・
毒親とその仲間たちと旅行に行きました。
私は、勤務先のから 車に乗り旅行に行くことになりました。
事前に勤務時間ですぐ帰れないことを
あらかじめ説明しました。
定刻から40分過ぎに業務終了し。
更衣をしてました。家族から電話がはいり
何してるのよ。何分待たせたらよいのよ。
私は呆然として話を聞いてました。
すぐに車に向かいましたが
車内であんたを置いて帰ろうと思ったわ。
なんでこんなにかかるのよ。
あんたと旅行は行かない。
言いたい放題でした。
毒親と仲間たちの配慮のない言動に
この旅行に参加した事を後悔してました。
私が常勤で働いてないのが不満のようで
もっと稼げ、働けって言われて。
2度と旅行に誘われても行かないと
心に決めました。
旅行先にて
喫茶店の会計を支払ったら。
お金がない人に限って無理するのよねと言われ
おみやげを買うと誰にあげるのよ。
買いすぎじゃないと言われました。
私のする行為が気になるみたいで。
毒親と姉からバンバンご指摘がありました。
貴方の常識は世の非常識だから。
あと溺愛しているまごは
共依存決定だからね。
ゲームしないと充電切れたら
激怒とかあり得ないから。
毒親さん、そろそろきちんと
受診しませんか。
依存も共依存も疲れたよ。

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