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立川談志(立川流家元)コミュの今日は立川談志師匠の命日

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2年前の投稿ですが、今日は家元の命日。

今日は立川談志師匠の命日。3年前の今日、ぼくは鎌倉駅前で「談志死去」のニュースを知り、衝撃を受けてうなだれながら家に帰った。翌日、「ミヤネ屋」のディレクターから出演依頼の電話がかかってきた。立川流の落語協会脱退騒動について話してほしいといわれた。拙著「寄席の人たち」(集英社)にそのあたりのことを書いたので、それを読んだのだろう。「これから台本を書くので」といわれ、ぼくは何時間も電話で取材を受けた。
翌日、行きの新幹線でビールを飲んで、景気を付けてスタジオに入った。ぼくは神経が図太いので何の緊張もしなかった。しかし、おいしいところはほとんど共演した立川談四楼師匠に持って行かれてしまった。談四楼師匠は「寄席の人たち」の書評を「週刊新潮」で好意的に書いてくれた方なので、ぼくは何もいえなかった。司会の宮根さんがぼくにしきりに気を遣ってくれた。
「ミヤネ屋」のギャラは3万円だった。テレビは文化人価格といって、文化人と芸能人のギャラは桁が違うのである。ぼくはせっかく大阪まで来たのだからと思い、寄席に行って法善寺横丁で飲んで、ホテルに泊まったので、チャラである。
あとから立川志らくさんに聞いたら、最初、「ミヤネ屋」は志らくさんに出演依頼をして、志らくさんが断ったので談四楼師匠になったそうである。ぼくはその後、志らくさん宗匠の句会に入り、談四楼師匠とは句友になった。志らくさんは談志師匠から「弟子の中で最も才能がある」といわれ、談志のDNAを色濃く受け継いでいる。実は今度練馬の談志師匠の家に志らくさんが引っ越すことになり、その模様は年末の「劇的ビフォーアフター」の特番で放映される。名実共に志らくさんが談志師匠を受け継ぐのである。あの年は大物の死去は談志師匠で打ち止めかと思っていたら、もう一人いた。ほどなくして北朝鮮の金正日が死んだのである。マスコミの話題は金正日に持って行かれてしまった。志らくさんがそれをさっそくマクラで取り上げたら、ウケまくっていた。
談志師匠はぼくが子供のときからテレビに出まくっていた。そもそも「笑点」を企画したのは談志師匠で、1960年代、「笑点」の初代の司会者は談志師匠だった。毒蝮三太夫が座布団運びをやっていた。「『笑点』ってのはよう、アタシが作った傑作なんだよ」と語っておられた。ぼくは初期の頃から「笑点」を見ていた。ちなみに「笑点」の2代目の司会者はマエタケ(前田武彦)で、3代目が三波伸介で、4代目が先代の三遊亭円楽師匠ある。みんな亡くなってしまった。
ぼくは一度だけ、談志師匠を取材したことがある。「談志ファンに志ん朝ファンは多いが、志ん朝ファンに談志ファンは少ない」といっておられた。素顔の家元は細やかな気配りの行き届いた、とてもやさしい方だった。ぼくは子供のときからの憧れの人と話ができて感激した。家元に拙著を謹呈したが、読んでくれたかどうかはわからない。いまでは誰もがやる時事ネタのマクラもそもそもは談志師匠がやりはじめたものだった。
落語協会を脱退してからは寄席に出なくなったが、談志師匠ほど寄席をこよなく愛した芸人はいなかった。稀代の天才だった。今日は談志師匠を取材したときの録音を聴きながら、家元を偲ぼう。

コメント(1)

今日は7回忌になりますね。お別れ会が昨日のようです。http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000045261927&owner_id=10453803

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