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真のキリスト・ニューエルサレムコミュの説教集6 無益な労働について

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      『無益な労働について』 K・アスプランド牧師
テーマ聖句『朽ちる食物のためではなく、永遠の命にいたる朽ちない食物の為に働くがよい。これは人の子があなた方に与えるものである。』
         ヨハネによる福音書6・27


「霊界の食べ物について」
霊界では、自然界と同じ様に食べたり飲んだりします。ここでは、あらゆる食べ物はもともとが霊的です。   つまり、食べ物はあらかじめてにいるようなものではなく、毎日頂くのです。昼食や夕食になると、食べ物がテーブルに並べられ、食事の間中ずっと出されています。 食事が終るとそれが消えます。
霊たちはみんな、自分の仕事に応じて食べ物が与えられます。管理者の食べ物は、豪華で表現できないほどです。そのほかの人達は、それよりやや劣り、各自の状況に応じて、いろいろいです。ただし誰もが自分のやっている仕事に応じて、食べ物が与えられています。ですから、仕事がない人は食べ物が与えられず、それを請い求めなくてはなりません。

以前貴族だった人が、働くのが嫌で、他の人に請い求めていたのを見た事がありますし、貴族夫人もそんな風にしているのを見ました。かつてこの世にあって非常に贅沢な生活をしていた元貴族が、ただパンとミルクだけを与えられているのを見ました。もし不平をもらしたりすると、働かないで、無駄な時間を費やす怠け者には与えられないと言われます。ですから、かれらは食べ物を得る為、卑しい仕事でもやるようになってしまうのです。

なお、かれらは仕事をしに行って、請い求めながらも一緒に食べますが、仕事は長続きはしません。このような怠け者にも一応パンは売られていますが、種類は限られています。と言うのは、あるものは自分のやった仕事に対して給料を請求し、そのお金でパンを買います。ただし、食べ物が買えるのも、そんな霊に限られてます。仕事もちゃんとやっていれば、パンも他の食べ物も無償です。
地獄にいる者は、仕事を強制的にやらせられます。働かないものには、食べ物だけでなく着物も寝るところもありません。ですから、かれらは強制的に仕事に狩り出されます。怠惰は悪の根源だからで、怠け者が誤謬や偽りにそそのかされていくからです。仕事をしていれば、1つの事に注意を向けることが出来るわけです。

『無益な労働について』
『朽ちる食物のためではなく、永遠の命にいたる朽ちない食物の為に働くがよい。これは人の子があなた方に与えるものである。』ヨハネによる福音書6・27
聖なる著作は、怠惰を戒めています。それに対し勤勉は大切な徳です。創造主である神(主イエス・キリスト)は、人を御作りになり、日中は労働に従事するような生活の秩序をお定めになりました。6日間は労働の為に使われていますが、7日目に休みます。人間の一生は、労働なくしては考えられません。
時に人は、何のために働いているか分からなくなってしまうことがあります。やがて導かれる天界は、仕事が全く無い所だという錯覚がうまれます。
あらゆる労働から解放された永遠の休みどころだと思ってしまうのです。

それにたいし、労働が目的になる場合もあります。人の一生は、労働に始まり、労働に終るという事です。天界の報酬は、労働の量によるものと思います。永遠の幸福はここでは人間のいさおしです。このような場合は、天国は、褒美であり報いです。
以上の両方とも、間違った考えです。天国は、永遠の休みでも、労働の報酬でもありません。主は言われます。
『朽ちる食物の為でなく、永遠の命にいたる朽ちない食物の為に働くがよい。』と。         ですから、主がともにいらっしゃらなければ、わたしたちの労働は空しいのです。  朝早く起きて、夕方まで働き、パンを得ても意味はないのです。役立ちに関係なければ、その労働はなんの意味もありません。
今日の聖書にあるたとえ話は、間違った労働をしないように教えています。
ある人は朝早くから仕事に雇われます。もう一人は昼頃から雇われます。それから、もう1人は仕事が終る直前に雇われます。ところが皆同じ報酬を受けます。これは自然的な人間にとっては不公平なことです。一時間しか働かなかった人より、朝から熱いなかを一日中働いた人のほうが、もっとおおくの賃金を貰うはずだと思うのです。長い間一生懸命働けば、それなりの報酬を得るのは当然です。
賃金を得て、それによって食べ物を買うためにだけ働くのであれば、労働の時間と労働の量によって、報酬が決まると思うのは当然でしょう。
ただし、人間は朽ちない食べ物の為に働くように作られているのです。
霊的な考えに基づくと、そうなります。時間をかければ良いというのではありません。労働の量や苦労の度合いだけで、報酬が決まるものではありません。
このブドー畑は、天国の譬えなのです。天国の幸福は、心の状態によります。主から与えられるお恵みに対し、どのような心の受け答えをするかによります。報酬としての賃金は心の幸福の事です。   三人の人が、それぞれちがった時に雇われたという事は、それぞれ違った心の状態で天界に召された人のことです。

最初に召された人は、生まれ変わりが充分でなかったひとのことを言っています。この人は一応、無事に天界に入ることが出来ました。この世では、あまり苦労をした経験がない人たちでした。つまり他の人に比べ苦しい誘惑を経験したことがありませんでした。かれらは一時間しか働かなかった人と同じ物を貰いましたが、賃金のことで文句を言いました。

先の人も後の人も同じ天界の幸福を得ましたが、先の人は、本当の幸福を得るために時間が掛りました。それは主がそうなさったのではなく、その本人が原因です。自然的な考えで、労働をし、報酬を貰いたいから働いた人で、その労働はあまり役に立たなかった事を意味します。労働を「役立ち」のためではなく、報酬のためにやったからです。役立ちこそ、永遠にくちない食物なのです。
霊界日記にもあるように、天界の天使達は、食べ物の為に働く事はありません。全ては必要なものは与えられます。自分で家を立てなくても、主からただで与えられます。着物もそうです。食べ物も別に準備する必要はありません。毎日、食事の時に与えられます。食事時になると、主によって料理が並べられるのです。食事が終ると姿を消します。天使達は日常の食べ物ために苦労する必要はありません。天界では、衣食住に何の苦労も要らないのです。衣食住の為に気を使ったり、あくせくすることはなくなります。

それではいったい、天界では何をしているのでしょうか。苦労はしないといっても、天界は怠ける所ではありません。主は天界を役立ちの国として、御作りになりました。それは、主ご自身が助けを必要とされるからです無く、天使たちがそれぞれの仕事を持ち、自分の職務に伴う責任を果たすことによって、みんなを幸福にする為です。
この地上で仕事とパンを切り離して考えることは難しいでしょう。しかし、ここは自然界と霊界との違いがあります。 自然的に考えても分かるように、賃金のための労働は、実際に人にため、あまり役には立たないのです。
労働それ自身や報酬が目的でなく、それを通して自分の職務を全うし、人の役に立った時、本当の満足と喜びを感じます。労働や、仕事を通し、人を幸福にした時、本心から喜ぶ事が出来るのです。労働それ自身は役立ちなくしては意味がありません。

それは人間の身体についてもいえることです。私たちが意味なく身体を動かすだけでは、満足感はありません。人がちょっと出来ないような身体の格好をしてみたところで、それで精神的に満足を得るわけではありません。
その行為に何の目的も無ければ、何の喜びもないのです。満足が生まれるのは、ある行為を果たした結果の役立ちからくるのです。
役立ちは人間同士の関係です。主が人間を人類として御作りになった訳は、ひとりひとりが自分の分を果たす事によって他人を幸福にするのです。それ以外には目的はありません。
ここに《隣人愛》があります。この《隣人愛》に基づいて役立ちを考える時、これが初めて正しい行為になります。
文筆家は、自分の複雑な感情を表現するのを難しいことだとは思いません。料理人には料理は苦痛になりません。だからと言って文筆家が自分の書いたものをすぐ破り捨て、料理する人が自分の作ったものを直に捨ててしまったら、何の意味もありません。
主は『朽ちる食物の為でなく、朽ちない食物の為に働きなさい。』といわれます。    自分の欲求を満足させるためだけの行為は、滅びていくものですが、他人の為に思い、他人を愛するためにする行為は、永久に残るものになるのです。自分の為にだけ働くという事は、自己愛と世間愛から来るものです。  わたしたちの心がこの世にだけとらわれていると、他人を愛する事など出来ません。  この世の財産や物質に心を止めて、それを自分のものにしたいと思っていれば、人の幸福など考えません。そんな行為は、すべて役立ちを忘れています。  財産も物質も人類全体の幸福の為に作られているもので、誰かがそれを独り占めにするために作られたのではないのです。           

家を建てたにしても、家族が集まって休む所でもなく、人が引越しして住むためでもなく、ただ道行く人に見せる為だけであれば、何の意味があるのでしょう。朽ちない食べ物とは、結局わたしたちの心の問題で、心から出る意図であり、愛なのです。その心があって初めて他の人のことを思う事が出来ます。人のために尽したいと思います。外面での役立ちの奥底には、心から出る愛と配慮があるのです。

ですから、役立ちの背後には、人と人との間の心の通いがあります。天使達は、心から愛を持って人に奉仕しますから、主ご自身が、食べ物を配慮してくださいます。  それでは、天使達はいったいどんな役立ちの業をするのでしょう。

天界の秩序を保つ為に、主ご自身が天使一人一人の役目をお決めになります。これは天使たちの幸福の為でもあります。わたしたちはみな、自発的に仕事をしなくては喜びも沸いてきません。そのようにかれらは、他の人の必要に対し、自分の成すべき事を自発的にやっています。自分の出来る限りの事をして天界の秩序に従う時、主は最外部の必要を備えてくださいます。


この世で教えるということは、霊的な役立ちに似たものがあります。教師は自分の教える事を、生徒の受け入れる心に応じて、その内容を調整します。生徒が喜んで受け入れるように心を準備してやります。
最終的には、生徒が受け入れるようになりのは、主ご自身の力です。主のなさる事を教師はお手伝いするように努力します。  機具を使ったり、教材を使ったりして、生徒の心に浸透するように努力します。そのように、主は私たちが互いに助け合うようにお作りになりました。  各自それぞれのおこないを通して、報いを受けているわけです。教育の技だけではありません。そのほか、会社や団体の中で多くの人が働いています。これは、天界での天使ひとりひとりの役立ちに比較できます。

ここで大切なのは、何時間仕事をしたか、ではありません。仕事の量でもありません。もっと高い次元で考えなくてはなりません。
自分のやったことで、他の人がどれほどの満足を得たかという事です。それがなくしては、わたしたちのやることはすべて無益になります。だから本当の愛を持って他人に奉仕する必要があります。   自分たちの肉体の力も精神のエネルギーも自分の為ではないのです。それが他の人に、どれほどの役立ちにたつかです。つまり、主のなさる事に協力することです。わたしたちが労働を目的にし、賃金を目的にするとき、わたしたちは仕事の奴隷になってしまうのです。
私たちのやることはすべて主のためです。主から全てを無償で与えられたものを他の人と分かち合います。その時私たちの一生は楽しいものになります。自分に与えられたものを、他人にも分け与える精神で生活するなら、次の主のみことばが響いてきます。

『すべて重荷を背負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだったものであるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。』(マタイ11・28〜30)

利得や報酬のためにする労働と、愛と役立ちの為にする労働との違いは、ここにあります。時に重荷に感じても、他方から見ると軽いものです。
主の仕事に参加していると考える時、役立ちの機会は山とあります。

しかし、世間の仕事は複雑で、心を悩ます事が多く、人々は刈り入れなどには無頓着で飲めや、歌えや、稼げやで、日を過ごしてしまう事が殆んどです。
ですから、主は『刈り入れは多いが、働くものは少ない』といわれます。

そして働くものを刈り入れにお使わしになります。 また、言われます、
『朽ちる食物の為ではなく、永遠の命にいたる朽ちない食物のために働くがよい。』 と。                 アーメン

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