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真のキリスト・ニューエルサレムコミュの説教集2

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説教集「喜びの約束」P127 東京の銀座教文館
H・Lj・オードナー牧師
題『われらの守護の天使』
テーマ聖句「主の使いは主を恐れる者のまわりに、陣を敷きいて彼らを助けられる」(詩篇34・7)

私たちは日常の平凡な仕事や生活の中で、自分自身が霊であり、しかも自分の回りを多くの霊が取り囲んでいるのに気付いているでしょうか

これらの霊は私たちと全く同じ様に、人間の心を持っています。 自分の言葉や行為を通して、自分の性格を表す1個の人格です。彼らも霊界にあって、社会生活や教会生活の中で自分なりの《役立ち》を果たします。

彼らは私たちの周りに居て、私たちに直接の影響を与えます。
また私たちに間接的な影響を与える霊もいます。
私たちが過去の人物のやった業績を耳にし、彼らが書いた書物を読み、また彼らの作った芸術作品を鑑賞するとき、彼らから影響を受けます。

このように人類の先祖たちは、死後も地上に生きる私たちにいろいろな影響を与え続けています。
先祖の霊は子孫の霊に、良きにつけ悪しきにつけ、このようにいつまでも感化を与え続けているのです。
先祖の霊が霊界で私たちの人生に影響を与えているなどと言っても、現代人はなかなか信じません。しかも神の英知によって、この世と霊界の間に不必要な干渉がないように二つの世界の境界線ははっきりしていて、お互いに邪魔しないようになってます。

互いに自由を守って、相互の霊的な成長と発達に役立つようになっています。だから、尚更信じにくいのでしょう。
この世と霊界との間にはどのような関係があるか、神の啓示をいただかなくては到底分かり得ません。
ただし、単純心を持った人なら、この世を去った後、またあの世がある事が分かります。古代人はこの様な信仰を持っていました。聖書のなかにもこれが確認されています。  新約聖書の中でも主はいろいろな譬え話で、来世についてお話になっておられます。   しかし単純な信仰が失われたのちには、出来る限り知性の力でもって、真理を求めていく他はありません。
人はこの世の楽しみ、利得・名誉などに心を奪われて、信仰を失っています。自分の欲望を満たす事がこの世での1番の目的になります。
さらに悪霊のそそのかしによって、人々の心はいっそう迷わされます。

神を認めない人が栄え、貧しい人が苦しみ、世俗的な人がこの世で成功するとき、人はにがにがしい思いをするのです。不平等は人類全体に悪い影響をもたらしています。 だからこそ、この世が終ってから来世があり、正しい審判が下されるべきであると考えないわけには行きません。
人がこの世で経験した全ての事柄、たとえば愛、葛藤、苦楽の全てについて、その意味がはっきり示される日が来なくてはなりません。
ところで、私たちがこの世で経験する全ての出来事、苦楽、運命の全ては、神の永遠の目的にかなうよう、また永遠の《役立ち》にかなうよう、また人の幸福の為に設計されているのです。

ただここで忘れてはならないことは、神の特別のみ摂理によって私たちはこの世にありながら、霊界からいろいろな影響と感化を受けていることです。
善霊からは善の感化を、悪霊からは悪にひかれる誘惑・魅了されることを受けています。 善霊は私たちに善と真理との情愛をもたらし、悪霊は悪と虚偽の情愛をもたらしています。  しかし、いづれ、善霊も悪霊も神のみ摂理に奉仕するねのです。 かれらは人の自由を認めつつ、神のみ摂理に協力しています。  私たちは悪霊の影響を受けていますが、その誘惑に反対する自由をもっています。

また悪霊たちは、自分が誘惑している人間が誰であるか全然知りません。
お互いに付き合っている人物が誰であるか分かりませんが、聖なる著作の啓示によって、お互いに相手のそば近くにいることを知るのです。
彼らが注ぎ込む動機、愛、欲望などは感知できますが、それはあたかも、わたしたち自身のこころの奥底から湧き起こってくるもののように感知されます。 しかし、わたしたちはこれに反抗する事も出来ますし、その中から良いものを選び取る事も出来ます。 また悪霊を退けて、善霊を自分のそばによびよせることもできます。
善霊も悪霊も、自分たちの目的の為にわたしたちを利用してます。
霊は自らの心の喜びを発見できる人間の中に入り込むのです。
かれら善霊・悪霊は人間の持っている情愛、欲望、その他に触れてそれを自分のものにし、人間に成り切ったつもりでその気持ちを共有し喜んでいます。 しかも人間の記憶を自分自身の記憶のように扱うのです。
ただしそのような流入があっても、私達が自由をうしなうことはありません。また私達は、そのような霊がそばにいることわ意識しませんし、それに責任を感じるわけでもありません。気がついてないのです。
その様にして霊は私たちのうちに情愛、欲望、想像を起させて、私たちと生活を共にしています。私達は意識しないで、そのような招かざる客を、自分自身の記憶や感情や心の移り変わりで、もてなしているのです。

霊たちにしても、いろいろな人の中に入って、その感情と欲望を共有し、同時に多くの人の中に入って喜んでいるのです。人間にしても霊にしても、お互いの流入によって得ているものを、あたかも自分自身から出たもののように楽しみ喜んでいます。 それが善の流入であろうが悪の流入であろうが、自分自身のものとして楽しんでいるのです。 神の特別なご保護の下で完全な自由を保ちつつ、生活の中身を共有しているのです。
これが人間の自由な行動にもなってます。
主が私達人間に悪霊を送られる事はありませんが、私たちが悪霊を呼び寄せる事は出来ます。  自ら悪霊が自分のそばに居る事を許すのです。
今日の詩篇にもあるように、善を大切にする人のそばには、善霊が陣を敷き居てその回りを取り巻き守ってくれます。 
彼らは私たちと私たちの民族を守ってくれます。かれらはエホバの軍勢なのです。
エリシャは自分のしもべに、主は、神を信じる者また圧迫されている者を、多くの天使をもって守らせたもうと言いました。
『恐れる事はない。天使たちは私たちと共にいる。 天使たちは、敵がわれわれのそばにいる以上に私達と共にいるのである。』

聖なる著作による啓示は、すばらしい霊の世界を繰り広げてくれました。
この地上から霊界に移った霊だけでなく、他の天体に住んでいて、死後あの世に移り住んだ多くの善霊も、われわれを守っていると言う事を知るのです。 主は全ての人間に、2人の天使を送っておられます。
1人のは天的な天使で、もう1人は霊的な天使です。 この2人の天使によって、私達は天界の流入を受けています。  この天使たちは、人の心の奥深くにまで届く流入を通して、人と関係を保っています。
悪霊が近づいて、私達の心の底に残っている残果(無垢)、つまり霊的な宝物を盗み出さないように守ってくれています。

人は守護の天使を感じる事は出来ませんが、かれらは私達の心の中に、善への喜びや光を与えてくれます。  と同時にかれらの心の喜びも、人間から来ているのです。  人の心に悪が芽生え、地獄からの流入を受けようとする時、これを妨げてくれます。
また悪の流入を消し去ってくれます。悪霊が来て人の心の中に疑惑、挫折、失望などを起そうとする時それに抵抗し、背後から助けてくれます。
天使たちは人間の為に一瞬一瞬、戦ってくれています。 悪霊との戦いに関しては、人は自分の自由な努力で、悪と戦うことが出きる様に助けられるのです。
主は人が自由に決断出来るためのバランスを考慮されて、2人の悪霊がそばについていることをお許しになります。  悪霊は私たちの心の奥深く入り、遺伝悪を挑発し欲望を起させます。不正、貪欲、姦淫など、人の心が悪霊のようになってくることを願っているのです。
人を騙し、罠にかけ、おとしめますが、かれらの直接の攻撃目標は私達のそばにいる善霊なのです。  つまり善れ製を遠ざけ、はねつけるために、脅かしや、そそのかしを行います。
悪霊といっても、人間のことはあまりよく分かってはいませんし、人間自身を直接傷つけることはありません。  ただ人間の情愛、感情しかわからないのです。 人の心の中に入って、人の記憶の全体をすっぽりと掴んでしまうことがあります。 そして自分が霊である事を忘れほど人と同一化することがあります。  何人かの悪霊が同時に1人の人間の心を占領する事もあります。 その人はいろいろと違った情愛の中で分裂して、あっちこっちに奔弄されるのです。 私たちのそばにいる霊は、善霊にしても悪霊にしても年とともに交替します。 人が幼児期にあるときは、最高天的天使が守護をまかされ、青年期には霊的天使、老年に達すると、第3天界にいる無垢で知恵に満ちた天使が守護の天使になります。 その他、多くの天使が私たちと交流を持っています。
天使たちは、私たちの毎日の生活のなかで、その想像、情愛、記憶の面でいろいろの影響を与えます。人はその中にあっても自由な意志を持ち、自分の選択の自由を確保しているのです。  わたし達はそれを通して、天界の高みに達する事もできるし、地獄の底に落込む事も出来ます。人は悪霊と善霊のあいだにあって、あるいは高く、あるいは深く、あるいは近くと、いろいろな経験をすることが出来ます。 私たちの心は歓喜と悲哀、希望と絶望など、変転極まりない様相を経験します。 一瞬、希望があったかと思うと、失敗と挫折を味わいます。   一瞬、希望があったかと思うと、失敗と挫折を味わいます。

このような変化の中にも、心のなかの秩序が存在しています。
天使たちは私たちの人間の中に、最終の休みどころを持っています。
つまり、私たちがかれらの内的な目的の終局点になるのです。
「洗礼」についと考えてみましょう。洗礼とは一体なんでしょうか。
洗礼はすべての霊の前で、その人が「教会の人」であることを宣言する事になります。またこれは、人の記憶の中に刻み付けられ、神と天使から保護されているしるしにもなります。
またこれは、同じ信仰を持った霊たちを呼び寄せる印でもあります。
また主の「聖餐」をとおして、私達は自分と同じ霊で結ばれます。みんな神様の子供であると言う意識で聖餐に列席します。 祭司になるための「叙階」の式は、人を天界における聖なる職に組み入れることになります。

以上は、さまよう人生の中でのはっきりとした指針です。日常の生活の中でしなくてはならないことや正しい決心を善霊達が勧めてくれます。
人生の中で最も大切なことのひとつは、どのような天使とお付き合いをしながら、この世を送って行くかと言う事でしょう。自分自身の心、感情、思想、愛情を、どのような天使と付き合いながら発展させてゆくべきかは、私達自身が決める事です。

私たちが自分の側に善霊を呼び寄せておくと、すべてのことを神への愛と畏れから実行するようになります。
そのような雰囲気を私達自身が作っていくのです。善霊たちが与えるのは、人のまやかしの平和や過保護ではありません。 むしろ本当の平和と愛です。
ただ主だけが与える事の出来る平和と確信です。それは真理への愛と、善への情愛の内にいる者は主の救いのうちにある、と言う確信です。

真理を信じるということはどういうことでしょうか。これこそ人生の重要な*秘密です。 これはどの時代に生きる人にとっても、いちばん大切な質問です。  そのためにこそ、主は天界と地獄の秘儀を私たちに示してくださいました。
もし私たちがすべての善は神からくるものであり、全ての悪は地獄から来るものであることがよく分かれば、自分で自分で何か善をして報酬を求めたり、自己満足に陥ったりすることがなくなるでしょう。  また自分がやった悪いことについて、絶望に落ちいる必要はないでしょう。
人が霊界についてよく分かれば、人間とはなんであるかもよく分かってきます。

すべての善は外からのものであることがよく分かると、自己義認の誘惑もたちまち、はねつけることが出来ます。

またどんな悪霊の誘惑でも、主のみ恵と善霊の助けによって撃退できるという確信も持てます。
だから、弟子達には悪霊を追い出す権限が与えられたのです。

『主の使いは主の恐れる者の回りに陣を敷いてかれらを助けられる』
アーメン


ところが主の譬えばなしを間違って解釈した結果、誤った教義が生まれてきました。  これが真理から外れ、また単純な信仰からもはずれてくる原因でした。 また「天界と地獄」神の僕イマヌエル・スウェーデンボルグ著の冒頭にもあるように、この世の<否定の霊>が学問や科学を利用して、人の心を頑固なもの盲目にしてしまいました。 拒絶。
主は僕スウェーデンボルグの著作を通して、新しい啓示をお与えになりました。それによって、私たちは正しい信仰が持てるようになりました。無知な心に光が射し、虚偽は姿を消していきました。「無知」によって単純な心つまり「無垢」が守られる事があります。しかし、単純な信仰が失われたのちには、出来る限り知性の力でもって、真理を求めていく他ありません。

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