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住み心地の良い世界コミュの私たちにとって何が現実?社会のゴーストについて

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この間知人との会話の中で「人間の認識」が話題に上りました。

人は基本的に望むものを観、目的のものを得るというもの。

私たちは、勿論個人差がありますが、各々「世間一般ではこう言われている/こう考えられている」というものを参考情報にする時があるでしょう。
でも、「木を見て森を見ず」という言葉がありますが、少し深く言うと、「木」は実在ですが「森」は観念です。
森というものは存在しません。
木が集まった「状態」を森と私たちは呼んでいます。
つまり、名詞と言うよりは、むしろ形容詞により近いと言えるでしょう。

物事は往々にして「木」と「木」の間で起こり、森は全く無関係な事が沢山あります。
少々大胆に言うと、「木」のみで生きていけると言っても大丈夫な世界も存在します。

行動は少なく、思考が多い人はしばしばこの「森」、言い換えると「社会のゴースト=存在しないもの」に捕らわれる事があるようです。
つまり「取り越し苦労と持ち越し苦労」

この「取り越し苦労と持ち越し苦労」は多くの場合、「余計な詮索と神経過敏」等の所謂ストレスのもとを生みます。
と言うかむしろそれ自体既にストレスです。

「思考や意思が人々に認められやすい」ためには「説明能力」が必要になり、「説明能力とその説明のための労力と時間のために裂くエネルギー」の為に「実際には行動できない」という悪循環もあるところにはあるようです。

「良いこと」を実行しても「理不尽なバッシング」はある程度覚悟の上でやらないと、いつまでたってもできない人が多いことでしょう。

不言実行とまでは言いませんが、言葉よりも他人への説明よりも仲間よりも先ず自分が行動。
これが「気づき」の元になりやすく、そこは誰も犯すことのできない聖域となります。

ゴーストを相手にすることなく、かつゴーストの影響力を知りつつ実行をすること。
これが成功への一つの道のように思えます。


さて、タイトルに戻ります。
Aさんはゴーストに捕らわれやすく、いつも「社会の常識」や「社会のスタンダード」に自分をゆだね、自分で決め、自分で行動し、自分が責任を持つという性質に薄い性格です。
Bさんは頭よりもむしろ体が先に動くタイプで、ゴーストはBさんに殆ど干渉できません。

Aさん、Bさん共に相手にしているのは同じ社会です。
ところがAさんにとっては「社会とは常識に捕らわれやすく、ギクシャクした状態のもの」になりやすく、Bさんにとっては「活力あふれる世界で、希望とチャンス、その実りに満ちている」という風になりやすいと言えます。
現実はここまで単純ではありませんが、「自分の認識」がいかに「自分自身の世界観」に直結しており、「世界観=現実」と言える中で【何をどう観るか/どう聞くか】が如何に重要かはわかると思います。
そして、【現時点で自分が何をどう観ているか/どう聞いているか】は、【自分が何を求めているか/何を嫌っているか】に基づいているかが判ると思います。

人の願望はそのまま世界であり、世界はその人自身と言っても過言ではないと思います。
私たちは裸のままありのままに知られています。
見えるし、見られているとも言える世界もあります。

後日コメントに続く。

コメント(3)

私たちは「過程」の中に生きており、結果とはあまり縁のない世界に住んでいると言える世界観があります。

私たちが「決断」とか「結果」とか呼んでいるものも、所謂未来に続く「過程」の一つであると。
平たく言うと「人間万事塞翁が馬」とでも言いましょうか。

どこでどのように事態を「結果」と呼称するかは、その人の大切にしているもの、軽んじているもの、能力、等々が往々にして現れます。

ある人は、自分個人的にはどうでもいい時点で社会的な影響を考慮して「結果」と称します。
自分個人的にはどうでもいい。つまりまだ過程とも呼べない時点の事態を。

社会は人間のためにあるのであり、人間が社会のためにあるのではありません。

セルフィッシュな人間としてではなく、社会人としてではなく、「正統な人間として」自立して生活することが肝要だと思っています。

私たちは、社会人としてのメガネとそのメガネを好きな時に取ることが出来る練習を日頃からしておく事が大切に思います。
そうでないと、自分ではなく、社会のゴースト、つまり存在しないものに仕えて生きるような生き方になるでしょう。

無意味なツッパリではなく、不正な欲望などによる単独行動ではなく、間違った自分の理解に疑いを挟まずに信じて行動するのではなく、誠実に、理解と愛をもって生きたいと思います。
私たちの心は、普段していること、思っていること、考えていること、意識を向けていること等の中に存在し、その中においてリアリティを感じます。

何かを半端じゃなくやろうとする時、常軌を逸し、「この人々のリアリティ」から外れ、それらの人から見て愚かな行為や思想の持ち主的なレッテルを貼られることも歴史的にしばしば見受けられます。

でも、人々の下す評価は多くこの「リアリティ」に基づいており、真実とは無関係のものが中にはあります。
これらは、その人たちの視力の及ぶ範囲の更に先にあるものなので、見えない人たちには愚かなものでしかない場合もあるのです。

人はそれぞれ生きるベクトルが違います。
見えないのは悪いことではありません。むしろ自分は見えていない事を知り、認め、謙遜に敬意をもって物事に対すること。
これがそれぞれを生かし、ひいては自らを生かす道の一つだと思います。

そして、物事の始めと終わりには「無」があります。
何も完全なものはこの世にはなく、はじめは何もなく、終わりにも何もありません。
ある哲学や宗教は、途中にも別にある訳ではないと言います。

あるかないかは問題ではなく、はじめと終わりにある「無」に親しみ、喜び、感謝する事に慣れると、途中の「有」も荷が軽く、よりスムースに運ぶことができるようになります。

すべての知識は、やがて滅びるものです。何故ならそれは「部分」だからです。
完全なものが到来するとき、「部分」は「全体」に変質します。
この時に「部分」に執着していれば「滅び」に感じるでしょうし、「全体」に心を置いていれば「新生」に感じるでしょう。

私たちは、自分の心がある所に生きています。
セルフィッシュな場所にではなく、より高い秩序に心を置き、その様に生活する事がもっとも肝要だと思います。
自分の人生はこれで良いのか?
自分の使命はこれなのか?

10時間後の仕事に対して、職場が、同僚が、客が、上司が、部下が、正しい秩序の下キチンと聖なる仕事を行っているか。

これは、正しく生きたいと望む人が時たま悩む種と同じ種類の例えです。

でも、10時間後の自分はまだ存在しません。
私たちは10時間後の自分のために今用意をしていると考え勝ちですが、今立っている地点を0地点、10時間後の本番を10地点とすると、0地点で全てを持っていなくても良いのだと思うのです。
私は、よく0地点で何も持っていないが、10に向かって歩き始めることで1,2,3,4,5,6,7,8,9地点で最終的に10地点で必要な全てを与えられる事をよく経験しましたし、今もします。

社会では、0地点で10持っていないと進むことを許されなかったりしますが、必要なものはむしろ途中で得ることが多いです。

無謀な歩みは確かに破滅をもたらすかもしれませんが、今は無いが信じて進むことも大切だと思います。

マザーテレサは、その活動を始めるために修道院を出たとき、ポケットには数百円位のお金しか持っていなかったと言います。

もし、自分が神の御心を行うのだという確信があれば・・・そういう人は迷わないかもしれませんが。。。今何も無いことは何の問題でもありません。
最近は神を信じない人の中にも、それをよく知り、実行に移している人の声が大きくなって来ているように思います。

古い秩序に縛られるのなら、究極に古い、天地創造の前からある秩序に従って生きる。これは最も新しい生き方でもあります。

。。。ちょっとクリスチャン色強すぎましたかな。今回は^^

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