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仏教 釈迦 禅 悟り救いコミュの(3-A)仏教は二種矛盾なく在る「真理」と「救い」

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単なる僕の個人的な見解に過ぎませんが。

(1)「仏教には二種類ある」と考えます。
「気が付く」事を目指す人。そして気が付いた人
気が付いたので、そのまま死ぬ迄生きた人(たとえば一休さん)

(2)自分気が付いた事を他にも気付かせたいとする人(たとえば道元)
  さらに、もしそれでも「気付かない人はいったいどうするのか?」
たまたま気が付かない者の方が多いではないか!と思い
「こうなったら、残り全部まとめて引き受けよう救済しよう!」という人、、それが親鸞でありイエスであったり空海だと思います。

芭蕉や一休のように(1)の「気が付いた」後、
ただ「人間」として死ぬ迄生きるという道を選んだ者もいた。

この場合の(2)の救いの為に行うあるいは言うのが
「方便」「マジック 」だと思います。
もちろんイエスにおける「それ」も同じ
アミダやカンノンも当然そういう事だと思う。

コメント(25)

「諸法空相」は「所行無常(あらゆるモノは留まらず、変化する、)」
と一セットですが。
「人間」を今自分がやっている事も、また
「諸法空相」は「所行無常」であると、文字の理解や解説ではなく
こころから気付くと、「なぜ苦しいのか、なぜ苦しんでいるのか」の
元が解り、「明らめる」事が出来、「やむなし」と思えると思います。

ただ、ほとんどの場合は、それ依然の「人間であるがゆえの習性」から
起こる空想、妄想、想像による予想に「とらわれ」て苦しいのだと思います。が、まずそれに気が付くだけでも、かなり苦しみの根本は解決するはずです。
たとえば他人と自分自身の「魂」の存在の有無に苦しむ事も無くなるし、
覚悟が出来ると思います。

しかし、それは「悟りの仏教」
それを悟った者は、その後こ行動が少なくても3通り
(1)他の者もそれに気が付く、手伝いをする
(2)気が付かない者に「悟り」意外の方便により、苦しみから解放する
  「救い」の方便を使う。
(3)もはや「人間」として死ぬ迄生きるしかないと覚悟し、そのまま
  死ぬまで生きる。

(1)〜(3)は何も矛盾しません。
 jickeyさんのおっしゃる
<<愛だとか慈悲だとかと表現されるもの>>
とは、この場合の(2)の事ですね。
そして、この(2)とは、(1)で悟った者(気が付いただけ)が、
方便を使って、とにかく気が付かなかった残りの者全部を「救済」
してしまおう!という仏教です。
あくまでも(1)で悟った者(たまたま気が付いただけの者)が
救いに行きます。そこがただの「妄想集団」「オカルト教団」との
大きな違いです。
そこで、ややこしい事はもう考えたくない、考える余裕などないとかの
人々を、いっさいを救います。、、、という仏教。これはすごいです。
そこに愛と慈悲があるからです。すばらしい事だと僕も思います。

jickeyさんとは、そういう事で、今からは(2)の仏教として
お互い会話するのが適当かと思いますので、そうさせていただきます。
それは虹みたいなモノだからである。
「ありのまま」という言葉自体とその状態が既に曖昧で。

それは空に浮かぶ水と光のようなモノで、止まることを知らず刻々と変化している。
私達は主観と葛藤と客観とを繰り返しながら生きる。
それは仮に現れたその曖昧な虹になったり、それを構成する水になったり、光になったり、そしてそれを眺めたり、、、
と繰り返しながら生きることである。

真理とは自分自身が虹である時に自分自身が虹であるということを観ることで、、
自分自身が虹になることやそれらを構成することはいつも繰り返しているがその瞬間を捕らえることは容易くはない。

自分自身の虹に出会うということはものすごく嬉しいことで、一度そいつに出会ったら嬉しくて絶対人に話したくなって、こうやったら自分の虹に出会えるよって、そこまで案内したくなっちゃったりね。

その虹に出会うためにこの命はあるのだ。
怠ってはならない。
そして一瞬の虹に具わる様々な原因を忘れて、浸っている暇などないことは確かである。
ickey さん:
<<真理は)美しいと感じるのでしょう。 >>
ん?だれが美しいなどと言っているのでしょうか?
真理は別に美しいとかなんとかではないでしょ。

<<(2)の仏教として・・・とのお話だったのですが、
一見何も行動されていないように私たちの目には映る >>
何の事でしょうか?仏教の話しをする場合、以前に書いていますが
「覚りの仏教」と「救いの仏教」と一緒にいきなり話しても
そこには矛盾が出てしまうでしょ。
、諸行無常、諸法空想なのに、なんたら観音やなんたら妙王などという
事は、「実証」できない事ですから、「確認しようのない事は、それ以上の判断を中止」するという釈迦の教えと矛盾するでしょ。
しかし、「救済の為の仏教」はそれもありですから。
あなたのおっしゃってるのは、そっちのほうだと言うくらいの意味だけです。
<<一見何も行動されていないよう>>
誰が?
<<に私たちの目には映る>>
私たちの「たち」はだれ?
勘違いしないでくださいね、僕は救済なんかするつもりもないし、
出来ないですし、そんな慈悲なんてないですから。
僕はそんな、出来た人物になんか程遠いです。自分がせめて苦しまない
事でめいっぱいです。だれも救うなんて姿勢ないです。
それとも、あなたが「ない」という意味?
貴方が無いとあなたたちの目に写るの?、、、う〜〜んちゃうやろね。
前者の意味で言ってたのか、、、う〜ん、そういう事だったのか、、。
なんじゃそりゃ、、真面目に答えてそんしたわー。
お坊さん;
<<それは虹みたいなモノだからである。
「ありのまま」という言葉自体とその状態が既に曖昧で。 >>

あっ!それはちょっと、違う話になってるかと思います
 彼jickey さんは、「諸法実相」についておっしゃってるのでしょう。
お坊さんのおっしゃってるのは「諸行無常」の事ですから、ちょっと
ここでは話しがややこしくなるかもです。

諸行無常の意味では、おっしゃるとおりだと思います。

諸法実相という事での「ありのまま」というのは、
曖昧じゃないです!文字どおりがはっきりと「ありのまま」だと
はっきり観える事です。

jickey さんが
<<真理は美しいと感じるのでしょう。>>
と書いた不思議な(^.^;)言葉に、
ちょっと変な反応しちゃっただけでしょう。
「真理」についてあちらこちらの仏教関係なコミュニテイでよく見ますが。
「自分は決して観てもいない」と断っておきながら、
「体験してもいない」と前置きしておきながら、
「真理」
それについて「美しい」とか「すばらしい」とか、いろんな表現してしまっている人がいっぱいいますが、「食って無い」んだったら、そりゃ想像でしょ、ただの。
想像や空想を話しあっても、それは、好きにすればいいだけの事。
「こんなヒーローあったらなあ」と好き勝手に空想しているようなもので、それが仏教だなどと勘違いすると、トンデモ宗教になっちゃいますね。
しかも教典や解説書をを生半可に読みかじったりすると、
「単なる記憶に過ぎない文字」を「そうだ」と思い込んでしる自分にすら気が付かなくなる。仏教学を勉強したから偉いとか、どれだけ本えお読んだからとか、、、それって、それだけ読んだのに気が付かないほどあほだと自分で宣言してるようなもんですよね。
「奥が深い」だのと言う者はたいてい「奥」なんか観た事が無い者なんですよね。見えてないからその者には奥が深いと思うんですね。
ちゃんとたどり着いてみたら、なんと浅かったかというような事でも、
たどりついていない者には永遠に深いわけです。
自分がたどりつかない所に他人がたどりつくのは許せないんでしょうね。
でも、たどりつくも何も、それはそこにちゃんとあって、目の前に見えてるのにね。「ぐだぐだ」言って、我欲や、プライドにとらわれたり
すと、目の前なのに、永遠に深い闇のなかだと思ってしまう。
だから、「ほらほら違うかったでしょ(^.^)/」と!
「こんな目の前にあったでしょ」と、
「最初からちゃんと言ってたでしょ」と、
そういう意味で「諸法実相」の言葉が教典に刻まれ今も伝えられてるのだと僕は考えています。
諸法空想、諸行無常は、実際に心にストンとは解らなくても理屈では
言葉ではたいていの人は理解出来るはずです。
仏教解説書にも、これについてはいっぱい書いてあるはずです。
でも「諸法実相」だけはむりですね。
ちゃんとストンと目の前が真理そのものだと「誰にひけらかす」意味でもなく心にストンとある時たまたま観る事が出来てしまったら、
その瞬間「うわっ!ほんとだ!、はなっから全部、そのままだ!」と
びっくりして笑けてしまうはずです。
とんでもなく遠い深い所にあると思っていた事が、
「やまの彼方のすぐ遠く幸い住むとひとのいう(だったっけ)」
山の遥か向こうにまで行かなくては見つからないモノではないし、
また、厳しく険しい山の向こうに死ぬ思いまでして
行ったからといって、答えがあるものでもない。
苦行したからって御褒美にもらえる事はない。
慈善行為を続けたからって、残念ながら自然からは御褒美くれない。
毎日読経しても写経しても、それは声をだしているだけ、
墨で紙をよごしているだけ。それ自体からの御褒美はない。
でも、禅や写経や読経や茶は花や様々な事をしていて、ふと
気付く、昨日と今日の違い、一瞬前と一瞬後の違い、
回り(環境)と自分の違い。
そこにたんぽぽが咲いてた、ここに虫が死んだ。
自分が今歩いている、自分は昨日笑っていた。
そんな事から、ぽっと気が付く事があっりする。
たったそれだけ、釈迦は仏教書や仏教解説書を読んではいない。
ソクラテスは哲学の本を読んでマスターした訳ではない。
釈迦は苦行そのものに意味が無かったとスジャータの乳粥を食べた。
修行からみえる事はあるが修行そのものには意味は無い。
教典からみえる事はあるが教典そのものが仏教ではない。
座禅から観えるものはあるが、座禅そのものは「ただ座っている」意外の意味は無い。
仏教解説書から理解出来る事はあるが、仏教解説書が仏教そのものではない。
真理を言葉で暗記するなら誰でも出来る。
「Aのカレーは辛くて美味しい」と「しかしBのカレーは甘くてまずい」と
そう聞かされたり、文献を読んだりすれば、
たしかに、どれがあまくてどれが辛くて、どれが旨くてどれが不味いか
判断出来る。暗記出来る。大勢の人が「そうだ」と書いている。
だから、隣の人の顔色みながら、「そうだよな」「うまいよな」
「誰でも辛いとおもうよな」と相槌を求める。
それは、自分自身がまったく食ってないのから。
 それは空想ですよ、想像で話しているだけに過ぎないから。

だから、「愚貧に戻れ」って事ちゃいますか。
仏教を勉強したのなんのと、騒いでも、それが「足をひっぱる程度の
暗記でしかないものなら、あほになれ!」と親鸞が。
「ぐだぐだ言ってないで、黙って座っとれい!」と道元が!
知識はひけらかすためにあるのでは無く、自分の為でしょ?
「読んだ」「聞いた」と実際の経験、とは、似ていて非なるものでしょ?
相手を攻撃したいが為の知識など仏教とはまったく違うモンでしょ。
「徒党を組むな」という釈迦の教えは
、そういう自分に弱い者達への戒め。
慈善ごっこや、偽善者ごっこ、仏教ごっこしてるだけ、、。
そういう僕も仏教論ごっこなのかなあと思ってます。
うろたえまくってるから、こんな所で書いてるだけですから。
うろたえて、おろおろしてるだけ。
本当にほんと、おろおろしてるだけ。
「やまの彼方の、、、何遠く」だったっけー
「すぐ」ってのは日本語としておかしーですよね(^.^;)
遠いのか近いのかどっやねん!みたくなりますもんねー、

あほやから、思い出せないよー
キャパすっごく少ないからー
誰か教えてー、わすれてもた。
「空?」かな?
まあ、、日本語訳だから、解釈いっぱいあるだろうけど、、
ずーっと遠くの空まで、、空をたどって、ずーーっと向こう
って、事だと思うんだけどー(T.T)
落語家が言ってたっけねー「ヤマノアナアナ」って、、(^.^;
おじゃまいたします。
>隠れキャラとらまる夏さん
「山のあなたの空遠く、幸い住むと人のいう。
ああ、われひとと尋めゆきて、涙さしぐみかえりきぬ。
山のあなたになお遠く、幸い住むと人のいう。」
ですか?上田敏さんの訳です。
netで調べてみました

>jickey さん
「美しい」とは釈尊が「世界は美しい」と言ったと言うことに関する事ですか?
釈尊が「美しい」と感じられた、その感覚について私が述べることは出来ませんが、私なりに思ったことを述べさせていただきますと
人間は、通常何事に関しても相対的に捕らえます。
「是は不味いが、是は美味い」とか、具体的な比較を伴わなくても、日常の中で、非日常的なものに対して感動すると言えます。
根本的なことを申せば、それらは人間が、自分と自分以外を無意識に分別比較しているためではないでしょうか
つまり、独立しているという錯覚に基づいていると言うことですが、言葉や通常の思考で、人間も含め、この世はすべて相関し変化していて何一つ独立して変化しない固定的な性質を持ったものは存在しない。と言うことをわかっていてもそれを自分自身の事として完全に実感しないうちは、感覚も無意識のうちに自分と自分以外を分けていると言えるからです。
なぜ真理に目覚めると美しく感じられるかと言う事ですが、上記のような錯覚された自我と言うものがなくなると、比較なしに全てのものとそれにまつわる因縁を直視するような状態となり、その観点から、世の中を見ますれば、所謂相対的な善も悪も醜いものも美しいものもなくなりますので、あらゆるものは覚者から見れば、欠けることのない完璧な姿そのままで見られる事となります。
そして、見たものはすでに悟っているのですからその美しさに対しても何の執着も起こりません。
そのような意味合いで美しいと表現されているのではないでしょうか
この場合の「美しい」は、通常の人間が感じる「美しい」という感覚とは明らかに別物と思って良いと思います。
いろいろな事を思い出してきましたが
「世界は美しい」という言葉は
私の中で好きな言葉ベスト5くらいには入ってきそうです
良い言葉です。
僕の中では世界は相対的ではないので「美しい」もなにも
相対するものがない。
ただし、「救いの仏教」では、あり。
>隠れキャラとらまる夏さん
全くそのとおりだと思います。
美しいも醜いも禅も悪も
錯覚された自我に基づく分別は一切根底から無くなります。
そのような自我が無くなったならば、そもそも美しいなどと感じる事も無くなります。
釈尊が弟子に対して説いた事ですから有る意味では「救い」というか「方便」かもしれません
私は縁起になる前に一瞬、縁起の緻密な網のように絡まって欠ける事の無い有り様を観た時に、私にもやはり世界は美しく見えたなと思いましたので上のように書き込みました。
なるほど。同感です
さすが、あなんさんはいつも、深いです。
>烏丸さん
苦等について漢訳の『般若心経』に書いてある事をもう一度読んでみていただければお解かりになるかもしれません。
もし、解らなければ、また、書き込んでください。
----烏丸 さん 16---

せっかくの「般若心経」を
一つ一つちゃんと理解して読むと、
「そのまま」書いてあると思います。

大乗だとか小乗だとかは、それから、よく考えて、
使いたいのであれば使えばいいけど、
別にそういう言葉は「いらん」ですね。
阿羅漢だとか菩薩だとかの地位や区別もさほど大した事じゃないし、
「煩悩」という言葉の定義と
「断滅」とかいう言葉の意味を考えて、
通常の言葉で簡単に言えばどういう事なのかですね。
もし、それが単なる夢希望、空想、妄想に過ぎない事でも
いいのなら、それはそれで「それもあり」ですけど。


*「世界は美しい」に対する意見が
<<縁起によって円満(マンダラ)である世界のこと>>
というのもマカフシギな言葉ですね、
自然(宇宙)を表したに過ぎない図であるマンダラの図案の
見た目の事でしょうか?所詮鉱物等の絵の具がくっついたにすぎない
紙の上の模様の事でしょうか?
まったく違う話をされているのでは?
マンダラだとか、小乗だとか、大乗だとか阿羅漢だとか、
段滅だとか脱却だとか、、、。
それが何なの?そういう言葉が使いたかっただけのような気がします。
んな言葉なんか使わなくったって仏教は語れるじゃんかー。
そんな言葉にばかり気を取られてると
何がなんだかわかんなくなってしまいそー。
ややこしくて、たいそうで、えらそうで、慈善的で
すごくて苦しい修行とか、なんとかを乗り越えた先にのみあるのが
「えらそうな仏教」だと勘違いしてると、
トンデモシュウキョウになっちゃいますよ。
所詮人間は人間なんですよ、そして人間は自然でしかないですよ。
人間もたかが自然の一部でしかない。決してえらそーな存在では無いし、
修行しようが逆立ちしようが、決して「たかが人間」以上でも以下でも
ないです。自然以外の何者にも無いし、それ以上でもそれ以下でも成りえない。修行しようがしよまえが、「それ」が揺るぐ事はない。
それに「気が付く」かどうかだけです。
「気が付かない」から、そういう妄想を抱いてしまう。
妄想を抱くから、どんどん頭の中に幻想を生み出してしまう。
ありもしない世界や、ありもしない超人を。
妄想からくる苦しみを。
そもそも「苦しい」と思い込んでしまっている事は何かと
「気が付いた」という内容が「般若心経」の内容ですよ。
「気が付いたら『苦』そのものが存在していなかったんだよ」ってのが
般若心経の中身だよ。
なのに↓
<<苦からの脱却するための煩悩の断滅こそが仏教の目指すものです>>
って、、あ〜〜〜ああ!ですよ!
また最初からやり直しですよ。また最初から経典の読みなおしですよ。
意味ないじゃん。あなたのその勉強して来たとかいう「モノ」って。
いっくら他人より自分はこれこれこれだけいっぱい読破したんだぞと
たとえひけらかすのが好きな人がいたとしても、
「だから何さ!」だからどーなの?
勉強したのに暗記したのに、写経したのに、座禅したのに
センセーに付いて勉強したのに、ボーズの免許(^.^;)取ったのに
と吠えたところで、だから「何なのさ?」。
ネットで調べたって、いったい何を?
ネットで何が解ったの?
釈尊の教えは
釈尊が存在しなかったとしても「存在」している真理に気が付いた事だと
僕は思います。
釈尊の生き方とかなんとかは、直接べつにどーでもいい事です。
↑そう釈尊自身が言うような事が「仏教」だと考えます。
そこがちょっと釈尊やソクラテスのすごい所だと僕は尊敬してます。
(僕が尊敬してるかどうかは僕以外には関係ない事である事は言うまでもありません事ですが)
>隠れキャラとらまる夏さん
「自然(宇宙)を表したに過ぎない図であるマンダラの図案の
見た目の事でしょうか?所詮鉱物等の絵の具がくっついたにすぎない
紙の上の模様の事でしょうか? 」
烏丸さんの「マンダラ」とはあの図に描かれたマンダラの事ではなく、「緻密な相関関係によってバランスのとれた宇宙」くらいの意味ではないでしょうか?
この部分に関しては、私の解釈と違和感を覚えませんでした。

仏教の悟りに対する基本的な考え方として、それほど明確に分かれるものではないとも思いますが、本覚と始覚とあります。簡単に言えば、本覚とは、もともと覚っているというような考えかたで、始覚とは、覚っていない衆生が悟りに向かっていくと言うような考えかたでしょうか
もう一つ、頓教と漸教があります。すぐに悟るか、次第に段階的に悟りにいたるかと言うものです。
おおよそ、現代言われている仏教はこれらが混ざり合っていると思われます。また、本覚で頓、本覚で漸、始覚で頓、始覚で漸という四通りの組み合わせが考えられますが、このあたりで立場に違いがあるのではないでしょうか?
文面だけで捉えますと、隠れキャラとらまる夏さんは、本覚頓で、烏丸さんは始覚で漸といったところでしょうか?
ご指摘あればよろしくお願いいたします。
烏丸 さん
あなたの目的が
<<僕は慈悲を根源とした如来となることこそが目標>>
であったり
般若心経を何か特別な呪文だと思い込みたいのなら
それは、明らかに僕とは全く違った別物をそれぞれ
見ようとしているわけですから、意見が合わなくて仕方ない事ですし、
それにより、あなたが書き込みするかしないかは自由です。

<<そのまま生きるというのは老荘の理想に近くはありますが仏教とはいえません。 >>
老荘の理想という老荘って何??
その老荘とやらの理想をあなたが何故知っているの?
そして「真理に気付いた後、死ぬ迄生きる」を仏教とは言えないという
根拠が「それ?」
そして、そのありもしない根拠で
<<欲望を吹き消す>>などという事が仏教だと言ってますが、
欲望など消せませんよ。消したらあんた死んじゃうよ。
死ぬ事が仏教ではない、死ぬ迄生きぬく事が仏教ですから。
食欲を消したらあんたしんじゃうよ。
性欲を否定し消し去ったら、この世から人間はいなくなるよ。
んなもんを消し去ろうなんて発想をしてるようなもんは
「おおぼけシュウキョウ」ですよ。仏教自然の有り様を観する(気付く)事であり
当然その中の一つである人間の有り様を見つめて、「人間とは」に気付く
事も当然そうであり、性欲や食欲があるのが人間と観する訳で、
それを吹き消す事なんて出来ないんだと覚悟する事が仏教ですよ。
あんた根本から間違ってる。ヨーガをしようが何をしようが
そんなとんちんかんな事言ってるようじゃおおぼけですよ。
般若心経はそういう内容です。あんたが違う内容をどこで誰から教わったかにはまったく興味ないけど、とにかく、そのあたりを
「妥協」なんかして話をうやむやにする気は僕にはないです。
そこをうやむやにして、楽しい仏教ごっこ、偽善者ごっこをするのなら、
わざわざここで、あなたにレスなんかはなっから付けないですよ。
多くの傍観者のように、ここはあなたを放っておくと思いますよ。
仏教ごっこをしてはいけない事は無いし、好き勝手な事を「仏教」だと
思い込んでも、それも別に個人の自由です。
、、、が!貴方が僕にレス付けて来たからそれに心から答えたまで。
しかも他のコミュニテイで、同じ事言ってたじゃん。(^.^;)
あなんさん;
<<マンダラというのはありのままにみた世界そのものです>>
という事は
<<縁起によって円満(マンダラ)である世界のことをいっているのだと思います。>>
の二つの文章を合わせると、、。
「縁起によってありのままにみた世界そのものである世界のこと」
そして、それが美しい。

という事になりますが、
ただ、「縁起によって」はすでに含まれているのが
「ありのままにみている」はずの「世界そのもの」のはずですよ。
ありのままの世界は縁起によって繋がっている世界の事ですから、
マンダラというなら、そのマンダラがさらに縁起によってを付けるのは
先のマンダラを理解していないという証拠です。
美しいかどうかは人間の分別にすぎない事。
その上で感動するのはありですけどね。僕は感動するよりはむしろ
絶望しますが「世界の有り様」には。
だからこそ親鸞の「救いの仏教」が必要なのではないでしょうか?
、まあ、このあたりの話は、あなんさんに話すまでもない事ですし、
また、ここでこう書いてしまうと、また勘違いする人が出て来ますから
世界の有り様に絶望するとは書きたくなかったんですけどね。
まあ、マンダラについて、さほど意味無く話されたコトバに僕が必要以上に食い付く事はなかったですね。まあ、このあたりはすっとばしましょう。

<<隠れキャラとらまる夏さんは、本覚頓>>
というのは<<もともと覚っているというような考えかた>>
<<、頓教と漸教があります。すぐに悟るか、次第に段階的に悟りにいたる>という事ですが、

僕は<<もともと覚っている>>という発想はまったくありません。
「自然の有り様」にある時、それぞれの縁により気付く事(者)もあるし、まったく気がつかない事(者)もある、そしてその両者は「たまたま」の違い。

そして前者(気がつく者)は徐々に(漸教?)というのが
釈迦もそうであったように、まずほとんどだと思いますが、
一気に覚る者もいるのだとすればそうなのかも知れません、僕はそのような人は見た事も聞いた事もありませんが。

また<<始覚とは、覚っていない衆生が悟りに向かっていくと言うような考えかた>>
という事ですが、そこで注意したいのは、中途半端に何かを知識的に覚えた所で、それが必ずしも覚りに至るとは限らない。
むしろ中途半端な知識が災いして逆方向を向いてしまい、
宗教に自分の都合のいい理想を期待する、そうすると作法だの正義だのと
自分の理想に反した考えを受容しにくい。
そういう意味からすれば、徐々に覚るというのではなく
覚った場合は全部に気がつく事で、中途半端な悟りはないという表現の仕方もありえるから、その場合を指すとすれば、一気に覚る時は覚るという
意味だとすれば<<すぐに覚る(頓教?)という表現もありかと思います、、がそうすれば、この相対的な二つの「言葉」を使う事は成り立たない。
どちらか一つしかない事になりますから、僕には、今、そのあたり理解出来ないです。どこか僕が勘違いしていますか?

少なくても真理を最初から理解している人間はいないと思います。
それこそ、阿弥陀も釈迦も親鸞もソクラテスも違いますよね。
イエスとかはそうなると思いますが。
イエスを信じるなら、これはそうですね。

分類の仕方についてですが、

 徐々に、もつれた糸をほぐすように解けていくといった感じで
かといって途中は最後の最後までもつれている事には違いないのが
この場合<<次第に段階的に悟りにいたる>>という<<漸教>>
になるのでしょうか?

もつれた糸を最後の最後にほどけた瞬間、あるいはほどける事が全部理解出来た瞬間、もう迷う物はないし、観えてしまう(気付いてしまう)ので
そういう意味では<<すぐに悟る>>という<<頓教>>というふうに
その事を分類するのでしょうか?

<<本覚で頓、本覚で漸、始覚で頓、始覚で漸という四通りの組み合わせ>>
は、僕の頭の中では、矛盾してしまうのですが。
これらの言葉は、違う意味で使われた言葉ではないかと空想(^.^;)してしまいますが、(始めて聞い言葉なので僕が理解不能の為だと分析すれば、
その方が自然かもしれません、その場合は、指摘お願いします)

言葉の文字や、おおぼけ間違いを言ってしまう事を恐れずに
甘えて発言させていただきますが、
たとえば人間以外の種は「自然の有り様」を新ためて考える事はおそらく
無いだろうし、人間のような分別にとらわれる事がないから、
そういう意味では、はなっから「ありのまま」を「ありのまま」観ている
と考えます、、、、が、サルやイヌがひっかかる所を考慮すれば、
たぶん、種差によって、「とらわれ」の差があり、またそこに固体差によりまた「とらわれ」の差が出て来る、が、予想し、空想する能力に比例にて「とらわれ」の差があると思う。
たとえば、極端な話、単細胞生物などは生きる本能のみで、とらわれの
元は限り無く無に近いと想像します。
たとえば、そのような種を想定しての「本覚」という分類はありかなと思いますが、人間という種である以上「本覚」は、おそらくありえないと
想像します。つまり人間として生まれて来た以上人間という本能、習性を
死ぬ迄持ち続けるしかないから
この場合分類すると
<<始覚>>という↓
<<覚っていない衆生が悟りに向かっていく>>くらいしか出来ないのでは
と思います。

ただ、奇蹟の宗教とか救いの宗教ににおいては、
勿論、「なんでもあり」です。
このトピックの主旨は、そのふた通りが別々ではなく
しかし、一見まったく違うように見えてしまう
「仏教」について語ったものですから、
「真理の仏教」と「救いの仏教」の違いが解らない
人たちにこの会話を見せてしまうと、
確かに、むちゃくちゃに見えてしまうと思います。
仏教の会話に絶望という文字を書き込むのもまた
なんだかなーの事になってしまいます。
この先については、別トピックを立てますので、
そこで、ふりわけて考えるというのはいかがでしょう。

一つは「覚りの仏教」
そして
もう一つは「救いの仏教」
そして、後は「ココ」つまり、
「その二つの矛盾なき仏教」という事になります、、、が、
おそらく、これによって、会話はますますややこしくなるかもしれません
し、ぶつかりあいもあるかも知れません。
別々にトピック立てても、しょせん覗き見出来るわけですから、
しかし、それによって、気がついてしまう人がいれば
(3つめのここ)は答えあわせのトピックになります。
まあ、まずそんな理想的な展開にはならない確立の方が99%以上だと
は思いますが、コミュニテイ存続を目的としなければ、
これは意味があるかなと思います。
いかがでしょうか?
気づいて見た世界を
感動して美しいと表現する事も
絶望したように感じることも
どちらにしても、
気づくより以前とのギャップのようなものかなと思います。
気づいたあとの内容は
言葉では表現できないのか
とも思います。

本覚始覚頓教漸教などは
私の語句の使い方が間違っていました
辞書で調べてみましたが、
頓悟、漸悟という意味合いでしょうか
頓悟は
「悟りに高下あるを認めず、修行の段階を経ず、直ちに悟りに到ること」
「衆生有りて直に大乗を聞き大法を行じ佛果を證する」こと
「速疾に妙果を證悟する」こと
漸悟は
「順序を踏んで修行し、漸次に高次の境位進んで悟りに入ること」
「初に小果を得て後に大乗に回入して佛果に至る」こと
「初に大乗に入るも歴劫の修行を以て漸く仏道を成ずる」こと
だそうです。

>「<<始覚とは、覚っていない衆生が悟りに向かっていくと言うような考えかた>>
という事ですが、そこで注意したいのは、中途半端に何かを知識的に覚えた所で、それが必ずしも覚りに至るとは限らない。」
本覚、始覚は、悟りに向かっていく過程の話ではなく、単純に「悟りを開いた者」になる要素が自分の内に在るか無いかと言う事です。
もともと自分の内に在って煩悩や欲望を除く事によって、覚るのか
本来そのようなものは自分の内にはなく、修行する事によって覚るのか
と言った事で、悟りという状態の「在り処」?をどのように考えているかと言う事です。

>「そして前者(気がつく者)は徐々に(漸教?)というのが
釈迦もそうであったように、まずほとんどだと思いますが、
一気に覚る者もいるのだとすればそうなのかも知れません、僕はそのような人は見た事も聞いた事もありませんが。」
修行によって段階的な境地を次第に経て行く事を説くのが漸教ですから、多少の段階はあるにしても、何らかのきっかけでたまたま覚るのは頓にあたるのではないでしょうか
そして、自他を分別しないで自らも世界も全てが縁起であったことに気づかれたと言うことから、本覚ではないかなと言うことを述べました。

以後はご指定のトピックに移らせていただきます。
なるほど、
<<本覚、始覚は、悟りに向かっていく過程の話ではなく、単純に「悟りを開いた者」になる要素が自分の内に在るか無いかと言う事です。
もともと自分の内に在って煩悩や欲望を除く事によって、覚るのか
本来そのようなものは自分の内にはなく、修行する事によって覚るのか >>>
ということでしたか、この場合の覚るという事は、目の前にある、ありのままが色眼鏡(とらわれ)を付けずに観てしまった(観たのではなく観えてしまった)という感じで、
これは人間だけに当てはまる(人間の本能習性によるのがとらわれだから)事だとかんがえれば、逆に人間として生まれた以上、
<<単純に「悟りを開いた者」になる要素が>>ほとんど、
だでにも<<自分の内に在る>>と思います。
あっつそっかー、そういう事かー、その事をおっしゃってたのですか。
なるほど、、。

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