ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

T&Tでネファーリアコミュの諜報員アンソニー 04

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「クリスタベルさん、お元気ですか?」
「まあ、アンソニーさん? また来てくださったんですか?」
「ええ。自分、暇なもんですから」
「フフフ。アンソニーさんみたいな若い人が、私のようなおばさんのところを尋ねてきたって、つまらないでしょうに」
「そんなことはありませんですよ。クリスタベルさんはお美しいですし、とても楽しく足を運ばせていただいてますです。……それとも、ご迷惑ですか?」
「迷惑なんてとんでもない。夫も息子もずっと留守にしてますから、遊びに来てくださって嬉しいですよ」
「そう言っていただけると、救われますです」
「それにねえ……」
「……はい?」
「前にも話したかしら? うちの息子も、アンソニーって言うんですよ。ですから、本当は……アンソニーさんが来てくださると、出掛けてる息子が帰ってきたみたいで、嬉しいの。フフフ……こちらこそ、こんなおばさんの息子扱いなんて、ご迷惑かしら?」
「とんでもないです。そんなご迷惑なら、私にとっては大喜びですよ。いくらでも掛けてください。いやほんと」
「優しいんですね、アンソニーさんは。ほんと、手紙1つよこさない内のバカ息子に、爪の垢を飲ませたいくらい。まったく、同じアンソニーでこうも違うものかしら」
「む、むす、こ、さんも。いそ、がしいんです、きっと。あまり、責めないであげてくださると、きっと、息子さんも助かりますです、はい」
「……アンソニーさん? どうしたの?」
「い、いえ、なんでも……」
「あの……」
「済みませんほんとに済みませんちょっと失礼しますすぐに戻りますので!」
「あ、アンソニーさん!?」


 クリスタベルが寺院より施療を受け、家に帰宅してから一週間が経過していた。
 身体に深い傷を負っていたクリスタベルは、暴漢たちの隠れ家から救出された後に寺院へかつぎ込まれた。寺院には、医学と、何より神から霊力を授かり、様々な奇跡を持って人命を救助することに長けた神の使い、僧侶たちがいるためである。
 その僧侶たちと、アンソニーの機転によって現場に駆けつけていた同僚の女魔術師の霊力と魔力を持って、深い傷を負って死の縁で喘いでいたスウィフリー親子は生還を果たしたのである。
 だが、クリスタベルが負っていたのは、肉体的な傷だけではなかった。暴漢たちに手荒にされたことによる、肉体的な傷は癒えたが――
 救出され、施療を受けて後に意識を回復したクリスタベルは、しかしここ数年の記憶がなくなっていた。
 心の傷は、いかような高僧、大魔術師であっても癒すことはかなわない。
 クリスタベルの看護に当たった尼僧の見立てでは、余人には想像し得ないほどのショックを受けたこと、そのショックで心が壊れてしまうことを防ぐため、精神が自己防衛のためにショックだった記憶を封じてしまったのだろう、ということだった。
 暴漢たちに受けた仕打ちと共にクリスタベルは、夫がすでに他界してこの世にはいないこと、義子アンソニーがすでに成人しており、警備隊の隊員として働いていることも忘却してしまっていた。
 そのためアンソニーは、何にも変え難い大切な敬愛する義母と帰るべき場所という、二つのものが同時に失われてしまった。
 アンソニーが成人し、警備隊で働いているという現実を忘れてしまったクリスタベルの内世界では、義子・アンソニーはいまだに未成年の子供でなければならない。現実のアンソニーとは年齢が合わないのだ。
 そのためにクリスタベルは、“今”のアンソニーを見ても、自分の養子と判断しなかったのだ。否、正確にはできなかったというべきか。
 彼女の心は、幸せだった数年前に逆上り、そしてそのまま凍てついてしまった。
 夫が死んだという事実を拒否し、二度と帰らぬ人間をいつまでも待ち続ける女性になってしまった。
 彼女は――現実から目を逸らし、夢の世界の住人になることを選んだのだった……
「どうして生きてるですか」
 かつて義母と呼び慕った女性から、逃げるようにして走り去って来たアンソニーは、あふれ出る涙を拭うことすら忘れて呻いた。
「どうして自分は生きてるですか。どうしてあのまま、くたばれなかったですか自分は」
「貴方が、生きると決めたから。……違うの? アンソニー」
 繁華街の酒場雪見亭の裏路地で。泣き止まぬアンソニーを、優しく、愛しげに抱き締める人影があった。雪見亭のウエイトレス、マーゴットである。
「あのまま死ねば良かった。あのまま目を覚ましさえしなければ、こんな思いは……!」
「でも決めたんでしょう、生きるって? 生きてクリスタベルさんの面倒を見るって。クリスタベルさんに酷いことをした賊を、絶対に捕らえて裁くんだって。それとも、それともアンソニー、貴方は、貴方はあんなクリスタベルさんを残して、一人いなくなってしまうような、そんな人なの? 違うでしょ? 貴方は、貴方はそんな人じゃないよね? だって私、知ってるもの」
 マーゴットはまくしたてた。言葉を一切、途切れさせずに。まるで、そうしなければいけないとでも言うように、半ば強迫観念に駆られているかのような勢いで。
「信じてるんじゃないよ? 知ってるの。貴方は、そんな人じゃないって。貴方は強い人だって。貴方は強い人ってっ。貴方は強い人ってっ! 私はっ。私は、知ってるのっ」
 そこまで言って、マーゴットの言葉もまた途切れた。途切れた途端、マーゴットの瞳からも、堪えていた何かが堰を切ったように、涙が溢れ出た。
 マーゴットの泣き方は、静かで声を立てない分、悲痛さにおいてはアンソニーのそれに勝っていたかも知れない。
 辺境都市、スノーフィールドの片隅。
 いつ晴れるとも知れぬ曇り切った辺境の空に、2人の男女の泣き声が空しく響き渡っていた――


「冗談は、それくらいにしていただけますか? 息子だったら、私をひとりになんかしません」
 死なせてください。
 愚かなぼくを死なせてください。
 母親一人、満足に守れないぼくを死なせてください。
 それでも、まだ死んではいけないと言いますか?
 それでも、まだ生きろとこの愚か者に言いますか?
 なら、いっそ。
「息子だったら、私が酷い目にあう前に、助けてくれたに決まってます。全てが終わった後に駆けつけた、貴方なんかとは違うんですっ」
 殺してください。
 間抜けなぼくを殺してください。
 父親が死んだ時、その側にいることすらできなかったぼくを殺してください。
 それでも、まだ殺すと言ってはくれませんか?
 それでも、まだぼくを生かしておくと言いますか?
 なら、せめて。
「夫と息子がいないからって……女一人だからって、馬鹿にしないで!」
 無くしてください。
 恥知らずなぼくを無くしてください。
 自分を殺そうとしていた、飢え死にしかかっていたバカな浮浪児を養子にしてくれた義父と。
 愛する夫を殺そうとした浮浪児を、我が子のように育ててくれた義母に。
 恩を仇で返したこのぼくを無くしてください。
 無くしてください。
 この世からなくしてください……!
「あんまりしつこいと、夫にいいつけますよ。二度とこないでください!」
 クリスタベルからの、頑ななまでの拒絶。
 敬愛する義母からそのような態度で拒まれることは、予想していなかった。甘かったと言われれば、まったくその通りであると認める他はない。
 アンソニーは、マーゴットとの話し合いの末、義母としっかり対峙する道を選んだ。決して還らぬ過去を求める夢から覚めてもらう道を。
 現実から目を背けても何にもならないと。過去と記憶の中のみの住人になってしまったクリスタベルに、アンソニーは目を覚ましてもらうべく面会した。
 その結果が、これであった。
 もはや、笑うくらいしか道は残っていない。終わったことを、認めるより他にないと思った。
 浮浪児であった、自分を救ってくれた義父・ロバート。そのロバートを庇うことすら適わず、魔物に殺された。看取ることすらかなわなかった。本来ならば、後を追って死なねばならない程の忘恩である。であるのに、それでもなおアンソニーがむざむざと生き恥を晒している理由はただひとつ。
 恩ある義父の配偶者が、まだ生きていたから。義母クリスタベルがまだ、自分を必要としてくれていたからだった。
 そのクリスタベルから、拒絶された。お前など、息子などではないと。
 アンソニーがこの世に生きていなければならない理由は――もう、何も残っていない。後は、どう死ぬかだけが問題だと思った。
「クリスタベルさん! それは……それはいくらなんでも……!」
「……! マーゴットッ!」
 アンソニーを拒絶したクリスタベルに対して、付き添って来ていたマーゴットが掴みかからん勢いで声を荒げて身を乗り出そうとしていたのを、アンソニーは慌てて腕で制した。
 クリスタベルに拒絶されたことで呆然自失となっていたアンソニーは、マーゴットが激発してくれたことで、逆に我を取り戻せた。
「クリスタベルさんのおっしゃることはまったくもって正論。……私なんかがこの方の義子、だなんて……元よりおこがましかった話なんです。怒られるの、当然です」
「だって……! だって、アンソニー……!」
「マーゴット、行きましょう。……クリスタベルさん、どうも済みませんでした」
 自分を掻き抱くようにして両手で自分の肩を掴み、汚らわしいものでも見るような目で睨みつけてくるクリスタベルに、アンソニーは一礼した。
「いつか、クリスタベルさんの元に旦那様とご子息が帰還されることを、僭越ながら私も祈らせていただきます。……お元気で」
 辛くない筈はない。
 悲しくない筈はない。
 苦しく、ないはずはない。
 だがそれでも、クリスタベルに平静さを保ってお辞儀を施し、アンソニーはマーゴットの肩を抱きながら完全に他人となってしまったスウィフリー家、かつて自宅であった建物と家族であった人、二つのものに背を向け、その場を立ち去った。
 そうして、かつて我が家であった家からゆっくりと遠のきながら、アンソニーは思い出していたことがあった。
 アンソニーはあの日、全てが失われることとなった日の朝のこと、クリスタベルとのやり取りを思い出していた。
 アンソニーは、義母の顔を見て心が締め付けられるような、切ない思いに駆られた。あれが一体何の感情だったのか今日まで分からなかったが、今にしてようやく理解できたように思う。
 義母クリスタベルの中では、あの時からすでに、心の時間が停滞し始めていたのではないか、と。
 思えば、クリスタベルがアンソニーを「アニィ」と呼び続けたのは、成長する我が子、年老いて行く我が身への抵抗。過ぎ行く時の流れからの逃避だったのではないだろうか。
 時が流れさえしなければ、クリスタベルは夫が失われた時間から一人、遠く離れた場所に行かなくて済む。
 愛していたロバートの死亡した日から、いつまでも離れずにいられるのだ。
 そのためにはアンソニーが、いつまでも子供でなければならなかったのではないか。クリスタベルの内世界では、クリスタベルはいつまでも夫を失った「ばかりの未亡人」であ
り、そのためにはアンソニーも、自分と共に成長も老いることもない存在でなければなら
なかったのではないか。アンソニーは、いつまでもクリスタベルの養い子でなければならなかったのでは。
 ……そんな推測も、もうクリスタベルが夢と過去の世界の住人になってしまった今では、分からないだろうけれど。
「酷いよ……酷いよ、クリスタベルさん……」
 喉をしゃくりあげながら、マーゴットは未だに泣いていた。
 だがそれを、アンソニーは不謹慎ながらも愛惜しく思った。何故ならマーゴットは、アンソニーの嘆きを自分のものとして半分、引き受けてくれているのであろうから。
「アンソニー……頑張ったじゃない……そりゃあ遅かったかも知れないけど……辛い目にあわされたかも知れないけど……」
「もういいんです、マーゴット」
 泣き続けるマーゴットを、アンソニーは呼び止める。マーゴットは目を手の甲で擦りながら、アンソニーの方に向き直った。
「それに今、マーゴットが代わりに怒ってくれたから。平気です」
 グッ、とガッツポーズを取るアンソニーを見て、マーゴットは口を引きつらせた。目には再び大粒の涙が浮かびあがっている。
「マーゴットが今、こうして代わりに泣いてくれるから、アンソニーは平気です。こうして側にいてくれるから、大丈夫」
 自分の代わりに怒り、――泣いてくれる。そんなマーゴットが、感極まってアンソニーの胸の中に飛び込んできた。


「ひとつ、不思議だったことがありますです」
 スノーフィールドの宿屋「雪花」三階。互いを激しく求め合った余韻の中に意識をたゆたわせながら、アンソニーは天井に目を向けつつ、マーゴットに語りかけた。
「……なあに?」
「多少自惚れてよいなら、マーゴットは、以前から結構、わたしを気にかけてくれていたと感じるですが……どでしょう」
「あ、それは分かってたんだ? フフ、思ってたほど鈍感じゃないんだね」
 質問に対するマーゴットの返事は、柔らかく、暖かい。アンソニーは、布団の中でマーゴットの手が自分のそれを優しく握ってくれたことを感じた。
「そう、アンソニーの推察とおり。スノーフィールドの酒場は雪見亭、そこで看板娘を努める娘さんは、ずっとずっと前から、おっちょこちょいだけど憎めない、気の優しい警備隊の特殊諜報員さんを慕っていたの」
 芝居がかった口調でそう告げた後、雪見亭の看板娘はたおやかに警備隊の特殊諜報員へ微笑みかけた。
「それは何故と、聞いてもよろしいですか」
「パンを、奪い返してくれたから」
「……はい?」
「覚えてないかな。でも、私は絶対、忘れないよ」
「過去に、何かしてましたか、私」
「貧民街でね。なけなしのパンを人に取られて泣いていた女の子を、助けてくれたのよ、アンソニーは」
「……! じゃあ……マーゴットも、貧民街の……?」
「あれから十年近く経ってたけど、すぐに分かったよ。雪見亭に、特殊戦闘部隊への就任祝いをしにきた五人の一人が、命の恩人だって」
「そだったですか……しかしそれでマーゴットの心を射止められたなら、昔の自分も少しはナイスと褒めてやっても良いですね」
「その時、すっごい綺麗な人も一緒だったから、ちょっと妬けたけど」
「綺麗ってマーゴットさん、貴方、あんなの見た目だけですよ」
「……私、誰であるかなんて一言も言ってないけど?」
「うっ!? ……い、いやその、それはですね」
「でももういいの」
 困ってしどろもどろとなったアンソニーに、マーゴットは覆いかぶさるようにその首へ手を回してきて、身体を密着させてきた。
 マーゴットの肌から伝わってくる体温の微熱が、冷たく澄み切った部屋の中でたいそう心地良かった。
「貴方は、あの人ではなく私のところに来てくれた。すがる相手を求めて、警備隊の詰め所じゃなく雪見亭へきてくれたわ。だから、もう平気。怖くない」
「気づいたらマーゴットを目指してました」
 自分もまた、マーゴットの胸囲に腕を回し込み、目を閉じて自分の頬をマーゴットのそれに重ねるアンソニー。
「メアリは、綺麗です。でも、それだけです。マーゴットとは違う」
「言葉だけでは、女は口説けないよ?」
「では……」
 アンソニーは、唇をマーゴットのそれに重ね合わせた。
「もう一頑張り。マーゴットへの、決して尽きぬ愛ゆえに」


 スノーフィールド私設軍・治安維持部門・特殊戦闘部隊隊員詰め所。
「アンソニーは? 今日も?」
「ああ……来ていないよ」
「特殊部隊隊員としての自覚の欠如、職務怠慢。良くて懲戒免職だな。下手をすれば戸籍抹消も有り得る」
「……責める気には、なれませんけどね」
 五人よりなる特殊戦闘部隊のうちの四名が、それぞれ今この場に姿のない最後の一人のことで話していた。
「義母が酷い目に合わされるのを防げず、結果、義母から拒絶された。自殺の可能性すらあったんですもの。懲戒免職でなくても、自分から辞職すると言い出しかねませんわ……」
「いや、あいつはそんな弱い奴じゃないよ」
 部隊の中の紅一点が告げた内容を、赤髪の青年が穏やかに否定した。
「あいつは出勤してくる。義母のためにも、あんなことをしでかした仮面の犯人を野放しに、自分一人逃げるような奴じゃない。賭けたっていい」
「その通り、でーす。さっすがはリーダー、ちゃんと分かってますですね」
 そんな四人の会話の中に、交じってきた者がいた。
「諜報機関より抜擢されてきたこのアンソニーちゃんがいなかったら、誰が皆さんに情報を持ってくるですか? 誰があの仮面野郎に正義の鉄槌を下すですか」
『アンソニー!』
「もう……大丈夫なのか?」
「いえ、さすがに。ヘビーですよ、まだ」

「でも、逃げたって何ひとつ改善されませんので」

「それに、こんな私でも必要としてくれている人がいるうちは、ね。まだまだ世捨て人になんてなっちゃあいられません」
「アンソニー……」
「さささささ、皆さん。私、無断で休んで迷惑をお掛けした分も取り返しますですよ。ですから今日も元気に、スノーフィールドの治安を守りましょう!」


 逃げるのは簡単だ。生命尽きるまで全てから目を背ければいい。
 戦うのも簡単だ。何も考えず、突っ走ればいい。
 難しいのは、どのような時に逃げ、どのような時に戦うか、だ。
 考える存在として生まれてきた人間である以上、この迷い、判断の連続からくる不安や恐怖から解放されるのは、死ぬその日まで訪れない。
 この世は苦界だ。生きることは、実は死ぬことよりも遥かに辛く難しく、長く苦しい。
 生存本能か死を恐れるのでなかったら、誰があえて生きていることを選ぶだろう。
 だがそれでも、アンソニーは生きる道を選んだ。
 もがき苦しみながら生きているのは、自分だけではない。それにどうせ自ら死なずとも、やがて死は訪れる。
 ならば自らの鼓動が止まるその日まで、自分の人生に付き合ってやっても良いではないか、とアンソニーは思ったのだった。
 それに。まったく希望がない訳ではない。
 クリスタベルには拒絶された。それは確かだ。だが、まだ死んだ訳ではない。
 現実を拒否し、無理やり突き付けようとしたらアンソニー自身も拒絶された。だがそれは今現在のことであって、未来永劫そうであり続けると決まった訳ではない。
 いや、たとえ全てがうまくいかなくても、クリスタベルの命は止まっていない。今まで育ててくれた恩を考えれば、アンソニーはクリスタベルが命尽きるその日まで、面倒を見る覚悟はできていた。たとえ未来永劫、自分がクリスタベルが力尽きるその日まで、彼女の内世界から自分が除外され続けようとも。
 それに、アンソニーには自分を案じてくれる人ができた。全身全霊で自分のことを思い、愛してくれている連れ添いがいたことを知った。
 死ねない。死ぬ訳にはいかない。自分の命はもう――いや、違う。
 自分の、でも、もう、でもない。生きとし生きる者は誰でも、自分の命すら自分『だけ』のものではないのだ。この世に生まれ落ちた、その時からすでに。
 だから。ひとたびこの世に生を受けたなら、命尽きるその日まで生き続ける権利と共に――義務があるのだ。
 だから、アンソニーは死なない。どれほど胸奥に、辛く悲しい気持ちが降り積もろうと。もう、命としての義務と権利を、知っているから。
 もっとも、だがらといって不安なものは不安だ。
 それでもやはり、怖いものは怖いのだ。
 逃げるのは簡単だ。このまま注文せず回れ右をすれば良い。
 戦うのも簡単だ。何も考えず、大声で告げて突き付ければよい。
 難しいのは、どのような時に逃げ、どのような時に戦うか、だ。
 さて。その考えで照らし合わせると、今は逃げる時か、挑む時か――
「あ、アンソニー。いらっしゃい!」
 雪見亭の看板娘。今ではアンソニーの恋人でもあるマーゴットが、陽光を照り返す新雪よりも眩しい笑顔で近寄ってきた。
「注文は? ……って、コーヒーとカレー、よね?」
「いや……今日は、マーゴット。君だよ」
 とは言わず、溜め息をひとつつくアンソニー。そんな言葉が似合うキャラしてないしな自分……と、首を左右に振りつつ考えたアンソニーは、マーゴットから怪訝そうに首をかしげられた。
「アンソニー?」
「あ? ああ、す、済みませんでしたえーっと注文はいつものでお願いします」
「だから、コーヒーとカレーでしょ?」
「はい、はい、そうであります」
「……何か悪いものでも食べた?」
「いや決してなにも」
 変なアンソニー、と呆れつつ、マーゴットはカウンターの奥へと立ち去ろうとした。
「ああ、マーゴット!」
「……なに? 注文追加?」
「えっと、あのですねマーゴット」
「なに?」
「……えっと」
「……なあに?」
「今日……仕事がはけた後、何か用事ありますですか」
「あー……うん、今日は明日のための仕入れがちょっと……」
「……あ……そですか」
「ゴメンね? 何か大切な話でもあった?」
「……え? あ、いやいや全然! ただ、久々に一緒に食事でもしたいかなー、なんて」
「……昨日、うちに食べにきたじゃない」
「おりょ?」
「……なんか隠してる?」
「いーやいーや、ぜーんっぜんなんっにも!」
「正直に言いなさい。……誰!? どこの女!?」
「……えええええっ!? いやいや、決してそんな真似はしていませんですとも!」
「じゃあ、その挙動不審は、なに!?」
「えーっと、それはそのー、ですね……」
 言いながら、アンソニーはポケットの中に手を突っ込んだ。金属製の、固い感触。
「じ、じじじ、実は、ですね。今日は折り入って、渡したいものがありまして……」
 ――マーゴットに左の薬指にはめて欲しいものを弄びながら、アンソニーは必死に言葉を絞り出していた。
END

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

T&Tでネファーリア 更新情報

T&Tでネファーリアのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング