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気になる mixi ニュース 保存版コミュの2018年08月06日【詳報】被災と被爆、思い重ねた祈り 両陛下も皇居から

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http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=5232058&media_id=168

 広島は6日、被爆73年となる「原爆の日」を迎えました。今年の夏は西日本豪雨災害の被災1カ月とも重なり、復旧と鎮魂という「特別な一日」となった各地の動きをタイムラインで追います。

■のんさん、片渕監督と参列@広島・旧中島本町

 今は平和記念公園となっている旧中島本町。午前9時、平和の観音像に焼香台が設けられ、約50人が手を合わせた。原爆で両親と兄、姉を失った浜井徳三さん(84)は「生きている限り慰霊祭を次世代に引き継いでいきたい」と語った。

 平和記念式典後に開かれた慰霊式には、戦時下の広島・呉を舞台にしたアニメ映画「この世界の片隅に」(片渕須直監督)で主人公「すず」の声で出演した俳優のんさんも参列した。(永野真奈)

     ◇

 〈旧中島本町とは〉 広島市中心部を流れる元安川と本川に挟まれたデルタの北端にかつて存在した町。現在は、広島平和記念公園となっている。

 中島本町を含む旧中島地区(中島本町など6町)の一帯はかつて広島随一の繁華街で、映画館や商店、住宅がひしめいていた。広島原爆戦災誌によると、この同地区には約1300世帯約4400人が暮らしていたが、原爆で壊滅した。

 2016年に封切られ、現在まで異例のロングランが続くアニメ映画「この世界の片隅に」では、子ども時代のすずが訪れ、大正屋呉服店(現・広島市平和記念公園レストハウス=改装中)前の通りや浜井理髪館など商店がひしめく様子が、詳細に描かれている。(宮崎園子)

■両陛下、式典をテレビで@東京・皇居

 天皇、皇后両陛下は午前8時15分ごろ、お住まいの皇居・御所で式典の様子をテレビで見ながら黙禱(もくとう)した。毎年この日に黙禱を捧げてきた両陛下にとって、今年が在位中最後の黙禱になる。

■豪雨被災地、20人が手合わせ@広島・坂町

 西日本豪雨で大きな被害が出た広島県坂町。JR呉線の小屋浦駅近くの原爆慰霊碑の前では原爆の投下時刻に合わせて約20人が手を合わせた。

 豪雨でがけが崩れ、慰霊碑は土砂に埋もれた。管理を続けてきた西谷敏樹さん(72)は「今年は8月6日を迎えられないと思った」と話す。

 原爆投下後、小屋浦には被爆した人が運び込まれた。住民が救護したが、多くの人が亡くなった。

 災害後、地元の建設会社の助けを借り、慰霊碑はきれいになった。西谷さんはその前でこう言った。「原爆の悲惨な一面が、この地もふりかかっていたということを改めて思い起こさせてくれた」(光墨祥吾)

■被爆死した移動劇団に祈り@東京・目黒

 東京・目黒。広島に投下された原爆で9人が死亡した戦時中の移動劇団「桜隊」の法要が、五百羅漢寺で行われた。

 演劇界の有志らが1975年から、法要に合わせて朗読劇や講演会などの「追悼会」を開き、悲劇を語り継いできたが、会長を務めた俳優の神山寛さんら中心メンバーが相次ぎ死去。今年は開催を断念した。

 約30年、会の運営に関わってきた詩人の近野十志夫さん(72)は、他のメンバーとともにこの日の法要に出席し、「核兵器廃絶だけでない、反戦など新たな切り口でもいい。若い人が好きな形で続けられるように、今後の活動の『炎』も演劇界に残せないだろうか」と訴えた。(吉野太一郎)

■安倍首相、核禁止条約には今年も触れず(8:32)

 広島市で開かれた平和記念式典に参列した安倍晋三首相。「唯一の戦争被爆国として、『核兵器のない世界』の実現に向けて、粘り強く努力を重ねていくことは、我が国の使命だ」とあいさつした。約5分にわたり、手元の原稿に目を落として読み上げた。

 首相は「近年、核軍縮の進め方について各国の考え方の違いが顕在化している」とし、核兵器のない世界の実現には「被爆の悲惨な実相の正確な理解を出発点として、核兵器国と非核兵器国双方の協力を得ることが必要」と強調。「非核三原則を堅持しつつ、粘り強く双方の橋渡しに努め、国際社会の取り組みを主導していく決意」と述べた。

 一方で、昨年7月に国連で採択された核兵器禁止条約については、今年も触れなかった。

 あいさつが始まる際、「戦争する国の総理のあいさつは聞きとうないから、帰る」と言って、会場を立ち去る男性もいた。あいさつ中は会場の外から、安倍首相の参列に反対するものとみられるシュプレヒコールが響き続けた。(太田成美)

■被爆電車「歴史の生き証人」@広島・原爆ドーム

 原爆投下で被爆しながら今も運行している広島電鉄の「被爆電車」が、原爆ドーム最寄りの停留場に到着した。夏の日差しが降り注ぐなか、停留場で降りた人たちが平和記念公園に次々と向かった。

 路面電車に乗って平和記念公園に訪れた広島市南区の佐伯和邦さん(73)は、生後2カ月で被爆。毎年欠かさず、この地を訪れているという。「被爆電車は歴史の生き証人。当時を知る電車が走る姿を見て、この日を忘れないでほしい」と話した。

 1945年8月6日の原爆投下で、市内線123両のうち108両が被爆した。その3日後に一部区間で運行が再開され、復興のシンボルにもなった。現在も3両の被爆電車が残され、うち「651号」「652号」の2両は現役で走っている。(小池寛木)

■投下後降りだした「黒い雨」(9:00ごろ)

 原爆投下からしばらくして、広島では黒く濁った大粒の雨が降りだした。いわゆる「黒い雨」だ。核爆発で生じた放射性物質や焼けた物のすすなどが上空に達し、雨雲が発生。広島市北西部を中心に、夕方まで降雨が記録されている。

 「黒い雨」は作家の故・井伏鱒二の小説になり、後に映画化された。原爆の悲惨さとたくましく生きる人々の姿を描いた漫画「はだしのゲン」作者の故・中沢啓治さんによる初の原爆漫画「黒い雨にうたれて」のタイトルにもなった。

 「黒い雨」について、国は爆心地の「東西15キロ、南北29キロ」で降り、うち「東西11キロ、南北19キロ」が大雨地域と分析。1976年、公費で健康診断が受けられる援護対象地域に指定した。がんなどになると被爆者健康手帳が交付される。

 一方で、地域から外れた小雨地域やその周辺に住む人からも「『黒い雨』を浴び、健康被害に悩まされている」といった証言が相次いだ。広島市などが地域拡大を求め、厚生労働省は検討会を設けて協議したが、2012年7月に「拡大は困難」と認めなかった。援護区域の拡大や被害救済を求める人たちの「黒い雨」訴訟は、いまも広島地裁で続いている。

■長崎代表・創成館も黙とう@大阪・堺

 夏の甲子園に出場している長崎代表の創成館の選手らも、宿泊している大阪府堺市のホテル敷地内の自主練習場で午前8時15分から1分間、広島のある西の方を向いて黙禱(もくとう)した。初戦は、長崎に原爆が投下された9日の予定だ。

 メンバーから外れ、補助員としてチームを支える高重輝政さんは広島市出身。原爆ドームから車で10分ほどの中学校に通っていた。「離れていても、いつも広島のことは気になっている」。広島県東広島市出身で11番を背負う戸田達也さんは「初戦の9日も長崎にとって大事な日。いい報告がしたい」と話した。(横山輝)

■甲子園出場の広陵が黙とう@大阪・池田

 平和だからこそ野球ができる。第100回全国高校野球選手権記念大会に広島代表で出場している広陵の選手らが、大阪府池田市の宿舎前で整列し、広島の方角を向いて黙禱(もくとう)をした。(新谷千布美)

■広島市長が平和宣言読み上げ(8:16)

 広島市の松井一実市長は、平和宣言を読み上げた。「人類は歴史を忘れ、直視することを止(や)めた時、再び重大な過ちを犯してしまう」と訴えた。

■原爆投下時刻、参列者が黙とう(8:15)

 73年前のこの時間、広島市上空で原爆が炸裂(さくれつ)した。人類史上初めて、市民の頭上に投下されたのだ。

 広島市によると、原爆による死没者は今年8月5日現在で計31万4118人。平和記念式典では、名簿の収められた原爆死没者慰霊碑の前で参列者が黙とうを捧げた。

■平和記念式典始まる(8:00)

 原爆投下から73年の8月6日。平和記念式典が始まった。

■観測機、広島上空に飛来(7:09)

 73年前のきょう8月6日午前7時9分。1機の気象観測機が広島上空に飛来した。太平洋戦争の激戦地、サイパン島の隣島テニアンの基地からアメリカのB29爆撃機がその後を追っていた。機長の母の名で呼ばれた「エノラ・ゲイ」。機内には重さ4トン、全長3メートルの原子爆弾「リトルボーイ」が積まれていた。

 広島原爆はウラン235という核分裂物質が使われ、爆発時のエネルギーは火薬の爆弾1万5千トン分に匹敵する。長崎で8月9日に投下されたプルトニウム原爆「ファットマン」とは形も中身も違い、アメリカは2種類の原爆を試したかったともいわれている。

 広島には5日夜から6日朝にかけて警戒・空襲警報が出されていた。午前7時31分に観測機が去ると、解除され、安心した市民はいつもの生活に戻っていた。

 6日午前8時の広島市の気温は26・7度。観測機は「天気も良好で爆撃可能」とエノラ・ゲイに伝えた。周りの都市のように空襲を受けてこなかった街は、無警戒に近かった。

■平成最後の8月6日を迎えて

 昇る陽(ひ)がまぶしさを増し、乱反射した白い光が広島の街を包む。73年前のきょうも、空は晴れ渡っていた。道行く人たちは、半袖から突き出た腕をじりじりと太陽に焼かれながら、職場や学校へと向かっていただろう。

 午前8時15分。閃光(せんこう)が走り、熱線と爆風が、街を壊滅させた。たった一発の原子爆弾が、多くの無辜(むこ)の命を奪った。

 被爆地となった広島は73年後の今年夏、未曽有の豪雨災害の被災地になった。山裾の家々は土砂に押し流され、県内だけで死者は100人を超えた。平成最後の8月6日は、被災1カ月と重なった。

 ただ、この街は幾度も困難から立ち上がってきた。

 過去と現在。時を超えて人々を結ぶのは、あの日の記憶と平和への思い。一つの時間軸にさまざまな事象を刻みながら、広島の特別な一日をたどる。(石木歩)

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