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ゼロから始めた甲子園コミュの栽弘義先生訃報!

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万年青年さんより
 今朝、沖縄水産高校の野球部監督栽先生の訃報をテレビで知り、驚きです。
先生とは、かれこれ30数年の付き合いでした。
まさに、沖縄の高校野球を手作りで、甲子園まで連れてこられた素晴らしい指導者でした。
豊見城高校から、はじめて甲子園に出場した頃の事をはっきりと覚えています。
当時は、連盟からの割り当てでなく、各高校は練習会場探しに苦労していました。
尼崎と沖縄は姉妹都市、市尼崎高校関係者の中に、沖縄出身の方がいて、豊見城高校は、夏休みと共にやってきて本校で毎日練習しました。
栽先生の指導は、甲子園出場高の練習ではなく、朝から晩まで、昼には全員がおにぎりをかじりながらの1日練習、選手一人一人が、さらに上手くなりたいという感じの、激しい練習でした。
ひたむきな練習は、日一日と選手が上手くなり、
私にとっても、とてもいい勉強させてもらいました。
以後、先生とは、色々な機会に高校野球について
語り合い、酒を酌み交わしました。
昨年「ゼロから始めた甲子園」出版の時も、
「栽さんのこと書くよ・・・」と言う私に
あのやや掠れた優しさに満ちた声で
「好きなように書いてくださいよ・・・」と言ってくれのが、まだ耳に残っています。
早すぎた・・・もっと色々話がしたかったの想いで一杯です。
先生との思い出を大切に、何時までも忘れません。
安らかにおやすみなさい・・・
そして、もう話の出来なくなった先生の携帯電話番号を今、消去します。 合掌
以上が万年青年さんの一文のコピーでした。

 これより<2002年10月15日 朝刊 6面>よりコピー
沖縄の海図(72)
メッセージ復帰30年
栽弘義
甲子園
鍛錬の毎日で辺境克服
ゲーム超え共感
 本人は不本意であろう。二度も、最後のハードル(甲子園優勝)を超えられなかったのだから。だが、全国制覇を逃したことに、失望の思いではなく、ゲームを超えた「監督の心根」に共感を覚えたのは、どうしてだろうか。
 独断を許してもらえば、栽弘義の「野球哲学」を垣間見たからにほかならない。そこからは、たしかに本土野球とは一味も違う、戦略・戦術が読み取れた。つまり、勝つことだけにこだわる「非情な野球」に終始するのではなく、選手を大切にするゲーム運びがあって、それがどこかで沖縄の「根っこ」とつながっている、温かい心情を感じたからであろう。
 栽いわく「非情と温情のくり返しであった」。そうではあっても、二度の準優勝は無念な思い以上に、栽さい配に対し熱い共感となって、いまも心を揺さぶる。反論を承知で、あえて私見を述べてみた。もとより、野球についての知識は比ぶべくもない。
 大げさではなく、沖縄の高校野球は地域に「勇気」を与えてきた。県民の応援は、他府県とは比較にならぬほど熱狂的であり、そこに強烈な沖縄の表現の場が出現した。言うなれば県民総ぐるみで、超え難いハードルとの闘いであった。沖縄の歴史性さえも物語っているように思えた。
 栽は語る。「沖縄で野球ができたことは幸運だった。野球を通して、県民の心に触れる思いがした。この緊張感と幸福感をなくしては、生徒の指導も及ばなかった」。
 野球人生は、小・中・高校まで比較的恵まれていた。だが、中京大学に進学してから脚光や華々しさとは、およそ無縁であったという。入部した同級生の十五人中、十四人が全国制覇した面々だった。この時点で、レギュラーへの道は閉ざされる。「力の差を、まざまざと見せつけられた」。そして、四年間も控えの選手に甘んじる。退部することなど考えず、来る日も来る日も「野球を学ぶ」ことに専念。
後に野球論開花
 控えで学んだことが、後の「栽・野球哲学」と「技術論」を開花させる。実に多くの知識を得たという。「野球は、まさに生活の基本に根ざしたものであり、鍛錬を必要とするスポーツであった」。
 ちなみに「千本ノック」を鍛錬に例える。つまり「暴力なき鍛錬が千本ノック」だという。栽野球哲学の実践であり、生活の鍛錬と通ずる。
 千本ノックは、選手の先入観を崩し、取り払うことにつながる。技術の向上は、いまの限界を超えることである。本人が思っている限界が、千本ノックによって崩され、さらに上の限界を自覚する。ここから選手は自身の壁(限界)を超えていく。技術が向上する。自信が生まれる。まさに「鍛錬」たるゆえんだ。
 栽は、中京大学で学んだことを、そっくり実践しているわけではない。監督の立場から生徒と向き合い、同時に野球辺境を克服。地域に根ざした野球を身につけ、甲子園へ挑戦している。 =敬称略= (多和田真助 編集委員)
 さい ひろよし 沖縄水産高校・野球部監督。1941年糸満市生まれ。糸満高校から中京大学へ進学。監督のノウハウを学ぶ。76年から78年豊見城高校を春夏連続で甲子園出場。沖縄水産を率いて90、91年の夏大会2年連続の準優勝。県高野連学識経験者理事。今年3月教諭定年退職するが監督続投。

コメント(2)

 私も分野こそ違え、放送部活動で、全国で有名を馳せる学校の部顧問の方と色々交流してきましたが、そういう方々の訃報を聞くとさみしくなりますね!部活の顧問って、最初は校長命令で任命されたにしても、コンクールやコンテストに関わっていくうちにのめる込んでしまうもので、子供達と、連日一喜一憂していくことの経験はいつまでたってもわすれませんね!部活顧問を拒否する教員がいるようですが、授業するだけが教師と思っているのでしょうか?それなら、塾か予備校の教員になればいいのです!学校と言うところに籍を置いているなら部活を受け持つことですね!
教師の仕事・・・
私なりには、高校までの教師は、学習指導・生活指導・クラブ指導が出来なけねばと思っています。
でも、それらをやろうとしない教師が増えてきているように感じています。
りゅうぞうさんが言われるように、部活を通して、互いに得るものがどれだけ多いかを考えてみて欲しいですね。
自分のためでなく、生徒と共に苦労し、楽しみ、悲しむそして、皆で喜び合える日を・・・
栽先生は、そんな気持ちで頑張ってこられた方でした。

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